書庫 ジャックと豆の木(邪羅←闇ラス)


ジャックの家は、とても貧乏だった。
母親と2人で、牛乳を売って細々とその日を暮らしていた。

「母ちゃん腹減ったー。何か食うもんないかな?」

台所の戸棚を漁りながら、ジャックは母親を振り返った。
子持ちには見えない美しい母親は、苛々したように箒を振り回した。
「ふざけたことを言っている暇があったら、さっさと牛の乳でも搾って来るのじゃな。お前のような能無しを食わせてやれるほど、うちは裕福ではないのじゃ」
家の中は派手に散らかっていた。以前は、父親が家事の一切を引き受けてくれていたのだ。
しかし、今その父はいない。母親に追い出されたような形で、数年前から行方不明だった。
「だからさあー、何で父ちゃんと別れたりしたんだよ。今からでもやり直せばいいじゃん」
「妾の前であの男の話をするでない!」
ぎろり、と睨まれて、ジャックは首をすくめた。
確かに父親はひどい浮気性だったが、一番愛していたのはやはりこの母だったということを、彼はよく知っている。本人も反省しているだろうし、そろそろ許してやってもいいのではないかと思う。
しかしそれを口にすると、お前は男だから父親の肩を持つのか、だの、そんなに父が恋しければさっさとあの男の所に行ってしまえ、などど言って叩き出されるのは目に見えていた。
家を出るのは別に構わないが、この母を置いては行けない。ジャックは心優しい少年だった。
それにしても子供とは損なものである。どちらの親の味方についても、必ず片方からは恨まれてしまうのだから。



