書庫 人殺しの末路3


ラエスリールが軟禁されてから、一カ月が経っていた。
彼女に冷淡だった砂色の髪の女性は、もう来なくなった。話しかけても無視されたり、ぞんざいな態度を取られるよりは、その方がラエスリールにとっても気が楽だった。
しかし、その代わりとして若い男性がやって来たのには、さすがに驚いた。
「悪いな。前の女が、もうあんたの世話はしたくないと言い放ったもんだからな」
布団をあげさせてもらうぞ、と言いながら、背の高い青年は平然とラエスリールの寝所を整え始めた。
寝所だけではない、脱ぎ捨ててある服も改められる。いくら新入りとは言え、この扱いは酷過ぎる。もう六十八の女なのだから、羞恥心など感じないはずと思われたのだろうか。
ラエスリールは唇を噛む。青年とて、好きでもない女性の身の回りの世話など、したくもないだろう。上に命じられていやいや来たのだろうし、別に彼が悪いわけではないが……。
そこまで嫌われる道理が、ラエスリールにはどうしてもわからなかった。妖主を倒した功労者として、ちやほやされたかったわけではない。ただ、浮城には特殊な人間が多いと聞いていたから、やっと対等に扱ってもらえると期待していたのは確かだ。
それが蓋を開けてみれば、罪人とさほど変わらぬ扱い──いつまでこんな状況が続くのだろう。
不満が顔に出ていたのか、青年はわずかに苦笑した。
「まあ仕方ないな……。他に、誰もこの役目を引き受けたがらなかったんだから」
その言葉は、ラエスリールの溜まっていた鬱憤を爆発させるのに充分だった。
「どうして!?私が一体何をしたって言うのよ!!」
たまりかねて叫ぶと、青年は大きな瞳を軽く瞬いた。
「へえ。確かに、全く似ていないな」
「……何の事?」
「そのまんまの意味だよ。お前さんは、ラエスリールに全く似ていない」
意味は掴めなかったが、口調は穏やかで。
この青年の態度には、あの女性のような悪意は感じなかった。だからラエスリールは慎重に口を開いた。
「ラエスリール……って、あの有名な破妖剣士でしょう?城長にも聞いたわ、私がたまたま同じ名前だから、不快に思う人間もいるって。でも、だからってこんな苛めみたいなことされる覚えはないんだけど!」
「苛めね」
青年は肩をすくめ、ラエスリールに向き直った。
「違うよ、おれたちはあんたを守ろうとしてるんだ。ほとぼりが醒めるまでここにいてもらうしかない」
「何のために?」
「ラエスリールの事が大好きだった連中が、万が一、あんたに襲いかかって殺してしまわないように」
背筋に悪寒が走った。
最初に挨拶した際の、浮城の住人達の冷たい態度──あれが殺意?
「そんな……名前が同じだってだけで、どうしてそんな目に遭わなければいけないの!?わかったわ、そんなに言うなら私、改名するわ。それで満足なんでしょう?」
青年は静かにかぶりを振った。
「名前の問題じゃない、行為の問題だ。あんたはラエスリールを殺した。証拠はないが、あんたの自白は浮城の民全員が知るところだ」
またしても、意味不明な言葉の羅列。
ラエスリールを殺したとはどういうことだ。ラエスリールは必死で頭を巡らせた。名前の問題ではなく、行為の問題?ラエスリールが冷たくされるのは名前のせいではなく、他に原因があると言うのか?
「どういうこと?私はラエスリールで、こうして生きてるのに、ラエスリールを殺したって……破妖剣士のラエスリールさんの事を言ってるの?私が殺したのは柘榴の妖主とその奥さんで……え?」

不意に、全てが腑に落ちた。
顔色を失っているラエスリールに、青年がこくりと頷いた。

「あんたが殺したのは多分、『元』破妖剣士のラエスリールだ。柘榴の妖主と一緒にいたのなら、ほぼ間違いない」





破妖刀『紅蓮姫』を操り、多くの人々を救ったとされる『元』破妖剣士のラエスリールが、実は魔性と通じており、その魔性と手に手を取って駆け落ちとは──しかも、子供まで拵えていたとは。醜聞どころの騒ぎではない。
青年が言うには、ラエスリールは生前からその性格に問題があり、周囲から咎められることも多かった。それでも彼女が残した功績は大きく、また彼女の取り巻きたちに実力者が多く、問題を起こすたびに庇うため、表立って処分は出来なかったらしい。
何より、ラエスリールは城長の養女であった。

