※チェリクの過去編が出る前に書いた話です 転移門の前まで来ると、険しい顔をした親友が待ち構えていた。 「執務を放り出してどこへお出掛けですの、城長さま?」 やや刺のある友の口調に、チェリクは悪怯れもせず肩を竦めた。 「つくづく信用がないのね、あたしって」 監視の目を盗んでちょくちょく浮城の外へ出ている事は、護り手たちに堅く口止めしてある。 彼らはチェリクの魅了眼に心酔しているので、逆らえるはずもない。 しかし、相手が人間であれば話は別だ。 特にこの生真面目で勘の鋭い女性を騙し切る事は、城長であるチェリクにとっても至難の業だった。 「三人の長に頼まれたのよ。近頃あなたの様子が変だから、それとなく探ってくれって。そうしたら案の定、これだもの……」 マンスラムは額を押さえ、深くため息をついた。 「お願いだから軽率な行動は慎んで頂戴。あなたを有能な城長だと信じている、浮城の民の心を裏切らないで」 実際、チェリクは有能だった。先代亡き後、上層部が手間取っていた数々の難題を片っ端から片付けていった。 首相の弱味を掴んで多額の寄付を要請する等、悪どい手口も使ったようだが、そのくらいの強かさがなければ独立組織の長は勤まらない。 だがマンスラムが案じているのは、そういう表層的な事ではないだろう、と思う。 自分の性格はよく分かっている。 気性が激しく、情に流されやすく、後先を考えずに行動してしまう。今まではそれが良い結果を生んでいたが、これからもそうであるとは限らない。 他にもっと穏当な方法があるだろうに、常に危険な橋を渡って行こうとするチェリクの姿を、マンスラムは昔から見ており、そして心から案じてくれているらしかった。 「……でも、それは」 あくまで城長としてのチェリクを案じているのであって、彼女自身を気遣っているのではない。 「チェリク?」 何か言い掛けてやめた友に、マンスラムが怪訝な顔をする。 「何でもないわ」 チェリクは長い黒髪を後ろに払った。 丁寧に櫛をいれた髪と、普段はあまりしない化粧。それらをつぶさに観察して、マンスラムの顔は更に険しくなる。 「魔王のところに行くのね?」 チェリクは、答えないことで肯定に変えた。黙ったまま、ゆっくりと親友の前を通過し、門をくぐろうとする。 その腕が素早く掴まれた。 「行かせないわ。あなたは自分の立場が判っているの?」 チェリクは首だけ振り返り、優雅に微笑んだ。 「もちろん、判っているわ。私は浮城の長」 「だったら!」 マンスラムはなおも腕を締め上げてくる。その白い両手に、そっと自分の手を添えてみた。そして言った。 「だからこそ、私は私の務めを果たすのよ。魔性に関する情報は、多いに越した事はないでしょう?」 マンスラムはぽかんと口を開けた。思ってもみなかったことを言われたらしい。 そのさまにチェリクは苦笑する。笑いながら、親友の額をつついた。 「なあに、あなたまさか、あたしが本気であの男に惚れているとでも思ったの?」 「それは……だって……」 困惑したような声とともに、マンスラムの腕が緩む。 「妖主にお目にかかれる人間なんて、滅多にいないのよ。この機会を利用しない手はないわ」 解放された腕を大きく横に広げ、チェリクはあくまでも強気に言い切る。 「でも……」 「完全に魅縛するのは無理でも、浮城にとって有益な情報を引き出す事は出来るはず。そうでしょう旺李?」 誰も居ないはずの背後に向かって声を飛ばす。 落ち着いた女性の声がそれに答えた。 『ええ』 チェリクが浮城入りして以来、ずっと彼女を見守り続けている護り手の女性は、静かに二人の前に姿を現した。 「確かに、チェリクの魅了眼には類い稀な力が秘められているわ」 旺李は主の方を見ながら淡々と告げた。 「今のあなたなら、妖主と対等に渡り合うこともあるいは可能……」 「旺李」 マンスラムが眉根を寄せる。 「あなたは、チェリクを過大評価しているのではない?そうやって甘やかすから、この子がますます」 その隙にチェリクは素早く命じた。 「門を護りし者供よ……我は城長チェリク。そちらの力を以て我の心身を損なう事なく希望の地へ速やかに運び給え」 「待ちなさい」 慌てたマンスラムが彼女の背中に腕を伸ばす。