「あーるー晴れた、ひーるさがりー」
歌いながら、ジャックは山道を歩いていた。
家で飼っていた牛の乳が、とうとう出なくなったので、これから市場へ売りに行くのだ。
長年生活を共にしてきた、たった一頭の牛だから、それなりに愛着もある。
しかし、かわいそうなどと言っていたら、生活してはいけないのだ。
「もしもし、そこの方」
突然目の前に若い女性が現れ、ジャックを呼び止めた。
「麓にある一軒家の、息子さんですね?」
「そうだけど、姉ちゃん誰?」
女性は黒いベールを脱いだ。虹色に輝く髪が、肩の脇からこぼれ落ちた。
とても美人だ。顔の造りだけで言えばジャックの母親の方が上だが、この女性には瑞々しい若さがある。
けれど、その黒い瞳に浮かぶ光は鋭い。何となく嫌な予感がして、彼は後ずさった。
「わたしは、あなたのお父様に、たいへんお世話になった者です」
女性は、薄笑いに近い笑顔を浮かべながら、そう言った。
その『お世話になった』が何を意味するのか、お年頃のジャックにはだいたい察しがついた。
父が、よそで多くの愛人を作っていることは知っていた。だが、全ての浮気相手に、自分が既婚者あーんど子持ちであることを、明かしているわけではないらしい。
証拠に、女性はしげしげとジャックを見つめて、笑いと泣きの入り混じった、微妙な表情を浮かべていた。
「まさか、あの方に、こんなに大きなお子さんがいるなんて…騙されたのですね、わたし」
「あ、あのー…」
まるで自分が存在してはいけないような言い方である。ジャックは何とも言えない気持ちになった。
「今の妻と別れたら、君にわたしの子供を産んで欲しいと、そう言ってくれたのに…あれは全て嘘だったのですね。ふ、ふふ」
そういう文句は父親の方に言って欲しい、とジャックは切実に思った。こんな状態の彼女を、母親に会わせるわけには行かない。うまく言いくるめて追い払ってしまわなければ。
「え、えーと、悪いけど父ちゃんに会いに来たんなら無駄だよ、おれたちにも行方とか、さっぱりわかんないしー。もう完全に縁切れてるからさ」
ハンカチで汗を拭っていた女性は、その言葉に口元を歪めた。
「会いに来たのではありません。慰謝料を頂きに来ました」
「い、い、慰謝料?」
ジャックの声は裏返った。
「そうです。あなたのお父上によって、わたしの心と体は深く傷つけられました」
女性は淡々と語る。
「家では可愛い弟と妹が、お腹を空かせて待っているのに、わたしはあの方にお金を騙し取られ、もはや一文無しです」
その話には同情するが、だからと言ってない袖は振れない。と言い返すと、女性は彼の連れている乳牛を指差した。
「その牛があるではありませんか」
「だ、だめだってこれは!おれたちだって、これ取られたら明日から食って行けないんだよ」
彼らのやり取りを理解しているのかいないのか、乳牛は妙に悲しげな声で鳴いた。どちらの手に渡ろうと、やがて肉にされる運命は一緒である。
「おれだって母ちゃんと2人きりになって大変なんだ。自分だけが不幸だなんて思うなよっ!」
「…あなたのお父様がしたことなのですよ」
「子供は親を選べないんだからしょーがないだろ。でも、おれは今の話を聞いても、父ちゃんを嫌いになんてなれないからな。あんただってそうだろう?」
女性は目を瞠った。
「あんたは、おれたちの知らない父ちゃんのいいとこを、いっぱい知ってるんじゃないか。だから好きになったんだろ?」
「それは…」
何を思ったか、女性は俯いた。ジャックは言い過ぎたと思い、唇を噛む。
「ごめん、言い逃れだな。あんたの気持ちも知らずに…」
どう言葉を並べても、罪は罪だ。
親のしたことの責任を子供が取る必要はないが、だからと言って冷酷に突き放すことが出来るほど、ジャックは大人ではない。
女性はしばらく黙っていた。
やがて、その瞳にうっすらと涙が浮かんだ。悲しみのほかに、何か、別の感慨も混じっている涙だ。
「あんな、ろくでもない男性から、どうしてあなたのような優しい子が生まれたのでしょうね…」
「へ?」
「お母様の教育がよろしいのかしら。ふふ、これでは勝てなかったのも判ります」
女性は懐から一粒の豆を出した。
「判りました、ただでとは申しません。その牛とこれを、交換しましょう」
ジャックは、その指でつままれた小さな豆を見つめた。どう見ても、普通の豆だ。
「これはただの豆ではありません。撒けば不思議なことが起こる、魔法の豆なのです」
「姉ちゃん、頭大丈夫?」
ジャックは女性の額に手を当てる真似をした。
ベールを被っているから、とりあえず日射病ではないだろう。
「信じないのですか。ならば、これは要りませんね。牛だけ頂きましょうか」
女性が乳牛に近づく。ジャックは再度慌てた。
「わーっちょっと待った!判った、もらうよ、もらうから!」




「…それで、おぬしはその得体の知れぬ女に騙されて、この豆と牛を交換したというのじゃな?」
ジャックから事の顛末を聞いた母親は、白い頬をひきつらせながらそう言った。
「う、うん…ってか、そのー…」
「このたわけがっっっ!!」
母親の箒が頭上に振り下ろされる。目の前に火花が散った。
転倒するジャックの腰を足で踏みつけ、遠慮なく殴る蹴るの暴行を加える。
「ちょ、ちょっと母ちゃん、台本と違う…」
「やかましいわっ!」
怒鳴り声と共に、アドリブのきいたキックを入れる。
「もう少し賢い息子と思っておったが、とんだ見込み違いだったぞえ!やはりあの男の血を引いているだけあって、おぬしは大馬鹿者じゃ!」
息子の襟首を掴み、物置に放り込むと、母親は扉に鍵をかけた。
「ふん、こんなもの」
母親は、ジャックから奪い取った豆を廊下の窓から放り投げた。
「腹の足しにもならんわ」
そして、扉の向こうに声をかける。
「しばらくそこで反省せい。無論夕飯は抜きじゃ、よいな!」





