書庫 かなしい唄(藍絲×マーセルヴィンス)


中庭を抜けると、幼い少女の泣き声が聞こえてきた。
ああ、あの子が泣いている……。

マーセルヴィンスにはすぐにそれが判った。
手にしていた燭台を通路の隅に置き、暗がりにうずくまっている少女の傍らに屈みこんだ。
「リーヴィ、どうしたの?そんな所にいたのでは風邪をひくわ」
声を掛けると、金色の髪に覆われた小さな頭がびくりと震えた……ように見えた。
ゆっくりと面が上がり、濡れた瞳がマーセルヴィンスを見上げる。
「姉さま」
か細い声、泣き腫らした瞼。
この年の離れた妹を包み込むように抱き締めながら、彼女は優しく背中を擦った。
「また、親戚の子たちに何か言われたのね?そんなこと、あなたは少しも気にしなくていいのよ」
「でも、姉さま」
リーヴィと呼ばれた少女は自らの小さな手を眺めて、幾度か瞬きをした。瞼に溜まっていた涙が雫となり、開いた手のひらに零れ落ちる。
「みんなあたしを仲間に入れてくれないの。遊んでくれないの。あたしは化け物の匂いがするからって。どうして?」
マーセルヴィンスはそっと妹の髪を梳いた。
魔性の心をとろけさせる音色を生み出す魅惑の髪。
これを弦として奏でられる妹の琴の音色は、宮中では知らぬ者などないほどの美しさだった。
されど、それは同時に災いの種でもあった。魔性を引き寄せる魅惑の琴音は、時として周囲の者に畏怖をも抱かせる。特異な力を持つリーヴシェランは、次第に一族の間で孤立していった。
「泣かないでリーヴィ。あなたは一人ではないわ。私とソルヴァンセスがいるでしょう?」
嗚咽の止まないその背中に、マーセルヴィンスは語りかける。
そうしたところで何の慰めにもならぬことは知ってはいた。
兄妹の中で魅縛の力を持って生まれたのはリーヴシェランだけ。自分達にはこの小さな少女の悲しみと孤独を推し量ることしか出来ない。
目に届く所にいる分なら守ってやれるが、始終傍にいるわけではない。マーセルヴィンスの預かり知らぬところで、更にひどい扱いを受けているのかも知れない。

───あなたはまだこんなに幼いのに……。
ちくり、と胸に痛みが生じる。
袖を掴んでくるリーヴシェランの小さな手が物語っている。
一人にしないで……あたしを置いていかないで、と。
何故この子だけがこんなに辛い目に遭わなければいけないのか。その理不尽に彼女は怒りすら覚える。
「姉さまはどこにも行かないでしょう?ずっと傍にいてくれるでしょう?」
そう言って見上げる緑の瞳は、涙に濡れて輝きを増していた。
「もちろんよ、リーヴィ」
必要としているのは、お互いにだ。
毎日山のように届けられる求婚の手紙、しつこく婚約を迫る他国の王族と両親。
それらの応対に疲れ果てているマーセルヴィンスが唯一の心の拠り所としているのが、この幼い妹、リーヴシェランだった。
妹と話している時だけ、マーセルヴィンスは自分らしくいられた。たおやかで女性らしいと評判の彼女だったが、そんな自分は実はあまり好きではない。
それが、妹を庇う時だけは、自身でも信じられないほどの強さを発揮する。
だからマーセルヴィンスは妹が好きだった。妹と共にいる自分がとても好きだった。
───何があっても、守ってみせる……。
「ここは冷えるわ。部屋に戻りましょう」
そっとリーヴシェランの肩を抱く。
「子守歌を歌ってあげる。あなたの大好きな歌を」
妹を寝台に横たえながらそう言うと、彼女は頬を膨らませた。
「あたし、もう子供じゃないもん」
拗ねたように横を向くその所作がいじらしい。
しかしマーセルヴィンスが毛布をかけてやると、大人しく目を閉じた。
薔薇色の頬、形の良い輪郭は黄金の髪に縁取られて彩りを添える。そのさまはまるで物語に出てくる眠り姫のようだ、とマーセルヴィンスは思う。
そして姉は、妹のために歌を歌う。