だが、届かない。 城長の命令に忠実な護り手たちの手によって、転移門は既に開かれていた。 浮城の人間が放つ特有の波動を読み込み、紛れもなく城長本人である事を確認した上で、転移は開始される。青白い光がチェリクの全身を包み込んだ。旺李に押し止められているマンスラムの必死な姿が、その光越しに見える。 「大丈夫よ。門限までには戻って来るから」 チェリクはまだ何か喚いている友人に明るく微笑みかけた。いつも心配ばかりかけて済まないとは思うけれど、正直に言ってマンスラムの困った顔を見るのは割と楽しかった。 それは、母親の愛情を確かめる為に、わざと悪戯な行動に出る子供の心理に似ているかも知れない。 チェリクの両親は彼女が幼い時に亡くなった。甘えたい盛りの時期に、彼女は自立を余儀なくされた。同じ年頃の子供と比べて大人びた言動と、誰の目にもそうと映る美貌のせいで、周囲からはいつも浮き上がっていた。 浮城入りが決まった時も、友人が出来る事など端から期待していなかった。皆はチェリクの美貌を恐れ、誰も話しかけようとはしなかった……そう、マンスラム以外は。 容姿にも能力にも全く問題はないが、性格だけは少々ずれている自覚の或る自分が、今の地位を得る事が出来たのは、マンスラムの存在があったからだと思う。 精神面を常に支えてくれる友がいるから、チェリクは政務に集中していられた。だから、彼女を裏切るような事だけは絶対にすまい、とチェリクは心に誓っていた。 まさかその誓いを破る日が来ようとは、夢にも思わなかった。 肌に触れる空気が変化したのが判り、チェリクは閉じていた瞼を開いた。 国境付近にある門のうちの一つに出た。初めてあの男と出会ったのは、この国で一番高い山の麓だった。 確か、某国で会談が行われた後、帰途に着く最中のことだった。馬車が丘の上で脱輪してしまい、しかも、車輪に亀裂が入って使い物にならなくなってしまった。 荷物を大量に積んでいる──浮城の皆への土産だ──ので、馬車を押していくわけにも捨てていくわけにもいかず、困り果てていた所にあの美貌の男が現れたのだ。 蜂蜜を陽光で溶いたような神々しい金色の髪、上品で柔らかい輪郭を描く口元。 一目で魔性と判る姿をしているくせに、男はチェリクたちに何の危害も加えなかった。立往生している馬車を見ても何も行動は起こさなかった。 ただ、その美しい金色の瞳を見開き、じっと丘の上に立つチェリクを見つめていた。 彼女の方も、何も言えなかった。美しい男性だとは思ったけれど、その時はまだ、それだけだった。 街へ交換用の車輪を買いに行っていた従者たちが戻ってきた。城長が魔性の男と見つめ合っているのを見て、彼らの間に緊張が走った。 先にチェリクが目を逸らした。男を無視して、車輪の取り付けを始めた。 やがて馬車は動きだした。御者がしきりに鞭を打っていた。かつてない速度で馬車は進んだ。一目散に逃げ出す、という表現が相応しかった。 馬車の窓から男を見た。男はまだしつこくこちらを見ていた。 同乗していた長たちから、しきりに心配された。大丈夫だったのか、怪我はないか。あれは上級魔性だから関わらない方がいい。 しかし、チェリクは気付いていた。男の瞳に浮かんでいたのは、明らかに驚愕の色だった。 彼女の何に驚いたのかは判らない。けれど、それならば勝機はある、と思った。 彼女は昔から負けず嫌いだった。お前に出来るはずがない、と言われると、逆にやる気になってしまうのである。 今回の事も同じだった。これまで妖貴以上の魔性を魅縛した者はいないのだと、長たちは言う。 ならば自分がその第一号になってやろうではないか。 チェリクは帳面を破き、素早く筆記した。紙を羽の形に折り畳んで、なるべく遠くまで飛ぶようにした。 馬車の窓から身を乗り出し男に向かってそれを投げる。恐怖よりも好奇心が勝っていた。我ながら大胆な行動に出ている。 紙で作った羽は、男の足元に落ちた。男がそれを拾ったかどうかまでは、見届ける事が出来なかった。馬車は丘を下り、男の姿も見えなくなってしまった。 チェリクが飛ばした紙きれには、こう書かれてあった。 『一月後、同じ時、同じ場所で』 若気の至りというべきである。慢心していたのかも知れない。