弓の名手であるサティンは、お供の鎖縛を連れてあてもない旅をしていた。 憎しみあっている2人の旅は、お互いにいつ寝首をかかれてもおかしくはない状況であったが、月日が経つに連れ、気の強いサティンが次第に手綱──というか、主導権を握るようになっていた。 とある街の中央の広場の前を通りかかった時の事である。 「鎖縛。あそこで馬に水を飲ませてあげて」 サティンの指差した方向には大きな噴水があり、その横に長いポールが立っていた。 誰かが忘れていったのか、ポールの先端には高級そうな帽子がかかっている。 「なんでおれが……自分の馬の面倒ぐらい、自分で見ろよ」 目を見ずに不平をこぼす青年の背中を、彼女は強く押した。 「弓で射られたいの?」 青年はしぶしぶ手綱を引き、水場まで歩いて行った。 その背中を見送りながら、サティンはゆっくりとベンチに腰掛けた。 傍目には、自分たちの姿はどう映っているのだろうか……? 主人と下僕。我の強い女房と気弱な亭主。いずれも当てはまらない。 ───まさか、殺人犯と、その被害者の友人だとは、誰も思わないだろう。 彼女はあの男を、法によって裁きたくはなかった。自分の手によって殺さなければこの気持ちは晴れないし、友人の架因もそれを望んでいると思った。 彼が捕まったと聞いた時、天にも昇る心地だった。ありとあらゆる言葉と手段で、彼を責めた。だが、彼は決して謝罪の言葉を口にしなかった。好きなだけ殴ればいい、と、その身体をサティンに預けた。 サティンは、言われた通りにした。 彼の全てを己のものとし、架因が受けたであろう何倍もの屈辱を強いた。 それでも彼は何も言わない。 贖罪は済んだと思っているのか。口を閉ざしていれば、いつかは許されるとでも思っているのか。 人の気持ちは、そんなに簡単なものではない。いずれ、自分は彼を殺す。そのために弓の腕を磨いてきたのだから。 しばらくして、水を飲ませ終わった鎖縛が戻ってきた。 馬は首から雫を滴らせ、上機嫌である。連れている人間の表情とは対照的に。 「おい」 ベンチの前で立ち止まると、彼はぶっきらぼうに言った。 「さっきからあそこにいる男……こっちを見てるんだが、お前の知り合いか?」 言われて、サティンはベンチから腰を浮かせた。 背後を振り返ると、ブロンズ色の髪を肩の上で遊ばせた、役人らしい青年と目が合った。 美しい顔立ちをしていた。その顔には笑みを浮かべてはいたが、どこか作り物めいて見える。 「さあ、知らないわね。あんな美形、わたしの知人にはいないわ」 鎖縛もサティンも、人目をひく美男美女であったから、旅先で注目を浴びる事は珍しくない。けれどその青年の視線は好奇とは明らかに違う、別の何かがあった。 係わり合いにならないに越した事はない───そう思って歩き出したサティンだったが、連れの手から馬の手綱を奪い返した途端、鋭い声が耳を打った。 「お待ちなさい、そこのお嬢さん」 落ち着いた声だったが、有無を言わせない響きがあった。 サティンが顔を向けると、ブロンズの髪の青年が、ゆっくりとこちらに近づいてくるところだった。 「旅のお方ですか?」 「そうだけど……なあに。ナンパならお断りよ?」 肩を竦めるサティンを、青年は冷ややかな笑顔で見下ろした。 「いいえ、お説教ですよ。このセスラン・ゲスラーの帽子の前を黙って通り過ぎるとは、ご立派な心がけですねえ」 青年はすっと腕を伸ばし、噴水の横にあるポールを指差した。 よく見ればそのポールには、帽子とともに、木の札が掛けてある。そこには汚い文字で、こう書いてあった。 『この帽子の前を通りがかったら、必ずお辞儀をする事』 「……まあ」 「ご理解いただけましたか?」 サティンの驚きを別の意味に解釈した青年が、満足そうに笑う。 「ええ」 サティンはにっこりと微笑み返した。 「こんな馬鹿らしいことを思いつくあなたの脳みそに、心から同情いたしますわ。わたしたちは先を急ぎますので、早めにお医者様に行く事をおすすめしますわね。では……」 背中を向けた途端、鋭い殺気を感じた。反射的に地を蹴って左に避ける。先程まで立っていた地点に、青年の剣が刺さっていた。 