教えてあげる
鈍色の光の中で
あなたを待ったこと

記憶に残る微笑み が
私を支えているから

窓を叩く風の音を
あなたではないか と
思ったりして
ねえ、帰ってきて

かなしく、そしてどこか懐かしい旋律が、マーセルヴィンスの唇から紡がれる。
詩の内容は悲劇で、恋人を捨てて故郷を去った青年が、異国の地で彼女の死を知らされた後、自責の念に駆られて崖から身を投げるというものだ。
幼いリーヴシェランにはまだ詩の内容が理解できないせいだろうか、姉が歌う子守歌の中では、このかなしい唄が一番のお気にいりのようだった。
金色の髪の少女が眠りについたのを確認し、マーセルヴィンスは静かに微笑んで寝室を出ていった。
───大切な、リーヴィ。叶うことならいつまででもずっと一緒にいたい。
けれどそれはおそらく無理だろう。
マーセルヴィンスには隣国の王子との見合いの話が持ち上がっていたし、リーヴシェランにもその魅縛の力に目を付けた浮城から勧誘の声がかかっている。
浮城には世界各国から才能のある子供たちが集っているから、少なくともここにいるよりは彼女にとって幸せかも知れない。
けれど只人に過ぎぬマーセルヴィンスは浮城には行けず、それゆえあの子の幸せを見届けることが出来ない。
それが辛い。

中庭の噴水の所まで来ると、マーセルヴィンスはそっと水面に映る自分の顔を覗き込んだ。
文句のつけようもないほど、美しい顔だ。
色白の頬、通った鼻筋、長い睫毛に囲まれた潤んだような瞳……だが、
「わたしは、こんなものが欲しいのではないわ」
呟き、頬に手を添える。
美貌、富、地位、名声。そんなものが何の役に立つというのだ?
その全てを手にしていても、現に自分は、幼い妹一人救ってやることが出来ないではないか。
「わたしが欲しいのは、もっと」
───大切なあの子を、護るための。

マーセルヴィンスは噴水の縁に手をかけた。
夜風が冷たく彼女の髪をさらっていく。
強い風が水面にしじまを作り、まさにそれが吹き去った刹那のこと。
「美を手中にしただけでは飽き足らず、次は力を求めるか……人の欲望の際限なきことよ」
その声のあまりの美しさに、マーセルヴィンスの全身は雷に打たれたように動けなくなった。
噴水から少し離れた所に樹木がある。
庭園は広い。
夏はその木陰で休めるように、冬はその枝に雪が積もるさまを楽しめるようにと、庭師の緻密な設計により植えられたものだ。
その木の幹に背をもたれ、マーセルヴィンスを静かな眼差しで見つめている男がいた。
その美貌。夜の闇の中にあっても浮き上がるような強烈な美貌。
深い紫紺の髪は艶やかに背中まで流れ、均整の取れた肢体を引き立てている。
切れ長の涼しげな瞳に浮かぶのは残酷な愉悦、それに相反して柔らかな線を描く口元から、骨まで震えそうな甘い美声が零れる。
「どうした。わたしが恐いか?」
囁くような声とともに、男はゆっくりと近付いてきた。
震えているのは寒さのせいではないと、マーセルヴィンスには判っていた。
これほどの美貌を持つ男はかつて見たことがなかった。
危険だ、と本能が告げていた。
これは魔性のモノ。関わってはいけないもの。
しかしマーセルヴィンスの瞳は、まるで吸いよせられるようにその紫の男に向かっていた。
鼓動が早まる。目が逸らせない。
頬が赤らんでくるのが自分でも分かった。
そんな彼女を見てくすりと男が笑う。
「おやおや、赤い顔をして。随分と可愛らしいことだ。悲鳴でもあげられたらその口、塞いででも連れていくつもりだったが……」
言って男は優雅にマーセルヴィンスの手を取った。
そしてまるで当然の権利のように、その白い甲に接吻する。
彼女の頬は更に赤く染まった。
「ぶ、無礼な!わたしを誰だと思っているのです!」
慌てて手を払い除ける。けれど鼓動の高鳴りは抑えられようもなかった。
男はやれやれと言ったように肩を竦めると、羽織っていたマントをそっとマーセルヴィンスの体に掛けた。
「まるで、流れる水のような乙女だと思っていたが……意外に激しい一面もあるようだな。ますます、興味深い」
言って男は、蕩けるような甘い微笑を浮かべた。
それは人心を惑わすことに長けた上級魔性独特の魅惑的な笑みであり、カラヴィス公女の気高き心を一瞬にして打ち砕く程の魔力を秘めていた。
完璧な美貌を彩るその微笑みを見た瞬間、マーセルヴィンスにはもう、目の前のこの男以外何も見えなくなっていた。
「あ……」
震える唇は、恐怖以上の別の感情に押し流され、あらぬ言葉を呟こうとしている。
男の端正な顔が間近に迫っても、今度は抵抗する力さえも持たなかった。
男の指先がそっとマーセルヴィンスの顎を持ち上げる。
震えのやまない唇の輪郭を、男の指がなぞった。
「恐がらなくていい。おまえはいずれわたしのものになるのだから」
言葉の内容とは裏腹に穏やかな口調で男は言った。
夜の静寂に溶け込む美声を彼女は確かに耳元で聞いた。
男の声は甘く心地良かった。
懐かしい音楽のような、聞いているだけで胸締めつけられるような。
そう、あの妹の琴さえもここまでの音色を生み出せはしないだろう……。