「……気分が悪い!」
食堂で射殺すような視線を受けながら、ラエスリールはパンを頬張った。
わざと、周りの人間に聞こえるように叫んでしまった。ようやく謹慎がとけたはいいが、浮城の住人は彼女に対する態度を変えない。
青年の口から全てを聞いても、ラエスリールは自分が間違った事をしているとは思えなかった。いくら紅蓮姫の使い手が優秀だったとはいえ、それだけで魔性と通じ、子まで成した罪が許されるとは思えなかったからだ。
何より、あの時のラエスリールの残した『かわいそう』という言葉が、未だに胸の奥にわだかまっている。
同情や悔恨をする気にはなれない。あの女性は死ぬべくして死に、殺されるべくして殺されたのだ。
「気分が悪いのはこっちよ」
そんなラエスリールに、金色の髪の美少女が近づいてきた。
見たこともないほどの美貌にラエスリールは息を飲んだが、その美少女はあの砂色の髪の女性と同じ目をしていた。己の考えに固執し、他者を排除する目である。
「城長さまは何を考えているのかしら。こんなことになって、いちばん辛いのは城長さまでしょうに、どうして名前が同じだからって、引き取ったりしたのかしら」
すれ違いざまにそう吐き捨てて、料理の乗った盆を持って去っていく。
──必要なのは破妖刀だけで、あなたは要らないのよ。
そう告げられているような気がして、ラエスリールは思わず立ち上がった。
「私は何も悪い事はしてない。復讐をしただけなのに、どうして責められないといけないの!」
苛めに屈しない気の強いラエスリールの声は、食堂全体に響き渡った。
ぱち、ぱち、ぱち。
意外にも、いくつかの拍手が聞こえて来た。驚いて周囲を見回すと、捕縛師たちの何名かが、こちらに向かって近づいてきていた。
その中には、身の回りの世話をしてくれるあの青年もいた。何となく気分がこそばゆくなり、ラエスリールは俯いた。
「その娘の言う通りだぞ、お嬢さん。何も知らない娘を集団で無視したり暴言を吐いたりするのは、見ていて気分がいいもんじゃない」
「ラスを殺した人と、笑顔で会話しろって言うの!?出来るわけないわ!」
金色の髪の美少女が噛みつくのに、青年はふと真顔になった。
「……お前さんたちが、それを言うのか。人と交わらぬラエスリールを庇い立てして、さらなる罪を招いたこと、忘れたのか」
「ラスのせいじゃないわ!人殺しはこの娘よ!」
改めて突きつけられる事実が、ラエスリールの心に罅を入れた。そんな事を言われる筋合いはない。
柘榴の妖主の所為で路頭に迷い、体は売っても人命を侵す事だけはしまいと誓っていたのに、魔性とつながっていた女を斬ったら、今度はこちらが人殺し呼ばわりされるのか。
では、魔性に害されても復讐など考えず、引きこもっているのが善なのか。傷つけられても反撃してはいけない、そんな世迷言を口にするのが、よりにもよって魔性討伐組織の人間だとは……!
「リーヴシェラン、やめなさいな。その子は何も知らなかったんだから」
騒ぎを聞きつけて、砂色の髪の女性が歩み寄って来た。だが、目の前で傷つけられたラエスリールを決して見ていない。リーヴシェランと呼ばれた美少女の心の内側だけを、気にしているようだった。
知らなかったんだから、という言い方に微妙な棘を感じる。苛められているのはこちらなのに、まるでこちらが悪いかのような。
絶望に、鼻の内側がつんと痛くなる。食べるものにも困り、辛い放浪の旅を続けている間にも、この少女は浮城で姫のような暮らしをしていたに違いない。そんな少女にこの辛さを説いても、無駄だろう。
瞳に塩水が溢れてくる。食堂中の人間の視線が突き刺さる。長い旅の果て、ようやく見つけた居場所は、彼女にとって心地よい場所ではなかった。
出ていくほかはないのだろうか。もういやだ、一人には戻りたくない。
「う……く……」
情けないが、涙が零れて来た。
ラエスリールが泣きだすに至って、リーヴシェランは今までの勢いが嘘のように沈黙した。弱者になられては分が悪いらしい。
青年が、そっと背後からラエスリールの肩に手を置いた。直接触れられるのは初めてだった。痛みを知る者の手だ、と反射的に感じた。
「何度も言うが、ラエスリールを殺したってのはあくまでもこの娘が言ってる事で、証拠なんて何もないんだぞ。そういうの、なんて言うか知ってるか」

