・大昔に出した同人誌の再録です、段落下げなどがそのままです ・『翡翠の夢2』に登場したやられ役モブのカーガスが主役 ・彼女の護り手などオリキャラ多数出ます ・メインキャラの出番はごくわずか 大丈夫そうな方のみどうぞ↓ 人形が一体、床に打ち捨てられている。 片方の腕はちぎれ、中身の綿が飛び出していた。小石で出来た双方の瞳もくりぬかれ、部屋の片隅に転がっている。 『ええん、ええん……』 子供が泣いている。 お気に入りの人形を壊されて……瞳から大粒の涙を流して、泣いている。 どうしてこんなことをするの。私があなたに何をしたの。 相手の仕打ちを嘆く幼子は、己に非があるなどとは夢にも思っていないのだろう。 『ええん、ええん……』 『うるさい!』 怒鳴りつける、もう一人の少女……ああ、これは自分だ。 妹が生まれてから、それまで自分一人に注がれていた両親の愛情が薄らいでゆくのを、彼女は敏感に感じ取っていたのだ。 『泣いたって、お父さんとお母さんは来ないんだからね……っ!』 落ちている人形を彼女は拾い上げ、再び床に叩き付ける。 自分が手にしていないものを、彼女が所有していて良いはずがなかった。何度も何度も、人形を痛めつけている……そのうちに、妹の泣き声がふと途切れた。 ええ……ん……ええ………………ん 『痛いよ……お姉ちゃん』 低い女性の声が、耳元で聞こえる。 振り返ると、妹は確かにそこにいた―――ただし。 片腕が肘の先から千切れて、全身を朱に染めて……どうして立っていられるのか不思議なほどに、血の気の失せた顔をして。 にいっ、と口許が笑う。 ……妹の瞼の奥に光はなかった。 ※ 「は……」 声なき悲鳴で目が覚め、女は、しばらく呼吸をするのを忘れていた。 恐怖に見開かれたままである双眸は、薄茶。同じ色の長い髪が、汗の滲んだ頬に、額に、べっとりと張りついている。視界を遮る前髪をはねのけ、女は浅く息を吸いた。 そこは、見慣れた自分の部屋だった。家具も調度品も、指定の場所にきちんと配置され、静寂に包まれた室内で、自らの呼吸だけが聞こえている。 悪夢の余韻だろうか。子供でもあるまいに、瞳には涙すら滲んでいた。 寝台の中でゆっくりと半身を起こす……寝違えたのか、肘に軽い痛みを感じた。夢の中に現れた人形の、ちぎれた片腕を思い出し、女は憂鬱な気分になる。 「ねえ……水差しを取ってちょうだい」 みしり、とそれに答えたのは天井だった。上の階で寝ている誰かが寝返りを打ったものだろう。 寝汗で湿った敷布を掴むと、恐る恐る……もう一度問い掛けてみる。 「いないの……?」 返事はない。明らかに、求めている気配が無いのを悟った瞬間、成熟した女の顔に、くしゃりと歪みが走った。 「………………………………し…………」 突如、女は嘔吐を堪えるように口を大きく塞いだ。 『彼』を呼ぶべき理由が、今は用意されていないことに気付いたのだ。 側にいない寂しさから呼んだなど、知られてはならない……自分はあくまでも、『彼』を支配すべき存在なのだから。 女は毛布を頭から被り、不安を打ち払うように大きく息を吸った。 そうよ……私は、選ばれた者。 選ばれた、美しく、誰よりも強い女なのだから……。 女は再び、眠りにつこうとする。 毛布ごしに透けて見える背中の線が、何かに怯えるように時折、小刻みに震えていた………………。 ※ ぽたり……ぽたり。 大きく裂けた口の端から、唾液が漏れる。 人の形をしていても、異常なまでの体臭は隠しようもない。剛毛の生えた醜悪な面は、獲物を見出だした歓喜に彩られていた。 『今日は幸先がいい。こんなに……うまそうな女に、会えるとは』 対峙しているのは、人間の若い女だった。彼女を絡め取るための触手が徐々に近付いても、動くことはせず、気丈に、ただ真っ直ぐに妖鬼を見据えている。 服をきちんと身に付ける暇もなかったため、上着を胸に巻き付けて肩で結んだだけの格好である……腰から下は泉に浸かった状態であるから、下手に動けば足を取られることは目に見えていた。 