自分に魅縛出来ない魔性などないのだと、心の奥底ではおそらく思っていた。 浮城に帰った後で、案の定、三人の長たちに叱られた。迂闊な行動をするな、もう自分一人の体ではないのだから、等々。 頭にきたので厨房から酒を盗みだし、マンスラムの部屋で愚痴りまくった。だが、酔った勢いで魔王を見たことまで話してしまったのは失敗だった。 マンスラムは勘が鋭い。チェリクが魔王に対して特別な感情を抱いている事に、本人よりも先に気付き始めていた。 制止はされた。それを振り切ってチェリクは今ここにいる。 過去に上級魔性と遭遇した者が書き残した文献を漁り、自分がまみえたのは間違いなく金の妖主と呼ばれる存在である事が判った。 全ての魔性の頂点に立つ者。その力の程を想像しただけでチェリクの体は震えた。 とんでもない事をしてしまったと思ったが、今更後戻りはきかない。 チェリクは、目立つ美貌をベールで隠し、街中で馬車に乗った。走りだす馬車の窓から、目的の山を見上げた。魔王は来るだろうか。 否、来てもらわねば困る。この日のために予定をあけておいたのだ。 だが、あのメモを読んだか否かを確認していない。読んでいたとしても人間からの誘いに乗るような性格かどうかが判らない。 だからこれは一種の賭けだった。不思議と気分が高揚している。 浮城を抜け出した事の後ろめたさよりも、魔王に再会出来るかも知れないという興奮の度合いが強い。 若かったのだ。毎日の単調な生活の中に、刺激が欲しかった。どれだけ恐ろしい事をしているかなど、到底、自覚はなかった。 馬車は山の麓で止まった。 チェリクはここからは歩いていくと言い、銀貨を支払った。 丘までの道順は覚えている。それでも木に印を付けながら慎重に山を登っていった。 「チェリク、本当に行くつもりなの?」 耳元で護り手の女性の声がした。マンスラムを説得した後、急いで追いかけてきたらしい。 「もちろんよ。あたしが一度言い出したら聞かない性格なのは、判っているでしょう」 そう言って笑うチェリクに、旺李は肩を落とした。 「そうね。でも、約束して。危なくなったらすぐ逃げるのよ」 旺李の口調に引っ掛かるものを感じて、チェリクは眉を潜める。 まるで、魔王が来ていることを確信しているような口振りではないか。むしろ、来ていない確率の方が高いと思うが……。 彼女の思いに気付いてか、旺李はため息をついた。 「忘れているようだけど、あの場所には私もいたのよ。あの方があなたの投げた文を拾うのも、きちんと見届けたわ」 「本当?」 チェリクの声は弾んだ。それに対し、旺李の声は重々しい。 「あの方のお考えは、私なぞには理解が及ばないものだけれど……読み終えた後、しばらくあなたが消えた方角を見ていらしたわ。何だか私、とても嫌な予感がするの」 こういう時の護り手の勘は外れることがない。チェリクは思案した。 「なら、引き返しましょうか?今ならまだ間に合うわよ」 しかし旺李の声は硬い。 「いいえ、もう間に合わないわ。あなたとあの方が出会ってしまったのがそもそもの間違い」 間違いと決め付けられて、チェリクはむっとした。だが何故そこでむっとするのか自分でも判らない。 「魔性は一度興味を持った対象を、そう簡単に見逃したりはしないの。あの方は、おそらく、あなたに……」 視界が急に明るくなった。 木立を抜け、ようやく目的の丘に辿りついたのだ。 一月前馬車が通った場所は真新しく舗装されていた。城長を乗せた車がここで事故を起こした事を、誰かが地主に報告したのだろう。あまり気分のいいものではない。 チェリクは丘の頂上に向かってゆっくりと歩きだした。谷の底から冷たい風が吹いてくる。高い柵があるので落ちる心配はない。 魔王の気配は感じられない。傍にあった木の幹に背中を預けて、目を伏せた。 旺李に時刻を尋ねた。とうに過ぎている。 沈黙が降りた。 男は来ない。もう少し待ったら帰りましょう、と旺李が言った。その安堵に満ちた表情を忌ま忌ましく思った。 チェリクはその美貌と体質ゆえ、魔性以外の誰からも忌避されていた。それが浮城に来てからは仲間を得、友を得……城長にまで上り詰めた。 今の自分があるのは運が味方してくれたからに他ならない。