浦島太郎は、ちょっぴり女顔の漁師だった。 今日も一日の漁を終えて浜辺を歩いていると、どこからか、大きな歓声が聞こえてきた。 「そーらそら。そらっ」 太郎は少し先の波打ち際を見た。 近所の子供たちが、何かを取り囲んで楽しそうな声を上げているのを見つけた。 「そら、早く顔を出せっての!」 痩せた白い髪の子供が、棒切れで『何か』をつついた。ころんと音を立てて、黒い岩のような物が転がった。 嫌な予感がしたので、太郎は少し顔をしかめてそちらに近づいた。 「まだるっこしい、こんなもんさっさと踏んづけちまえばいいだろうが」 赤い髪の子供が足を上げて、黒い物体を踏みつけようとしている。 単なる岩に、子供が関心を示すはずがない。 よく見ればそれは、まだ小さな亀だった。海に帰ろうとしていたところを、運悪く悪餓鬼どもに見つかってしまったのだろう。 「やめろーっ!」 慌てて駆け寄った太郎は、子供たちを一喝する。 「生き物には、命があるんだぞ!!」 当たり前である。 「何だよ、女顔の太郎。お楽しみの邪魔すんなよ」 「そうだそうだ。引っ込め」 子供たちにからかわれて、太郎は激怒した。 「女顔と言うな!!」 しかし、いかんせん、可愛らしい顔立ちなので迫力に欠けた。 得意の平手打ちをかまそうとしたが、子供たちはひょいひょいとかわす。 「やーいやーい、のろまー」 はやしたてながら、赤い髪の子供が石を拾った。 「だいたいお前は生意気なんだよ、新キャラの分際で。これでも……」 太郎ははっとして、腰に括りつけてあった杖を抜き取った。 「くらえ!」 石が投げつけられた瞬間、素早く杖を構える太郎。 「螺旋杖っ」 カキーン。 振り子打法が効果を発揮した。 跳ね返った小石は見事に赤い髪の子供に……ではなくて、その盾にされた痩せた子供の額に命中した。 「いってえええ!!」 「ちくしょう、覚えてろよー」 二人の子供は、台本通りの棒読み台詞を残し、走り去っていった。 「ふう……近頃の子供は、扱いにくいな」 人のことは言えない浦島太郎は、螺旋杖を腰に収めて溜め息をついた。 ふと、波に打たれている甲羅を見つめる。気のせいか、それは僅かに震えているようにも見えた。 「かわいそうに。海に返してやろう」 屈みこみ、甲羅に触れた途端、それはぴくぴくっと動いた。 今度は気のせいなどではない。思わず手を放すと、甲羅に開いた穴から、何か白いものが生えてきた。 それは亀ではない、間違いなく、人間の子供の手足だった。 「んしょ、っと」 あどけない声とともに、頭部が出る。 現れたのは、見るも鮮やかな金髪の、美少年だった。 「うわあっ」 太郎は驚いて腰を抜かす。 亀の甲羅を背負った子供は、きらきらした瞳を太郎に向けて、微笑んだ。 「助けてくれてありがとう、太郎兄ちゃん!!」 「ど、どういたしまして……」 状況を把握できていない太郎は、砂に尻餅をついた姿勢のまま、力なく微笑んだ。 それから、はたと気づく。 「え、どうしておれの名前を……」 美しい子供は、鼻の下をこすった。 「兄ちゃんって漁師だろう?時々、沖で見かけるよ。前から仲良くなりたいって思ってたんだっ」 「……なぜ?」 太郎は少し警戒して尋ねた。 この容姿のせいで何度か痛い思いをしたことのある彼は、初対面の相手に簡単に心を許すことが出来なかった。例え、それが子供であっても、だ。 「太郎兄ちゃんは、必要以上に魚を獲ったりしないし、海を汚さないし、生き物を大切にしてくれてる。見ていて、それがわかるんだ」 満面の笑顔で言われて、太郎は顔を背けた。 「……そうか」 とりあえず、容姿関連の話ではなくて、ほっとする。 しかし、その無邪気な言葉は、太郎の良心を痛ませた。遠い、遠い過去の記憶を、甦らせてしまう。 「兄ちゃん?」 子供が、不思議そうに覗き込んでくる。 「いや……なんでもない。それより君、本当に亀なのか」 「うん。