書庫 淡雪姫(女千禍×内梨)


・『白雪姫』風味の、内梨と女千禍の出会い捏造
『緑風千里』とつながってます





一目見た時から、心奪われていた。
艶のある柔らかそうな長い髪。僅かにつり上がった目尻に、長い睫毛。成熟しきった四肢はすらりと整って無駄な贅肉がなく、その一方で豊満な胸の膨らみは衣服からはちきれそうなほどの豊かさを強調していた。
生まれて数日、自分よりも美しい存在にお目にかかったことがない内梨が、初めて目にした同性が──後に異性と判明するのだが──千禍であったことは幸運であったのか、あるいは不運であったのか。
ともかくその時の彼女は、一瞬にして己の心を奪った絶世の美女に、思わず声を掛けずにはいられなかったのだ。

「あのっ」
勇気を振り絞った内梨の第一声に、美女が振り返った。連れの男性も同時に振り向く。
男性のほうには用はなかった。内梨が惹かれたのは、燃えるような真紅の髪を持つ美しい女性のみ。何とか自分を印象づけようと、彼女は精一杯に声を張り上げる。
「あのっ、あたし内梨といいます。突然ですがお慕いしていますっ!」
美女と連れの青年は顔を見合わせた。しかし、すぐに二人揃って背中を向ける。
「行くぞ九具楽」
「はい」
美女はそのまま、闇に溶け込むように姿を消してしまう。
「あああ……待って下さい、あたしの話を………………」
必死で追い縋る内梨の目の前に、黒い影が立ちはだかった。
「おっと。それ以上我が君に近付かないでいただきたい」
美女が『九具楽』と呼んでいた青年が行く手を阻んでいた。髪と瞳の色こそ内梨と同じだが、力の差は歴然としている。一見しただけでそれが判ったので、内梨は悔しさに唇を噛んだ。
「あなたはまだこの世界の事をよくご存じないようだ。僭越ながら忠告して差し上げましょう」
黒衣を纏った青年は、尊大な目で彼女を見下ろして告げる。
「世界には魔性を統べる五人の妖主がおられるのです。あの方は柘榴の妖主、千禍と呼ばれるそのうちのお一人。あなたのような若輩者が気安く声を掛けられるような存在ではない」
九具楽にしてみれば、彼女に身の程を知らせるために放った言葉だったのだろう。しかし話を聞くにつれ内梨の瞳は徐々に輝きだした。
「すごい!やっぱりあたしの目は確かだったんだわ」
妖主という存在を間近で見たのは、これが初めてだった。美貌にはかなりの自信を持っていた内梨だったが、あの美女の姿を一目見た瞬間、全身に雷に打たれたような衝撃が走った。
配下になるとしたら、あの女性以外考えられない。
「柘榴の妖主……そう、あれが。この内梨がお仕えするには、やはりそのくらいの方でなければ……」
そんな彼女を見て、青年は溜め息を漏らす。
「美女がお好みならば、翡翠の君か白焔の君の所にでも行けばよろしい。よりにもよって、妖主の中で最もたちの悪い我が君にお仕えして、一生を棒に振ることはありますまい」
しかし内梨は引かなかった。
「それなら、何故あなたはあの方について歩いているの。どんなに性格が悪かろうと、それを覆して余りあるほどに魅力的な『何か』を、あの方が持っているからではないの?」
思わぬ反撃に、九具楽は一瞬、言葉に詰まった。だがすぐに冷静な表情を取り戻すと、
「悪いことは申しません。やめておきなさい」と言った。
「柘榴の妖主の側近として、日々苦労を強いられているわたしが言うのです。命が惜しくば考え直した方が身の為……」
その肩を背後から叩く人物がいた。
「おい、誰が『たちが悪い』って?」
そこには先ほどの美女が立っていた。漆黒の青年はかなり焦って飛びずさった。
「も……戻ってらしたのですか」
一度は姿を消したかに見えた美女は、しかし完全に立ち去った訳ではなかったらしい。細い腰に手を当てて、配下の青年を叱りつける。
「ったく、こんな小娘相手に手間取ってるんじゃない」
「申し訳ありません」
頭を下げる九具楽を一瞥すると、美女は内梨に向き直った。
「内梨とか言ったな。おれはお前には興味はない。早々に失せろ」
美女の口から飛び出す数々の暴言に、内梨は知らず眉を潜めて呟いた。
「……おれ?」
「そうだ」
千禍は答えた。
「おれは男だからな」

内梨は愕然とした。足元に罅が入り、虚空へまっ逆さまに落ちていくような気がした。
お、と、こ……………………?

