書庫 浦島太郎(トーン&ターラ←濫花)


浦島太郎は、ちょっぴり女顔の漁師だった。
今日も一日の漁を終えて浜辺を歩いていると、どこからか、大きな歓声が聞こえてきた。
「そーらそら。そらっ」
太郎は少し先の波打ち際を見た。
近所の子供たちが、何かを取り囲んで楽しそうな声を上げているのを見つけた。
「そら、早く顔を出せっての!」
痩せた白い髪の子供が、棒切れで『何か』をつついた。ころんと音を立てて、黒い岩のような物が転がった。
嫌な予感がしたので、太郎は少し顔をしかめてそちらに近づいた。
「まだるっこしい、こんなもんさっさと踏んづけちまえばいいだろうが」
赤い髪の子供が足を上げて、黒い物体を踏みつけようとしている。
単なる岩に、子供が関心を示すはずがない。
よく見ればそれは、まだ小さな亀だった。海に帰ろうとしていたところを、運悪く悪餓鬼どもに見つかってしまったのだろう。
「やめろーっ!」
慌てて駆け寄った太郎は、子供たちを一喝する。
「生き物には、命があるんだぞ!!」
当たり前である。
「何だよ、女顔の太郎。お楽しみの邪魔すんなよ」
「そうだそうだ。引っ込め」
子供たちにからかわれて、太郎は激怒した。
「女顔と言うな!!」
しかし、いかんせん、可愛らしい顔立ちなので迫力に欠けた。
得意の平手打ちをかまそうとしたが、子供たちはひょいひょいとかわす。
「やーいやーい、のろまー」
はやしたてながら、赤い髪の子供が石を拾った。
「だいたいお前は生意気なんだよ、新キャラの分際で。これでも……」
太郎ははっとして、腰に括りつけてあった杖を抜き取った。
「くらえ!」
石が投げつけられた瞬間、素早く杖を構える太郎。
「螺旋杖っ」
カキーン。
振り子打法が効果を発揮した。
跳ね返った小石は見事に赤い髪の子供に……ではなくて、その盾にされた痩せた子供の額に命中した。
「いってえええ!!」
「ちくしょう、覚えてろよー」
二人の子供は、台本通りの棒読み台詞を残し、走り去っていった。

「ふう……近頃の子供は、扱いにくいな」
人のことは言えない浦島太郎は、螺旋杖を腰に収めて溜め息をついた。



ふと、波に打たれている甲羅を見つめる。気のせいか、それは僅かに震えているようにも見えた。
「かわいそうに。海に返してやろう」
屈みこみ、甲羅に触れた途端、それはぴくぴくっと動いた。
今度は気のせいなどではない。思わず手を放すと、甲羅に開いた穴から、何か白いものが生えてきた。
それは亀ではない、間違いなく、人間の子供の手足だった。
「んしょ、っと」
あどけない声とともに、頭部が出る。
現れたのは、見るも鮮やかな金髪の、美少年だった。
「うわあっ」
太郎は驚いて腰を抜かす。
亀の甲羅を背負った子供は、きらきらした瞳を太郎に向けて、微笑んだ。
「助けてくれてありがとう、太郎兄ちゃん!!」
「ど、どういたしまして……」
状況を把握できていない太郎は、砂に尻餅をついた姿勢のまま、力なく微笑んだ。
それから、はたと気づく。
「え、どうしておれの名前を……」
美しい子供は、鼻の下をこすった。
「兄ちゃんって漁師だろう?時々、沖で見かけるよ。前から仲良くなりたいって思ってたんだっ」
「……なぜ?」
太郎は少し警戒して尋ねた。
この容姿のせいで何度か痛い思いをしたことのある彼は、初対面の相手に簡単に心を許すことが出来なかった。例え、それが子供であっても、だ。
「太郎兄ちゃんは、必要以上に魚を獲ったりしないし、海を汚さないし、生き物を大切にしてくれてる。見ていて、それがわかるんだ」
満面の笑顔で言われて、太郎は顔を背けた。
「……そうか」
とりあえず、容姿関連の話ではなくて、ほっとする。
しかし、その無邪気な言葉は、太郎の良心を痛ませた。遠い、遠い過去の記憶を、甦らせてしまう。
「兄ちゃん?」
子供が、不思議そうに覗き込んでくる。
「いや……なんでもない。それより君、本当に亀なのか」
「うん。あっ、おれ、濫花っていうんだっ」
亀は人懐っこく笑うと、太郎の腕を引いた。
「あのさ、助けてくれたお礼がしたいんだ。よかったら竜宮城においでよ」
太郎は首を横に振った。
「悪いけれど、知らない人の屋敷にお邪魔するわけにはいかないよ。夕飯も作らなきゃいけないし、それじゃ……」
亀はその足にかじりついた。
「待ってよ。乙姫さまに会わせてあげるから!」
「乙姫?」
「すごく綺麗で、海のことなら何でも知ってるんだよ」
前半の台詞は聞き流したが、後半は聞き捨てならなかった。
「海のことなら、何でも?」
太郎の声が震える。
それなら、もしかしたら……あるいは。
「行く気になった?」
太郎は少しためらった後、無言で頷いた。