あっ、おれ、濫花っていうんだっ」 亀は人懐っこく笑うと、太郎の腕を引いた。 「あのさ、助けてくれたお礼がしたいんだ。よかったら竜宮城においでよ」 太郎は首を横に振った。 「悪いけれど、知らない人の屋敷にお邪魔するわけにはいかないよ。夕飯も作らなきゃいけないし、それじゃ……」 亀はその足にかじりついた。 「待ってよ。乙姫さまに会わせてあげるから!」 「乙姫?」 「すごく綺麗で、海のことなら何でも知ってるんだよ」 前半の台詞は聞き流したが、後半は聞き捨てならなかった。 「海のことなら、何でも?」 太郎の声が震える。 それなら、もしかしたら……あるいは。 「行く気になった?」 太郎は少しためらった後、無言で頷いた。 亀の背中にまたがって、甲羅の上に両手を置いた。 「いくよー」 能天気な声に、太郎は急に不安になった。 「あの、まさか、水中で溺れるなんてことはないだろう?」 濫花は明るく笑った。 「あはは、まさかー」 亀は海の中に潜って行った。 思わず目を閉じたが、息はちゃんとできる。肌に触れる海水の温度は、陸上の空気と変わらない。 目を開けると、色とりどりの魚が動いている。時折、水底から真珠のような泡が幾つも湧き上がって、太郎の体の脇を通り過ぎていった。 絹のように滑らかな感触の海流が、頬を優しく撫でていく。陸の上ではごつごつした印象のある岩も、水中では磨かれた宝石のようで、紅色の珊瑚には空から太陽の光が差し込んで、淡く輝いていた。 海の中がこんなに綺麗だったとは、知らなかった。 うっとりした太郎だったが、次の瞬間、亀が言った。 「もうちょっと深く潜るね」 体に、急激な負荷がかかるのを感じた。がくん、と腰がずり落ちるような感覚。 次いで、肩の上辺りで、何かが外れるような音がした。 「ぐっ!!」 苦痛の声を漏らすが、亀の耳には入っていないらしい。どんどん下へ、下へ進んで行く。 「ちょ、ちょっと、ま……て」 どこまで潜る気だろうか。 関節がぎしぎしと軋み、耳鳴りがして、頭が痛い。四肢が思うように動かせなくなってきた。 「はい、もっと深くなるよー」 蒼い水底が目前まで迫る。恐怖に目を見開いたとき、ぼきっ、と音を立てて、背骨が折れた。 「うわああああ!!」 目が覚めると、豪華な照明がぶらさがった天井が見えた。 「気がついたか」 硬い、女性の声が聞こえる。 太郎は、手を動かした。柔らかい毛布らしきものが、触れた。 「ここは……?」 首が痛く、相手の顔を見ることが出来ない。四苦八苦していると、静かな足音がして、美しい女性の顔が視界におさまった。 目の前に、歩いて来てくれたらしい。 黒い髪と、染みひとつない象牙の肌。裾の長い、豪華な衣装をまとって、首には貝の首飾り。 「ここは、竜宮城だ。私は乙姫という。すまなかった、濫花が粗相をしてしまったようで……」 身を動かそうとして、太郎は苦痛に呻いた。乙姫が慌てて止める。 「じっとしていろ。全身の骨が折れているんだ……寝ていれば治るよう術をかけたから、心配するな」 しばらくして、寝室の扉が開いた。 「兄ちゃん起きたんだって?」 飛び込んできた亀は半泣きになりながら、太郎の寝ている布団の周囲をぐるぐる回った。 「死なないで太郎兄ちゃん。死なないで」 乙姫は患者の額に手をあてて、亀を叱りつけた。 「静かにしろ、濫花。ちゃんと治るから」 「ほんと?ぐすっ……」 「わたしが教えた通りにしないから、いけないんだ。彼は、もう少しで水圧に潰されてしまうところだったんだぞ」 話を聞きつつ、太郎は怒りに震えていた。やはり、来なければ良かった、こんな所。 乙姫の不思議な術と薬が効いて、太郎は無事回復した。 亀はひたすら謝ってきたが、死の一歩手前まで追い詰められた太郎は、とうてい許す気になれなかった。 恩を仇で返されるとはこのことである。 その後、お詫びと称して、塩分過多の食事が振舞われ、鯛やヒラメの舞い踊りを強制的に見せられた。 