「しくじったわね」 ちろり、と唇をなめ、それでも妖鬼から視線を外さずにいる。目を逸らしたその瞬間こそが命取りになると悟っていたからだ。 浮城の捕縛師としてそれなりの地位を築き上げてきた彼女にとっては、下級魔性の封印など造作もないことだったが……それはあくまで、戦闘準備が万全の状態であれば、の話だ。 彼女が水浴びをする間、周囲を見張っているはずの護り手の気配は、未だ感じない。 「分が悪いわ……でも、やるしかないか」 誰にともなくつぶやく女に、妖鬼はにじり寄り、赤黒い肘の先から幾本にも分かれた手を伸ばす。人間の腕の倍はあるかと思われる長さの触手で、彼女を捕らえようとしてくる。 『安心しな。一撃で楽にしてやるよ……その後で、その丈夫そうな心臓をいただいてやる』 完全に、こちらの自由を奪った以後のことしか頭にない台詞。そのため、反応がいささか遅れたのかもしれない……彼女の指に嵌められている封魔具に対しての。 女の名は、カーガスという。ややきつい印象を与える顔立ちは、しかし整って美しく、その人の意思の強さを物語るようだった。腰のあたりまで伸びた長髪は、普段は一つにまとめているのだが、今はほどかれ、風に晒されている。 カーガスは組んでいた腕をほどき、ゆっくりと手のひらをかざす。 喜悦を満面に浮かべていた妖鬼の顔は、次の瞬間驚愕に凍り付いた。 『それは……まさか貴様っ……!』 細い指のそれぞれの付け根には、虹色の光沢を放つ真珠をはめ込んだ指輪が計十個、ずらりと並んでいた。カーガスの用いる封魔具、『菩提珠』である。ひとつの真珠に封じられる命は一つ……使える珠は現在四つほどしかなかったが、この程度の相手ならば、それで十分だと彼女は思った。 「おいでなさい……この中に」 特殊な力を持つ者ならば見える、魔性の心臓の位置。 目を閉じ心眼で見る者と、凝視することで位置を探る者との二種類があったが……カーガスの場合は、後者だった。 鋭い双眸が妖鬼を捕らえる。心臓は二つ……腕と、頭に、一つずつ。 だが、その構えには隙がありすぎた。一旦は触手の動きを止めた妖鬼も、我に返り、抵抗を試みる小癪な獲物に対して尊大な目を向ける。 『それが、どうした……小賢しい!』 口許には下卑た笑みが戻っていた。たとえ封魔の力を宿す相手であろうと、その力が発動する前に、始末してしまえば同じこと。 幾本もの手がうねり、一斉にカーガスに襲いかかる。 鋭く突き出した触手の先端が、彼女の体を心臓からずぶりと貫く――はずだった。 しかし、それより先に、カーガスは相棒の名を呼んでいた。 「志奇」 呼び掛けに答えた『彼』が、逸早く彼女の身を守る手段を講じていたのだ。 「カーガスに、触るなっ!」 凛とした、幼い少年の声が響いた刹那。 ぱんっ。 唐突な力に弾かれ、妖鬼の体はのけぞった。 結界だ。 細かな霧とも見紛う薄い、薄い白煙が、いつの間にか、彼女の上半身を包み隠すようにして存在している。それは無論、人間の成せる技ではなかった。 陽炎のように、彼女の周囲の空気が揺らめき……ひとつに凝り、人の形を取る。 雨雲を思わせる、濃い灰色の髪と瞳―――。 現れたのは、可愛らしい少年姿の魔性である。だが、その体躯は小さく、カーガスの片手で包んでも余裕があるほどだった。 「遅かったのね」 ようやく反応を示した護り手に、彼女は嫌味を言う。 「ごめん。でもカーガスが覗くなって言うから。呼んでくれるまで待ってたんだよ」 大きな瞳を輝かせて、笑う。 その笑顔で謝られたら、何をされても許してしまいそうな愛らしさであった。 もっとも、カーガスは彼の本性を知っているので、そんなものに騙されたりはしないが。 獲物を射止め損なったことに苛立つ妖鬼は、喉の奥で低く唸り声を上げる。 『あ、あんたは……』 カーガスが呼び出した護り手を見るや否や、その表情に動揺が走る。 もしや、顔見知りだろうか。 志奇は見かけによらず根性が曲がっていて、浮城に入るまでは色々と悪さをしていたようなので、ついそんな疑いを持ってしまう。 「なに、聞こえなかった?」 