書庫 うたかたの……(乱華×緋陵姫)


緋陵姫誕生秘話(注:鬱金が出る以前に書いたものです)



手の中に転がる命の結晶。
持ち主から引き抜いたそれは、今は乱華の安堵に満ちた顔だけを映し出している。瑞々しい弾力を持つ水晶体、澄んだ角膜、琥珀色の光彩。自分のものだと思えば思うほど、細胞のひとつひとつまでもが愛おしい。
柘榴の妖主によってかなりの深手を負わされていたはずだったが、この瞳を見ているだけで、それすらも癒されていくようだった。大切なお守りのように姉の瞳を握り締め、彼は束の間の休息を取る。追っ手はもう来ないと判っていた。力添えを頼んだ翡翠の妖主が、あの男をうまく処理してくれているはずだ。

「これで……やっと……」
安心するのはまだ早いと思っていても、はやる気持ちは抑えられない。
ようやく、まったき姉を手に入れる事が出来る。長年探し求めていた姉を今度こそ、在るべき姿のまま自分の傍に。
周囲に気配がないのを確かめると、彼は堪え切れずに片膝をついた。あの男の執拗な攻撃を受けたせいで、全身が未だに激しい痛みを訴えている。
半分とはいえ人間である母の血を受け継いだ彼は、成長した後も肉体の束縛から逃れられずにいた。姉を守るために、がむしゃらに力を求めた過去が、今となっては懐かしい。
口の端に笑みが昇ってくるのを、乱華は隠そうともしなかった。あの日……命を懸けて守ると誓った少女を失ったあの日から、彼の心に安息が訪れた事は一度たりとてなかった。なけなしの力を削ぎ、血眼になって彼女を捜した。邪魔だてをする者は遠慮無く排除した。
時折、父親の何か言いたげな視線が突き刺さるのも感じていた。だがその父とて、大事な母を守りきる事が出来なかったのだ。王蜜の妖主は、チェリクの死を悟った後も、乱華のように取り乱す事はしなかった。あれほど愛していたはずの女の末路を、ひどく冷静に受けとめたのである。
乱華はどす黒い憎悪に身を任せ、すぐさま母を殺めた妖鬼たちを生け捕りにした。琥珀の玉にその身を封じ、死にも勝る永遠の苦痛を与え続けるよう術をかけた。
だが、そうして乱華が憤怒に身を焦がせば焦がすほど、父親の心は醒めていくようだった。母を失ってからというもの、虚空に閉じこもって物思いにふける日々を送るばかりの父に、幼い乱華は次第に苛立ちを募らせていった。
思い悩むくらいならば何故、行動を起こさないのか。自分たちにはまだ、ラエスリールがいる。一刻も早く彼女を捜し出し、守らねばならないというのに。
「追うな」
と、彼は言ったのだ。乱華は信じられぬ思いで父を見返した。
「あれは、人間として生きるべきなのだ。私ともお前とも、二度と交わることはない」
何を……何を言っているのか、この男は。乱華は唇を震わせた。父と慕っていた男が、その時は全く別の生きもののように見えた。
「諦めろと……おっしゃるのですか。あなたが母を諦めたように?」
皮肉げな口調で彼は言った。
父と母は紛れもなく愛し合っていた。子供の目にもそれは明らかだった。妖主ともあろう者が何故人間の女などに心を奪われたのか疑問もあったが、その結果として自分やラエスリールが誕生した。人の血を引くこの身体に苛立つ事もあったが、母の事は決して嫌いではなかった。
だがこの男は、いつの間にかチェリクの死を当然のごとく受け入れている。この世界のどこかで生きているはずのラエスリールの存在さえも、無いものとして扱えと言うのだ。そのような事が出来るはずがないのに。
「あれの望んだことだ。もう追うな」
そして、乱華は悟ったのだった。母はおそらく命を賭して、自分の望みを叶えようとしたのだと。汚いやり方に相違なかった。父は既に乱華の預かり知らぬ所で、ラエスリールと決別を終えていた。
乱華は父のようには愛さない。失ってしまった今になってその人の望みを叶えて、何の意味があるだろう。
父は母を守れなかった。自分は違う。今度こそ、絶対に守り抜くのだ。
再会した時、あまりにも変貌した彼女を見て乱華は愕然とした。無垢であった少女は、父の身勝手により魔性に仇なす人間としての生を押しつけられ、痩せぎすの体で血塗られた破妖刀を振り回す、あさましく歪んだ姿に成り果てていた。その姿を見て、後悔と絶望に何度狂いそうになったか知れない。それも全て自分の責任だった。あの時、彼女を助けに駆けつけられさえすれば。
泣きながら助けを求めただろう彼女の声に、気付いていれば。彼女を歪めてしまったのは間違いなく自分の責任だ。悔しくて申し訳なくて仕方がなかった。腑甲斐ない自分に対する怒りを彼女への殺意にすり変えた事もあった。
これからはもう間違えない。手に入れたら最後、もう二度と放しはしない。
瞼の奥に浮かんでは消える愛しい姉の顔が、ついに、永遠のものとなる。手の平に琥珀を転がし、乱華は呟く。
うたかたの、夢とも思う我が姉の、全き姿、ここに──。

