書庫 星の絆(鎖縛×衣於留)


衣於留が鎖縛を心配してお外に連れ出す話。
オリキャラと、最後にローブの人が出ます。






暗い、暗い…漆黒の淵にうずくまって、ひとり膝を抱えている青年が居る。
《美》としか言いようのない、その造作。
やや不機嫌そうに寄せられた眉も、見ようによっては悩ましげにさえ感じられるほどに。
だがその秀麗な横顔に声を掛ける者は今はいない。
哀れみの言葉どころか、蔑む言葉さえ投げる者はいなくなった。
深紅の魔王の手に落ちた時から、鎖縛は全てを拒絶していた。
いつから居るのか、またいつまでここにいるのか、それは彼自身にも決して判りはしない。
憎悪や足掻きはやがて絶望に塗り替えられ、やるせない怠慢こそがこの身を縛る鎖となった。

眠ろう、と頭の隅で誰かが囁く。
痛みに耳を塞ぎ、傷に目を瞑り、全てを自分とは関わりのないものとしてしまおう。
心を閉ざして。
──よく出来た偽物だこと。でも柘榴の君の方がよほど魅力的だわ。
「黙れ…」
うずくまる背中に向かって突き刺さる、笑い声。
──本当にあの方に瓜二つだなあ。けれど中身は大違いだ。出来の悪い模造品だよ。
「黙れ…」
逃げ場のない苦しみ。
あの男さえいなければ、と何度思ったか知れない。
時折思い出したように姿を現し、鎖縛を痛めつけては去って行く柘榴の妖主。
抵抗しようと振り上げた拳ごと打ち砕く、圧倒的な力の差。
「おれは、おれだ…」
鎖縛は呻く。
答えは奇跡のように降っては来ない。
過去に出会った妖貴たちの悪意の囁きが、今もなお幻聴となって彼の鼓膜を締め付ける。
──あれ、誰?知らないの。
──鎖縛って。柘榴の妖主の偽物。出来の悪い人形?模造品。
「やめろ、おれはおれだ!」
──へえ、声まで似てるんだ。寒気がするな。
──お願い、あたしに口づけして。柘榴の君のお傍には近付けないから、せめてあなたと…ねえいいでしょう?どうせ顔は同じなんだもの。ね、愛してるって言ってみてよ。
「やめろ…おれは、おれはあの男じゃない。代わりにするな」
──では、お前自身の価値とはどこにあるんだ?鎖縛よ。
「やめろ」
──偽物扱いされるのが嫌なら、お前の色を見せてみろよ。それとも何か、個性がないのが個性だとでも言うつもりか、ん?
おれの支配から逃れられないのは…いや、逃れようとしないのは、お前自身が、このおれに甘えているからなんだよ。
「違う…違うっ!」
──おれの玩具という役どころはおいしいだろう。話しかけてくれる連中も、以前より増えたんじゃないか?
「ふざけるな…誰が…っ」
──そう、その調子だ。いい眼をするじゃないか。本当に面白い奴だ。可愛がってやるよ…飽きるまでは、な。
「やめろっ!」
叫びは力となり、闇の中にこだまする。遠くで何かが崩れる派手な音がした。