浮城の皆から母と慕われるような、幾歳月を経ても思い出してもらえるような、そういう長になりたいと決意したのだ。 ふと自問する。 今、自分のしている事は何なのだろう。 興味本位で魔性にちょっかいを出して、自分の実力を試そうなどと、これでは昨日今日浮城に入った新人と何ら変わりないではないか。 あの時から、チェリクは何も成長していない。賢くはなったかも知れないが、精神は未熟なままだった。 変化が欲しかった。何か、胸を熱くさせるような情熱が。 「旺李……」 チェリクは少し離れたところに立っている護り手を見つめた。 「帰りましょうか」 旺李は複雑な表情で主人を見ていた。チェリクは幹から背中を離した。 「そんな顔しないで。別に今の仕事に不満があるわけではないの」 何を期待していたのか。 あの蜜色の男が何かを与えてくれるとでも思ったのか。 視線が交わった時、チェリクの心に生まれたのは恐怖ではない。疑問だった。 何故、あんな驚いたような目で見つめるのか。 何故言葉を発しなかったのか。 幾つもの疑問が、「何故」が、埃のように積もってチェリクの胸を苦しくさせる。 あの男が隠している答えを引きずりだして安心したかった。 「知らぬな」 体温をまるで感じさせない、怜悧な声が響いたのはその刹那───。 チェリクは思わず声のした方角を見た。動悸が激しくなるのが判った。 風景は今までと変わりないが、空気の色が明らかに変化した。 「き……金の……」 護り手の女性がかすかに呻く。 チェリクからも、旺李からも離れた、ちょうど三角になる地点に人影が現れていた。 否、人ではない。人が持つ美しさではありえない。 金色の長い髪は、風になびくこともなく、真っすぐに背に流れている。不気味なほどに整った顔の中、ひときわ映える黄金の瞳。それが今、チェリクの体を射ぬくように見つめている。目が合った瞬間、体に異物を流し込まれたように強烈な痺れが走った。 妖主という生きものは、眼差しだけで他人を殺めることが可能なものか。チェリクは歯を食い縛り、必死に男を睨み返した。 黄金の強い光。引きずられる。そこには憎悪も怒りもなく、ただ無感動な凝視があるだけだ。それでいてこの引力。その力の正体を、チェリクは知っていた。 魅了眼、というのだ。有無を言わさず相手を魅了し、従わす力。彼女も同じものを持っているが、質も威力もまるで違う。 目眩がする。立っていられない。膝から崩れ落ちそうになるチェリクを辛うじて留めたのは、意外にも男の声だった。 「知らぬな。これほど無礼な呼び出しをする輩など、私は知らぬ」 外見そのままの、覚めた声で男は言い、足音ひとつたてずにこちらに歩み寄ってくる。 今更ながら、恐怖に身が凍った。彫りの深い造形が間近に迫る。 男はチェリクを黙って見下ろしていた。 緊張に唇が乾いてくる。夢ではないのだ。書物の中にさえ滅多に姿を現すことのなかった金の妖主が、今こうして目の前にいる。 臆する心を抑えつけながら、チェリクは口を開いた。 「ぶ……無礼は、お互いさまでしょう?」 声がうわずってしまう。だが、男は笑ったりはしなかった。 「女を長時間待たせておいて、謝罪の言葉もなしなんて。妖主の男はみんなそうなのかしら?」 背後で旺李が青ざめたのが判った。 チェリクは男から目を逸らさなかった。逃げてたまるか、と思った。何の為に過密な予定を空けてまでここに来たと思っているのだ。 妖主と接触する機会など滅多にない。チェリクは、城長としてやるべき事をしているだけだ。 「それで……」 男は彼女の挑発を軽く受け流した。 「私に何の用があるというのだ、人間の娘。このまま無事に帰れるとでも……?」 金の瞳の奥に、残酷な光が揺らめいた。 人を殺す事は妖主にとっては、羽虫を踏み潰すほどに容易なこと。 場合によっては即座に首をへし折られてもおかしくはない状況で、チェリクは気丈に言い返した。 「あら、用があるのはあなたの方ではなかったの?一ヵ月前、この丘で会った時。あたしの事を熱心に見つめていたでしょう」 もちろん、本気で言ったわけではない。 幼い頃から自分の美貌に自信はあったが、この男の魔性の美しさの前には、あまりにも無力だ。 判っていて、相手の反応を見たくて言ったのだ。 