「うそっ!」
我を忘れて、否定する。目の前に立っている千禍の体を、頭から爪先まで見てしまう。
「嘘よ。だって……そんなにお綺麗なのに」
豊かな胸とくびれた腰、柔らかそうな巻き毛。偽者だとは言わせない。
「これは仮の姿だ」
「じゃあその胸はなにっ?」
「自信作だ。よく出来ているだろう」
千禍は誇らしげに乳房を揺らす。ぷるるん、と音がした。「悪趣味な」と九具楽は額に手をやる。

内梨は混乱し始めていた。ようやく見つけた、自分よりも美しい存在が、男性だなどとは認めたくはなかった
何故なら、彼女にとっての男性とは、『下品で乱暴で不潔な生き物』以外の何者でもなかったからだ。この美女がそんな連中と一緒であるはずがない。
──嘘に決まっているわ。
あたしを追い払うために、嘘をついているのよ!
「そんなの信じられませんっ!」
だから、夢中で叫んだ。
「絶対嘘よ。男だって言うんなら、その証拠を見せ………………」
言い掛けた内梨は次の刹那、その可憐な唇から大量の血を吐く。鋭い痛みに、何が起こったのかと視線を落とすと、胸部に空洞が出来ていた。
柘榴の妖主が放った刃が、彼女の胸を深々と貫いていたのだ。
「……失せろと言ったのが聞こえなかったのか?」
冷ややかな声とともに、内梨の体は後ろに仰け反り、背中から地に叩きつけられた。まだ膨らむ兆しのない胸の谷間からは深紅がとめどなく流れ、純白の衣装を濡らした。
一瞬の出来事だった。
空は青く晴れていて、風にそよぐ木々の香りが清清しい。そんな中で、雑草の生えた土に体液を吹き出しながら倒れる少女の姿には、ひどく凄惨なものがあった。
内梨は何か言おうとしたが、痛みで言葉にならない。それを冷たい表情で見下ろしながら、深紅の美女は青年に命じた。
「始末しとけ」
「……はい」

柘榴の妖主の気配が遠ざかっていくのが判る。表情を失ったまま仰向けに倒れている内梨の顔を、連れの青年が覗き込んだ。
殺されることを彼女は覚悟し、瞳を閉じたが、いつまで経っても新たな衝撃は襲っては来なかった。

「美しいな」
感嘆するというよりは、むしろ妬んでいるような青年の声が耳を打った。そっと目を開けた内梨は、哀れみと嫉みの混じり合った複雑な視線を受ける事となる。
同情にも似た光が、その瞳には宿っていた。
冗談じゃない、と内梨は思った。こんな男に同情されるくらいなら、死を選んでやる。
そんな内梨の気も知らず、九具楽は彼女の前に膝を折って屈みこみ、先程とはまるで違う穏やかな声でこう告げるのだった。
「我が君に直接手を下させるとは大したものだ。……殺すには惜しい。その無謀さに免じて、命までは取らん」
九具楽は左腕に闇の刃を出現させると、右手で内梨の黒髪を掴んだ。
自慢の長い髪に、冷たい刃先があてられる。
何をするの、と問う気力はない。
青年はそのまま刃を縦に滑らせ、艶やかな黒髪の一部をざっくりと切断した。
「命の代わりにこれを貰っていく。お前のことは確かに始末したと、我が君には伝えておこう」
彼の拳の中に自分の魔力の一部が握られているのを、内梨は確かに認めた。
女の魔性にとって、髪は魔力の源とも言えるものだった。それを切断されたことによって力が急速に衰えていくのを感じながら、彼女は憎しみのこもった目で九具楽を睨みつけた。
青年は苦笑しながら、無残に切り取られた黒髪の束を懐にしまう。そして立ち上がった。