冤罪、というんだ。

二人の女性は息を飲んだ。それを横目で見やり、青年はラエスリールの手を引いて歩き出した。
見た目は少女でも、実際には六十過ぎの高齢であることは前もって説明したが、それでも青年の態度は変わらなかった。
背後で、他の捕縛師たちが女性二人に苦言を呈しているのが見えた。どうやら、同情してくれるまともな人物も少しはいるらしい。彼女はほっと息をついた。
「あの、どうして私を庇ってくれるの……?」
紅蓮姫の使い手のラエスリールを庇っていたのは、捕縛師や魅縛師として優秀な人物が多かったのだと言う。彼らに喧嘩を売っては、青年の立場が悪くなるのではないだろうか。
青年は「気にしなくていい」と笑った。
「それに、友達がいないのはお互い様だ。何しろラエスリール絡みの事件で、破妖剣士の友達を二人……いや、三人ほど亡くしてるんでね。これ以上破妖剣士は減って欲しくない」
明るい口調だったが、その瞳に宿った暗い影に、ラエスリールは胸を突かれた。
彼も、魔性に傷つけられた被害者の一人なのだ。それなのに恨み言一つ言わず、前に進もうとしている。
同じ名前であるラエスリールに、偏見なく接してくれる。
「……私、やっぱり改名するわ。あなたのためにも」
自分が悪いわけではないが、ラエスリールと言う名前を口にするたびにあの人たちに文句を言われてはたまらないし、青年も傷つけたくはない。
気にしない振りをしてくれても、気になっているには違いないのだ。第一、単純に紛らわしいではないか。
「そうか?別に、あんな連中に屈することはないんだぞ」
「平気。どのみち成長が始まったから今までの自分ではいられないし、名前を変えることに抵抗はないわ」
「好きにすればいい。ただ、スラヴィエーラって名前だけはやめてくれよ」
気が強くて頑固な女でさ、と呟く青年の顔が、少年のように綻ぶ。
失った今もどこかで生きているような気がしてならないほど、存在感の強い破妖剣士だったらしい。
恋人だったのかも知れない。彼の表情を見ていて何となくそう思った。




「リロウズ?」
「……はい。昔の友人の名前から取りました。リロウズ・フェーレン。聖なる盾、という意味です」
城長マンスラムの前で、ラエスリール改めリロウズは背筋を伸ばした。改名の報告に来たのだ。
青年からあの話を聞かされて以来、リロウズは城長に対する態度を改めた。同じ名前の死した養女に、自分を重ね合わせているのがわかったからだ。
冗談ではなかった。養女の仇と知って受け入れてくれた事には、さすが城長の器を感じるが、だからと言って死んだラエスリールの代わりになるつもりは、リロウズにはないのだ。
もう、同情も憎しみもいらない。いつまでもラエスリールの亡霊に捕らわれているのは御免だ。
私はこれから、新しい人生を生きるのだから。
「そう……。いい名前ね。あなたによく似合っているわ」
未だ喪った者の影を追いかけているマンスラムは、虚ろな表情でそう告げた。
妙に勝ち誇ったような気分になり、リロウズは「失礼します」と部屋を退室した。


禊は済んだ。今後はこの破妖刀『闇月輪』を使って、破妖剣士として出世していく。そうしてこの世界で、自分のような悲しい孤児が二度と現れないよう闘い続けるのだ。
「……見ててね、リロ。父さん母さん」
そして、柘榴の妖主とラエスリール……。
悪に歪み人々を蹂躙してきたあなたたちの分まで、私は生きて見せる。
窓から差し込む月光を浴びて、壁に立てかけた『闇月輪』が怪しく光った。
うとうととまどろむリロウズは、いつしか夢を見ていた。
黒い髪の女性が、深紅の男とまぐわっていた。声を押し殺すようにして寝台の敷布を掴み、その美しい顔を快感に歪ませている。
リロウズは、『闇月輪』を手に二人に近づいた。何も、夢の中でまでこんな不快な光景を見せることもないのに。
消してしまおう。一度殺したのだ、二度も三度も同じこと。振り上げた刃は、今度は青年によって阻まれた。
驚きに目を見開くリロウズに、柘榴の妖主はにやりと笑った。
『これを待ってたんだ』