ぐううう…

自分の腹が鳴る音で、ジャックは目覚めた。
いつの間にか朝になっていたらしい。物置の片隅で迎える朝は、惨めで滑稽なものだ。
「うう…腹減った…」
身体を二つ折りにして、何とか音を抑えようとしても、無意味なことだった。
母親の機嫌は直っただろうか。
「ジャック、おるかえ!!」
母親が切羽詰った声で怒鳴り、物置の扉を開けた。
朝日の眩しさに、ジャックは目をぱちくりさせる。
「な、なに、母ちゃん…」
「大変じゃ!外に、豆の木が生えておる!!」
「豆の木ぃ?」
母親に連れられて表に出てみれば、確かに、昨日まではなかった巨大な豆の蔓が、天をつくように伸びているではないか。
「すっげえ…どこまで伸びてんだろ」
ジャックは首が痛くなるほど長時間、上を向いていた。目を細めて見ても、雲に隠れて、頂上は見えない。
「ひょっとしてこれ、おれが持ってきた豆?それが一晩でこうなっちまったってわけ?」
ジャックの問いかけにも答えず、母親はせっせと豆を摘んでは、籠に入れている。
「ほれ、そなたも手伝わんか!」
母親は籠を放り投げた。
「じゃあ、母ちゃんは下の方担当な。おれはもっと上に登って採ってくるし」
豆の蔓に足をかける。
「しっかし、どうなってるんだろうなあ、こりゃ…」
慎重に足を移動させ、豆のさやを摘み取り、籠に入れる。その作業を繰り返しながら、少しづつ登っていく。
いつの間にか、地上がかすんで見える位置まで上っており、見下ろすジャックの家が豆粒のように小さく見えていた。
「よし、そろそろいいかな…っと」
引き返そうとした瞬間、ずるりと足が滑った。
「げっっ!!」
慌てて蔓を掴み、バランスをとる。
が、昨晩夕食をもらえず、まだ朝食を済ませてもいない身体に、力が入るはずもない。
「だめだ…貧血…」
蔓から指が離れる。
しがみ付いていた足からも力が抜け、ジャックは真っ逆さまに落ちて───いかなかった。

「大丈夫か?」
気づけば、若い女性の手が、しっかりとジャックの手を掴んでいたのだ。
驚くジャックに、女性は微笑む。思わず見とれてしまう美貌の持ち主だった。
「いま、上げてやるからな」
細い腕の割りには強い力で、女性はジャックの身体を抱え、雲の上へと引き上げたのだった。
「あ、ありがとう…助かったー」
ジャックは全身に冷や汗をかいていた。礼を述べるのと同時に、ぐううー、と胃袋が鳴った。
黒髪の女性は、笑いもせず、その表情を曇らせる。
「腹が減っているのか…?」
「う、うん」
「だったら、家に来るといい。すぐそこだ、スープくらい飲ませてやろう」
ジャックは跳ね起きた。
何故こんなところに人がいるのだ、という疑問は、猛烈な空腹の前に吹き飛んでいた。
「ほ、ほんとっ!?何か食わせてくれんの!?」
「ああ。ここまで訪ねてくる者は久しぶりだからな」
「やったー!姉ちゃん、感謝っ!」


女性の家は、雲の上にあった。
水蒸気に隠れて、こじんまりとした石造りの建物がある。ここに、黒髪の女性は、夫と二人で住んでいると告げた。
「夫がまだ帰ってきていないから…」
女性はジャックを家に招きいれ、温かいスープとパンを振る舞ってくれた。
「ゆっくりしていくといい。よければ、地上の話など聞かせてくれ」
空腹が収まると、ジャックは家の中を見回した。普通の家庭にあるような調度品が、一通りそろっている。ジャックの家とは違い、ある程度裕福な家のようだ。
「姉ちゃん、いつからこんなとこに暮らしてんの?」
女性はスープの湯気の向こうで、悲しげな顔をする。
「もともとは、地上にいたんだが…夫が、わたしと二人きりになりたいと言うものだから、結婚と同時にここに越してきたんだ。わたしは、夫に監視されて、滅多に地上へは行けない」
「ひっでえなあ…それって、籠の鳥みたいなもんじゃないか。じゃ、食べ物とかどうしてんの?」
「わたしがここで、生活に便利な商品を開発して、夫がそれを地上に売りに行って…それで生計を立てている」
ジャックと女性は、その後も政治やオリンピックの話などで盛り上がった。