「おい…」 「手を出さないで!!」 慌てた声を上げる鎖縛を怒鳴りつける。 セスラン・ゲスラーは大地に刺さった刀を引き抜き、不敵な笑みを浮かべた。 「よくぞ避けました。ただし、二度目はありませんよ?」 風に乗って、宣告が耳に届く。 「私はこの地を支配するウーリー・アンシュの手の者。私に逆らう事は即ち、死を意味します」 どうやら、大変な相手を怒らせてしまったらしい。だからと言って、素直に詫びる気にはなれなかった。彼女は曲がった事が大嫌いだったし、それに……、鎖縛の見ている前で他の男に頭を下げることなど、断じて出来ない。 「物知らずな女の子ってことで、見逃してはいただけないかしら?」 軽く言いながら、サティンは弓を構えていた。怯える様子もない彼女に、青年は感じるものがあったらしい。 しばらく矢の先端を見つめていたかと思うと、青年はふっと肩の力を抜いた。訝しげな顔をするサティンから離れ、間合いを取った。 「なるほど、ようやく思い出しました。あなたですね?近隣諸国を騒がせている弓の名手というのは」 「騒がせた覚えはないけれど……弓が得意なのは確かよ。試してみる?」 ぎり、ぎり、と矢を引き絞る。 不意に、相手が視界から消え、代わって連れの青年が姿を現した。 「この男はあなたの恋人ですか?」 セスラン・ゲスラーが鎖縛の襟首を掴み、サティンの眼前に晒していたのだ。 「いいえ、違うわ」 弓を構えたまま、サティンは首を横に振る。青年は満足そうに微笑んだ。 「そうですか。では、彼がどうなろうと知った事ではない、というわけですね」 言うや否や、片方の拳を鎖縛の口内に突っ込む。顎の間接が軋む嫌な音がした。 「それでは、彼に2人分の責任を取ってもらいましょうか。とりあえず、奥歯を全部抜いて」 「あ……が…」 「やめなさい!!」 サティンは叫んだ。同時に、鎖縛の口をこじあけていた手が抜けた。まるで声そのものが矢となって、セスラン・ゲスラーを刺したかのように。 咳き込む鎖縛を顧みる事もせず、青年はサティンに向き直った。長いマントが風になびき、乾いた大地に影を作っていた。 セスラン・ゲスラーは目を細める。 「どうしました。やはり恋人の命は惜しいですか」 「そうではないわ」 口元に垂れてくる砂色の髪を払いのけ、彼女は毅然と言った。 「彼はね、わたしの親友を惨殺したの。何の罪もない人間の命を奪った、人殺しなのよ」 「ほう……そんな憎い相手と、何故、一緒に旅を?」 セスラン・ゲスラーはさらに楽しげに目を細めた。殺伐としたやり取りも、彼にとっては娯楽に過ぎないのだ。 サティンは目を伏せた。この青年からは、鎖縛と同じ匂いがする。 「苦しめて、苦しめて、いつかはわたしが直接、手を下すためよ。それまで、長く生きていてもらわなければ困るの。ここであっさり死なせるなんて許さないわ」 「なるほど……」 広場には、いつしか大勢の見物人が集まっていた。 皆、この街の──ウーリー・アンシュの支配に怯える善良な市民たちだ。 馬鹿な娘だ、と囁きが聞こえてくる。ちょっと腕が立つからといって、思い上がって。 セスラン・ゲスラー様の逆鱗に触れたぞ。公開処刑は免れまい。無知な旅人とはいえ、気の毒に……。 「なかなか面白いお嬢さんですね。その度胸、威勢の良さ、そして美貌……気に入りましたよ」 「あら、見逃してくれるの?」 「そうはいきません。個人的な感情に流されて任務を怠っては、私がウーリー・アンシュ様に首を撥ねられてしまいますから」 「女の子ひとりを苛めるのが任務?あなたの上司は、あなた以上に性格がよろしいようね」 「どういたしまして。ですが、あなたはもう、女の子という年齢ではないようにお見受けしますが?」 にこにこと、両者はあくまでも笑顔を保ったまま、辛辣な会話を続けている。周囲でその会話を聞いている者たちの方が、よほど怯えていた。 「あなたこそ、見た目より年がいっているんじゃない?女性の年齢について触れるのは禁忌だって、お母様に教わらなかった?」 「さあ、どうでしょう。私は幼い頃に母を亡くしておりますので」 「それはお気の毒ね、じゃあ今度は奥さんに躾け直してもらったら?」 