「さあ、どこへなりと消えるがいい……これに懲りたら、今後分不相応な真似はしないことだな」

しばらくして血の匂いを嗅ぎつけたのか、一体の妖鬼が近づいてきた。性別は男。人間の姿を取ってはいるが、背丈は幼児のように低く、顔立ちも醜い。
くんくんと鼻を鳴らし、その妖鬼は仰向けに倒れている内梨の傍らに寄り添うと、その顔色を窺う。
「なんと、美しい……」
この世のものとは思えぬ美貌に、妖鬼は息を飲んだ。
漆黒の長い髪は極上の絹のような光沢を放ち、色白の肌には染み一つなく、唇の周りにはいまだ乾ききらない血がこびりついて何とも痛ましかった。
見れば、酷い怪我をしているではないか。妖鬼はこの美しい少女を介抱するために、急いで仲間たちを呼んだ。
「市瑠、荷媚、傘馬、紫印、互護、肋夏!手伝え」
すると、茂みの影や木の上から、仲間たちがひょっこり顔を出す。体はみな子供の大きさなのに、顔だけが老人のように皺だらけで、不気味な反面、妙に愛嬌があった。
「何だよ七喜。どうした、どうした」
集まってきた仲間たちは、内梨の姿を見て腰を抜かしそうになっていた。
「やや、こいつは驚いた。こんな美人をどこから盗んできた」
「盗んじゃいない、倒れていたのさ。ご覧よ出血がひどい、手当てをしなければ」
「ほいきた、ほいきた」
小柄な上に力が劣る彼らは、少女の体を七人がかりで持ち上げるのがやっとだった。妖鬼の群れは内梨を担ぎ上げると、はいほ、はいほ、と森の奥深くへ進んでいった。

緑の茂る森の深く。
七体の妖鬼は人の使わなくなった山小屋に住み着いていた。長年手入れをしていないだけあって、屋根には星が見えるような大きさの穴が開いていたし、内部にまで苔や雑草が繁殖していた。
その小屋の寝台に寝かされて、内梨は彼らに一通りの治癒を受けることとなった。見下していたはずの下級魔性に助けられる羽目になり、彼女の自尊心は大きく傷ついていた。
「お加減はいかがですか」
内梨を最初に発見した妖鬼──確か七喜とか言ったか──が、内梨の顔を覗き込みながら尋ねた。その醜い顔をどうしても正視できず、彼女は視線を逸らした。
多くの上級魔性がそうであるように、彼女もまた大変な面食いであったのだ。助けてもらったことには感謝しているが、正直に言ってこれ以上体に触れられるのは耐えられない。
勝手なことを思いつつ、内梨は寝台から半身を起こした。
「ありがとう。助かったわ」
幸い、妖鬼たちの摘んできた薬草が効いたのか、胸の傷は大方塞がっていた。あとは自分でなんとかなる。
彼女が元気を取り戻したと聞いて、七体の妖鬼がわらわらと周囲に集まってきた。内梨は吐き気を覚えながらも、表面上は笑顔を繕って言った。
「あ、あたし、そろそろ行かなくちゃ。親切は忘れないから……それじゃ」
「お待ち下さい」
妖鬼の一人が袖を引いた。
げっ、と内梨は青ざめる。服に匂いがついたらどうしてくれるのか。
そんな彼女の心中など露知らず、妖鬼はその場に跪き、売るんだ瞳で内梨を見上げた。
「あなたのお姿を初めて拝見した時、まるで空から雪が舞い下りて来たものと思いました。あなたは淡雪のように、はかなくも美しい……」
内梨は目をぱちくりさせた。
「……そ、そお?」
実を言うと、あの深紅の美女に出会ってから、これまで築き上げてきた自信をすっかり喪失していた。千禍に会うまでは、自分が世界で一番美しい娘のような気がしていたけれど、それは単なる思い上がりだったのではないかと。
その証拠に、内梨は手酷い拒絶を受け、このような傷を負わされた。おまけに九具楽という男に魔力の源を奪われた挙句、「分不相応」との捨て台詞まで浴びせられたのだ。
だが、実際───。
内梨を介抱した妖鬼たちは、次々に彼女の前で膝を折り、その美貌を褒め称えているのだ。
「どうかずっと我々の傍にいてください」
「我らはあなたに生涯の忠誠をお約束します。どうか」
彼らの賛辞を聞くうちに、内梨の顔に笑みが上ってきた。自分の美貌に対する自信を、少しずつだが取り戻し始めたのである。
「あたし、綺麗?」
確認のために尋ねると、すぐに七つの肯定が返ってくる。
「もちろんですとも、淡雪姫」
「姫はやめてってば。あたしには『内梨』っていう名前があるんだから」
あっさりと真名を告げる彼女に、妖鬼たちは驚き、顔を見合わせた。
醜い下級魔性。けれど内梨は確かに彼らの言葉に勇気付けられたのだ。名前を呼ぶくらいは許してやってもいい。
「で……では、内梨様。この地に留まり、我らの主となって下さいますか』
言って深く頭を下げた彼らに、内梨は笑いかける。
「そうね。そんなに言うのなら、もう少しいてあげてもいいかなあ」
その後の彼らの喜びようは、敢えて記述するまでもない。しかし内梨は決して、柘榴の妖主の配下となることを諦めたわけではなかった。
しばらくはここで静養し、力が戻り次第改めて彼女に─―正確には『彼』だが―─会いに行くと決めていた。
例えこの身を何度貫かれようとも、諦める事など出来ないと思った。
美しくも残酷なあの女性の姿は、離れていてもなお内梨の心を掴んで放さなかったのだ…………。