そこまで考えた時、マーセルヴィンスははっと我に返った。
そうだ、自分には誰よりも大切な妹がいたはずだ。
───リーヴシェラン。
その名を思い出すや否や、彼女は羞恥に身を捩った。
雰囲気に流され、こんな得体の知れない男に身を預けてしまいそうになった自らを恥じながら、彼女は男の体を押し退けた。肩で大きく息をして呼吸を整える。
すう、と息を吸い込み、マーセルヴィンスは声を限りに叫んだ。
「誰か、誰かいないの!無礼者が屋敷に侵入しています!」
「無駄だよ、可愛い女(ひと)」
男は余裕の仕草で彼女の細い腕を掴んだ。
強い力でそのまま引き寄せられ、マントごと抱き締められる。
あ、と声を洩らした彼女の顔は再び上向きになる。
男の深紫の瞳の中に、怯える自身の小さな姿が映っていた。
「抗おうともおまえは既にわたしの術中にある。完成まであと少し……だが、おまえの悲しそうな様子を見てつい我慢がならず、こうして会いにきてしまった」
そう言って、男は愛しげにマーセルヴィンスの頬に手を這わせる。
「な……にを……」
男が何を言っているのか彼女には全く理解できなかった。
まるで以前から彼女を知っているような口ぶり、それに『完成』とは?
「解せない面持ちだな。まあ、いい。すぐに解ること」
男は続けて言った。
「半月の夜に、おまえを迎えに行く。恨むならわたしを捕らえたその美貌を恨むがいい」
息を飲むマーセルヴィンスを体から離すと、男は数歩退き、深い礼をした。
それにつられて、紫紺の長髪がさらりと肩口に零れ落ちる。彼女は瞬きも忘れて男に見入っていた。
「しばしの別れだ、マーセルヴィンスよ。次に会う時、わたしがおまえをこの名で呼ぶことはあるまい……」
不吉なその言葉を最後に、男の姿は鮮やかに彼女の視界から消え失せた。
後には何も残らず、ただ夜風が静かに吹いているだけだった。
噴水の音が変わらず背後で聞こえている。
残された彼女は男の言葉を口の中で反芻した。
「わたしを……迎えに……?」
男が被せていったマントを羽織ったまま、マーセルヴィンスはしばし静寂に身を任せていた……。


「姉さま、姉さま?」
幼い妹が腕を揺すってくるのに気付き、マーセルヴィンスは我に返った。
カップの中に注いだ紅茶が、今にも溢れんばかりになっていた。慌ててティーポットを円卓に置き、零れそうな分を匙で掬う。
「ごめんなさいね、リーヴィ。ぼんやりしていて」
あの日から生じた変化を気取られぬよう、彼女はいつも通り穏やかに微笑んで、リーヴシェランに紅茶をいれる。
だが、その手は明らかに震えていた。
こうしていても、あの美貌の男の姿が、あの優しい微笑みが頭から離れない。
今宵は半月の晩……あの男が迎えにくると言っていた夜。
彼女の心は恐怖にも勝る期待で占められていた。
今夜……あの人がここに来る。
それを思うと、久々に妹と過ごす時間さえも早く過ぎてしまえばいいと思うのだった。
迎えにいくといったあの男。いつからマーセルヴィンスを知っていたのか、何者なのか、何の為に近付いてきたのか。
尋ねたい事は山ほどあった。
しかし、それより先に初めて感じる熱い衝動が彼女の心を突き動かしている。
あの男と出会ってから、胸に抱いている想いは唯一つ。
会いたい。
あの人にもう一度会いたい。
恐いと感じる理性の裏側に、泣きたくなるほど彼を求める気持ちが生じている。
毎夜夢に出てきて、優しく彼女を抱き締める紫紺の男。
優雅で上品な仕草は、宮殿に出入りする青年たちとは比べものにならない。
端正な顔立ち、その中の切れ長の瞳でマーセルヴィンスを見つめ、耳元で甘く囁かれる愛の言葉が、もうすぐ現実のものになろうとしているのならば。
「姉さま、近頃、様子が変よ。何かあたしに隠していない?」
リーヴシェランの瞳が心配そうに陰る。
何でもないのよ、と答えて笑った。
一番大切なのは妹だけ。あの男の事は今夜限りで忘れる。
自らの想いに蓋をして彼女は紅茶をひとくち飲む。
しかし、あまり味はしなかった。