しかし、男は無言のまま俯いた。 チェリクは眉を潜め、返答を待った。 男は何も言わない。気まずい沈黙だけが流れていく。 チェリクの頬は次第に赤らんできた。 何故だ。 何故、何も言い返さないのだ。 それではまるで、肯定と受け取られても仕方ない……。 鼓動の音が変化していく。先程までの張り詰めた緊張から、心地よい緊張へ。 チェリクの内側で何かが息づき始めていた。 もっと、この男が知りたい。 そう思うことが危険なのか、それとも浮城の発展のために喜ばしいことなのか、それすらも判らずに。 チェリクは今、見えない糸に操られるかのように、魔性の男に手を伸ばす。 「何故黙っているの。言ってくれなければ、判らないわ」 指先で。豊かな金髪の一房に触れた瞬間、彼の驚きが伝わってきた。 身を引くことはしない。ただ驚愕に満ちた瞳で、そう、あの時と同じようにチェリクを見つめている。 「……お前は」 苦々しい声が唇から洩れた。妖主にこんな顔をさせているのが自分だという実感は、まるでなかった。 「離せ」 髪を掴んだままでいるチェリクに対して、男が初めて感情を顕にした。 「いや」 離したら男が逃げてしまう。根拠もなくそう思った。 男の手が、チェリクの腕を掴む。 痛くはない。 魔性のくせに紳士的な男だ。彼女に痛みを感じさせぬよう、指を一本ずつ丁寧にはがしていく。 チェリクは駄々をこねるように叫んだ。 「いや!」 何が嫌なのか。頭の隅で、冷静にそう考えている自分がいる。 男の指で触れられるのが嫌なのか。 否。 男に拒否されるのが嫌なのだと、ようやく気付いた。 自分を見つめる金色の瞳。何を映しているのか、本当はあの時から、ずっと気になっていた。 あんな雑な走り書きを本気にして、会いに来てくれたのが嬉しかった。 マンスラムに言った事は建前だ。チェリクはただ、男の真意を確かめたかっただけだ。 何故、あたしを見つめていたの? 髪の滑らかな感触が愛しかった。もっと、もっと、触れていたい。 切なさに顔が歪む。こんな女の顔は、彼はきっと、もう何度も見てきたに違いない。 指の最後の一本が髪から離れた時、男が言った。 「離さぬ」 ひどく切ない、声だった。 のろのろと顔を上げたチェリクの目に、困ったような顔をしている妖主の姿が映った。 チェリクの手を堅く握り、幼い子に言いきかせるように続ける。 「離さぬから……そのような辛そうな顔をするな。頼む」 息を飲んだ。 妖主が心配そうな顔で、言葉をかけている。魔性の天敵たる浮城の長に対して。 この時、彼女は城長ではなかった。少なくともこの男は、城長としてではなく一人の女としてチェリクを見ていた。 「あなたは……」 最後に《お前》と呼ばれたのは、いつだったか。 今、チェリクをそんな言葉で示す者は浮城にはいない。最も親しい友ですら、あなたという呼称を崩さない。 何と心地よい事だろう。この男に呼ばれるのは。 「あなたは……」 期待を、言葉にしてはいけない。 これまで築き上げてきた地位、大切な親友との絆が壊れてしまう。 理性が告げていた。一刻も早くこの男から離れるべきだ。 けれど、もう、とうに手遅れだったのかも知れない。瞳と瞳が合った時から、運命の歯車は廻り始めていたのだ。 「あなたは……あたしが好きね?」 そう。それだけを確認したくて、チェリクはここに居る。 男の瞳に動揺が浮かんだ。何も映すことのなかった虚ろな目に、戸惑いや、憎悪や、拒絶、焦燥といった様々な感情が交錯するのが見えた。 しかしそれも一瞬のこと。 やがて、絞りだすような声で男は言った。 「……ああ」 腕を引かれ、強く抱き締められる。チェリクは抵抗しなかった。 男の腕が優雅に、彼女の黒髪を梳く。その胸の中で大きく息を吸い、吐いた。 言葉は要らない。ふたり、同じ気持ちでいるのだと判っただけで。 男の体は温かい。魔性とは思えぬ穏やかな仕草で、細い指先がゆっくりと髪を撫でていく。 抱き合うことは、別に初めてではなかったけれど。こんなにも心が安らぐものだとは知らなかった。浮城にいる若い男性たちとはあまりにも違う。女性に対して貪欲なところがなく、むしろ乾いている。 「ねえ……」 知りたい。もっともっと深く、この金色の光に溶けていきたい。 