亀の背中にまたがって、甲羅の上に両手を置いた。
「いくよー」
能天気な声に、太郎は急に不安になった。
「あの、まさか、水中で溺れるなんてことはないだろう?」
濫花は明るく笑った。
「あはは、まさかー」
亀は海の中に潜って行った。
思わず目を閉じたが、息はちゃんとできる。肌に触れる海水の温度は、陸上の空気と変わらない。
目を開けると、色とりどりの魚が動いている。時折、水底から真珠のような泡が幾つも湧き上がって、太郎の体の脇を通り過ぎていった。
絹のように滑らかな感触の海流が、頬を優しく撫でていく。陸の上ではごつごつした印象のある岩も、水中では磨かれた宝石のようで、紅色の珊瑚には空から太陽の光が差し込んで、淡く輝いていた。
海の中がこんなに綺麗だったとは、知らなかった。
うっとりした太郎だったが、次の瞬間、亀が言った。
「もうちょっと深く潜るね」
体に、急激な負荷がかかるのを感じた。がくん、と腰がずり落ちるような感覚。
次いで、肩の上辺りで、何かが外れるような音がした。
「ぐっ!!」
苦痛の声を漏らすが、亀の耳には入っていないらしい。どんどん下へ、下へ進んで行く。
「ちょ、ちょっと、ま……て」
どこまで潜る気だろうか。
関節がぎしぎしと軋み、耳鳴りがして、頭が痛い。四肢が思うように動かせなくなってきた。
「はい、もっと深くなるよー」
蒼い水底が目前まで迫る。恐怖に目を見開いたとき、ぼきっ、と音を立てて、背骨が折れた。
「うわああああ!!」




目が覚めると、豪華な照明がぶらさがった天井が見えた。
「気がついたか」
硬い、女性の声が聞こえる。
太郎は、手を動かした。柔らかい毛布らしきものが、触れた。
「ここは……?」
首が痛く、相手の顔を見ることが出来ない。四苦八苦していると、静かな足音がして、美しい女性の顔が視界におさまった。
目の前に、歩いて来てくれたらしい。
黒い髪と、染みひとつない象牙の肌。裾の長い、豪華な衣装をまとって、首には貝の首飾り。
「ここは、竜宮城だ。私は乙姫という。すまなかった、濫花が粗相をしてしまったようで……」
身を動かそうとして、太郎は苦痛に呻いた。乙姫が慌てて止める。
「じっとしていろ。全身の骨が折れているんだ……寝ていれば治るよう術をかけたから、心配するな」

しばらくして、寝室の扉が開いた。
「兄ちゃん起きたんだって?」
飛び込んできた亀は半泣きになりながら、太郎の寝ている布団の周囲をぐるぐる回った。
「死なないで太郎兄ちゃん。死なないで」
乙姫は患者の額に手をあてて、亀を叱りつけた。
「静かにしろ、濫花。ちゃんと治るから」
「ほんと?ぐすっ……」
「わたしが教えた通りにしないから、いけないんだ。彼は、もう少しで水圧に潰されてしまうところだったんだぞ」
話を聞きつつ、太郎は怒りに震えていた。やはり、来なければ良かった、こんな所。