その頃虚空城では、見目麗しき男性の姿に戻った千禍が、暇を持て余していた。
「つまらんな。何か面白いことはないか、九具楽」
闇に浮かび上がる鮮やかな深紅の髪。黒衣の上からでも明確な、長身のしなやかな体つき、それでいて軟弱さの影はない。象牙の肌に絶妙な配置を見せる切れ長の瞳、通った鼻筋、引き結ばれた口元。
いっそ畏怖すら感じさせる、完璧な美貌でありながら、瞳に浮かぶ光はあくまでも玩具を欲しがる子供のもの。そのアンバランスな魅力が、多くの女性を狂わせる要因の一つといえた。
気まぐれな子供の心そのままに、闇と時空と女を弄ぶ柘榴の妖主。彼が欲しているものをそれとなく与えるのが、側近である九具楽の役目だった。
彼は、深く頭を垂れながら提案する。
「そういう時は、時鏡でも御覧になったらいかがですか」
この一言が、彼に災いを招く結果となった。千禍は退屈そうに欠伸をした後、軽く頷いた。
「そうだな。久々に覗いてみるか」
ばさり、と艶めく黒衣を一閃させると、漆黒の闇に巨大な鏡が出現した。
彼は気の抜けたような声で呪文を唱える。
「鏡よ鏡。なんか面白いものを映せ」
時鏡の表面が仄かに輝いた。
次の刹那、鏡に映し出されたのは眩しいほどに美しい、一人の娘の姿だった。
長い黒髪、睫の長い大きな瞳に、深紅の唇。肌があまりにも白いものだから、純白の衣装さえも黄みがかって見える。
森の奥深くで、七体の妖鬼たちに囲まれて遊んでいるその娘の名前を、千禍は確かに知っていた。
「こいつは……」
己の手で死を与えたはずの娘が、元気に動き回っている事実。
不審に思いつつも、彼はしばらく眉を潜めてその光景に見入っていたが、やがて、酷薄な笑みを口許に刷いたのだった。