「あらあら…」
その音が止んだ時、艶めかしい声が傍で聞こえた。
「相変わらずご機嫌斜めみたいね、鎖縛」
重い静寂を破って現れたのは、一人の女性だ。
長い漆黒の髪と、黒衣に包まれた妖艶な肢体。彼の隣に立っても何ら遜色のない美貌の主である。
「あんたか…何の用だ?」
そっけなく言うと、衣於留は肩を竦めた。
「用というほどではないけれど。こんな美女がわざわざ遊びに来てあげたのだから、もう少し嬉しそうな顔は出来ないものかしらね?」
自分で言うか、普通。鎖縛は心の中で毒づいた。
柘榴の妖主の元に囚われてから、仲間の妖貴たちとは次第に疎遠になった。
もっとも鎖縛自身もその方が気が楽だった。『妖主の偽物』に対する同胞たちのあからさまな侮蔑の視線は、いい加減見飽きていたからだ。
だがこの衣於留という女性だけは、出会った頃から何かにつけて鎖縛を構おうとする。
「愛想がいい男と遊びたいのなら、他をあたってくれ」
うるさげに手を振り、彼は目の前の女性に告げる。
「おれはあんたのお喋りにつきあっていられるほど暇じゃないんだ」
衣於留は美しい切れ長の眼を細めた。
「その割には随分長いこと動かなかったようだけど?」
からかうような口調に、鎖縛の眉が震えた。
「覗き見か。趣味が悪いな」
「あなたの主人ほどではないわよ」
衣於留は全く悪びれずに言うと、彼の手首を縛っている鎖を一瞥した。
柘榴の妖主特製のものだ。彼の真実の名が織り込んであるため、本人の力では決して外れない。
「部下にこんなものつけさせて…」
白い手が鎖へと伸ばされる。
「やめろ」
鎖縛の制止は間に合わなかった。
「つっ…!」
痛みを感じたのか、衣於留はすぐに手を離す。
指先に紅い跡が出来ていた。鎖縛は薄く自嘲の笑みを浮かべる。
「だから言ったろう、無駄だって。あんたにはその鎖は外せない」
じゃら、と鉄の擦れ合う音がする。
傷ついた指先を口元に持っていきながら、衣於留は呟いた。
「そのようね」
鎖縛は喉の奥で低く嗤った。
「何をするかと思えば、同情のつもりか?冗談じゃない。
おれを解き放って、それからどうする。今度はあんたがおれを見下すのか?」
衣於留は呆れたように彼を見た。
「誰もそんな事しないわよ、面倒臭い。
…判った、あなたって根本的に考え方が暗いんだわ」
受けた傷など気に病む必要はない。何故なら口に含んだだけで、その指は元の白さを取り戻す。
魔性とはそういう生き物だった。
外側からなら幾ら傷ついても復元する事が出来る。
しかし内側の…心の傷は容易には塞がらない。
人は眠りによって痛みを癒す。ならば眠らぬ魔性は何でそれを癒す?
「ねえ、あなたいつまでそうしているつもりなの。それとも誰かが助けてくれるとでも思っているのかしら?」
否、そんな期待は端から抱いていない。
「黙れ。あんたに何が判るっていうんだ。おれの話す言葉に皆が笑う、歩く姿に後ろ指を指すこの苦痛が」
衣於留はじっと彼を見ていた。
錆びた鎖は彼の呪縛の長さを予想させる、だがそれは長年の酷使にも千切れる気配すら見せない。
「わたしには判らないって?それはそうよ。わたしはわたしで、どうしたってあなたの立場にはなれないものね」
お喋りな女だ、と鎖縛は思う。
だが、憎めない。
初対面の時から変わらない開けっ広げな態度。
鎖縛を偽物としてではなく接してくれる唯一の存在が、彼女だった。憎みたくはないから、もうこれ以上は近付いて欲しくはない。
期待しては駄目だ、どうせいつかは裏切られるのだから。
期待も、希望も、手にした傍からあの男は奪っていくだろう。喪失の恐怖に耐え切れる自信は、今の彼にはなかった。
「だけどね、それは柘榴の君にしたって同じ事。あなたがどれだけ努力してもあの方には追いつかないように、あの方だっていくら頑張っても《鎖縛》という存在にはなれないのだから」
だから、どうした。居直れとでも言うつもりか。
「視野を広げなさいな。いじめられているなんて思わずに、逆にこっちが遊んでやってるんだって考えたらどう?」
そんな安易な励ましの言葉で救われるほど、浅い傷ではない。
「何も判っちゃいないくせに…」
鎖縛は呻いた。
目の前の女性に憤りをぶつける事で、崩れそうになる自我を必死で保とうとしていた。
「あんたは誰かと比較された事なんてないだろう?自分と同じ顔をした、だが力では到底適わない奴に、
死ぬ寸前まで叩きのめされた事なんてないだろう。逃げても、隠れても、引きずりだされて力の差を見せ付けられた挙げ句、強制的に配下にさせられて!この苦しみがあんたに判るのか?」
何を取り乱しているんだ、おれは?
無様な。
まるで相手に更なる哀れみを期待しているかのように。
だが一度迸った感情は止めることが出来なかった。
衣於留は腕を組みながら、ただ黙って彼の言い分を聞いていた。
まるで、聞き分けのない弟を見るような眼差しで。
「そうね。判ると言ったら嘘になるわ。少なくともわたしは偽物と呼ばれた事はないし、鎖で縛られた経験もないもの」
言って、衣於留は再び手を伸ばす。
今度は何をする気だ、と鎖縛は眉を潜めた。
衣於留の細い手が、鎖に触れないよう慎重に動く。手探りで彼の腕を直接掴み、そのまま強引に引き起こす。
「お、おい!?」
よろけたはずみで彼女の胸に頭から突っ込みそうになり、慌てて足を前に踏ん張る。
衣於留は、彼の腕を痛いほど強く掴んでいた。
怒りによるものではない。
では何が彼女をそうさせているのか…鎖縛には理解出来ず、戸惑う他はない。
「でも、少なくとも他の連中よりは、理解しているつもりなんだけど?」
紅い唇が確信に満ちた言葉を紡ぐ。
そう言えばこの女の顔はいつも正面を向いているな、と鎖縛はようやく気付く。
衣於留は他の妖貴たちのように鎖縛を見下ろすことはせず、かと言って見上げることもしない。
いつも彼と目線を合わせて話をするのだ。
「あなただって、一生繋がれたままでいいとは思わないでしょう?だったら…」
その真っ直ぐな力強い瞳で鎖縛を見て、腕を引いて。
彼女は有無を言わせぬ口調で言い切った。
「ついてらっしゃいな。あなたに、会わせたい人がいるの」