だが、彼を包む空気には、主に害をなす魔性へ向ける純粋な怒り、ただそれだけしか感じ取れない。彼女の目線の高さまで移動すると、真正面から妖鬼を睨み付ける。 「カーガスには触るな、って言ったんだよ。この人は僕のなんだから」 ずきり……と左の胸が痛みを訴えた。 そういう、心のこもらない台詞を、平気で口にするのはやめて欲しかった。 「志奇」 と彼女は告げた。 「軽口はいいから、結界の維持に専念してちょうだい」 「え。でも……」 彼は顔だけ振り返って困惑した表情を見せた。援護が遅れたことを怒っているのだろうか……そんな風に考えている顔。 わざとらしい。 「いいから、どいて。そこにいるとあんたのお尻があたしの顔の前に来るのよ」 幾分柔らかい口調で言ってやると、どうやら納得したのか、志奇は姿を消した。だが、去ったのではない。彼はカーガスを覆う煙幕の一部となり、結界を更に強化させたのだ。 『この……!』 妖鬼は力ずくでそれを破ろうとするが、叶わぬことだった。 ジュウッ…… 触れたそばから、触手の先端が焦げる……いや、溶けたのだ。それだけで、この『場』が、凄まじい熱を孕んでいることがわかる。 志奇が作り出した『場』が障壁となって、標的に触れることすら叶わなかった。 そして……彼の助力により、彼女はようやく捕縛の力を開放することができた。 『な、にい……!』 妖鬼が驚くのも無理はない。 こちらからの攻撃は届かぬというのに、彼女の捕縛の力だけは結界を通り抜けて通じ、彼の命を奪おうとしているのだから。 焦って、触手を振り回す妖鬼……だが、志奇の作り出した薄い被膜は、カーガスの四肢を優しく、けれど頑強に包み込んで、傷一つ与えられない。 大丈夫、と声がする。 大丈夫。カーガスは僕が守るから。 そう、彼は『仕事だから』、カーガスを護ってくれる。 ずきり……ずきりと胸が痛む。 その度に、外に放すべき力が内に籠るような気がして、彼女は、幾度もかぶりを振った。 いけない。 今は目の前の敵に集中しなければ。 すう……と息を吸い込む。それと同時に、命が徐々に掌に吸い込まれていくのがわかる。頭と腕、二つの命が、カーガスの開いた掌に呑み込まれ、薬指と小指、それぞれの真珠に一つずつ宿っていく。 『馬鹿な……馬鹿な!こんな』 抗おうとも逃れられない、その初めて覚える恐怖に妖鬼はなす術もない。 『……畜生……っ…………………………』 悲痛な叫びとともに、魂を抜かれた体は、支える力を失い地面に崩れ落ちた。 ざら、ざら……ざら、と、その四肢はみるみる砂塵と化し、消滅する。 やがて、ほのかな温もりが指に降りてくる。 大きく息をつき、カーガスは腕を下ろした。 命を封じ込めた真珠は、小石のように鈍い光を放つものへと変化している。同時に身を包む結界の結び目が解け、少年の姿に戻った護り手がふわりと飛んで来る。 「カーガス、平気?」 「こっち見ないで」 まだ半裸状態なのだ。近付いてくる志奇に背中を向けたまま、離れたところにある服を持ってくるよう命じる。 その時、彼女はふと、指輪に違和感を覚えた。 「軽い……?」 手を振ってみる。何やら、いつもと感覚が違う。 カーガスは首を傾げた。 捕縛に成功したのは間違いない。けれど、まるで重さを感じなかった。 「おかしいわね……」 結構、大物だと思ったのだが。 ※ 華奢な女の体を、彼は抱きよせた。 女も甘えるように彼の首筋に唇を押しつけ、愛撫に応えてくる。 人目を忍んでの行為も、たまには良いものだった。 薄暗い部屋の隅で、寝台の上には美女……例え城長の目前だったとしても、彼は抱くことをためらいはしないだろう。基本的に、彼は女好きだった。だが、当の女からは折に触れて細かな注文が付いた。 「人前では嫌なの。いやらしい女だと思われたくないから」 今回の相手は、元貴族の令嬢だった。彼女の父親が采配を間違えたために、家が傾き……幸いにも特殊な能力の持ち主であった彼女は、ここで適職を見つけ、時にはこうして彼の愛情に付き合いながら、故郷に仕送りを続けている。 