乙姫の不思議な術と薬が効いて、太郎は無事回復した。
亀はひたすら謝ってきたが、死の一歩手前まで追い詰められた太郎は、とうてい許す気になれなかった。
恩を仇で返されるとはこのことである。
その後、お詫びと称して、塩分過多の食事が振舞われ、鯛やヒラメの舞い踊りを強制的に見せられた。
伸びきったワカメを口にくわえながら、太郎は早めに家に帰ろうと決意した。
魚のダンスなど眺めている暇があったら、家でタイタニックのDVDでも観ていたほうが良い。
「乙姫様、おれはそろそろ帰りますので……」
「えっ、まってよ兄ちゃん!これからまだクラゲの電撃ショーと、クジラの潮吹き合戦があるんだよ!」
「一生やっていればいい。乙姫様、今すぐ陸に返してください」
うろたえる濫花をひと睨みすると、太郎は困った顔をしている乙姫に歩み寄った。
「それで、あなたにひとつ聞きたいことがあるのです。あなたは、海のことなら何でもご存知だそうですね」
「……ああ」
乙姫の顔が曇った。太郎は構わず続けた。
「おれの姉を……3年前に行方不明になった姉の行方を、知りませんか?」


3年前まで、年子の姉と一緒に漁をしていたが、その頃の彼女は男勝りで、太郎を困らせてばかりいたのだ。
「姉さん!小さい魚は獲っちゃ駄目だって、いつも言ってるだろ?」
「どうして、捕まえやすいわよ」
「この子が大きくなって、稚魚を産むまで待つんだ。海の恵みには限りがあるんだから、大事にしなきゃ」
「もう、太郎ったら口うるさいんだから」
しっかり者の太郎と違って、姉は悪戯っ子で、たまに他の漁師の獲った魚をくすねたりしていた。
そしてあの日。
いつものように二人で漁に出た時、嵐がやって来たのだ。
荒れる波に、舟は激しく揺れ始めた。逃げる間もなく、雨雲はまるで二人の舟だけを狙っているかのように、その頭上でむくむくと頭をもたげた。
降り注ぐ豪雨が全身を叩く。鉄の柄杓で打たれているような感触が、背中に、肩に容赦なく降り注ぐ。
「太郎!」
姉は舟の縁に捕まって、必死な声を上げた。なんとかそちらへ手を伸ばそうとするが、届かない。
いつもは狭苦しく感じる舟なのに、姉との距離がひどく遠い。指を伸ばしても、届かない。
「た……ろ……」
声が離れていった。
雨が目に入り、視界が飛沫で覆われた。唸る波が巨大な手のように舟を覆い、喉を塞ぐ。
冷え切った海水が体に痛かった。がむしゃらに手を動かすと、更に深く沈んでいく。
息が苦しい。酸素。酸素。酸素。
頭の中が真っ白になり、それしか考えられない。
転覆した舟が凶器となって、太郎の体を激しく突き上げた。波と、舟の両方から攻められ、体を丸めながらも、必死でその『凶器』を掴んだ。縋りつけるものはそれしかなかった。
砕かれた舟の欠片を、胸元に引き寄せた。
「助けて!」
姉が叫んだのが判った。波の間に、浮かんだり沈んだりしている頭が見える。太郎はそちらに近づこうとして、気づく。
今、しがみついているのは小さな木の板だ。これに姉の体重が加えられたら、2人とも沈んでしまう。
また大きな波が来た。姉は必死で波に乗り、泳いで太郎の所まで来た。
掴まれ、と、太郎は言えなかった。むしろ、必死の形相で近づいてくる姉から、逃げたのだ。
───こっちへ来るな。おれを殺す気か。
死に対する恐怖が、彼の心を鬼へと変えた。姉を捨てて、独りだけ助かろうとしたのだった。
浜に打ち上げられた時、姉の姿は、もう、どこにもなかった。村人に介抱され、正気に戻った太郎の悲痛な叫びは、荒れ狂う波がかき消してしまった。

姉の亡骸は、とうとう見つからなかった。


「それ以来、おれはこれまで以上に、この海を、生き物たちを、大切にするよう努めてきました」
太郎は、過去の辛い思い出を、淡々と語る。
「そうすれば、おれの罪が許されて……いつか、いなくなった姉がひょっこり戻ってくるのではないかと思って……」
それからゆっくりと、大嫌いな自分の顔を指差した。
「姉は、おれと同じ顔をしています。ご存知ないですか」