伸びきったワカメを口にくわえながら、太郎は早めに家に帰ろうと決意した。 魚のダンスなど眺めている暇があったら、家でタイタニックのDVDでも観ていたほうが良い。 「乙姫様、おれはそろそろ帰りますので……」 「えっ、まってよ兄ちゃん!これからまだクラゲの電撃ショーと、クジラの潮吹き合戦があるんだよ!」 「一生やっていればいい。乙姫様、今すぐ陸に返してください」 うろたえる濫花をひと睨みすると、太郎は困った顔をしている乙姫に歩み寄った。 「それで、あなたにひとつ聞きたいことがあるのです。あなたは、海のことなら何でもご存知だそうですね」 「……ああ」 乙姫の顔が曇った。太郎は構わず続けた。 「おれの姉を……3年前に行方不明になった姉の行方を、知りませんか?」 3年前まで、年子の姉と一緒に漁をしていたが、その頃の彼女は男勝りで、太郎を困らせてばかりいたのだ。 「姉さん!小さい魚は獲っちゃ駄目だって、いつも言ってるだろ?」 「どうして、捕まえやすいわよ」 「この子が大きくなって、稚魚を産むまで待つんだ。海の恵みには限りがあるんだから、大事にしなきゃ」 「もう、太郎ったら口うるさいんだから」 しっかり者の太郎と違って、姉は悪戯っ子で、たまに他の漁師の獲った魚をくすねたりしていた。 そしてあの日。 いつものように二人で漁に出た時、嵐がやって来たのだ。 荒れる波に、舟は激しく揺れ始めた。逃げる間もなく、雨雲はまるで二人の舟だけを狙っているかのように、その頭上でむくむくと頭をもたげた。 降り注ぐ豪雨が全身を叩く。鉄の柄杓で打たれているような感触が、背中に、肩に容赦なく降り注ぐ。 「太郎!」 姉は舟の縁に捕まって、必死な声を上げた。なんとかそちらへ手を伸ばそうとするが、届かない。 いつもは狭苦しく感じる舟なのに、姉との距離がひどく遠い。指を伸ばしても、届かない。 「た……ろ……」 声が離れていった。 雨が目に入り、視界が飛沫で覆われた。唸る波が巨大な手のように舟を覆い、喉を塞ぐ。 冷え切った海水が体に痛かった。がむしゃらに手を動かすと、更に深く沈んでいく。 息が苦しい。酸素。酸素。酸素。 頭の中が真っ白になり、それしか考えられない。 転覆した舟が凶器となって、太郎の体を激しく突き上げた。波と、舟の両方から攻められ、体を丸めながらも、必死でその『凶器』を掴んだ。縋りつけるものはそれしかなかった。 砕かれた舟の欠片を、胸元に引き寄せた。 「助けて!」 姉が叫んだのが判った。波の間に、浮かんだり沈んだりしている頭が見える。太郎はそちらに近づこうとして、気づく。 今、しがみついているのは小さな木の板だ。これに姉の体重が加えられたら、2人とも沈んでしまう。 また大きな波が来た。姉は必死で波に乗り、泳いで太郎の所まで来た。 掴まれ、と、太郎は言えなかった。むしろ、必死の形相で近づいてくる姉から、逃げたのだ。 ───こっちへ来るな。おれを殺す気か。 死に対する恐怖が、彼の心を鬼へと変えた。姉を捨てて、独りだけ助かろうとしたのだった。 浜に打ち上げられた時、姉の姿は、もう、どこにもなかった。村人に介抱され、正気に戻った太郎の悲痛な叫びは、荒れ狂う波がかき消してしまった。 姉の亡骸は、とうとう見つからなかった。 「それ以来、おれはこれまで以上に、この海を、生き物たちを、大切にするよう努めてきました」 太郎は、過去の辛い思い出を、淡々と語る。 「そうすれば、おれの罪が許されて……いつか、いなくなった姉がひょっこり戻ってくるのではないかと思って……」 それからゆっくりと、大嫌いな自分の顔を指差した。 「姉は、おれと同じ顔をしています。ご存知ないですか」 乙姫は、じっと太郎の話を聞いていたが、やがて静かに首を横に振った。 「すまない。私には心当たりがないな……」 亀は、何故だか咎めるような視線を乙姫に送った。彼女は続けて言った。 