「九具楽」
千禍はゆっくりと振り返った。
「あの小娘の始末はお前に任せたはずだが?」
どういうことなのだ、と言外に問い掛ける主人の声は、しかしどこか愉しげにも聞こえた。 背中に薄ら寒いものを覚えながら、九具楽は動揺もあらわに告げる。
「お、恐れながら……あのような若輩の存在など、妖主たるあなたには取るに足らぬこと。あのまま生かしておいても害にはなるまい、と判断致しました」

鏡に映った内梨の姿を横目で見ながら、彼は苦く思う。
何故もっと遠くへ逃げなかった。これでは、何のために逃がしたのか判らない。
身の程をわきまえぬ生意気な小娘ではあったが、これから力をつけ、魅力的な女に成長する可能性は充分にあった。
柘榴の妖主の気まぐれによって心身ともに弄ばれ、死ぬのにはまだ早すぎる。
九具楽の心中を読み取ってか、千禍の瞳が細められた。
「情が移ったか……まあ、いいさ。多少は面白い奴のようだ」
ぱちんと指を鳴らすと時鏡は消失し、虚無の闇が再び彼らを包み込んだ。
慈悲は無駄に終わった。千禍はあの娘を殺すだろう。九具楽はそう確信した。
「……どちらへ?」
判りきった事を尋ねる彼に、背中を向けたまま千禍は短く答えた。
「すぐ戻る」


場面は変わって、ここは深い森の中である。
粗末な山小屋の中に一人横たわる美しい娘は、退屈そうに天井を見上げていた。
屋根にぽっかりと開いた穴から、冷たい空気が流れ込んでくる。寝台の上でごろごろしながら、内梨は溜め息を漏らした。
「暇だわ……」
いつも遊び相手になってくれる妖鬼たちは、人間を狩りに街へ降りていってしまった。内梨は寂しく留守番である。
不細工は三日で何とやら、ではないが、面食いな彼女もようやく彼らとの生活に慣れ始めていた。
力は戻った。九具楽によって切断された髪も、既に元の長さに生え揃っていた。
あとは機会を見て彼女───くどいようだが正確には『彼』である───に会いに行くだけだ。
「でも、いざ会ったら何て言おう。この間は断られた、っていうか、殺されかけちゃったわけだし……」
そっと胸に触れる。千禍につけられた傷はとうに塞がったものの、彼女のことを思うたびに、この部分がどうしようもなく疼くのは何故か。
あの人の側にいたい。だが、どうやったらこの気持ちを判ってもらえるのだろう。どうしたら好きになってもらえるのだろう。
好かれる為の努力ならば、内梨は惜しまない。だからせめて、その手段を知りたい。
そんなことを考えながら転がっていた内梨は、やがて耳障りな音を聞いた。
トントントン。山小屋の古びた扉が、叩かれる。
「もしもし。誰かいるのかね?」
内梨が静養しているこの森には、人は滅多に訪れない。手入れの難しい草木が行く手を阻み、獰猛な獣や小鬼の類が頻繁に出没するため、誰も寄り付かなくなったと聞いた。
「もしもし、怪しいものではないよ。わたしゃ行商に来たんだ」
老婆の声だった。
内梨はますます訝しむ。年寄りが危険を冒して、こんなところまで何を売りに来たのだ。
「ここを開けておくれ。おいしい果物があるよ。採れたばかりの柘榴だよ」
その単語を聞いた途端、内梨の目が輝いた。
立ち上がり、小屋の扉を開けようとして、すんでのところで止まる。妖鬼たちから言い含められていた事を思い出したのだ。
『内梨様。我々が戻るまでは決して扉を開けてはいけませんよ』
『あなたを傷つけた柘榴の妖主が、再びあなたに危害を加えに来るやも知れません。その時は我々が体を張ってお守りしますから、それまでどうか安静に』
彼らのような雑魚が何匹集まったところで、盾になるとは思えなかったが、内梨にはその気持ちが嬉しかった。大して強くもないくせに、内梨を必死になって守ろうとする様子がいじらしかった。
「悪いけど、帰ってくれない?」
慎重に、声だけを投げかけた。ただの人間であれば、この扉を外側から開けることは出来ない。
けれど、人でなければ───。