乙姫は、じっと太郎の話を聞いていたが、やがて静かに首を横に振った。
「すまない。私には心当たりがないな……」
亀は、何故だか咎めるような視線を乙姫に送った。彼女は続けて言った。
「酷な話だが、海神に見初められた者は助からない。ましてや3年も前のことならば、亡骸さえも見つけることは難しいだろう」
太郎はがっくりと首をうなだれる。
「そう、ですか」
ならば、もうこんな所には用はない。彼は足元で縮こまっている亀に声をかけた。
「濫花、おれを地上まで送ってくれないか」
「う、うん……」
「待て、太郎」
乙姫が突然、改まった声で告げた。
「帰るのなら、これを持って行くんだ」
そう言って彼女が差し出したのは、漆塗りの重箱だった。
太郎は眉を潜めて問いかける。
「何ですか、これは」
「玉手箱だ。許してくれ、私の口からは、お前に真実を教えることは出来ない」
乙姫が何を言っているのか、太郎には判らなかった。ただ、彼女の色違いの神秘的な瞳と、その真摯な態度に押されて、その箱を受け取らざるを得なかった。
「もしもお前に、本当のことを受け止める勇気があるのなら、箱を開けるのもいいだろう。だが、今のお前は、絶対に開けてはいけない。いいな」
「……はあ」
太郎は困惑して、玉手箱と乙姫の顔を見比べた。
開けてもいいと言ったり、開けるなと言ったり、何なのだろう。
「では、お世話になりました」
再び亀の背中にまたがって、太郎はふわりと浮上した。
今度は体を潰されるのはごめんだからなと、亀にしっかりと釘を刺した。
「気をつけて帰るんだぞ」
乙姫は、哀れなものを見るような目で、彼を見送った。
その意味を太郎が知ったのは、陸に上がってからだった。



陸に上がると、そこにはどんよりとした空が広がっていた。
亀の背中から降りると、太郎は目を瞠った。
風景が先ほどまでと違う。
海に沿って点在していた小屋の数が、明らかに多い。それだけでなく、浜辺を行きかう人々は、太郎が見たこともない顔ばかりだった。
見知らぬ土地に来てしまったのだろうか。
いや、そんなはずはない。
乙姫は、無事に地上へ帰すと約束してくれたのだから。
「兄ちゃん、それじゃ、おれはこれで……」
背後で亀が呟いて、海に潜っていく。

太郎は、玉手箱を小脇に抱え、ゆっくりと歩き出した。足の裏に、固い小石が食い込んだ。
家の方角ははっきりと覚えている。太郎にとっては、まだ1日も経過していないのだ。
古びた小屋が見えてきた。今朝、出かけた時とは明らかに様子が違う。屋根には大きな穴が開き、雨漏りを塞ぐためか藁で塞いである。戸口にある傷を確かめて、これは間違いなく自分の家だ、と確信する。
戸は閉まっているが、中で人の気配がした。誰かが、家の中にいる。勝手に。
太郎はごくりと生唾を飲んだ。
扉に手をかけ、一気に開く。
「誰だっ!」
その声に、驚いたような顔で振り返ったのは、予想もしない人物だった。
薄汚い老人が、土間にうずくまって縄を編んでいる。開いたままの口からはところどころ欠けた黄色い歯が覗いていた。
老人は縄を置くと、ぼんやりした目で太郎を見つめた。
その瞳は、紫だった。柔らかそうな髪は、だいぶ薄くなってはいるが、かつてはまぶしい銀色であったと思われる。
「誰なんだ、あんた。おれの家で何してる!」
怒鳴りつけると、老人は困ったように首をかしげ、笑った。
「は、はあー。わしは、太郎ってもんですが……」
「何言ってるんだ、太郎はおれだ!!」
言い切った瞬間、老人の瞳に、淡い光が浮かんだ。
ゆっくりと、腰を上げて、太郎に近づいてくる。生臭い体臭に顔をしかめるが、老人は気にする様子もなく、じっと全身を眺めてきた。
やがて、その目が、大きく見開かれた。先程よりも更に驚いた顔になって、老人は皺だらけの両手を伸ばした。
太郎の頬を乱暴に掴む。濁った目で、その顔をじっくりと覗き込んだ。
「……姉さんじゃ」
声が、かすれている。身に覚えのない言葉に、太郎は身を捩った。
「な、何を言っているんだ、おれは太郎だ、男だ」
老人は聞いていなかった。半分呆けているのかも知れない、はらはらと涙を流しながら、太郎に抱きついてきた。
「おお、姉さんじゃ……姉さんが戻ってきてくれた。心配したんじゃよ。漁に出たきり、ずっと帰って来なかったから……」
何が何やら判らない。太郎はもがいた。
「は、離せ、人違いだっ」
どん、と老人を突き飛ばす。薄い身体は簡単に吹き飛び、土間に尻餅をついた。
少し哀れに思わないでもなかったが、太郎は助け起こすことはせず、きびすを返した。
小屋を出て、浜辺を走る。まさかあの老人が追いかけてくるとは思わなかったが、途中で何度も振り返った。
一体何がどうなっているのか。自分の家にいつの間にか別人が住んでいて、しかも太郎のことを『姉さん』と呼んだ。
確かに太郎には同じ顔の姉がいたが、あの老人とは無関係だ。誰と間違えたのだろう。
──まてよ。
あの老人の瞳は何色だった。紫ではなかったか。
ここはどこだ。いや、いつだ?
海に入る前と今とで、時間の差があったとしたら。