誇り高い反面、そうした健気な面も持ち合わせている彼女を、男は恋人として申し分ないと思っている。だがそれも、飽きるまでの話だった。 自分が、ではない。女の方が、である。 彼にとって、女は油断の出来ない生き物だった。 好意を伝えてくるくせに、いざとなればなかなか思い通りになってはくれない。いつかは捨てられる……それならば、美味しいところだけ食い尽くして、すぐに次の相手を捜せばいいだけのこと。 女は男の腕の中で、うっとりと睫を伏せている。 ちょろいものだ。 そう思い、更に深く求めようとした刹那のことだった。 女が、不意に彼の胸を押し退ける。 「どうした……」 怪訝そうに、彼は尋ねる。女の背に添えていた手は行き場を無くし、力なく下に落ちた。 寝台から起き上がった女は、何かに耳を澄ましているようだった。男もつられて聴覚に宿る神経を研ぎ澄ませる。彼等は職業柄、気配や物音といった目に見えぬものに対しての感覚が鋭敏だった。特にこの元令嬢は、しどけない姿を他人に見られることを最大の羞恥と感じているため、少しの雑音も気に掛かるのだろう。 「どうかしたのか」 部屋にいるのは自分達だけだ。安心させるように、もういちど尋ねるが、女は眉を寄せ、かぶりを振ってみせた。 「いやだ……あの子、見ているわ」 男の顔に曇りが生じた。素早く天井を見、壁を見、扉にも視線を移すが、誰の姿も確認できない。 「いないじゃないか。脅かさないでくれよ」 男は笑う。だが、額にはほんのり汗が浮きはじめている。 「今日は君が来るから、部屋には入らないように言ってある」 気のせいだ、と……彼は女を再び抱き寄せようとする。「待って」と女は言い、寝台の下に脱ぎ捨てられている自らの服を手に取った。 「見て……私の服が……」 差し出されたそれを見て、男は目を剥いた。 女の着ていた衣類は、鋭利な刃物で刻まれたように引き裂かれ、ぼろ雑巾のように成り果てていた。 口を噤む男をなじるように、女は瞳に涙を浮かべて言い募った。 「あの子、私たちのこと認めてくれていたんじゃなかったの」 話が違う……そう言わん許りの口調に、男は慌てて首を横に振った。 「そんなはずはない。きっと、単なるいたずらだよ……さあ、続けよう」 「私の服……」 「判った。また新しいのを買ってあげるから」 男がそう言った時、くすり、と少女の笑い声が部屋に響いた。 『くすくすくすくす』 男は天井を見やる。姿こそ見えないが、そこに声の主がいることを確信したからだ。 「どういうつもりだ……」 呻く男に対して、屈託のない声が振ってくる。 『そんな女、あなたには似合わない。あなたはあたしのもの』 あなたはあたしのもの…………………… 恋人が去った後、男はちっ、と舌打ちした。 「女はこれだから……!」 それは恋人に向けた言葉ではない。彼女とは、好きな時にいつでも別れられる。だが、『あの子』は……『あの子』とは、決して自分の都合では別れられない運命にあるのだ。 きりきりと胃袋が痛みを訴える。これからも、あんな風に覗かれて……見張られて。 気に入った女を自由に抱くことも出来ず、『あの子』に縛られ続ける……そんなのは。 「いやだ」 男は口にしてしまった。それは本来口にしてはいけないことだった。 なぜなら、約束は絶対だから。 あの時、『あの子』と交わした約束は絶対だから……。 「こんなことなら……あの時……しておけばよかった」 男は頭を抱え込み、そしてある存在に思いをはせる。 消え失せたはずの選択肢だった。それが再び、彼の中に息づいたのだった。 「もしも……時が戻るのなら、今一度……」 男はつぶやく。 やり直せるのならば、やり直したい………………………………。 『ああ、そうしよう』 脳裏に、声が響く……低い、彼とは違う男の声だ。 『邪魔になったら、消せばいい。おまえはいつだって自由になれる』 けれど、どうやって? 声は囁く。 『力を貸してやるよ。簡単なことだ……』 そうして、悲劇は幕を、開ける。 [*前] | [次#] ページ: TOPへ |