「私はまだ独り身ですよ。どういうわけか一緒になりたいと言って下さる女性がいませんのでね」 「どういうわけもなにも、理由ははっきりしてるじゃない?」 あくまでも気丈なサティンに、セスランはふっと冷たい笑いを浮かべた。 「そうですね……あなたのような方ならあるいは……」 そうして、鎖縛の襟首を強引に引き寄せ、起立させる。 「では、取引しましょう。この青年の頭上に───」 呟いて、セスラン・ゲスラーは懐から一個の果実を取り出した。 「林檎を乗せます。これを見事一発で射ることが出来たら、あなた方を見逃してあげましょう」 おおっ、と観衆がざわめいた。 セスラン・ゲスラーが投げた林檎を、サティンは片手で受け取った。林檎から想起される不吉なイメージを払拭するかのような、力強い表情で。 「いいわよ。その勝負、受けて立つわ」 「待て、勝手に決めるな!」 それまで死んだ魚の目をしていた鎖縛が、狼狽した声を上げる。だが、二人は相手にしなかった。 「ですが、私もあなたのお仕置きだけに時間を取られているわけにはいきませんので……しばらく間を空けて、決行は11月の18日、ではどうでしょう?」 セスラン・ゲスラーの申し出に、サティンは額に手を当てた。 「うーん、悪いけど、別の日にしてくれないかしら?雑誌コバルトの発売日だから、本屋に行かないと……」 「ちょっと待て!!おれの命はコバルト以下なのか!?」 喚きたてる青年を一発殴り飛ばし、セスランは微笑んだ。 「判りました。雑誌はわたしが代わりに買っておきますから」 「あら、近頃のお役人はずいぶん気前が良いのね」 「冥土の土産としては、安すぎるくらいですよ。オプションで、私の接吻もお付けしましょうか?」 「遠慮しておくわ。お嫁にいけなくなっちゃう」 「ははは、まるで行く予定があるような言い方ですねえ。死に行く人間を娶りたいと思う男もいないでしょう。まあ、せいぜいあの世で母に会ったらよろしく言っておいてくださいね」 「それは出来ないわ。あなたのお母様は地獄にいるんでしょう?わたしの行き先は天国ですもの、お会いするのは難しいわぁ」 棘だらけの応酬は、その後も延々と続いた。 地に倒れた鎖縛は何も言わなかったが、その青ざめた顔にははっきりと、『こいつら怖すぎる……』と書いてあった。 一日の雑務を終えて、セスラン・ゲスラーは白い息を吐いた。 11月の後半に差し掛かった夜は冷える。椅子に寄りかかって熱い茶を飲みながら、ひととき、疲れを癒す。 サティンと連れの青年は、あの日以来ずっと、屋敷の牢獄に閉じ込めてある。 二人とも拍子抜けするほど大人しく、逃げ出そうとする様子はなかった。 「いよいよ、明日ですか……」 喉に笑いがこみ上げてくるのを抑えきれず、茶で無理に流し込む。 自分に逆らう愚かな民草を踏みにじるのは、実に楽しい行為だった。しかも今度の相手は若い娘だ。どんな絶望の表情を見せてくれるのか。 「弓の名手、しかも美女。人質の男もこれまた美形……悲劇で彩れば、さぞかし絵になることでしょうね」 美女の血と慟哭。想像しただけで、今夜の茶は、いっそう美味に感じる。 「セスラン・ゲスラー様。私めに、妙案がございます」 控えていた召使いの男が、卑屈な笑みを浮かべて言った。 「……案?」 眉を寄せ、セスランは呟いた。 家族を目の前で殺された経験を持つこの男は、保身の為に少しでも彼に取り入ろうと、必死だった。決してセスラン・ゲスラーを憎み、刃を向けるような事はしなかった。 我が身が惜しければ、この男のように生きるのが、本来は正しいのだろう。 あの娘とは全く違う。間違っている者を間違っていると言い切り、危険もかえりみず、まるで死に急ぐかのように己の信念を貫いている、あの娘とは……。 「なんでしょう?」 表面上は穏やかに、彼は尋ねた。主の関心を引く事に成功した男は、頬を紅潮させながら前に歩み出た。 「こ、これをご覧下さい」 男はおぼつかない手つきで、紙に包んだ薬らしきものを、主に見せた。紙を広げると、緑色の粒が何個か転がっている。 「へへ、この痺れ薬を、あの娘の食事に混ぜてやるんですよ。