「兄ちゃん、仕事終わったよー」
「やっとか。のろいんだよお前は」

2人連れの漁師が、縄を担いで歩いてくる。
太郎はのろのろと顔を上げ、そして息を呑んだ。
相手は中年とは言え立派な体つきをしており、太郎の記憶にある姿とはだいぶ違った。しかし、鮮やかな赤い髪と白い髪の組み合わせを、忘れるはずもない。
浜辺で亀をいじめていた、あの子供たちだ。


「あの時の……悪餓鬼ども……」
太郎は息を呑んだ。
間違いない、ここは未来の世界なのだ。
気づくや否や、慌てて駆け寄った。
「おい、そこの連中……じゃない、すみません、お二方!!」
相手が大人であることを思い出し、敬語に切り替えた。
2人の老人は、怪訝そうに太郎を見た。
「んー?誰だお前」
「どっかで見た気がするなあ。いつだったっけ」
太郎は胸を押さえ、ぜいぜいと息を切らしながら言った。
「あの……そこの小屋に暮らしている、おじいさんのことなんですが」
そこと言いながら、先ほどまでいた小屋の方向を指差す。
赤い髪の男が、ああ、と頷いた。
「浦島太郎のことだろう?そういやあ、あの爺の若いときによく似てるなあ。孫か何かか?まさかな」
太郎は固まった。
あの老人はやはり太郎と同じ名前を名乗っているのか──では、あれが、未来の太郎自身なのか。
ならば、同じ時代に、太郎が2人存在してしまうことになる。
「いえ……孫ではありませんが。『まさか』とは?」
震える声で、尋ねる。白い髪の男が、気の毒そうに言った。
「あの爺さん、ずっと独りだし子供もいないからなあ。孫なんているはずない、ってこった」
「ずっと……独り……」
「あいつ、若い頃、海で行方不明になったんだ。奇跡的に助かったらしいが、それ以来、ちょっと頭がおかしくなっちまったんだよ」
「え……?」
太郎の記憶に、引っかかる言葉だった。
あの時、海で行方不明になった姉───。


赤い髪の男が、鼻を鳴らす。
「姉は姉で、弟が波に攫われて何年かしてから、蒸発しちまったよ。弟が無事戻ってきたと知ったら、喜ぶだろうがな」
「うえー、帰ってこなくていいよ、あんな女。まじめな太郎と比べて、村人の評判すげえ悪かったじゃん」
「生きていても、今は婆さんだろうしな」
「おれはよーく覚えてるさ、なんせ、子供の頃、あの女に石をぶつけられたんだからな!!見ろよ、まだ痣が残ってるんだぜ」
そう言って、白い髪の男は額を隠す前髪を上げた。そこには、彼の言った通りに、小石大の痣が残っていた。
それをつけたのは、間違いなく太郎だ。しかし、この男は今、『あの女』と言わなかったか。
石をぶつけたのは太郎ではなかったのか。
いや、待て。
あの男が『太郎』だとしたら、おれは誰なんだ。
姉さんって、何だ。おれは男だぞ。
頭が混乱する。何が真実で何が嘘なのか、判らなくなった。
「あの時はおれたちもガキだったなー。亀をいじめたりしてたっけ」
「おれは記憶にないがな、そんな昔のことは」
「ひでー」
2人の男は、笑いながら立ち去った。