そうして瞳を閉じた時、急速に襲ってきた疲労に、彼は身を任せた。



どのくらい意識を手放していたのか、乱華には判らなかった。気が付けばまばゆいばかりの朱金の光が、その空間を満たしていた。
「な……にが……」
起こったというのか。
目眩を感じながらも彼は立ち上がり、そして手の中に握り締めていたはずの姉の左目が失われている事に気付いた。
急激な不安に襲われ、乱華は眼前に溢れる光の洪水を見た。いつの間にかその中心に立っている美しい女性を見た。
すらりとした肢体、真っすぐな黒髪と、左右で色違いの瞳。緋炎のように鮮やかなその笑顔は、乱華の内側に生じた不安を一瞬にして焼き尽くした。
「姉上」
迷わず、その名を呼ぶ。
全身に光を纏った緋炎の美女は、乱華の呼びかけに笑顔で頷いた。
「待ち焦がれたぞ、乱華」
望んだ笑顔。自分だけに向けられる、極上の笑み。それでもやはり、『彼女』とは異なる。
「姉上……お待ち申し上げておりました」
その場にかしこまり、頭を垂れる弟の金色の髪に、黒髪の美女はそっと触れる。
「お前がわたしを呼んだのだな?」
正確にはこの美女は彼の『姉』ではない。だが、姉に最も近しい存在ではある。片方の目に埋め込まれた琥珀は、乱華が先程まで握りしめていたものだ。
「翡翠の君が、あなたを……?」
震える声で尋ねると、彼女は静かに頷いた。
「ああ。お前が微睡んでいる間にな」
では、術は成功したのだ。堅く握っていた手を開き、乱華は安堵の息を吐いた。そんな弟に彼女は苦笑する。
「何やらお急ぎのようで、すぐに帰ってしまったが……起こした方がよかったか?」
姉らしい、気遣いに満ちた言葉に、乱華は首を横に振った。
「いえ。力を消耗しているのは、あちらも同じ……また改めて礼に伺いましょう」
「そうだな」
彼女の名は緋陵姫。ラエスリールの命を分け与えられ、その琥珀の瞳を核として生まれた存在。
だが、単なる複製ではない。不完全とは言え彼女の記憶、能力を併せ持つ、ラエスリール本人の守護者である。
「休んでいる暇はないぞ、乱華。わたしは力の使い方を覚えねばならないし、お前はあれを取り戻すための算段を練らねばならないのだろう?」
言われて、乱華は頷く。立ち上がり、豊かな姉の顔を間近でじっと見つめた。
鏡に映したような、その姿……宿る魂は同じなのに、紡ぎ出される言葉も仕草も、何もかもが違う。見つめていると姉はもう片方の手も伸ばし、乱華の頬を両手で包み込むようにした。
「どうした、見惚れたか?」
「いえ」
乱華は真顔で否定する。緋陵姫はくすくす笑った。
「可愛げのない……素直に認めればよいものを」
そうは言っても、乱華にはまだ実感が湧かないのだ。
そもそも彼は、緋陵姫を……そう、彼女の守護者を目覚めさせる事には反対だった。自分以上に彼女に近しい存在などあってはならないと思っていたし、そんな存在が現れたら嫉妬に狂わされてしまう事が判り切っていたからだ。
だが、今回の件に協力するにあたって翡翠の妖主が出した条件が、それだったのだ。そして若輩者の乱華は、かの女性の提示した条件に逆らう術を持たなかった。





