書庫 みにくいあひるの子(シルへ、黄呀、輝王)


なぜ神さまは、世の中の大半を、美しいものとそうでないものに分けたのでしょう。
また、なぜ神さまは、醜い者に心など与えたのでしょう。
痛いと思う、悲しいと思う心さえなければ、こんなに傷つく事もなかったのに……。
死ぬために生まれてきたのなら、シルへの足跡は、大地のどこにつければいいのでしょう。
この世界に生まれた証だけでも、残してから散りたいと願う事さえ、そのための伴侶さえ、求める事は許されないと言うのでしょうか。
この容姿のせいで、みんながシルへに石を投げます。噛み付きます。汚い言葉を投げかけます。
歪んだくちばし、薄汚れた灰色の毛並み、醜く突き出た目玉。どこをとっても、いいところなどひとつもありません。

俯けば、水面に自分の姿が映ります。

「あぁらシルへ。今日も一段と醜いこと」

意地悪そうな女性の声に、シルへはびくりとして顔を上げました。
その声の持ち主はオーガといって、この池では二番目に美しいあひるでした。
彼女は優雅な曲線を描くくちばしと艶やかな毛並みを持ってはいましたが、たいへん傲慢な性格で、いつも自分のまわりに年頃のあひるを侍らせ、自分の引き立て役にしているのでした。

「オーガさま……」
はかない声で、シルへは相手の名を呼びました。返事をしなかった場合、もっとひどい目にあわされることを知っていたからです。
「おお、いやだ。あなたは声までが醜いのねえ。おほほほ」
シルへの声など、もう幾度となく聞いた事があるでしょうに、オーガはわざとそんな言い方をしました。それから、不意に鼻をひくひくさせると、くちばしを翼で覆いました。
「おまけに、ひどい匂いですこと。こんなのを泳がせていたら、水が汚れてしまいそう」
周囲にいたあひる達も、「ほんとほんと」とくちばしを揃えます。
シルヘのことが嫌いならば、放っておいてくれれば良いのに、わざわざ傍へ来ては苛めるのです。
彼女は、シルヘをこの池から追い出したいのです。いいえ、この世界からシルへの居場所をなくしたいのです。
「ご覧なさい、この薄汚い羽の色。まるで泥水のよう」
横からオーガのくちばしが伸びてきて、シルへの身体をつつきました。痛みに呻く彼女には構わず、羽をむしります。悲鳴は、他のあひる達のガアガアと騒ぐ声にかき消されました。
「みっともないから、ちぎってしまいましょう」
「そうしましょ、そうしましょ」
遠くで見ている仲間の中にも、止めようとする者はいません。
毎日のように振るわれる暴力。今のシルへは、命あるものとしてさえ見てもらえませんでした。池に浮かぶ蓮の葉のように、つつかれ、弄ばれているだけ。
シルへは、瞳に涙を浮かべながら、目を閉じました。
その時です。

「やめておけ」
厳かな声に、オーガははっと身体を強張らせました。
この池の主であり、また池でもっとも美しいあひるのシャインキングが、クロールでこちらに泳いできます。
「あ、わ、我が君……」
オーガは顔を赤らめて、慌ててシルへに向かって振り上げていた羽を下ろしました。
シルヘを取り囲んでいたあひる達が、一斉に左右へ散りました。まるで、苛めそのものを、無かったことにするかのように。
「さほど美しくもない者が、無理をして飾ろうとする姿は確かに醜悪だが……」
シャインキングは、ちらりとシルヘに視線をやりながら言いました。
「この娘は、まったく飾ろうとはしていないからオッケーだ」
言っている意味がわかりません。
「ええ、オッケーですわね!」
オーガにだけは伝わったようです。
「醜い者を嫌うのは、自らに余裕がない証拠。私ほどの美形ともなれば、そのような下らぬ事はせぬ」
「ええ、まさにおっしゃる通りでございます、我が君!!」
オーガは目を輝かせ、何度も頷きました。
彼女はシャインキングを崇拝しており、彼の言う事になら、無条件で従うのでした。
「ところであの、本日のご予定をまだ伺っておりませんが?」
羽をこすり合わせ、ゴマをするような仕草をしながら、オーガは主へ問いかけました。
「天気が良いので外に出かける」
「まあ!でしたら、ぜひ私にもお供させてくださいませ」
「ならん。これから別居中の妻とカレーを食べに行くのだ」
そう言い残すと、シャインキングは池の向こう岸に向かって、平泳ぎですいすいと泳いでいきました。
一体何しに来たのでしょう。
「あぁん、お待ち下さい、我が君ぃ!」
オーガは犬かきで猛然とシャインキングの後を追いかけました。ばしゃばしゃと水音がして、やがてそれが遠ざかると、シルへは呆然として池の淵に背中を預けました。
醜い者。
何度言われても慣れない言葉が、頭の中でこだましています。