「つれない子だね」
不意に、うら若い女性の声が聞こえた。
鳥肌の立つほど魅惑的なその声は、初めて聞くものだというのに何故か懐かしさを覚える。
内梨の内側に畏怖が生まれた。もしや、と淡い期待が芽生える。
震える手で、扉の取っ手に手をかけた。少しだけ開いたその隙間から見えたのは、長い深紅の髪。
───深紅の。
認めた瞬間、反射的に扉を開いていた。
「我が君っ!!」

扉の向こうに立っていたのは、老婆ではなかった。
右手に柘榴の詰まった籠を下げ、もう片方の手を腰に当てて不敵に微笑んでいるのは、確かに焦がれ続けた深紅の美女の姿だった。
内梨は満面の笑顔を浮かべて、両腕をいっぱいに広げた。
「やっぱり……やっぱりあたしのこと迎えに来てくださったんですね!嬉しいっ」
抱きつこうとしたが、ひょいと躱される。たたらを踏む内梨を見下ろして、美女は長い髪を鬱陶しそうにかきあげた。
「勘違いをおしでないよ。わたしはね、まだお前を認めたわけじゃないんだ」
その言葉に、内梨は微笑んだ。
「はい。認めてくださるまであたし、あきらめません」
「そういう事を言ってるんじゃない」
美女はきつい調子で言った。
「おれを認めていないのは、お前の方だろう?」
内梨は眉を潜めた。嫌われるのが恐いので口には出さなかったが、この美しい女性が男性のように乱暴な言葉を使うのはいやだった。その表情を見て取って、千禍は溜め息をついた。
「どうしてもと言うのなら、これを食べてご覧」
今度は女性の声だった。彼女が籠から取り出した一個の柘榴を、内梨はまじまじと見た。
艶やかな赤い果実。千禍は何を試そうとしているのだろうか。
「これを?」
「ああ、お食べ」
手の中に転がされた柘榴に、別段変化はない。促されるまま、内梨はそっと歯を立てる。
奥歯で果肉を潰すと、舌先に甘い香りが広がった。独特の酸味とともに喉に滑り込んできたのは果汁だけではない。紅い霧のようなものが、鼻孔から侵入してくる。
異変を感じたのは、嚥下してすぐのことだった。
「あっ。いや……何」
吐き出そうとした時には、遅かった。
眩暈を感じ、内梨はその場に倒れ伏した。