癒えない傷など傷の内には入らない。
癒えるからこその傷であり、そうでないものは疾患と呼ぶ。
他者の害意によってつけられるのが傷、対して疾患は自らの内側に生じた毒だ。責任は、他でもない自分自身にある。
数百年も生きていてそんな簡単な事も判らないのだ、この坊やは。
背後でぶつぶつと不平を垂れながらも自分にくっついてくる青年の気配を感じながら、衣於留はそんな事を思っていた。
彼女は、柘榴の妖主の事はあまり知らない。
ただ、決して良いとは言えない評判だけは、時折耳にしていた。
何でも性格の捻じ曲がり加減は妖主一だとか、美しい女をさらってきては、用が済めばちり紙のようにポイ捨てしているだとか、男性の妖主とは不仲なくせに、翡翠や白焔の君とは妙に親しくしているだとか、根っからの遊び人で滅多に自分の城には居つかないだとか、女装が趣味のロリコン黒タイツ男だとか、とにかくいい噂は聞いた事がない。
そんな相手にいじめられているのなら、多少性格が歪むのは仕方がないのかも知れない。

「運が良かったのよねえ、わたしは」
しみじみと呟く。背後に居る鎖縛が怪訝な顔をしたのが分かった。
「何が良かったって?いや、それより、どこまで行く気だ?」
衣於留は笑う。
「もうすぐよ。そんなに焦らないで、どうせ暇なのでしょう?」
すぐに、相手がむっとする気配が伝わってくる。
「悪かったな。だいたい、暇なのはあんただって同じだろうが。
一体何をすき好んでおれなんかにお節介を…」
鎖縛の言葉は、最後まで続かなかった。それまで漆黒に染まっていた空間が、褐色に変化したからだった。
肌を包む空気さえも、明らかに変わったのが衣於留にも判った。そしてそれは目的地が近いことを二人に告げる。
「おかしいわね」
衣於留は眉を潜めて上空を見上げた。
以前に訪れた時より早くに着いたような気がする。頭上に広がるのは、木の実のような、肥えた大地のような…空のようで空でないもの。
二人は黙したまま飛び続けた。やがて前方に足場が見えてきた。
近付いてみると、それが吊り橋である事が判る。着地した衣於留は青年を振り返った。
「あとはこの橋を渡るだけよ」
鎖縛は何か言いたげな顔をしている。
その視線の先を追うと、遥か前方、霧に霞む橋の向こうに、巨大な城が見えている。
衣於留は青年に視線を戻し、微笑んだ。
「そう。あなたに会わせたい人というのは、あの城の持ち主」
鎖縛は整った顔をくしゃりと歪めた。
「…ご大層な知り合いがいるんだな」
自分の居城を構える事が出来る魔性は、世界にごくわずかしか存在しない。
妖主の城は五つ、亜珠の漆黒城などに代表される妖貴の城は全部で十二。
そのうちの二つは既に城としての機能を果たしていないと言うから、実際には十だ。
妖主の側近かそれに準ずる力を持った者でなければ築く事の許されない、魔性の権威と実力の象徴。
それを目の当たりにして、鎖縛は戸惑っているらしかった。
衣於留は更に歩き続ける。
大きな門が見えてきた。無駄な装飾が一切施されていない、実用的な造りの門だ。
主の性格をよく現している。 その門の前に立ち、彼女は叫ぶ。
「叙伊、いるんでしょう!例の彼を連れてきたんだけど?」
一瞬の静寂の後。
『…ああ、入れ』
低い男性の声とともに、きい、と音を立てて門が開いた。
悠然と中に入っていく衣於留、その後を不承不承といった様子でついていく鎖縛。