「いやっ……!」
リロは跳ね起きた。
心臓がばくばくと波打ち、呼吸をするのも辛かった。
夢の続きは、そこにはない。だが自分の手にはいつの間にか『闇月輪』が握られていた。
その手に、リロウズは小さく悲鳴を上げる。皺だらけで染みの多い、紛れもない六十代の手だった。
恐る恐る、部屋の姿見に視線を映す。そこには、六十も半ばを過ぎた老婆の姿が映っていた。
「───あ、ああああ、あああ!」
絶叫が喉から迸る。隣室の住人が、苛立たしげにドンと壁を叩いた。
リロウズはそれどころではなかった。寝台から転がり落ち、何度も何度も、そのくすんで荒れた肌を撫でつける。
柘榴の妖主を殺したことで、リロウズの止まった時間は再び動き出した。だが半世紀の時間は、確実に彼女の体を老化させていたのだ。
これではもう破妖刀は振るえない。いずれは結婚も視野に入れていたのにそれも出来ない。浮城を追われ、再び一人ぼっちで生きていかなければならない……!
「どうして!?どうして、私ばかりがこんな目に」
どんなに嘆いても、動き出した時間は止まらない。
親切にしてくれた浮城の人々とて、リロが老婆になったことを知ったらきっと掌を返す。戦えない人間、魅力のない女に世間は冷たい。
何より、あの青年に、今の自分のこんな姿を見せたくはなかった。
床を這いながら、リロウズは小さく呻きを漏らした。涙がとめどなく溢れて、止まらない。
やっと人並みの幸せが得られると思ったのに、ガンダル神はとことんリロウズが嫌いらしい。神に見放された事を、今度こそ実感した。もうこんな思いをしてまで、生きていたくはない。
「もう……いい……もう……」

──助けてやろうか。
不意に、聞き覚えのある声が体内から聞こえて来た。

「ひ……!」
忘れるはずもない、あの忌まわしい声。聞いただけで鳥肌が立つような。

老いさらばえて萎びた胸の谷間に、腫れ物のような深紅の瞳が瞬いた。
いつの間に、こんなものが。恐怖に震える心を悟られまいと、リロウズは破妖刀を握る手に力を込めた。

──助けてやろうか、と言っている。その代わり、お前の体を寄越せ。
その瞳は狼狽するリロウズを嘲笑うように語りかけてくる。
柘榴の妖主は、リロウズの体内で生きていたのか。
否、最初から、おかしいとは思っていた。妖主があっさり人間の小娘などに殺されるはずがなかった。
魔性は人間の慟哭を糧とする。今まで姿を現さなかったのは、リロウズが再び希望を抱いて歩き始めるのを、ほくそ笑みながら待っていたからだとでもいうのか。

この男は……どこまで……!!

恐怖を憎しみが上回った。リロウズは『闇月輪』を両の手に持ち、未だ体内に巣くう柘榴の妖主に向かって刃を向けた。 
「おのれ……一度ならず、二度までも!今度こそ、二度と復活できないようにしてやる!!」
──いいのか?おれを殺したらお前も死ぬぞ。

髪を振り乱した老婆が、自らの胸に破妖刀を突き立てる。
魔性の高笑いが寝室にこだました。血飛沫が飛び、老婆はくぐもった呻きを上げて寝台に崩れ落ちた。
稚い少女の、悲しみに彩られた人生がここに終わり、そして始まった。





