書庫 悪夢の果て(サティン→鎖縛)


・鎖縛を憎悪しつつも気になっているサティン



「あはは。サティン、こっちよ!」
青い輝きをもって揺れる髪。幸せを運ぶ小鳥のような少女のはしゃいでいる姿に、サティンは目を細める。
「架因、人にぶつかったら駄目よ?」
「わかってる。……あっ」
どん!と、言っている傍から架因は誰かにぶつかった。サティンは笑いながらその相手の名を呼ぶ。
「闇主!その子を捕まえてくれる?ちょっと目を離すとすぐどこかへ行ってしまって仕方ないのよ」
男は言われたとおり架因を捕まえてくれたようだった。サティンはそちらへ歩いていく。
「ありがとう。さあ架因、こっちへ……」
言い掛けた彼女の言葉は途中で切れた。
男の手からだらんと垂れ下がっているのは架因の……首だ。下半身はない。
サティンは視線を上げた。顔を見た。闇主ではない。明けない夜を思わせる漆黒の髪、この世の全ての絶望を閉じこめたかのような闇色の瞳。その男の名は……。
「いやあああっ!」
サティンは悲鳴を上げた。架因の生首が言葉を紡ぐ。
……サティン、あたしはこいつに殺されちゃったの。あなたを助けるために。あなたの事が大好きだったから。
ねえ、でもどうして?どうしてサティンはこの男と仲良くしているの?おかしいよねサティン。あたしの事はもういいの?忘れてしまうの?ねえ。