妹を寝かしつけると、彼女はふらりと中庭を散歩した。
夜はいつも静かだ。多くの生命が眠りにつく事を許された時間。
芝生を踏み分けながら見上げれば今宵は半月。藍色の空から降り注ぐ白い光が、夜着のみを身につけたマーセルヴィンスの清楚な美しさを際立てていた。
噴水の近くまで来て彼女は足を止める。
既に先客がいた。
遠目でも明らかに美形と判る容貌(なりかたち)。
闇を払拭する紫紺の色彩は、一度見たら忘れられない程の強烈な印象を与える。
紛れもない、先日まみえたあの男が、あの夜と寸分違わぬ姿でたたずんでいるのだった。
人ではあり得ないその美しさを改めて思い知らされ、マーセルヴィンスは息を飲んで立ち尽くした。
腕に抱えた上着をぎゅっと抱き締めながら、言葉が出なくなる。
聞きたいことは沢山あった。しかし言葉にならない。
男の姿を目にした途端、そんな事はどうでもいいような気がした。
今彼が目の前にいる、その事実さえあれば良かった。
目と目が合う。
合った途端、男の完璧すぎて不気味ささえ感じさせる表情が和らいで、心地の良い笑みへと変わるのだった。
「よく来たね……」
男はゆっくりと腕を開き、彼女を胸の中に迎え入れようとする。
その甘美な誘惑に、マーセルヴィンスは必死で耐えた。

「あなたに、お尋ねしたいことがあります」
妹は魔性と親しくなる術を持っている。
ゆえに、彼女自身も通常の人間よりは魔性に関する知識はあった。
「あなたは何者なのです?」
震えながらマーセルヴィンスは言った。
「上級魔性は漆黒の色彩を持つと伺っております。
けれどあなたのその髪も瞳も、鮮やかすぎるほどの……紫紺。妖鬼ではないのですか?」
世界に五人いるという魔性の王の存在を、彼女は知らなかった。いや、知っていたとしても頭からその可能性を否定しただろう。
妖鬼ならばあるいは、妹の力で服従させることが出来るかも知れない。しかしこの男が上級魔性であったなら……マーセルヴィンスに逃げ場はない。
彼女は混乱していた。
力の強い者は漆黒の色彩を纏うという。彼は漆黒ではない。
だが力のある者ほど美しいという法則に従えば、この男は紛れもない上級で。
ああ、けれどやはり判らない。
そんな彼女を可笑しそうに見つめながら、男は口を開いた。
「わたしが何者であるか……それはおまえ自身の目で確かめるがいい」
言って男はすいと指先でマーセルヴィンスの足元を示した。
反射的に、視線は下へと向かう。
「え?」
表情が変わる。異変に気付いたのはすぐの事だった。
悲鳴が、中庭に響き渡る。
幸か不幸か、それが第三者の耳に入ることはなかった。
膝ががくがくと震え、前のめりに倒れかかったところを、男の優美な腕に支えられる。マーセルヴィンスは目眩を覚えた。
「何を……なさったのです」
何故、今まで気が付かなかったのだろう。
月明かりに照らしだされた彼女の足元には影がなかった。
そしてよく見れば魔性であるこの男も影を持たない。
それは何を意味するのか。男はただ、笑う。
「言ったはずだ。おまえは既にわたしの術中にあったのだよ……彩糸」
その名を聞いた途端、彼女の心臓がぎゅっと捻れるような痛みを訴えた。
さながら細い糸で締め付けられるように、内側からきりきりと絞られる。
「あ……あ……あああ!」
『彩糸』。
男が彼女をそう呼んだ瞬間、術は発動した。
人間の体を構成する無数の糸……繊維が、新たに組み込まれた糸によって引きちぎられ、分解されていく。
体中の細胞が破壊される、その痛みに耐えかねてマーセルヴィンスは絶叫した。
「あああ……ああああっ!」
泣き叫ぶ彼女を腕の中に抱き締めながら、男は優しく囁いた。
「哀れな娘よ。せめて今だけは思うがまま泣くがいい。
今夜が最後、二度と涙流すことは叶わぬのだからな」
その言葉の意味するところを悟った時にはもう、マーセルヴィンスという存在はこの世から消え失せていた。