「金の若君。わたくしは確実を求めておりますの」
腰まで伸びた、豊かな深緑の巻き毛を指で弄びながら、かの女性は言った。
胸にくすぶる苛立ちを抑え、乱華は顔を上げた。
「私一人の力では不足だと、そうおっしゃりたいのですか」
一刻も早く姉を取り戻したい、と。焦る若者を嘲笑うかのように、翡蝶は妖艶な唇に笑みをたたえる。
「お気を悪くなさらず。ただ、あの姫君の力はあまりにも不安定。彼女を支えるには《彼女自身》の力が必要だと思うのだけど……いかが?」
小首を傾げて問われたが、乱華は断固として首を縦に振らなかった。
「お申し出は有り難いのですが……あれ、を理解するのは私一人で十分なのです」
守護者など必要ない。あれを守るのは自分だけで良いのだと、そう訴えた。
「そう……」
乱華の熱弁を聞き終えた後、翡翠の妖主は目を細めた。
「では、この件はなかった事にして下さいましね」
言って、静かに玉座から立ち上がる。跪いていた乱華はぎくりとして、顔色を変えた。
「翡翠の君、そのような……!」
「あら」
振り返った美女は人の悪い笑みを浮かべる。
「わたくしはどちらでも構わなくてよ。若君のご決断次第で、いつでも動けますわ」
彼女が何を目的としているのか、乱華にはいまだ判らなかった。だが、妖主の中で唯一頼りに出来るこの女性の助力は、何としてでも必要だったのだ。
彼は苦渋の決断をした。いや、せざるを得なかった。
「承知……致しました……」
悔しさを押し殺したような彼の返事に、翡翠の妖主は満足したようだった。
「物分かりのよいこと。あの男もこのくらい素直だとよいのだけれど」
彼女と柘榴の妖主の関係は、乱華には初耳だった。他人の色恋沙汰に、興味はない。
「それで、私は何をすれば……」
不安げな顔の乱華に、彼女は微笑んだ。
「簡単な事。あの娘の瞳を抉っておいでなさい」



実際、目にするまでは信じられなかった。
以前、紫紺の妖主が作った人形には、あれほどの嫌悪を覚えたというのに、今のこの姉の顔を見ていると、不思議と満ち足りた気持ちになる。
頬に触れている手を、乱華は掴み、その身体を引き寄せた。緋陵姫は少し驚いたようだったが、抵抗はしなかった。
「姉上……」
黒髪に顔を埋め、彼は嗚咽にも似た声を洩らす。本人では、ない。それが判っているのにどうして、こんなにも安らげるのだろう。
震える彼の背を、姉は優しく撫でてくれた。
「よしよし。乱華は寂しかったのだな」
「姉上……私は」
誰かに甘えることなどないと思っていた。父にも母にも、苛立ちと憤りしか覚えず、ただ一人大切に思っていた存在からは、引き離され。力を求め、ひたすら独りで戦ってきた過去。思い出し、感じ入る。
この女性に抱き締められた瞬間に、堰を切ったように様々な感情が溢れ出してきた。間違ったことをしてしまったのだろうか。いいや、これから修復すればいい。まだ間に合う。
「どうか……私に、力を」
無言の頷きが、返ってくる。
姉の守護者は、そのままの姿勢でずっと傍に居てくれた。温かな抱擁に身を預け、乱華は幼子のようにただ、肩を震わせ続けた。




──おわり──



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