唇に甘い感触。
触れた部分から吐息が流れ込み、内側から癒されるのを感じる。温かく、そして乾いた頬が自分のきめの細かい肌とこすれあって、くすぐったい。
少し浮いたかと思うと、再びくわえ込むように重ねられる接吻。薄く目を開けると、深紅の髪が鼻先にかかっていた。
それを認め、内梨はつい甘えた声を漏らした。
「ん……我が君……」
げしっ!!
頭を張り倒され、その衝撃で目が覚めた。
勢いで坂を転がっていきそうになった内梨は、大地に爪を立ててしっかりと体を支える。
顔を上げると、すぐ目前に美しい青年がいた。
「気がついたんならそう言え」
辛辣な口調は、初めて聞くものではない。深紅の髪と瞳にも見覚えがある。
ただひとつ、そして最大の違いは、『男性』であるということだけだ。
秀麗な顔は、しかしどこか悪戯っ子の雰囲気を漂わせており、本来ならば完璧であるはずの美貌をやや崩した感のあるものにしている。その形の良い唇を見てから、思わず自らの口元に手を当てた。
「あ、あなた、一体だれっ?い、い、いま、あたしになにっ……」
青ざめて辺りを見回しながら、内梨はいつの間にか草の上に寝転がされているのに気がついた。七体の妖鬼が、心配そうに彼女の周りを取り囲んでいる。
その中心にいて内梨と向かい合っているのは、見たこともない美貌の青年で……しかも彼は内梨の唇を奪っておきながら、いけしゃあしゃあと言ってのけたのだ。
「ああ、初めてだったのか。そいつは悪かったな」
怒りと屈辱に、内梨の肩が震えた。
力任せに青年の頬を張り倒す。
恐れを知らぬ内梨の行動に、妖鬼たちは息を詰めた。彼女は乱れた髪を直すこともせず、拳を握ったまま青年を睨みつけていた。
青年はそれで怒るどころか、愉しげに彼女の手首を掴んで引き寄せる。
「いい度胸だ。おまけにあの毒霧を吸って、もうそんなに動けるとはな」
「ひどい……ひどいわ」
内梨は呻いた。
「初めては絶対、我が君とって決めてたのにっ!」
ひときわ高く叫んで、内梨は走り出した。恐るべき回復力である。
意表をつく行動に、青年はしばらく唖然としていたが、やがて自ら内梨の後を追った。
「おい、待て!」
林の中を二つの影が駆け抜けていく。青年の足は速く、内梨はさほどの距離を走ることもなく追いつかれてしまった。
腕を掴まれ、強引に抱きすくめられる。彼女は暴れたが、力ではとても叶わない。
「離して。あなたなんか大っ嫌い!」
それは嘘だ、と自分でも思う。本当に逃げたいのならば人間の娘のように走ったりはせず、姿を消せばよかった。足で逃げることを選んだのは、青年が追ってきてくれることを望んでいたからだ。
「内梨」
抱きしめる、力強い腕。
姿が、そして声の質が違っても内梨には判る。これは柘榴の妖主。自分が初めて恋した、ひと。
「おれが誰だかわかってるんだろう?」
内梨が暴れるのをやめたので、青年は尋ねる。ふくれっつらの彼女を腕の中から離すと、親指で自分を指し示した。
「こっちが本来の姿だ。……で、どうすんだ。おれのもんになるのか、ならんのか」
柘榴の妖主の口調も雰囲気も、以前に出会った時よりは格段に柔らかくなっていた。内梨の存在を次第に興味の対象として捉え始めているからだろう。それはそれで嬉しいが、彼女がどうしても惹かれてやまないのはあの深紅の女性だ。この青年では、ない。
そっぽを向いたまま、内梨は返事もしなかった。

「本当に面白い奴だよ、お前は」
青年は笑ったようだった。
「九具楽には感謝せねばならんな。あの時、殺さずにおいて正解だった。女の配下なんぞ持つ気はなかったが、お前だけは例外として認めてやってもいい」
そのまま、すっと手を差し伸べる。
「茶番は終わりだ。……おれが欲しいだろう?」
出された手を、内梨は取らなかった。
「おい」
苛立ちを含んだ声が聞こえる。それでも、頑として首を横に振る。
「あたしが従うと決めた方は『あの方』だけです。あなたじゃない」
言い切り、内梨は胸の前で両手を組み合わせた。背後で千禍が盛大な溜め息をつき、ぐしゃぐしゃと髪をかき回しているのが判る。
「わからんな。外見を変えても、おれがおれであることには変わりないだろうが」
「いいえ」
「そんなに男が嫌か」
「はい」
青年は再び息を吐いた。
「おれは別に、お前が男でも女でも構わない。お前は違うのか?」
どきりとした。
本当は嬉しくてたまらないくせに、意地を張っている心を見透かされた気がした。
「わ、我が君……」
青年に向かって、呟く。それを受けて千禍は微笑んだ。
「九具楽や他の連中は反対するだろうが、そんなことはおれの知ったこっちゃないんだ。おれはお前の意思の強さを買ってやりたい」
内梨の胸は熱くなった。そこまで熱心に口説いてくれるのなら、この胸を貫かれた甲斐があったと言うものだ。
青年はもう一度手を差し伸べる。
「来い、内梨」
「我が君!」
内梨は腕を伸ばして抱きついた。
「そんなに、そんなにまであたしのことを──」
青年の手が少女の髪を撫でる。
「判ってくれたようだな」
「ええ、ですから」
内梨は千禍を見上げ、にっこり笑った。
「ですから早く女性の姿に戻って下さい、我が君」