傷心のシルへは、その晩、池を飛び出しました。
ずっと以前にも、オーガの仕打ちに耐えかねて、脱出を試みた事があります。けれどあの女はすぐに追いかけて来て、それまでの事を詫びたのでした。
『悪かったわ、あなたがそんなに気にしているなんて。仲間が心配して待っているから、帰りましょう』
その言葉に騙されたシルへは愚かでした。池に帰ると、仲間たちが一斉に罵声を浴びせかけたのです。
『あははは、本当に帰ってきちゃったー』
『ばーか、何期待してたの?お前のことなんて誰も待ってませ〜ん』
『もしかして苛められるのくせになったとか。うわ、きもー』
投げられた石は、シルヘの胴体を傷つけ、血が流れました。
けれど、それが何だと言うのでしょう。心は、それ以上のどす黒い血を流していました。彼女たちの目には、きっと何も映らないでしょうが……。


水かきをペタペタと鳴らしながら、シルへは歩き続けました。今度の脱走はうまくいったようで、オーガが追いかけてくる気配は感じられません。
足の裏側に小石が当たって痛くはありましたが、こんなものは他者から与えられる痛みに比べれば、どうということはありませんでした。
どこからかカレーの匂いがしてきました。
お腹をすかせていたシルへは、その匂いを嗅ぎつけると途端に元気になりました。歩きなれない大地を踏みしめて、匂いの方角へ走り出します。
やがて、山の麓にある『黄金の柘榴亭』という料理店が見えてきました。
立派な店構えと、深夜だというのに煌煌と明かりがついているその様子に、シルへは驚きました。着飾った大勢の人間が楽しそうに食事をしている様子が、窓から見えました。
そう言えば、池の主であるシャインキングが、よくここのゴミ捨て場にお世話になっているとか。高級料理店のゴミ捨て場は、動物達にとって格好の餌場なのです。
シルへは人目につかぬよう、急いで厨房の裏側へまわりました。この時間なら、何か食べ物が落ちているはずです。
するとそこでは、美しいあひるが生ゴミを漁っていました。黒いごみ袋からこぼれた半液体状のものはどうやらカレーのようで、それを啜っているあひるは、よく見れば昼間シルヘを庇ってくれたシャインキングでした。
昼間からずっとここで食べていたのでしょうか。奥さんはどうしたのでしょうか。

「シャインキング、さま?」
恐る恐る声をかけましたが、シャインキングは一心不乱に食べています。シルへは仕方なく隣に並び、もう一度声をかけました。
「綺麗な綺麗なシャインキングさま。お願い、わたしにもそれを食べさせて下さいな。お腹がぺこぺこなの」
シャインキングは何も答えませんでしたが、シルヘのくちばしがカレーに届くように、少し右の方に、身体をずらしてくれました。
そのまま、しばらく二人でカレーをつついていました。良い材料を使っているだけあって、舌がとろけるような味わいです。
お腹が一杯になると、シルへはおずおずと言いました。
「シャインキングさま、わたし、池を逃げ出してきたの」
連れ戻される、とは思いませんでした。
シャインキングは確かに池の主ではありましたが、いつも物思いに沈んでいるだけで、仲間の管理は全てオーガにまかせっきりでした。もちろん、シルへや他のあひる達には全く興味を示さなかったのです。
「だから、これでお別れです。今までありがとう」
シャインキングは静かな眼差しでシルヘを見つめ、そして言いました。
「集団の中で落ちこぼれた者が、個で生きていこうとは笑わせる」
その言葉は、ぐさりとシルヘの心に突き刺さりました。
「だ、だって……みんながシルヘをいじめるんだもの……だからわたし……」
「逃げた先でも、同じ運命が待っている。お前自身が変わらぬ限り」
シルヘの瞳から涙がぶわっと吹き出しました。
そんなこと、言われなくてもわかっています。でも、辛くて、辛くて、たまらないのです。
悲しい事から逃げて、何がいけないのでしょう。誰が、好んで不幸に身を置くでしょうか。
「シャインキングさまはとっても綺麗だもの!今まで辛い目にあったことなんかないんだから、そんなことが言えるんだわ」
すると、シャインキングは、黄金色の瞳を伏せました。
「妻は、三日前に、人間に捕まった」
「え……」
「羽をむしられ、人間どもの慰み者になった。──過ぎた美しさ故に」
シルへは言葉もありませんでした。
美しいからといって、幸せになれるとは限らない、と……シャインキングは告げました。
「お前には健康な足と、自由に動き回れる若さがある。お前の価値は、お前自身が決めるべきだと思わぬか」
「で、でも……」
「元いた場所へ帰れ。それがお前の幸せ」
シルヘたちの会話に気づいたのか、厨房の扉が、がちゃりと開きました。
「またお前か、金の!」
怒鳴り声と共に、厨房からフライパンを持った人間が飛び出してきました。紅い髪のコックです。
「毎回毎回、うちの生ゴミを漁りやがって。ラスに怒られるだろうがっ!!」
「……私の妻をどこへやった」
シャインキングは、人間相手にもひるみませんでした。
シルヘに逃げるよう小声で告げると、コックに自分から歩み寄ります。
「ああ、あの緑の目のあひるのことか?珍しい羽の色だったから、むしってラスにプレゼントしてやったんだよ。その後は知らんがな」
「……この、外道が」
シャインキングは無表情のまま、水かきでカレーの残骸を蹴飛ばしました。汁がコックの顔にかかります。
「うっ、ぺっ、この野郎!」
コックはフライパンでシャインキングに襲い掛かりました。シルへはただ怖くて、夢中でその場から逃げ出しました。
ガキッ、と鈍い音が聞こえました。
振り返ると、カレーの海の中に倒れているシャインキングと、勝ち誇った顔で彼を足蹴にするコックの姿が見えました。
池では万能を誇っていた彼も、陸の上ではただのあひる。人間の力にはかないません。
陸には、確かに苛めっ子はいないでしょう。しかし、シルヘが見てきた地獄よりも、さらに辛い事が待っているかも知れないのです。
───元いた場所へ帰れ。それがお前の幸せ。
「そう……そうよ、帰ろう、あの池へ」
走って、走って、そのうちにシルへは背中がむずむずするのを感じました。
虫でもついているのかと思い、左右の羽をこすって落とそうとします。