城内は広く簡素な造りだった。
歴史を匂わせる木目調の壁と床、高い天井には蜜柑色のランプが灯り、落ち着いた空気を醸し出している。
城というよりも、どこかの中流貴族の別荘のようだ。
回廊の向こうから一人の青年がゆっくりと歩いてきた。
この城の主人、叙伊だ。長い黒髪と、切れ長の瞳。
「久しいな」
青年の顔を見た途端、鎖縛が絶句するのが判った。
予想通りの反応に、衣於留は満足する。
「紹介するわ。こちらはわたしのお友達の、叙伊。よく似ているでしょう?」
そう、青年…叙伊の顔立ちは、衣於留と酷似していたのだった。
無論、男と女であるから体の造りこそ違うものの、目鼻の位置から髪の長さまで、血縁があるのではと思うほど見事に一致している。
「あなた、いつの間に引っ越しをしたの?久しぶりに来たら、城までの距離がだいぶ縮まっていたわよ」
鎖縛の動揺などそ知らぬ振りで、彼女は知己に話し掛ける。
叙伊という青年は、長い髪を気怠げに掻き上げた。
「ああ…他の連中が縄張りがどうのってうるさいんで、城ごと移動させてもらったんだ…」
衣於留は破顔した。
「あなたもほんとに相変わらずねえ」
城を移す、と口では簡単に言うが、実際はなかなか出来る事ではない。
彼はそれだけ力のある妖貴だった。
なのに極度の面倒くさがりで、他人ともめ事を起こすことを嫌う。
「まあ別に俺は、こんな城あってもなくても構わないのさ…ただ、我が君が建てろって言うから仕方なくだな…」
叙伊は、二重瞼の奥のやる気のなさそうな目を、ちらりと鎖縛に向けた。
「で、これが例の坊やか。何とも陰気な面構えだな」
衣於留はけたけた笑った。
「いいじゃないの、わたしが気に入ってるんだから。それじゃあ、お願いね」
叙伊は溜め息をついて前に進み出る。
「面倒だが…ま、衣於留の頼みなら仕方ないか…」
そう呟いた刹那、衣於留とそっくりの美しい顔が真面目なものへと一変する。
鎖縛が身を引いた時にはもう、叙伊は彼の鎖を掴んでいた。
衣於留の手を焼いた、柘榴の妖主の魔力が込められた鎖を、何と素手で握ったのだ。
「よっこらせ」
あまり緊張感のない台詞とともに、叙伊は手首を軽く捻る。事もなげに。
ぶつっ、と鎖は切れて鎖縛は長年の呪縛から解放された。
された事が、自分でも信じられないような顔をしていた。
「これでいいのか?」
叙伊は平然と衣於留を振り返ってそう言った。
不要になった鎖を指先でくるくる回すと、空中に放り投げる。
鎖縛を縛っていた鎖はもつれあって、どこか別の空間へ消えてしまった。
衣於留は頬に手をあててしきりに感心している。
「さすがねえ…同じ星の下に生まれて、どうしてこうも力に差があるのかしら」
その言葉に鎖縛が息を飲んだ。衣於留と叙伊の顔を交互に見比べる。
「それじゃ、あんたらは…」
「そうよ」
衣於留は鎖縛を見つめながら、深く頷く。
「あなたや柘榴の君と同じように、わたしたち二人も同じ星の絆で繋がっているの。もっとも、わたしには叙伊ほど優れた力は与えられなかったけれどね」
鎖縛の顔が歪んだ。それでもなお、彼は美しい。柘榴の妖主には決して得られない種類の美しさがある。
しかし鎖縛自身がその事実に気付かない限り、真の意味での解放にはならないだろう。
衣於留は彼にそれを教えてやりたかった。そのために、叙伊と対面させたのだ。