すぐには効果は現れませんが、翌日には腕が痺れて、弓が持てなく……」 瞬間、セスラン・ゲスラーは勢い良く男の頬を殴り倒した。痩せた男の身体は二・三度鞠のように弾んで、壁に叩きつけられた。 何が起こったのか判らず、痛みに呻いている男を、セスラン・ゲスラーは冷ややかに見下ろした。 「見くびらないで頂きたいですね。私は下らない小細工は好みません」 男は腫れた頬を押さえながら、がたがたと震えた。主は、どんなに身分が低い者に対しても、敬語を欠かさない。それだけに、恐ろしいのだ。 「も、申し訳ございまぜん……おゆるじを…」 セスラン・ゲスラーは、うずくまる男を、死にかけの鼠でも見るような目で見つめた。 「彼女の食事は、私が運びます。今夜で最後ですから、ね」 牢獄の中で、二つの影が折り重なっては蠢いている。 「あなたが憎いわ」 「……知ってる。だから、明日、おれを殺すんだろう」 「あら、判っちゃう?」 「伊達に、一緒に旅をしてきたわけじゃない。いい機会だと思ったんだろう」 「その後で、わたしも死ぬわ」 「なんだって?」 「もう疲れちゃった。誰かを憎むのって、結構体力がいるのよ」 「……お前らしくもないな」 「あなたにわたしの何が判るの?」 「さあ……自分の事さえも、おれは判らない」 「そうやって、あなたはいつも逃げるのね。人を殺しても、不幸な境遇だったから仕方ない、むしろ同情されるべきだって、思ってるのね」 「幸せな人間が人を殺すと思うか?」 「お黙りなさい!!」 悲鳴にも似た女の声が、空気を震わせた。 彼女の精神は、彼女が察していた通り、限界に来ていたのかも知れない。 「復讐すればいい」 男がぽつりと言った。 「昔みたいに、おれを物のように扱えばいい」 女が妖しく笑った。 「そうさせていただくわ。どうせ、明日で最後だもの」 衣擦れの音……… 二つであった影が、ひとつに重なる。何かを締め付けるような音がする。 男が、微かに呻いた。 「言っておくけれど……あの子が受けた辱めは、こんなものじゃないのよ」 女のくぐもった声が、その行為の重さを、何より示していた。 「道連れにしてあげるんだから、もう少し嬉しそうにしなさいな」 牢獄の入り口に、セスラン・ゲスラーは立っていた。 両手に食事の乗った盆を持ち、立ったまま、2人の睦言を聞いていた。 ───わたしの行き先は天国ですもの。 女の言葉を反芻する、その表情は、窺い知ることは出来ない。 11月18日。 広場にて、賭けは行われた。 民衆が息を呑んで見守る中、セスラン・ゲスラーの兵士達が、噴水を取り囲むようにしてずらりと並び、中央に立つポールには、人質の鎖縛が縄で結わえ付けられていた。 頭上には林檎が一個。ともすれば風で吹き飛ばされてしまいそうな、小ぶりの林檎だ。 せめてもの慈悲だろうか、鎖縛の瞼は黒い布で覆われている。しかし、そんなことで死への恐怖が和らぐはずもない。 狩りの衣装に着替えたサティンが、颯爽と姿を現した途端、民衆から歓声が上がった。 髪をきっちりとひとつに束ねた女が、弓矢を構える。その姿は狩猟の女神アルテミスさながらに美しい。 目隠しをされている鎖縛は、その様子を目にする事は出来なかった。覚悟はしていたものの、いざこの場に立てば恐ろしい。 恐怖のあまり何度も気が遠くなりかけるが、そのたびに、頭から冷水が浴びせかけられた。 「標的が気絶していたら、面白くありませんからねえ」 髪から水を滴らせる青年に、桶を持ったセスラン・ゲスラーがにっこり笑う。 「まあ、いいさ……これで、ようやくあいつから解放されるんだからな」 鎖縛は敢えてそんな強がりを口にした。今更、見苦しく騒いでもどうにもならない。 「ほう、彼女との旅がそこまで苦痛だったんですか?」 「当たり前だ。あんな乱暴な女……」 「その割に、昨晩はずいぶんと楽しそうでしたが」 げほごほ、と鎖縛は咳き込んだ。これは、水が気管に入ったせいではない。 セスラン・ゲスラーは青年の黒髪を掴み、上向きにさせた。林檎を固定する。 「心配なさらずとも、逝くのはあなた一人ですよ。