「か……いん……」
自らの声で、サティンは目を覚ました。額にぐっしょりと汗をかいていた。
ふう、と溜め息をついて寝室の明かりをつける。その時すぐ傍に人の気配を感じぎょっとした。
「さ、鎖縛っ!?」
寝台の脇で腕組みをしながら自分を見つめているのは、先日彼女の護り手になった……いや、させられたと言うべきか……青年であった。
何か面白くない事でもあったのか、実に不機嫌な顔でこちらを見下ろしている。サティンは肩を大きく上下させながら呼吸を整え、相手を睨みつけた。
「あなたねえ、いるならいるって言いなさいよ、びっくりするじゃないの……」
「そいつはすまなかったな」
あまりすまなさそうでない口調で彼は言った。サティンは夜着の胸元をさりげなく隠すと、冷たく言い放った。
「……で、わたしに何のご用かしら?まさか夜這いじゃないわよね」
すると鎖縛は、心底嫌そうに顔をしかめた。
「誰が……」
からかい甲斐のない男だ。サティンは軽く肩を竦めて見せる。
「冗談よ。あなたにそんな度胸があるのなら、こんな女の護り手なんかに収まっているはずないものね」
皮肉をたっぶりとまぶした彼女の返答に、鎖縛の眉がかすかに震えた。
爆発するか、とサティンは思った。だが自分を殺すことに慣れた男は、 憤りを胸の内側で留めることをも覚えているらしかった。
すぐに無表情を顔に張りつけ、ぼそりと言う。
「……まあ、そんな口がきけるところを見ると体調不良を起こしているわけではないようだな。安心した」
まるでこちらを気遣っているような台詞に、サティンは片眉を上げた。
嫌味なくらいに整った顔立ちの護り手は、そんな彼女を見てふんと鼻を鳴らす。
「悪夢を見たくらいでいちいち呼び出されちゃあたまらんからな」
サティンは思わず鎖縛の漆黒の瞳を見上げた。濡れたように輝くその双眸には相変わらず何の感情も宿ってはいない。
それを見て真っ先に湧いてきたのは怒りだった。敷布をぎゅっと握りサティンは震える声で言った。
「あなた……他人の夢を覗くことが出来るの?」
だとしたら、許さない……と彼女は思った。
もとより大切な相棒の命を奪ったこの男を、受け入れられる自信など断じてなかった。しかし、だからと言って都合の悪い現実に蓋をしてしまうほどサティンは愚かではない。
架因亡き後、妹のように思っているラエスリールの足手纏いにならぬよう、強力な護り手はぜひとも必要であったし、他に魔性なら幾らでもいるだろうに、わざわざ鎖縛の封印を解いてまで自分の護り手につけた闇主の魂胆も何となく見えていたから、サティンは今の自分の立場に甘んじることにしたのだ……例えそれすらもあの男の策略のうちだったとしても。
あの時、鎖縛の封印を解いた闇主は、意味ありげにサティンを見つめながらこう言ったのだ……「越えてみろ」と。
その言葉の意味、今なら判る。これは課せられた試練なのだ。この程度のことで挫けるような女に、ラスの身を案じる権利などない……そう、おそらくあの男はそれが言いたかったのだ。
ラエスリールはサティンにはきっと想像もつかないだろう修羅場を、もう何度も体験してきている。それに比べればこの程度のことは遊びの一環だ。
大丈夫。わたしは越えてみせる。サティンは息を吸った。
「答えなさい、鎖縛。わたしの夢を覗いたのね?」
漆黒の男は横を向き、苛立たしげに吐き捨てた。
「そんなたいそうなもんじゃあない。ただ、派手にうなされてたからそう思っただけだ」
サティンはほっと息をついた。
彼がそう言うのならそうなのだろう。この男は陰気だが、つまらぬ嘘はつかない。何故かそんな確信がサティンの中にあった。
「……そう」
それから夢で見た架因の生首を思い出し、そっと胸を押さえる。
「わたし、寝言で何か言ってたかしら……?」
半ば独り言のようなその言葉に、しかし青年は律儀に答える。
「ああ、言ってたぞ。……架因、とかな」
「そう」
とサティンは頷いた。そして鎖縛の顔を見た。
「それで?わたしに何か言うことはないの?」
やめなさい、と心の中で声がする。
自分でも馬鹿なことをしていると思う。この男を憎んでも架因は戻らない。だから思い出にすると、乗り越えていくと決めたのだ……なのに。
「わたしに言わなければならないことがあるでしょう?鎖縛」
あの悪夢のせいだ、とサティンは思う。架因の口が紡いだ言葉が忘れられない。
──どうしてこの男と仲良くしているのあたしのことはどうでもいいのねえサティン。
「お前がおれにどんな言葉を期待しているのか知らんが」
と鎖縛は言った。相変わらず感情の宿らぬ口調だ。
「死んだ奴は戻らない。それは確かだ」
きり、とサティンは奥歯を噛み締めた。
「……あなたが言うの?」
この男に唇を奪われただなどと、思い返すだけで吐き気がしてくる。
「あなたが、それを言うのっ!?」
悔しい。激しくそう思った。悪夢の残影が、サティンの心から冷静さを失わせていた。
憎悪に燃える瞳で睨みつける女性に向かって、鎖縛は静かに告げた。
「お前には支えにする連中がいるだろう」
肩で荒い呼吸をしていたサティンは、虚を突かれて彼を見た。
守ると約束した当人はともかく、その周辺の人物の事まで、見ているとは思わなかったからだ。
「……あなたには、いなかったの?そういうお友達が」
この男が昔、柘榴の妖主の玩具にされていたことは聞いている。だからと言って同情する気などさらさらなかったが。
「お友達……か」
鎖縛は何かを思い出すように宙を仰いだ。
彼にしては珍しく、優しい顔をしているような気がした。あくまでもサティンの視点からだが。
「アレがそれに該当するかは分からんが、やたら構ってきた女はいたな。……そう言えば、少しお前に似ていたかも知れん」
「へえ。その人は今どこにいるの?」
煽るための問いかけ──しかし、鎖縛の口から出たのは意外な言葉だった。
「浮城の捕縛師に、封じられたらしい」
サティンは一瞬言葉に詰まる。
「……そう」
会話はそこで途切れた。先程まで爆発寸前だったサティンの憎悪も、その発言で水をかけられ、消滅してしまっていた。
もしかして、彼が護り手になったのは、その彼女を助けるため──?
封魔が永遠でない事は、捕縛師のサティンもよく知っている。だからこそ封魔具を納める『封魔庫』は護り手による厳重な警備を必要としているのだ。
だが、その『護り手』こそが封魔庫の破壊を目論んでいたとしたら……?
いやだ。考えたくない、そんなことは。
鎖縛はまだ何か言いたげに彼女を見ていたが、サティンは構わずに布団に潜った。
「寝るわ。おやすみ」
鎖縛の見せたらしくもない表情と、その女性との関係を考えると、不自然なほどに心臓が高鳴っていた。
こんな不甲斐ない主では、架因に恨まれても仕方ない。しかし、ラエスリールのそして自分のために、今はどうしても彼の力が必要なのだ。