虹色の光沢を放つ髪が、璃岩城の床に広がる。
長い睫が彩る瞳は美しく、しかし、何の感情もあらわしてはいない。
美女はただ一人の男を見つめていた。
無垢であった彼女の魂を剥奪し、別の器になすりつけた非道な男を。
「おまえの名前は、何だったかな?」
あくまでも穏やかな、それでいて逆らうことを許さない声で、男は言った。獲物を嬲る愉しげな光が、紫紺の双眸に浮かんでは消える。
「マ……セ……」
唇が、ひどく重い。
新しい名を受け入れてしまっては、彼女の全てが否定される。
「どうした?」
男が、笑う。残酷なまでに美しい笑顔だった。
「おまえの名前を、言ってごらん」
心が悲鳴を上げていた。
目の前にいる相手を憎む心と、愛しむ心が交錯し、例えようもない痛みが全身を貫いた。
だがどこかで、安堵している自分がいる。
男に捕らえられたことに、必要とされたことに、自虐的な悦びを感じている自分が。
彼女はゆっくりと膝を折り、紫紺の妖主の前に跪き敬礼する。
「彩糸、で、ございます」
ここにいるのは人形に過ぎない。
なのに、何故悲しいと思えるのだろう。何故、人間であった頃の心が、まだ残っているのだろう。
「我が君。何なりとご用をお申し付け下さい」
自らの意思とは裏腹に、唇が服従の言葉を紡ぐ。
流れる髪の間から、大切なものが、零れ落ちていくように思えた。
藍絲は、至極満足そうに頷いた。
「素晴らしい……今までの中では最高の出来だ」
彩糸は深く頭を垂れた。
「恐れ入ります」
玉座に座る男の手の中では、数個の宝石が踊っている。
「わたしが与えた瞳は、気に入ってもらえたかな?」
否、と。
答えられたら、どんなにいいだろう。
「他の娘たちのように、自我を抜かなかったのは正解だった。おまえは、悩み葛藤している姿こそが美しいからな」
自我。
そんなものは、いっそいらない。
奪って欲しかった。
他のことなど、考えられぬように。
指先で、顎を上向かされた。
紫紺の瞳に、あらゆる感情が吸い寄せられる。彼女はまた、何か大切なものを、男の中に落とした。
「これからは、わたしの最愛の人形として、傍に置いてやろう。永遠に」
言いながら、藍絲は人形を引き寄せた。
「わたしのものだ」


「彩糸。ラスは元気にしてるわよね?」
寝台の中で不安そうに呟くリーヴシェランに、彼女は微笑んだ。
「大丈夫ですよ、リーヴィ。あの方がついていらっしゃる限りは」
美しく成長した妹は、しかし相変わらず子供じみた口調が抜けきらない。枕元に座る彩糸の前で、悔しそうに爪を噛んで言った。
「あたしにもっと力が……ラスや彩糸を守れる力があったらいいのに」
彼女は、静かに首を横に振った。
「がむしゃらに力を求めては魔性の思うつぼですよ、リーヴィ。わたしも、かつてはそうでした」
彩糸は寝室の窓の外を見やる。
ちょうど、あの時のような半月が出ていた。人間としての彼女に、終わりを告げた夜。
こんな夜には、若かった自分の愚かしさが身に染みる。
彩糸……マーセルヴィンスは、かけがえのない妹を守るための力が欲しかった。
力さえ手に入れば、全ての望みが叶うような気がしていた。
だが影糸術をかけられ、人ならざるモノに成り果てても、己の弱さに打ち勝つことは出来なかった。
あの人の心の中に別の女性がいると知った時の、絶望。それでも褪せる事のない、この想い。
「せめてあなたには……わたしと同じ過ちは犯して欲しくないのですよ」
静かな寝息を立て始める少女を見守りながら、彩糸はそっと唇を閉じる。
───これからは決して、リーヴシェランの為にかなしい唄を歌わないように。



──おわり──


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