「ふざけるなっ!」
鎖縛は叫んだ。衣於留は眉一つ動かさず、彼の怒りを受けとめた。
「おれと、あんたたちを一緒にするな!相手は妖主でおれは妖貴に過ぎないんだ、それをっ…」
柘榴の妖主と仲良く並んで歩いている己の姿を、想像でもしてしまったのだろうか。
表情に露骨な嫌悪が滲んでいる。
「何を見せるかと思えば…馬鹿馬鹿しい、おれは帰らせてもらうからな!」
きびすを返し、靴音を響かせながら門の外へ出ていく。
その背中を黙って見送る衣於留に、叙伊がのんびりした口調で告げる。
「追わなくていいのか?世話焼き姉さんよ」
城の門が乱暴に閉まる。
鎖縛の気配が完全に消えてから、衣於留は自分と同じ顔の青年を見上げ、
「いいのよ、これで」
と言った。
「彼を縛っているのは、物理的な力ではないのよ。鎖から解放してあげても、喜ばなかったのがその証拠。あの子が自分で自分の過ちに気付いて乗り越えない限りは、何も始まらないのだから…」
衣於留は目を伏せた。
本当に、自分は運が良かった。
叙伊がもし、柘榴の妖主のような男性であったら、衣於留とて鎖縛同様、自暴自棄の人生を送っていたのかも知れない。
だからだろうか。お節介と思われても、放ってはおけない。
いつかは…解り合いたいと思っては、いるのだ。


虚空城───。
配下の男と談笑していた千禍は、ふと異変に気付いて眉を潜める。
「どうされました、我が君」
彼と向かい合っている男が、低く問い掛ける。
暫く眉を寄せていた千禍は、やがてにやりと笑った。
「いや…どうやらおれの飼ってる犬が、鎖を喰いちぎって逃げたらしい」
彼はおもむろに立ち上がった。
細く長い足に、完璧な美貌。にも関わらずその瞳に宿るのは、子供のような、無邪気にして残酷なきらめき。
気配を感じる方向へ耳を澄ませて、彼は新しい遊びを思い起こす。
「連れ戻さねばならんな。主人に逆らう奴には、仕置きが必要だ」
嬉々とした表情を浮かべながら、千禍は配下の男を見下ろした。
「何ならお前も来るか、参叉?」
参叉と呼ばれた男は静かに首を横に振る。
「結構でございます。あなた様の楽しみは、私には全く関わりの無い事でありますゆえ」
千禍は一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに笑いだした。
「お前も相当面白い奴だぞ、参叉。おれにそんな口をきいて平気でいられるあたりがな」
「恐れ入ります」
参叉は頭を下げた。形だけのそっけない礼だ。
他の妖主であれば考えられない事だが、千禍は作法に関しては全く無頓着な性格だったので、逆鱗に触れるどころか、逆に面白がられている。
「ああ。じゃあな」
おざなりに手を振りながら、主人は『飼い犬』の元へ去った。鮮やかな紅い軌跡を残して。
参叉は宙の一点を見つめていた。主が消えたのとは別の方角だ。
「そう…私には、主人の行く末さえもどうでも良いこと…」
千禍を主に選んだのは、無理に尽くす必要がないから、ただそれだけだ。
参叉が大切に思うのは、主では決してない。
太陽のように明るく朗らかな───あの女性。
焦がれ続けている。
彼女を手に入れるためならば、何を犠牲にしても構わない。
なのに。
「何故…」
参叉は苦しげに俯いた。
ずっと彼女だけを想っている、のに。
「何故、わたしに応えてはくれない?…衣於留」

布に覆われたその横顔がかすかに震えているのを、見た者は恐らく…誰もいなかった。



──おわり──


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