「酷な話だが、海神に見初められた者は助からない。ましてや3年も前のことならば、亡骸さえも見つけることは難しいだろう」 太郎はがっくりと首をうなだれる。 「そう、ですか」 ならば、もうこんな所には用はない。彼は足元で縮こまっている亀に声をかけた。 「濫花、おれを地上まで送ってくれないか」 「う、うん……」 「待て、太郎」 乙姫が突然、改まった声で告げた。 「帰るのなら、これを持って行くんだ」 そう言って彼女が差し出したのは、漆塗りの重箱だった。 太郎は眉を潜めて問いかける。 「何ですか、これは」 「玉手箱だ。許してくれ、私の口からは、お前に真実を教えることは出来ない」 乙姫が何を言っているのか、太郎には判らなかった。ただ、彼女の色違いの神秘的な瞳と、その真摯な態度に押されて、その箱を受け取らざるを得なかった。 「もしもお前に、本当のことを受け止める勇気があるのなら、箱を開けるのもいいだろう。だが、今のお前は、絶対に開けてはいけない。いいな」 「……はあ」 太郎は困惑して、玉手箱と乙姫の顔を見比べた。 開けてもいいと言ったり、開けるなと言ったり、何なのだろう。 「では、お世話になりました」 再び亀の背中にまたがって、太郎はふわりと浮上した。 今度は体を潰されるのはごめんだからなと、亀にしっかりと釘を刺した。 「気をつけて帰るんだぞ」 乙姫は、哀れなものを見るような目で、彼を見送った。 その意味を太郎が知ったのは、陸に上がってからだった。 陸に上がると、そこにはどんよりとした空が広がっていた。 亀の背中から降りると、太郎は目を瞠った。 風景が先ほどまでと違う。 海に沿って点在していた小屋の数が、明らかに多い。それだけでなく、浜辺を行きかう人々は、太郎が見たこともない顔ばかりだった。 見知らぬ土地に来てしまったのだろうか。 いや、そんなはずはない。 乙姫は、無事に地上へ帰すと約束してくれたのだから。 「兄ちゃん、それじゃ、おれはこれで……」 背後で亀が呟いて、海に潜っていく。 太郎は、玉手箱を小脇に抱え、ゆっくりと歩き出した。足の裏に、固い小石が食い込んだ。 家の方角ははっきりと覚えている。太郎にとっては、まだ1日も経過していないのだ。 古びた小屋が見えてきた。今朝、出かけた時とは明らかに様子が違う。屋根には大きな穴が開き、雨漏りを塞ぐためか藁で塞いである。戸口にある傷を確かめて、これは間違いなく自分の家だ、と確信する。 戸は閉まっているが、中で人の気配がした。誰かが、家の中にいる。勝手に。 太郎はごくりと生唾を飲んだ。 扉に手をかけ、一気に開く。 「誰だっ!」 その声に、驚いたような顔で振り返ったのは、予想もしない人物だった。 薄汚い老人が、土間にうずくまって縄を編んでいる。開いたままの口からはところどころ欠けた黄色い歯が覗いていた。 老人は縄を置くと、ぼんやりした目で太郎を見つめた。 その瞳は、紫だった。柔らかそうな髪は、だいぶ薄くなってはいるが、かつてはまぶしい銀色であったと思われる。 「誰なんだ、あんた。おれの家で何してる!」 怒鳴りつけると、老人は困ったように首をかしげ、笑った。 「は、はあー。わしは、太郎ってもんですが……」 「何言ってるんだ、太郎はおれだ!!」 言い切った瞬間、老人の瞳に、淡い光が浮かんだ。 ゆっくりと、腰を上げて、太郎に近づいてくる。生臭い体臭に顔をしかめるが、老人は気にする様子もなく、じっと全身を眺めてきた。 やがて、その目が、大きく見開かれた。先程よりも更に驚いた顔になって、老人は皺だらけの両手を伸ばした。 太郎の頬を乱暴に掴む。濁った目で、その顔をじっくりと覗き込んだ。 「……姉さんじゃ」 声が、かすれている。身に覚えのない言葉に、太郎は身を捩った。 「な、何を言っているんだ、おれは太郎だ、男だ」 老人は聞いていなかった。半分呆けているのかも知れない、はらはらと涙を流しながら、太郎に抱きついてきた。 