すると、どうでしょう。
灰色の羽がもげ、その下から、まっさらな白い羽が生えてきました。
あひるとは違う白さ。まだ生えかけの、しかしとても美しい羽。
そう、みにくいあひるの子は、実は白鳥の子だったのです。
けれどシルヘには、自分の姿をじっくり見つめる余裕などありません。ただ、走っていました。


池に戻ってきたシルヘを、仲間と呼ぶのもおぞましい仲間が取り囲み、いつものように苛めが開始されました。
「我が君が戻ってこないなんて、どういう事!まさか、お前が手をかけたんじゃないでしょうね!?」
オーガはシャインキングを失った悲しみを、シルへにぶつけました。
シルヘは相変わらず、ひたすら耐えるだけでした。どんなに辛くともここでは殺されたりはしない。死ぬよりは苛められた方がましだと思えるなら、自分はまだ大丈夫。少しだけでも外の世界に触れて、ようやくそれが判ったからです。

数ヶ月が経つ間に、オーガを始めとするあひる達の間に、動揺が広がってゆきました。
醜いと見下していたシルヘの容姿が、徐々に変わっていったからです。くちばしの形も整い、目の光も今までとどこか違います。何より、あひるでは有り得ない、白すぎる毛並み。

「ね、ねえ……シルへのやつ、最近綺麗になってきてない?」
オーガも、シルヘの変化にうすうす気づいていました。同時に、焦りを感じました。
まさか、この娘の正体は白鳥──他の者と毛色が違っていたのも、それなら頷けます。
まずい、と思いました。シャインキングがいない今、この池の主はオーガです。この池では『美しさ』が全てです。シルヘが自分の美しさを主張しだしたら、自分は主の座を追われ、下手をすれば追放されてしまいます。
絶対に、気づかせないようにしなければ。その為には……。

池の隅にぼんやりと浮かびながら、シルへは思いました。最近、苛めが少ないのは何故だろうと。シルへは自分の身に起きた変化を、少し背が伸びたくらいにしか感じられませんでした。
「シルへ!俯くのはおよしなさい!」
オーガが毅然とした声で言い放ち、シルヘの目を上へ向けました。
「あ、あなたは上を向いていた方が可愛いのですから……いつも、真っ直ぐ前を向いていなさい。そうです」
シルヘの周囲には蓮の葉が幾重にも張り巡らされ、水面が見えないようになっていました。水が飲みたくなったら、オーガが素早く寄ってきて、茎で作ったストローを差し出してくれます。池の外に出たくなった時は、必ず他のあひるが一緒についてきてくれました。
言葉は乱暴ですが、今までと違い、まるで彼女を心配しているかのような仲間の態度に、シルへは首を傾げました。
「変なの。わたしが、可愛いだなんて」
シルへは不思議な、そして少しくすぐったいような気持ちを覚えて、目を細めました。
ようやく、オーガたちが改心してくれたのだと、そう思い始めていました。
「辛抱していて、良かった。シャインキングさまの言ったとおりだったわ」


一方のオーガたちは、内心気が気ではありませんでした。こうして見張っていても、いつまでも隠し通せるものではありません。
毎日、シルヘに水面に映った自分の姿を見せないようにしながら、彼女がいつ真実に気づくか、そして自分たちに復讐を始めるか、びくびく怯えながら暮らしているのです。

ひょっとしたらそれが、シルへにとっては何よりの報復になるのかも知れません。



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