・逃亡中のラスが蜂蜜を食べられなくなるだけの話。 ・超短編。オチなんてないです 「たまにはまともな食事がしたい」と護り手に告げたのは、特に空腹を覚えていたからではない。自分に対してらしくないほどに気を遣う闇主の姿を、これ以上見ていたくなかったのだ。 「判った、それじゃ人里に下りようか」 闇主は例のごとく美しい人間の女性に姿を変えた。二人が入った食堂は人もまばらで頼んだ料理はすぐに運ばれてきた。女性姿の彼もラエスリールと同じものを注文する。 「あのな……闇主」 パンをちぎっては口へ運びながら、目の前の護り手に言う。 「何かしら?」 女性そのものの声と仕草でアンシュが答える。 「……わたしは、大丈夫だ。だから、その……」 うまく伝えられないもどかしさに口籠もる。アンシュはそんなラエスリールを黙って見つめている。 そこにあるのは静かな労りだった。いつ終わるのかも分からぬ逃亡生活に、彼はずっとこうしてつきあい続けてくれるつもりなのだ……全てはラエスリール自身の過失によるもので、彼が共に苦労を背負い込む義理など何一つないというのに……。 「また、埒もないことを考えているわね?」 彼女の心の内を見透かしたかのようにアンシュが言う。 「わたしなんかに気を遣ってる暇があったら、さっさとこの状況を打破する案の一つや二つ、考えて見たらどう?まあ、もともとあなたにそんな器用さなんて、期待していないけどね」 ずけずけと、言いたいことを言ってくれる…だが、その辛辣な言葉さえも今のラエスリールには有り難かった。一人であったならきっと耐えられなかっただろう。 「ラス、料理が冷めるわよ」 アンシュの声に我に返る。そこへ、店の主人らしき男が何かを運んできた。「お嬢さんがた、食事が進まないようだね?」 「あ、いえ……」 「それならこれはどうだい?高級アカシア蜜だよ。パンにたっぷりかけて召し上がれ」 店主はちぎったパンに蜂蜜を塗った。 「あ…ありがとうございます」 口に運ぼうとしたラエスリールの手がふと止まる。 「あ……あ……」 目に映るのは鮮やかな蜜色。蘇るのはあのおぞましい記憶。千切れた父の肢体……姿態……死体。 「あ……」 顔色を変えたのは、何もラエスリールだけではない。がたり、と椅子から立ち上がったアンシュが、店主の胸ぐらを掴み上げんばかりの勢いで言い放った。 「……おい、これを下げろ」 当然の事ながら、店主には訳が分からない。ただ、どうやらこの美女たちの機嫌を損ねてしまったらしい事だけは察したようだ。 「な、何か不都合でも……」 「いいから、下げろ!」 口調が男性に戻っていた。 慌てて皿を下げる店主を尻目に、擬態をといた闇主がラエスリールを抱き抱える。 「闇主、こんなところで……っ」 「誰も見ちゃいない」 そのまま立ち去ろうとする青年に、ラエスリールは慌てた。 「代金がまだ……」 「何も食っちゃいない。いいから黙ってろ」 忘れていたつもりだった。二度と会うこともないと思っていた父。あんな形での再会が待ち受けていようとは夢にも思わなかった。輝かしかった父の変わり果てた姿。千々に引き裂かれ蜜色の液体をとめどなく流す肉体。同じような色を見るたびに思い出してしまうあの記憶。 当分蜂蜜は食べられそうにないな、ラエスリールは思った。 ──おわり── 戻る [*前] | [次#] ページ: TOPへ |