「おお、姉さんじゃ……姉さんが戻ってきてくれた。心配したんじゃよ。漁に出たきり、ずっと帰って来なかったから……」 何が何やら判らない。太郎はもがいた。 「は、離せ、人違いだっ」 どん、と老人を突き飛ばす。薄い身体は簡単に吹き飛び、土間に尻餅をついた。 少し哀れに思わないでもなかったが、太郎は助け起こすことはせず、きびすを返した。 小屋を出て、浜辺を走る。まさかあの老人が追いかけてくるとは思わなかったが、途中で何度も振り返った。 一体何がどうなっているのか。自分の家にいつの間にか別人が住んでいて、しかも太郎のことを『姉さん』と呼んだ。 確かに太郎には同じ顔の姉がいたが、あの老人とは無関係だ。誰と間違えたのだろう。 ──まてよ。 あの老人の瞳は何色だった。紫ではなかったか。 ここはどこだ。いや、いつだ? 海に入る前と今とで、時間の差があったとしたら。 「兄ちゃん、仕事終わったよー」 「やっとか。のろいんだよお前は」 2人連れの漁師が、縄を担いで歩いてくる。 太郎はのろのろと顔を上げ、そして息を呑んだ。 相手は中年とは言え立派な体つきをしており、太郎の記憶にある姿とはだいぶ違った。しかし、鮮やかな赤い髪と白い髪の組み合わせを、忘れるはずもない。 浜辺で亀をいじめていた、あの子供たちだ。 「あの時の……悪餓鬼ども……」 太郎は息を呑んだ。 間違いない、ここは未来の世界なのだ。 気づくや否や、慌てて駆け寄った。 「おい、そこの連中……じゃない、すみません、お二方!!」 相手が大人であることを思い出し、敬語に切り替えた。 2人の老人は、怪訝そうに太郎を見た。 「んー?誰だお前」 「どっかで見た気がするなあ。いつだったっけ」 太郎は胸を押さえ、ぜいぜいと息を切らしながら言った。 「あの……そこの小屋に暮らしている、おじいさんのことなんですが」 そこと言いながら、先ほどまでいた小屋の方向を指差す。 赤い髪の男が、ああ、と頷いた。 「浦島太郎のことだろう?そういやあ、あの爺の若いときによく似てるなあ。孫か何かか?まさかな」 太郎は固まった。 あの老人はやはり太郎と同じ名前を名乗っているのか──では、あれが、未来の太郎自身なのか。 ならば、同じ時代に、太郎が2人存在してしまうことになる。 「いえ……孫ではありませんが。『まさか』とは?」 震える声で、尋ねる。白い髪の男が、気の毒そうに言った。 「あの爺さん、ずっと独りだし子供もいないからなあ。孫なんているはずない、ってこった」 「ずっと……独り……」 「あいつ、若い頃、海で行方不明になったんだ。奇跡的に助かったらしいが、それ以来、ちょっと頭がおかしくなっちまったんだよ」 「え……?」 太郎の記憶に、引っかかる言葉だった。 あの時、海で行方不明になった姉───。 赤い髪の男が、鼻を鳴らす。 「姉は姉で、弟が波に攫われて何年かしてから、蒸発しちまったよ。弟が無事戻ってきたと知ったら、喜ぶだろうがな」 「うえー、帰ってこなくていいよ、あんな女。まじめな太郎と比べて、村人の評判すげえ悪かったじゃん」 「生きていても、今は婆さんだろうしな」 「おれはよーく覚えてるさ、なんせ、子供の頃、あの女に石をぶつけられたんだからな!!見ろよ、まだ痣が残ってるんだぜ」 そう言って、白い髪の男は額を隠す前髪を上げた。そこには、彼の言った通りに、小石大の痣が残っていた。 それをつけたのは、間違いなく太郎だ。しかし、この男は今、『あの女』と言わなかったか。 石をぶつけたのは太郎ではなかったのか。 いや、待て。 あの男が『太郎』だとしたら、おれは誰なんだ。 姉さんって、何だ。おれは男だぞ。 頭が混乱する。何が真実で何が嘘なのか、判らなくなった。 「あの時はおれたちもガキだったなー。亀をいじめたりしてたっけ」 「おれは記憶にないがな、そんな昔のことは」 「ひでー」 2人の男は、笑いながら立ち去った。 