「……ん」
ついばむような口づけに、ラエスリールは目を細めた。
見た目よりもずっと柔らかい唇が、彼女のそれを覆い、時に軽く甘噛みする。
黒衣の袖から覗く青年の腕が、ラエスリールの細身の体を優しく抱き締めた。続いて、その手が腹部から腰を伝い、背中から胸へと伸びる。
「こ、こら、闇主!昼間から──」
抗議の声はすぐに封じられた。舌を絡める激しい口づけの合間に、青年は愉しげにラエスリールの胸の突起を摘まんだ。
「やだなぁ、ラス。おれは新しい体の使い心地を試してあげてるんじゃない」
からかう口ぶりに、ラエスリールの顔が真っ赤に染まる。
「それを口実に好き放題してるだけじゃないか!もう触るのはいいから、夕飯の支度を──」
「え、触るだけじゃなくて本番をして欲しいって?もう、しょうがないなー」
「人の話を聞けっ!イリアも見ているんだぞ!」
二人の愛児はまだ幼く、夫婦の間に何が行われているのかわかっていない。短い手足を伸ばして、どうにか二人のいる寝台によじ登ろうとしている。
「おかあしゃま、イリアも。イリアもお父しゃまに抱っこ」
その無邪気な様子に、さすがの柘榴の妖主も苦笑する。諦めてラエスリールを離し、イリアを抱き上げた。
「よしよし。お前は本当にラスに似てるよ。誰も逆らえやしない……」
「そうだろうか……何かと理由を付けて体に触れようとしてくる所などは、お前にそっくりだがな」
はだけた胸元を正しながら、ラエスリールが悪態をつく。
だいたい、夫婦であるのに触れてくるのに理由などいるものか。そう続けたかったが、相手を図に乗らせるので言ってやらない。
ため息をついて、服装を直してから台所に立つ。慣れないせいか、まだ体のそこかしこに熱が残っているようだった。
先の闘いでぼろぼろになった彼女の肉体は、他の魔性と比べて著しく再生能力が遅かった。それ故、定期的に魂を新しい器に宿さねばならない。
父である王蜜の妖主も、伴侶が老いることを恐れてチェリクのための器を作っていた。だが、それに魂を移し替えることをチェリクは望まなかった。
それは、母が元々人間であったからだ。ラエスリールは違う。誰もが気付かなかっただけで、心臓を二つ持つ魔性であった。
だから──彼女は選んだのだ。永遠の命を、闇主とともにあることを。
浮城の仲間との別離は辛かったが、彼女は何よりも大切なただ一人の存在を、選び取ったのだ。
包丁を手に山菜を刻む。
ふと、ラエスリールの瞳から涙が溢れだした。
「あ……?」
山菜に含まれる辛み成分の所為かと思ったが、水で洗っても止まらない。
異変に気付いたイリアが、すぐさま父親の腕から降りて走り寄って来た。
「おかあしゃま、泣かないで。おかあしゃま」
「大丈夫、だ」
答えながらも、ラエスリールは激しい胸の痛みを感じていた。
器は、闇主が手ずから用意してくれる。苦労して作ってるんだよ、と言う夫の言葉に、ラエスリールは何ら疑問を抱かなかった。

──人殺し!

ふと、若い女性の声が聞こえた様な気がして、ラエスリールは窓から家の外に視線をやった。しかし、こんな辺鄙な山奥で暮らしている人間など誰もいない。
「なあ闇主……この身体は今度は、いつまで持つだろうか」
以前の肉体は確か、闇主に襲いかかって来た少女の手によって壊されてしまったのだ。肉体的には死んでしまったため前後の記憶が曖昧だが、あれは少女の完全な逆恨みだと闇主は言い、少女は浮城に引き取られて息災に暮らしているらしい。
「んー、五十年くらいかな。今のおれたちには、大した時間じゃないけどね。器候補はいくつか考えてあるから、心配しなくていいよん」
ラエスリールに刃を向けた人間を生かしておくとは、柘榴の妖主も随分と丸くなったものだ。自分が傍にいる所為かも知れないと、ラエスリールは誇らしい気持ちになった。
「すまない。苦労をかける」
ラエスリールは微笑み、そっと涙を拭った。
料理を作る──大事な家族のための料理を。この平凡な幸せこそが、ラエスリールがずっと望んでいたものだ。

──人殺し、化け物!私の、私の体を返して!!

少女の慟哭は、魔性のモノには決して届かない。
悲劇は回り続ける。
世界を救った女性は今、世界を巣食う平凡な女性となり、永遠の人生を謳歌していた。




──おわり──



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