夜空に、針で穴を開けたような星たちが瞬いていた。 月はたったひとつでも明るいが、数では遥かに勝っているはずの星々は、地上を照らしだせるまでの輝きには至らない。 消失の恐怖に怯える星たちのために、月が少しでも光を分けてやれたらいいのに。 ラエスリールは青く光る月をぼんやりと見つめていた。 月の表面は人によって兎に見えたり、木にぶらさがった男に見えたりするらしいが、彼女には荒れた肌のようにしか見えない。 触れたらきっと、ざらついた感触を伝えてくるだろう。 月も疲れているのだ。太陽が隠れている間も、休む暇がないのだから。 傍らに佇む青年を見た。人ではあり得ない深紅の髪が、美しい目鼻の造形が、闇の中に鮮やかに浮かび上がっている。 彼は腕を組んだまま、瞼を閉じていた。眉間には、ここ数日消えたことがない皺が刻まれている。 眠る必要のない彼が瞳に蓋をするのは、ラエスリールには見えないものを見ている時なのだと、分かっていた。 さらに言えばそれは彼女に極力見せたくないものであるという事も。 「闇主」 そっと呼び掛けたが、返答はなかった。身じろぎした時、肩から何がずり落ちた。 暖かな毛布。いつの間にこんなものをかけられたのだろう。 いや、それより、どこから出したのだろう、これは? ラエスリールはやたらと高級そうな毛布と護り手の横顔を見比べ、怒りに頬を染めた。 この男の性格からして、正当な方法(代金と引き替えに品物を受け取る等)で入手したのではない事は確かである。 「闇主!」 名前を叫びながら肩を揺すると、青年は不機嫌を隠そうともせずに言った。 「なんだ?」 開かれた瞼の奥に宿る剣呑な光に、彼女は息を飲んだ。だが、ここで気押されるわけにはいかない。 「この毛布はどうしたんだ。あれほど、盗みはやめろといったのに」 咎める視線を、青年に送る。 彼は目を逸らさなかった。ただ、じっとラエスリールを見つめていた。 暗闇の中で視線を交わらせていると、鼓動が高鳴ってくるのを感じる。 膨れ上がりそうな心臓を抑え切れず、ラエスリールの方が先に顔をそむけた。 「だ…黙ってないで何とか言え!居心地が悪い」 見つめられると胸が苦しくなるのは何も今回に限ってのことではない。 お世辞にも寡黙とは言えない青年は、肝心なことは決して打ち明けてはくれなかった。 いつも、いつも、不安にさせられる。 「今更、何を言えって?」 青年の手が不意に、ラエスリールの手首を掴んだ。 触れられたその部分だけ、体温が上昇したような気がして、彼女は狼狽した。 見慣れた青年の顔が、息が触れるほど近くにある。 「闇…?」 怒りではない、別の感情に頬を焼かれる。 以前は気持ちが表に出ない性格を呪ったものだが、今となってはあの頃が懐かしい。 赤くなった顔を見られたくなくて、空いている方の手で隠す。だが根性の悪い青年は、それを許さない。素早くもう一方の手も掴む。 「な、な、な」 狼狽する彼女を間近に見て、彼は不敵に笑った。 「お前が嫌がることをしてみたくなった、と言ったらどうする?」 青年は、ちょっとした謎掛けのつもりだったのかも知れない。 だが彼女にとってその言葉は、からかい以上の意味を持たなかった。 「ふざけるな、闇主」 抑えた声で告げる。案の定、相手は顔をしかめた。 「お前がわたしを退屈しのぎの道具にするのは、ある程度は我慢する。 お前の力を借りて逃亡している以上、それは仕方のないことだ」 言葉を切り、彼女は毅然と顔を上げた。 「だが、他の人間を巻き込むな。誰が手をかけてこしらえた物を盗んだり、破壊したりすることは」 人の道に外れている、と言い掛けて、ラエスリールは口をつぐんだ。 魔性に人道など説いて何になるだろう。それも、こんな男に。 土の上に投げ出された毛布を見つめ、彼女はため息をついた。 「もう、いい…」 魔性と人間では価値観が違うことは知ってはいる。 常に罪悪感に悩まされる人間と違って、彼らはごく当たり前のように物を奪い、街を焼くのだ。 父と母も、そのことでよく喧嘩をしていた。 『父さまも母さまも、好きなのにどうして喧嘩するの?』 不思議に思って尋ねると、母が淋しそうに微笑んだのを覚えている。 『好きだからこそ、判り合えない時の痛みも、倍に感じられるのよ…』 あれは、どういう意味だったのか。ラエスリールにはいまだによく判らない。 「勝手に完結させるんじゃない」 呆れたような青年の声が耳を打った。 「お前は本当に馬鹿か?こんな命懸けの退屈しのぎをするやつがどこにいる」 そこにいるじゃないか。 そう言い返したくなるのをぐっと堪える。どうせ、口では勝てないのだ。何を言っても結局は丸め込まれる。 「どうした、反撃しないのか?」 本当に情けない話だ。何か、ひとつでも彼に勝てるものがあれば。 そうすればこんなに気持ちを乱されることもなくなるはずなのに。 ラエスリールの脳裏に閃くものがあった。 