太郎は、青い顔をしたまま、砂浜に座り込んでいた。
膝の上には、乙姫から貰った玉手箱が乗っている。
───もしもお前に、本当のことを受け止める勇気があるのなら、箱を開けるのもいいだろう。

彼女の言葉を思い出す。
勇気も何も、今の太郎には、これを開けるしか術がない。
先ほど、小屋の戸を開けた時の何十倍もの力を振り絞って、太郎は小箱の蓋にゆっくりと手をかけた。
隙間から、白い煙が漏れてくる。
それを吸い込んだ時、太郎は、これからの自分の運命を悟った気がした。もくもくと白い煙が立ち昇り、浜辺を満たした。
遠くから見ている人々は、きっと焚き火でもしているのだと思っただろう。


全身を、気だるい感覚が襲い、体重が支えきれなくなった。背骨に痛みが走る。
視界が急激に狭くなり、風景が、ぼんやりと白みがかって見える。
耳の穴を、何かが突き抜けていく音がする。寄せては返す波の音が、まるで薄い膜でも通しているように、妙に遠くに聞こえる。
身体の変調に気づいたのは、自らの指を動かしてからだった。節くれだった指を見つめ、その手を胸に押し当てた。
垂れ下がった細い乳房の感触に、悲鳴を上げる。何だ、これは。男に、こんなものはついていない。
玉手箱の蓋の裏には、鏡が張られていた。
そこに映っていたのは、齢80は超えていると思われる、醜い老婆だった。
銀色の髪はすっかり白くなり、歯は前歯を残して全てが欠けている。
「なんて、こった……」
く、く、と、低く笑う。

本当に、何と言うことだろう。女であったことを、たった今、思い出すとは。
あの日、波に攫われたのは、働き者の弟の方だったのだ。
『助けて、姉さん!!』


──太郎は本当にいい子だねえ。それにくらべて姉さんは、あれじゃ嫁の貰い手もないよ。

村人たちの、そんな言葉が、きっかけだったのかも知れない。
悔しくて、悲しくて、だから、助かったのを幸いに、自分を太郎だと信じ込もうとしたのだ。
馬鹿げた話だ。
全ては、自分に都合のいい現実だった。


背後で、ぱしゃりと水音がした。
「迎えに来たよ、姉ちゃん」
振り返ればそこには、いつの間に現れたのか、亀がいた。
優しい口調で、太郎のことを『姉ちゃん』と、言った。最初から、太郎が女であることを知っていたのだろうか。
「姉ちゃんはもう、十分苦しんだんだよ。自分を偽らなくては、生きていけないほどに。だから、一緒に乙姫さまのところに行こう」
老婆は、力なく首を振った。
「いや……いい。これは、わたしの業だから……ね」
まるで別人のような声が、今の自分にはお似合いだった。着物の袖を破いて、老婆は緩慢な仕草で白髪を束ねる。
不可解そうな顔をする亀に、老婆は静かに、とても静かに告げた。
「わたしは、陸の上で生きる。太郎の世話をしながら、ここで一生を終える」
亀は目を見開いた。まさか、そんな言葉を聞かされるとは、思いもよらなかったのだろう。
「な、なんでっ?おれと竜宮城に行けば、一生幸せに暮らせるんだよ。そんな姿のままで、辛い思いしてまで、何で生きようと思うの?おれ、わかんないよ!」
乙姫の使いである亀は、泣き出しそうな声でそう叫んだ。この少年にとって陸地とは、ただ残酷で怖ろしい場所でしかないのだろう。
老婆は、玉手箱を亀に返すと、よろよろと立ち上がった。
「そう、お前たちには、きっと判らないだろうね……」
この姿になったら、急に気持ちが楽になった。他人に意地を張り続けていた自分が、急に馬鹿らしく思えてきた。


亀は、それ以上引き止めなかった。再び海中に沈んでいく。恐らく、もう二度と会うことはないだろう。


それを見届けると、老婆となった『偽者の』浦島太郎は、ゆっくりと歩き出す。
『本当の』浦島太郎が暮らしている、古びた小屋に向かって、歩き出す。



何十年も待たせた弟を、力いっぱい抱きしめてやるために。




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