魔性の男が見ている前で、よくもまあ呑気に寝息などたてていられるものだ。
短いやり取りの後、再び深い眠りについてしまった主人……不本意ながらそう認めざるを得ない……を見下ろし、鎖縛は冷たくそう思った。
護ることを強制された以上、この女性の悲痛な叫び声は無視できない。例えそれが悪夢にうなされた、などという些細な現象がきっかけであっても、それに耳を塞ぎ、聞こえぬ振りをすることなど彼には許されていなかったのだ。
舌打ちしたい気分で、鎖縛は左の手首を持ち上げた。そこには朱金色の鈴を連ねた手纏きがある。それは鳴らない鈴であり、目に見えぬ従属の証でもあった。これとこの娘がこの世から消え失せない限り、彼は自由にはなれない。
……そこまで考えた後、鎖縛はかすかに嗤った。
「自由、か……」
果たしておれにそんなものが許されているのか?どこまで逃げても、柘榴の妖主の模造品……偽物であるという運命からは逃れられぬというのに。幾度も連鎖する呪縛を断ち切れる日など来るのだろうか?
「馬鹿馬鹿しい……」
鎖縛は首を横に振った。考えるだけ無駄だった。
そもそも千禍は、鎖縛の存在を知ってはいたのだろうが、最初は何の関心も示しては来なかったのだ。そして鎖縛の方も、世界に五人いるという妖主の存在など知らず、自分だけの世界の中に生きていた。
初めて会った時の事は忘れもしない。噂でしか聞いたことのなかった柘榴の妖主が、傲慢な笑みを浮かべて彼の目の前に立ち塞がっていた。
自分に酷似した……それでいて明らかに格の違う美しさを初めて目の当たりにし、鎖縛は言葉もなかった。
「なるほど……お前か。配下の連中が言っていた鎖縛ってのは」
深紅の男はその言葉だけで鎖縛の全存在を縛った。
「噂通りだ……それにしてもよく似ている。まるで粗悪な影糸術で作られた人形のようだ」
同じ顔、同じ姿、同じ声。それでいて圧倒的な差異を見せ付ける男に、鎖縛は憎悪の眼差しを向けるのが精一杯だった。
そして、彼のその眼差しを柘榴の妖主は気に入ったようだった。闇を由って出現させた鎖を、鎖縛の両手首に巻き付ける。抵抗する術を彼は持たなかった。
「決めた。お前は今日からおれの玩具だ。そろそろ女にも飽きてきた頃だしな」

鎖縛はふらりとサティンの部屋を出て、廊下を歩いていった。
──この女は『おれの』ラエスリールの大事な御友人だ。そのつもりで尽くせよ。
柘榴の妖主の言葉が、鎖縛の存在ごと縛る。
あの鬼畜な男にさえも本気で愛する女がいたというのに、鎖縛はいまだに一人だった。否、一人であることを望んでいた。
傍に寄って来る者はみな、偽物としての彼にしか興味が無かったから。
一人、例外もいたにはいたが……こちらが意地を張っているうちに彼女は姿をくらましてしまった。封じられたと噂で聞いた。
そして今、彼には護ることを強制された存在だけが残った。砂色の髪の娘だ。憎悪を胸の中に押し込めて、哀れなものでも見るように自分を見つめる、はしばみ色の瞳が印象的な娘だ。
悪夢にうなされるその姿はかよわい人間の娘に過ぎなく、その悪夢を見せたのは他ならぬ自分だった。
『サティンを返して!』
最期まで気丈に叫び続けていた彼女の護り手の命を断ったのは、過去の悪夢に引きずられた自分だ。なのにあの娘は鎖縛の名を呼ぶ。ためらいつつもはっきりと、彼自身を呼ぶ。
必要とあらば憎い敵でも利用するというのか……人の考えは理解できなかった。しかし、今の鎖縛をつないでいる存在はあの娘でしかないのだった。鎖縛もそれに気付き始めていた。

そう、本当は自分でも待っているのかも知れない……あの娘の、呼ぶ声を。




──おわり──


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