正午を過ぎると、部屋の鳩時計がクルックーと鳴きだした。
「あ、じゃあおれ、そろそろ帰るよ」
時間を忘れて話し込んでしまったらしい。慌てて椅子を立つジャックを、女性が寂しそうに見つめる。
「帰ってしまうのか?」
「うん、名残惜しいけどさー、母ちゃんが心配してると思うし。また来るよ」
「では、土産に、これを持って行くといい。わたしが発明した商品で、まだ試作品だが…」
女性は背後の戸棚から、ごそごそと何かを取り出した。
期待に目を輝かせるジャックの目の前に、三つのアイテムを置く。
だが、出てきたものは彼の予想に反した、ガラクタの山だった。
穴だらけの袋、よぼよぼとした鶏、履き古したような靴。

「…なに、これ?」

顔を引きつらせるジャックの気も知らず、女性は自信満々に微笑む。
「穴の開いた金貨の袋、死にかけの雄鶏。そして、三歩歩くと物事を忘れてしまう靴だ」
いらねえよ。
と突っ込みたくなるのを、ジャックは必死でこらえた。命の恩人にそれは失礼だと思ったからだ。
「どうした?気に入らないのか?」
女性は不安そうに覗き込んでくる。取りあえず、ジャックは作り笑いをした。
「あ、ありがとー姉ちゃん!おれ、ずっとこういうの欲しかったんだ!」
「そうか。大事に使ってくれ」
「うん!」
地上に着いたら捨てよう。ジャックは心に誓った。




「ラス〜、今帰ったよ〜♪」
調子のいい男の声が聞こえてきたのは、その時だった。
女性はさっと顔色を変えた。
「まずい、あいつが帰って来た!!」
「え、え!?」
うろたえるジャックの腕を取ると、女性は猛烈な力で、彼の身体を衣装棚に引っ張っていった。
「あいつは、人一倍やきもち焼きなんだ。たとえ子供でも、見知らぬ男を家に上げたなんて知れたら何をされるか…ここに、隠れていてくれ!」
どん、と突き飛ばす。
「へぶっ」
衣装棚の壁に頭をぶつけ、ジャックは悲鳴を上げた。女性は乱暴に扉を閉める。
「な、なにすんだよ姉ちゃん!ここ開けてくれよ!」
「大丈夫だ。問題ない」
何が大丈夫なのか聞かせて欲しい。
「つーか、わざわざ閉じ込める意味がわかんないんだけど!黙って裏口から逃がしてくれればいいんだけどなあ!おーい、聞いてる!?」
ドンドン、と内側から棚を叩く。女性は聞く耳持たなかった。
「危なかった…こんなところをあいつに見られたら、お前はきっと、酷い目にあわされる」
もう充分酷い目にあっているような気がする。
「ラス〜、いるんだろう?闇主さんのお帰りだよ〜ん」
やがて、へべれけに酔った亭主らしき人物が現れた。
「お、お帰り」
女性はわざとらしく揉み手をしながら駆け寄る。その身体を、亭主はぎゅっと抱きしめ、頬擦りした。
「ただいま〜ラス。おれがいなくて寂しかっただろう、よしよし。今夜は寝かさないからなー」
その手がごそごそと動き、女性のエプロンの下をまさぐっている。
女性はたちどころに赤面し、男の身体を押しのけた。
「や、やめろ闇主っ!子供が見て…」
「何だって?」
「い、いや…何でも…ない」
ジャックは扉の隙間から、その様子を伺っていた。
(あっ、あの野郎、なんてうらやま…じゃなくてっ、やらしい事をっっ!!ちくしょー!)
歯軋りして、地団駄を踏んでも、どうにもならない。
女性はあっという間に衣類を脱がされ、アジの開きのように全てを晒されてしまった。
「み、見るな…見ないでくれ!」
まだ慣れていないのか、昼間なのが恥ずかしいのか、女性は半泣きになり、必死で隠そうとする。
男は整った顔を歪め、いやらしく笑った。
「隠さなくていい。綺麗だよ、ラス…」
昼のメロドラマのような展開になってきたところで、ジャックの腕の中の雄鶏が、