後の事は私にお任せ下さい」 「お前……まさか、あの女を」 何て趣味の悪い、と言いかけた鎖縛の鳩尾に、セスラン・ゲスラーは鉄拳を見舞う。もちろん、気絶しない程度に。 「罪人は余計な口を利くものではありません。黙ってくたばりなさい」 セスラン・ゲスラーは鎖縛から離れ、兵士達の真正面に立った。 「準備はよろしいですか?」 サティンは、あまり感情の読み取れぬ声で応じた。 「いつでもいいわよ」 「えー、ではこれより……」 セスラン・ゲスラーは、もったいぶった口調で言った。 「弓の名手サティンによる一発勝負、林檎の射抜きを始めたいと思います。みなさま、盛大な拍手をどうぞ」 「いけー、当てろ!」 「パッ、ジェッ、ロ!パッ、ジェッ、ロ!!」 「たわしー!!」 無責任な野次が飛ぶ。 サティンは、きりきりと弓を絞った。 矢の先端が示すのは、この数年、憎い、殺してやりたいと何度も思った男。そして、その頭上に輝く林檎。 それがふと、架因の顔に見えた。サティンにいつもまとわりついていた妹のような存在。 サティンを守るために鎖縛の凶刃に倒れ、二度と動く事のなくなった少女。死に目に会う事さえ出来なかった。 彼女のために、今こそ復讐を。 そして、自分の生もこれで終わりにする。どのみち、賭けに負けたサティンをセスラン・ゲスラーが生かしておいてくれるとは思えない。 林檎に焦点を合わせず、その下、鎖縛の心臓を狙う。 初めて、人を殺す。そして自分も逝くのだ、架因の元へ。 鼓動が高まった。あの男の心臓も、同じように脈打っているのだろうか? ──それでいいの? 頭の中に声が響く。 ──サティン、本当にそれでいいの? 脳裏に浮かぶ少女の顔は、なぜか悲しげだった。自分の為に彼女が手を汚す事を嘆いているのか。 臆する心を振り払い、サティンは大きく、息を吸い込む。 放す!! 放たれた矢は、一直線に鎖縛めがけて飛んで行った。真っ直ぐに、加速をつけて、憎い男の命を断つために。 それは時間にすればほんの数瞬のことであったが、その場にいた者にとっては随分と長い時間のように感じられた。 矢は、確実に標的を貫いた。 しばしの沈黙の後、真っ二つに射抜かれた林檎が、鎖縛の頭から、地面に落ちる。 わあっ、と歓声が沸き起こった。役人達を押し倒さんばかりに身を乗り出した観衆が、どよめき、驚嘆の声を上げる。 林檎は、黄色い断面を晒して、惨めに転がっている……。 この事に最も驚いていたのは、サティン自身だった。唇が「どうして」という形に動くが、それは声とならなかった。 「素晴らしい」 セスラン・ゲスラーの声に、我に返る。はっとしてそちらを見れば、彼は爽やかな笑顔で拍手をしていた。 「いい見世物でしたよ、ウイリアム・テル・サティン。名手と謳われるだけのことはありますね」 目論見が外れた彼が何故、このように惜しみない拍手を贈るのか──それを考えるゆとりもなく。 「違うのよ……」 サティンは、悄然として首を横に振った。 「違う…違うのに…彼の心臓を狙ったのに……」 本当に、自分は彼を殺そうとしていたのだろうか? いや、違う。心の底では恐れていたのだ。彼を殺したら、自分も同じ殺人者になってしまう、と。 殺したくはなかった。彼の傍で、彼がこれ以上罪を犯さぬように見張りつつ、いつまでも苦しめてやる事が出来れば、それで満足だったのだ。 疲れたから、もう終わりにしようと思った。けれど、やはりどこかで、この復讐を終わらせたくないと思っている自分がいる。 鎖縛を苛める事が癖になっていたのか──いつの間に。 セスラン・ゲスラーは、呆然としている美女に歩み寄り、そっと肩を抱いた。 「人が人を裁く事がどんなに虚しい事か、これでお判りでしょう。だからこそ、私たちのような悪人がいるんです」 その声は、意外なほどに優しかった。触れた手は温かく、こんな男でも人並みの体温があるのだと、改めて認識させられた。 「少なくとも私は、悪を悪と自覚して行っております。いつか裁かれる日が来たとしても、それもまた、私の役目だと思っておりますよ」 そう言って、彼は鎖縛に歩み寄り、その呪縛を解いた。剥がされた目隠しの奥から、漆黒の瞳が覗く。 