太郎は、青い顔をしたまま、砂浜に座り込んでいた。 膝の上には、乙姫から貰った玉手箱が乗っている。 ───もしもお前に、本当のことを受け止める勇気があるのなら、箱を開けるのもいいだろう。 彼女の言葉を思い出す。 勇気も何も、今の太郎には、これを開けるしか術がない。 先ほど、小屋の戸を開けた時の何十倍もの力を振り絞って、太郎は小箱の蓋にゆっくりと手をかけた。 隙間から、白い煙が漏れてくる。 それを吸い込んだ時、太郎は、これからの自分の運命を悟った気がした。もくもくと白い煙が立ち昇り、浜辺を満たした。 遠くから見ている人々は、きっと焚き火でもしているのだと思っただろう。 全身を、気だるい感覚が襲い、体重が支えきれなくなった。背骨に痛みが走る。 視界が急激に狭くなり、風景が、ぼんやりと白みがかって見える。 耳の穴を、何かが突き抜けていく音がする。寄せては返す波の音が、まるで薄い膜でも通しているように、妙に遠くに聞こえる。 身体の変調に気づいたのは、自らの指を動かしてからだった。節くれだった指を見つめ、その手を胸に押し当てた。 垂れ下がった細い乳房の感触に、悲鳴を上げる。何だ、これは。男に、こんなものはついていない。 玉手箱の蓋の裏には、鏡が張られていた。 そこに映っていたのは、齢80は超えていると思われる、醜い老婆だった。 銀色の髪はすっかり白くなり、歯は前歯を残して全てが欠けている。 「なんて、こった……」 く、く、と、低く笑う。 本当に、何と言うことだろう。女であったことを、たった今、思い出すとは。 あの日、波に攫われたのは、働き者の弟の方だったのだ。 『助けて、姉さん!!』 ──太郎は本当にいい子だねえ。それにくらべて姉さんは、あれじゃ嫁の貰い手もないよ。 村人たちの、そんな言葉が、きっかけだったのかも知れない。 悔しくて、悲しくて、だから、助かったのを幸いに、自分を太郎だと信じ込もうとしたのだ。 馬鹿げた話だ。 全ては、自分に都合のいい現実だった。 背後で、ぱしゃりと水音がした。 「迎えに来たよ、姉ちゃん」 振り返ればそこには、いつの間に現れたのか、亀がいた。 優しい口調で、太郎のことを『姉ちゃん』と、言った。最初から、太郎が女であることを知っていたのだろうか。 「姉ちゃんはもう、十分苦しんだんだよ。自分を偽らなくては、生きていけないほどに。だから、一緒に乙姫さまのところに行こう」 老婆は、力なく首を振った。 「いや……いい。これは、わたしの業だから……ね」 まるで別人のような声が、今の自分にはお似合いだった。着物の袖を破いて、老婆は緩慢な仕草で白髪を束ねる。 不可解そうな顔をする亀に、老婆は静かに、とても静かに告げた。 「わたしは、陸の上で生きる。太郎の世話をしながら、ここで一生を終える」 亀は目を見開いた。まさか、そんな言葉を聞かされるとは、思いもよらなかったのだろう。 「な、なんでっ?おれと竜宮城に行けば、一生幸せに暮らせるんだよ。そんな姿のままで、辛い思いしてまで、何で生きようと思うの?おれ、わかんないよ!」 乙姫の使いである亀は、泣き出しそうな声でそう叫んだ。この少年にとって陸地とは、ただ残酷で怖ろしい場所でしかないのだろう。 老婆は、玉手箱を亀に返すと、よろよろと立ち上がった。 「そう、お前たちには、きっと判らないだろうね……」 この姿になったら、急に気持ちが楽になった。他人に意地を張り続けていた自分が、急に馬鹿らしく思えてきた。 亀は、それ以上引き止めなかった。再び海中に沈んでいく。恐らく、もう二度と会うことはないだろう。 それを見届けると、老婆となった『偽者の』浦島太郎は、ゆっくりと歩き出す。 『本当の』浦島太郎が暮らしている、古びた小屋に向かって、歩き出す。 何十年も待たせた弟を、力いっぱい抱きしめてやるために。 戻る [*前] | [次#] ページ: TOPへ |