コケコッコー

と鳴いた。

妻の身体を堪能しようとしていた男は、「ん?」と訝しげに顔を上げる。
「いま、あの中で鶏が鳴かなかったか?」
組み敷かれている女性は慌てて叫んだ。
「き、気のせいだ!あの衣装棚の中には、誰も入っていない!!」
思いっきり墓穴を掘っている。
男の明るい表情が、一変した。
「お前…まさかまた、おれに内緒で『拾い物』をしたんじゃなかろうな?」
声が低くなった。陽気な笑顔は既になく、代わって心の底まで凍りつくような、冷たい笑みが張り付いている。
「ち、ちがう…」
女性は本能的に恐怖を覚えたのか、亭主の腕から逃れようとした。彼はそれを許さず、顎を捉え、強烈な接吻をした。
「ん…んっ!!」
女性は必死で抵抗していた。酸素を吸い尽くすような、激しい口付けだった。
「覚えておけ。お前はもう、おれのものだ」
「んー!!」
「そこに隠れてる奴も、よーく見ておくんだな。おれに歯向かったらどうなるか」
「やめろよ!」
ジャックは思わず、彼らの前に飛び出していた。
「なんで、平気でそんなことが出来るんだ!?」
命の危険も顧みず、男に向かって雄鶏を投げつける。
ばさばさっ、と白い羽が舞った。
「ジャック…来るな…」
弱弱しい声とともに、女性が首を振る。
「父ちゃんも、あんたも…!そんな風に、女の心を踏みにじって、楽しいのかよ!?」
「ほう」
男は口の端を歪めた。
「元気のいい小僧だな。さすが、あの白の息子だけある」
「え・・・」
ジャックの目が点になった。
「母ちゃんを、知ってるのか!?」

次の瞬間、押し倒されていた女性が、男の足にかじりついた。
「ジャック、今のうちに逃げろ!」
「え、だけど…」
「早く!!」
「う、うん」
ジャックはくるりと背を向けて、走り出した。
「ふん…逃げられると思うなよ。こんな事もあろうかと、帰り道には罠が用意してある」
男は不敵に笑い、侵入者を追うべく立ち上がった。
ぐったりしている妻に、もう一度口付けをすることも忘れなかった。


ジャックは走っていた。ひたすら走っていた。

しばらくして、男の怒声が聞こえてきた。
「待て、小僧!」
待てといわれて待つ奴がいるだろうか。ジャックは雲の上を滑るように走った。
そのうち、何か、足元できらきら光るものがあることに気づいた。白いもやの上に、金貨が何枚も落ちているのが判った。
罠と判っていても、ジャックは誘惑に駆られた。これだけあれば、母親に楽をさせることが出来る。
立ち止まり、金貨を拾った。持っていた袋の中に入れた。
ところが、あの女性からもらった袋には、あちこち穴が開いている。入れても、入れても、金貨は次から次へと零れ落ちてしまう。
「は、はは…」
ジャックは虚しく笑った。
確かにこれは、すばらしい発明品だ。人間の貪欲さを、浮き彫りにする。
「ありがとな、姉ちゃん!!」
ジャックは金貨を拾うのをやめ、袋をぽいと放り投げた。
危うく、欲に目がくらんで、一つしかない命を粗末にしてしまうところだった。
「あの餓鬼…金貨を諦めたか。貧乏人なら引っかかると思ったが」
男は舌打ちし、さらに速度を増した。

ジャックは、蔓をつたって下界へ降りた。急いで降りたため手や足が傷だらけだった。
必死で我が家の扉にしがみつき、ガンガンと叩く。
「母ちゃん母ちゃん!おれだよ、ジャック!」