「あなたの名前を、教えて」 言った瞬間、男の手の動きが止まった。 チェリクは不安になって男を見る。だが、迎えたのは優しい目だった。 唇が開く。 「私の名は……」 「チェリク!」 背後で名前を呼ばれ、チェリクは弾かれたように顔を上げた。 旺李がいた。蒼白な顔で二人を見ている。 チェリクの頭にぼんやりと思考が戻ってくる。 旺李。誰だったかしら? ああ、そう。あたしの護り手。 浮城。 そして、チェリクは『城長』だった。 気付いた瞬間、かっと頬に朱が昇る。 反射的に男を押し退けた。 「や、やめて!」 男の傷ついたような顔を見たくなかった。今、自分がしていた行動を振り返り、段々と事の恐ろしさに気付いてきた。 女である以前に、城長なのだ、自分は。妖主と心を通わせることなど、絶対に許されない。 浮城で彼女の帰りを待っているであろうマンスラムの顔。 口うるさい三人の長。 城長さまと慕ってくれる護り手たち。 帰るべき場所がチェリクにはあるのだ。 「どうした?」 男が問い掛けてくる。チェリクは後ずさりした。 「どうした。なぜ逃げる」 男は無理に捕まえようとはせず、重ねて聞いてくる。その優しさが、切なくてたまらなかった。 「……ごめんなさい」 目を伏せ、呟くチェリクの頬に、一筋の涙が伝っていった。息を飲む男のその麗しい姿は、涙でぼやけてよく見えない。 「何故、泣く……?」 男はチェリクから目を逸らし、背後にいる旺李を見た。旺李は二人に近付くことも出来ず、ただ、必死に主人を呼び戻そうとしていた。 「チェリク、戻ってきて!あなたは私たちの主でしょう?」 金の妖主の顔が冷たく強ばる。 「……あの者のせいか」 旺李を見つめる視線に殺意が宿る。チェリクは慌てて男の腕を掴んだ。 「やめて、彼女は関係ないわ!」 悪いのは全て自分。妖主を魅了し、同時に魅了されてしまった自分なのだ。 「お前が迷っている理由があるのなら……」 男は淡々と言った。 「理由をひとつずつ消していけばいい。そうすればお前が迷う理由は、なくなる」 チェリクは涙を溜めたまま、男を睨みつけた。 「そうね。でもそんな事をしたら、あたしはあなたを憎むわ。二度と会わないし、口もきいてやらない!」 その言葉は果たしてどれほどの威力を持つものか。絶句した男に背中を向けて、チェリクは走りだした。 「……さよなら」 追い掛けてくるのは旺李だけだった。 振り向くと、丘の頂上に男が茫然としながら立っているのが見えた。 チェリクは再び前を向いた。正気にさせてくれた旺李に、心から感謝していた。 「大嫌いよ、あんなやつ」 丘を駆け降り、茂みを掻き分けて走る。木々の梢が頬を叩き、涙を払っていく。 止めなければきっとあの男は旺李を殺すつもりでいた。チェリクを手に入れるために邪魔な存在を、ひとつずつ排除していく気だったのだ。 「大嫌い……あんなやつ大嫌い!」 もう振り返ることはしない。また会えたとしても、口などきいてやるものか。 「チェリク……」 心配そうな護り手の声に、彼女は涙を拭って微笑んだ。 「大丈夫よ。あの男の好きにはさせないわ」 旺李の瞳は、チェリク以上に悲痛な色をたたえていた。 「でも、あなたは、あの方が……」 皆まで聞かず、チェリクは空を見上げた。 同じ青空の上で暮らしている浮城の民を思った。これから自分が取るべき行動を思った。 「有力な情報は得られなかったけれど……まあ仕方ないわね。命があっただけでもよしとしましょう」 チェリクは無理やり笑顔を作った。 今まで数々の魔性を魅了してきた極上の笑顔だ。 「浮城に帰りましょう、旺李。マンスラムが心配しているわ」 それが答え。 主人の気持ちを察し、旺李は深く頷いた。 皆に心配をかけてはいけない。マンスラムを裏切ることはしたくはない。けれど、もし再びあの男が自分の前に現れたら。 その時チェリクは、今のように毅然として拒絶出来るだろうか。自信はなかった。あの寂しげな光を宿した瞳で見つめられて、拒む事は出来るだろうか。 胸にこびり付いた不安を払い、チェリクは早足で丘を下る。 「……大嫌いよ、あんな男」 金の妖主との始まりの、この丘を。 ──おわり── 戻る [*前] | [次#] ページ: TOPへ |