「鎖縛……」 虚ろに、サティンは呟く。再びこの黒い瞳を目にする事が出来るとは、思ってもいなかった。 己の心に迷いさえなければ、彼は今頃、屍となって広場に横たわっていたはず。 鎖縛は、物言わずサティンを見ていた。 なぜ殺してくれなかった。 その瞳が雄弁に語っていた。それがお前の復讐の手段か。死と隣り合わせの恐怖に、常におれを置いておく、それがお前の報復か。 そんなつもりはない。 ただひとつだけ言える事は、鎖縛を殺しても、決して彼の心の支配からは逃げられないのだ、という事……。 「……なんで、よ」 サティンは、猛烈な怒りに駆られた。殺す事も叶わない。彼を野放しにする事も出来ない。ならば、これから死ぬまで、彼の存在に苦しめられなければならないのか。 苛立ちが胸を焦がす。腕を伸ばし、相手の黒髪を掴んだ。 「なんで……あなたなんかっ……!!」 憎んでも憎みきれないのなら。 いっそ、許してしまえたら良かった。 「盛り上がっているところを申し訳ないのですが、続きは天国でお願いできませんかね?」 チャキ、と硬質な音が耳をついた。 弓を構えた屈強な兵士達の姿が、視界に飛び込んでくる。 何十本もの矢が、サティンと鎖縛に向かって放たれようとしているところだった。 「……どういう事かしら?」 セスラン・ゲスラーは、足元の林檎を踏み潰しながら、楽しげに笑った。 「もちろん。最初のお望みどおり、あなた方には死んでいただきます」 サティンは目を見開いた。涙も乾くとは、まさにこのことだ。 「約束は、どうしたの……」 声に力が入らない。弓を構える気にはならなかった。この人数を前に、反撃など無意味に等しい。 「私が悪人だという事は、散々お話したはずですが?」 セスラン・ゲスラーは薄く笑うと、高々と腕を上げた。 「さあみなさん、健気な恋人達に、祝福の矢を降らせましょう!!」 2人を囲んでいた兵士達が、一斉に矢を放った。 どれほどの時が経っただろう。 気がつけば、サティンは広場に横たわっていた。傍らには黒髪の青年の姿もある。 ぼんやりと視線をさまよわせると、すぐ目の前に、矢が刺さっていた。 地面から、植物さながらに突き出したそれに、白い紙がリボンのように結び付けてある。 「手紙……?」 何か、文字が書いてあるのが、透けて見えた。力の入らない手を伸ばし、それを剥ぎ取ってみる。 開いた。 流麗な筆記体が目に飛び込んできた。 『お見事です。 あなたの矢は、私のハートさえも射抜いてしまいました。 今度は一緒にお茶でも飲みましょうね。 セスラン・ゲスラー』 「あらら……」 サティンは苦笑した。 とんでもない荷物が、またひとつ増えてしまったようだ。 サティンの声に、青年も目を覚ましたらしい。のっそりと上半身を起こし、不機嫌な顔でこちらを見ている。 その視線を受け止めきれず、サティンは立ち上がった。服の汚れを払う。少し離れた場所に落ちている弓を拾い、絃の無事を確かめる。 「あーあ。またあなたを殺し損ねちゃったわ」 強がりは、風に乗って鎖縛の耳へ届いたようだった。その肩がわずかに震える。 「でも、どうして、鎖縛の命まで助けたのかしら……わたしはともかく、あなたを助ける理由なんて、どこにもないわよね」 「お前に恩を売りたかったんだろ?馬鹿馬鹿しい」 青年は、ようやく口を開いた。 「全く、悪趣味もここに極まれりだな。お前みたいな凶暴な女に惚れるなんざ、正気の沙汰とは思えん」 ほどけた髪を結びなおしつつ、サティンは微笑む。 「悪趣味はわたしも同じよ」 「……どういう意味だ」 「さあ?」 肩を竦め、サティンは歩き出した──次の街へ向かって。 「ほら、ぐずぐずしていると置いていくわよ?……って」 蹲ったまま動かない青年を、サティンは振り返った。 「どうしたの、鎖縛?」 「こ、腰…が…」 「え?」 青年は真っ赤な顔をして怒鳴った。 「腰が抜けて立てないんだよ!!悪かったな!!」 やけくそのような青年の言葉に、サティンは一瞬、目を丸くする。 それから、何年ぶりかに、大きな声を上げて笑った。 戻る [*前] | [次#] ページ: TOPへ |