母親は昼寝の最中だったらしい。寝ぼけた声が返ってきた。
「なんじゃ、ジャックか。今までどこに行っておった…?」
「説明はあとあと!なんか斬るもん持って来てくれよ!そうだ、鉈があっただろ!ナタ!!」
ジャックは背後の蔓を気にしていた。見上げても、今のところ男の姿は見えない。
「騒々しい奴じゃの…」
扉を開けて現れた母親は、白いキャミソールを纏っていた。寝ぼけ眼で、息子を見ている。
ジャックはその場でじたばたと足踏みをした。
「いいから、今すぐ物置からナタ持ってきて、ナタ!!」
「んー?何に使うのじゃ」
「豆の木を切り倒すんだよ!早くしないとおっかない兄ちゃんが!!」
焦るジャックに対して、母親は緊張感がない。
「うむ、よう判らんが、持って来ればいいのじゃな?」
「早くー!!」
「全く、人使いの荒い息子じゃ…」
母親はぶつくさと文句をこぼしながら、物置へ向かった。

五分ほどで、母親が戻ってきた。
「母ちゃん遅いよ!何やってたんだよっ!」
「文句を言うな。ほれ」
と言って、母親は茄子を差し出した。
「そうそう、これでギコギコ…って、できるかっ!!」
ジャックは思わず茄子を地面に叩きつけた。食べ物を粗末にするのは良くない。
「誰が茄子持って来いって言ったんだよ!?ナタだってば、ナタ!ナタでここを切るんだよ!!ちゃんと聞いてろよ!」
母親は舌打ちし、再び姿を消した。
その間にも、男はするすると木を伝って降りてくる。その姿がジャックの目に映った。
「何やってんだよもー。早く、早くしないと」

母親は十分ほどで戻ってきた。
「ほれ、持って来たぞえ」
そう言って母親が差し出したのは、皿に盛ったナタデココだった。
「そうそう、これが美味いんだよなー。シコシコした歯ごたえと甘いシロップとの絶妙な組み合わせが…って、ちがーーーうっっ!!」
半分ほど食べ終わってから、ジャックは皿を地面に叩きつける。食器を粗末にするのは良くない。
母親は呑気に首を傾げた。
「おぬし、先ほどナタでここがどうとか言っておらんかったか?」
「わざとらしく聞き間違いすんなよっ!つーか、20年前のギャグだろそれ!寒いんだよ!!」
ぜいぜいと、ジャックは息を切らす。二回連続の突っ込みはさすがにきつい。
振り返れば、男が蔓を降りてくる。今から鉈を持ってきても、もう間に合わない。
「そ、そうだ!!」
ジャックは、懐に突っ込んだぼろ靴の存在を思い出した。




蔓を降りてきた男は、軽く目を瞠った。
男物の古靴が、自分の方へ向けて、揃えて置いてある。
「へえ…気のきいた奴もいるもんだな」
足を入れてみると、サイズもぴったりだった。古いが、履き心地もなかなかだ。
「よし、これで安心して追いかけられ…ん?」
靴を履いて歩き出した男は、ふと足を止めた。
額に手を当てる。
「待てよ。おれは、何をしようとしていたんだ?」
確か、仕事が終わって、酔っ払って妻の元へ帰ったのだ。
それが、何故こんなところにいるんだ。
思い出せない。
忘れてしまった…ということは、さほど大事なことでもなかったのだろうか。
「おれも焼きがまわったかな…」
男は、とんとんと肩を叩いた。
「ま、いいか。ラスのとこ帰ろ〜っと」




再び、豆の蔓を登り、天へと戻っていく男の姿を見て、ジャックは大きく溜め息をついた。
「た、助かった〜」
三歩歩くと、物事を忘れてしまう靴。こんな風に役に立つとは思わなかった。
手放すのは惜しい気もしたが、命が助かっただけでもよしとしよう。
「何が『助かった』じゃ!」
母親が頭をこづく。
「全くおぬしと言う奴は、親に心配ばかりかけおって!今度と言う今度は───」
「うん。判ってるって」


豆の蔓は、もう登らない。
あの女性に会えなくなるのは寂しいが、その方が、お互いの為にはいいのだ。
ジャックにとっての幸せは、雲の上ではなく、もっと身近なところにある…。

「あ、そうだ…まだ、言ってないことがあったんだっけ」
「何じゃ?」
訝しげな顔をする母親に、ジャックは微笑んだ。


「ただいま。母ちゃん」





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