「………………………………………………………………」
たっぷり数十秒間の沈黙の後、千禍は内梨の頭を無言で踏みつけた。
「……貴様、今まで何を聞いてた?」
「ですから」
額から血をだらだら流しながらも内梨は笑っている。かなり不気味だ。
「早く女性の姿に戻……」
「だまれ」
低く言うと、千禍は彼女の体を放り投げた。
「もう少し利口な奴だと思ってたがな」
内梨は笑みを崩さない。
「あたしが愚かに見えるのでしたら、その愚か者にどうかお情けを。今一度女性の姿にお戻り下さい」
青年は不快げに眉を潜めた。
「そんなに殺されたいか」
「我が君は先程、あたしの意志の強さを買って下さるとおっしゃいました」
内梨は満面に笑みを浮かべる。
「だからあたし、自分を曲げないことにしたんです。例え我が君が相手であっても」
その言葉を聞いて、千禍は実に間の抜けた表情をした。脅しも通じず、にこやかに笑っている相手を見て、やがてがっくりと肩を落とす。
「ったく……」
呟いて、青年は顔を片手で覆った。そのまま天を仰ぐ。もう片方の手は内梨の傷ついた額に当てられていた。
流し込まれた力によって、傷は癒える。
「お前のような娘は初めてだよ」
わずかに苦笑めいた呟きの後、青年の姿が揺らめいて変化した。

深紅の髪は一瞬にして背中まで伸び、逞しい胸は豊かに膨らんだ形を作り、まさに内梨が恋焦がれた美女の姿に変化していく。
「我が君!」
今度こそ、内梨は縋りついた。求めていたのはこの姿、形だ。精神の力が外見に直接影響を及ぼす魔性の世界において、唯一絶対の力に溢れた女性。
「我が君……我が君!!」
ひたすらに呼んで、そのふくよかな胸の中に顔を埋める。もう二度と離れる気はなかった。
腕の中の娘を見下ろし、千禍は静かに告げる。
「よくお聞き、内梨。お前だけ特別扱いとなると、他の連中が黙っちゃいないよ。うちは過激なのが多いから、しばらくは奴らの非難の的になるだろう。それでもいいんだね?」
内梨は何度も何度も頷いた。
「構いません。我が君のお側にいられるのなら……!」

背後に、幾つもの気配を感じた。振り返れば七体の妖鬼たちが、心配そうに事の成り行きを見守っていた。
「みんな、世話になったわね。あたしはこの人とお城に行くわ」
内梨が別れを告げると、妖鬼たちが跪く。
「お幸せに、内梨様」
「名残惜しゅうございますが……たまには遊びにきて下さいませ」
「ええ。あなたたちも元気で」
大勢の祝福に包まれて、内梨は千禍に抱きかかえられ、森を去った。

「どういう事ですか、千禍。わたしはともかく、他の者が納得しますまいぞ!」
予想に反して、内梨を連れて帰ってきた主人に、九具楽は食ってかかった。
女千禍は内梨を背後に隠しながら、目を細める。
「『わたしはともかく』?」
「あ……」
「そうかい、お前もこの子を気に入っていたんだね」
「だっ、断じてそのようなことは!」
慌てて否定するが千禍は聞いていない。内梨の体を九具楽に押し付け、
「ならばお前、他の連中からこの子を庇ってやっておくれ。四六時中わたしが見ているわけにはいかないからね」
「我が君っ、あたし嫌ですっ。こんな変態の世話になるなんて」
「なっ……命の恩人に何と言う口のききよう!」
「何よ、我が君の男の姿の方が好きだなんて、完璧変態じゃない」
「あなたこそ女が好きだなどと気色の悪い!」
「まだあんたのこと許したわけじゃないからね。髪の毛返してよっ」
「あれは桜妃に与えた!欲しければ勝手に取り返すがいい」
「ふーんいっちょまえに女の恋人がいたんだ。あんたって両刀使いなのねー……やっぱり変態じゃないのっ!」


こうして、内梨は柘榴の女王の城で、末永く幸せに暮らすことになったのだった。




──おわり──


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