父と母は些細な事でよく喧嘩をしていたが、仲直りの時に必ずある事をしていた。 確かそれは、闇主の治療法に似ていたような…。 「ラス?」 青年の顔の位置を、彼女は把握できていなかった。 勢い良く顔を上げた瞬間、がんと額がぶつかる。目の前に火花が散った。 呻いて額を押さえる。痛いのはもちろんラエスリールだけで、青年は平然としている。 それが癪に触って、つい恨めしげな口調になってしまう。 「不公平だ。どうしていつも、私だけ…」 すると、青年が意外そうに目を見張った。 「お前らしくないな、そういう言い方は」 今度はラエスリールが目を丸くする番だった。 「そう、だろうか」 今までも、青年の前では結構弱音を吐いていたつもりだったが。 それとも、日頃から不平の多い彼にとっては、あんなものは愚痴のうちに入らないのだろうか。 「あざになってないか?見せてみろ」 闇主は額の手をどけた。強引に顔を近付ける。ラエスリールの記憶がふと呼び起こされた。 そうだ、父と母も、二人きりになると、よくこうして顔を寄せ合っていたのだ。 『さっきはごめんなさいね、××××』 母は甘い声で父の名を呼んでいた。幼いラエスリールは、眠った振りをしながら様子を伺っていた。 『私も少し言い過ぎたな…許してくれ』 父はそう言って、静かに母に顔を寄せた。 その先を今まで忘れていたが、たった今思い出した。 「そうか、判ったぞ!」 闇主の唇が額に触れそうになった時、ラエスリールは唐突に叫んだ。 出鼻をくじかれた青年はその態勢で止まっている。 「なにが判ったって?」 いい加減にしてくれ、とその顔には書いてある。 だがラエスリールは、まるで難しい問題の正解を見付けた子供のように、嬉しそうに青年を見つめていた。 「覚えているか?以前、お前と派手な喧嘩をした時のことを」 嬉々として尋ねる彼女に、闇主は呆れたように答えた。 「…紫紺の一件のあたりか?」 ラエスリールはこっくりと頷いた。 「そうだ。あの時お前は、傷だらけだったわたしに、変なことをしただろう?何故あんなことをしたのか、今までさっぱり判らなかったのだが…」 その言葉に、闇主のこめかみが激しく震えた。 彼は何とか耐えたようだったが、ラエスリールは更に続けた。 「今、やっと判ったんだ。父と母も喧嘩の後必ず『あれ』をやっていた。あれはつまり、その…仲直りの印だったのだな?」 呆れてものも言えないでいる青年の前で、ラエスリールは神妙な顔をして言った。 「今まで気付かなくて悪かった。仲直りの時は、こうするのだな」 父と母の姿を思い出しながら、ごく自然に顔を寄せた。青年はしばらく唖然としていたが、やがて乱暴に腕を掴み、彼女を胸の中に引き寄せる。 月光の下で、唇がかすかに触れ合った。 閉じるものだとは思っていなかったから、目は開けたままだ。あの時と同じ吐息を感じる。 仲直りの印はこれで二度目だったが、以前とは何かが違う。体の内側から、熱いものがじわじわとこみあげてくる感じだった。 体に力が入らない。背中に回った青年の腕がラエスリールの背中を強く圧迫した。 身動きも出来ない。口づけの度に、額が軽くぶつかる。 青年の深紅の前髪と、漆黒のそれが穏やかに擦れ合う。優しく頬を撫でる手から、逃すまいとする意志を感じる。俯いてもすぐに顎が上向けられ、繰り返し重ねられる唇が徐々に熱を帯びて感覚を無くしていく。 「あ…闇主」 ラエスリールには既に、自分と青年との境目が判らなくなっていた。このまま互いの熱を分け合っていったらどうなるか、恐ろしくなった。 「や…もう、いいから、闇主」 回らない舌で必死に抵抗する。 「…いいから…仲直りの印は、もう」 頭の芯がぼうっとする。何か変だ。父と母は、こんなに長く口を付けていなかったような気がする。 それに前のはもっとあっさりしていた。今は、憎しみさえ感じる。得体の知れない熱に侵されて、体が焼き尽くされそうだった。 「あ、ん…」 吐息さえ吸われて、半分意識が遠くなりかけたラエスリールは、青年の肩ごしに浮かんでいる月を見た。 有り得ないことだが、そこには顔を寄せ合う二人の影が映っているような気がした。 『月の表面の模様はね、見る人の心の状態によって違うのよ』 母の言葉を思い出す。 『同じ月でも、楽しい時には明るく、悲しい時には暗く見えたりするの。人間なんてそんなものよ…自分の都合のいいように現実を歪めてしまう』 主観次第で、世界は変わってしまう。善悪の価値も愛情の形も。 今彼とこうしている事が正しいのか否か、それを決めているのは神ではなく、ラエスリール自身だった。 彼女はそっと闇主の背に腕をかけた。視界の隅に、転がったままの毛布が映っている。 胸は痛むけれど、今はそれを拾わない。彼の罪に、見て見ない振りをする。今だけは。 判り合えない時の痛みを、よく知っているから。 ──おわり── 戻る [*前] | [次#] ページ: TOPへ |