書庫 裸体の夢(シュライン×王太子)


この頃、夢を見る。
胎児のように温かな水に漬かり、まどろむ夢を見る。

珠のように大切に育てられてきた。誰もがシュラインの美貌を褒め称えた。不快な人間も中にはいたが、そういう連中は遠ざければ済む話だった。
選ぶ権利が、彼女にはあった。自分の身体は、自分だけのものだと思っていた。
けれど、違ったのだ。
あの男───突然目の前に現れ、嵐のような衝撃と災厄を撒き散らした、黒衣の男。
自分の力ではどうにもならない事で傷つけられ、その事で咎を受ける日が来るとは、思わなかった。

「姫さま、姫さま。起きてくださいませ」
侍女に揺り起こされ、シュラインは目覚めた。
不自然な寝方をしていたせいか、身体のそこかしこが痛い。瞼を開けるとかすかな頭痛がした。
近頃の彼女の仕事といえば、食事をして、診察をされて、寝ることだけだ。王宮の外には出してもらえず、太陽の光もまともに見ることはなかったから、時間の感覚が鈍っている。
「今、何時なの」
室内に時計はあるが、見る気がおきない。かすれた声で尋ねるシュラインに、侍女が答える。
「正午をまわったところです。湯浴みのお時間ですよ」
「わかったわ」
侍女が素早く両脇に寄り添い、髪に櫛を入れる。以前と全く変わらない、美しい光沢を描く長髪──しかし、そう思っているのは本人だけであることは、周囲の反応からして判り切っていた。
シュラインの髪を梳く、若い侍女の手は震えていた。別の侍女が目でそれを注意する。
「姫さま、申し訳ありません。この子はまだ不慣れで」
「…いいのよ。気にしないで」
シュラインは内心で呟く。
──慣れないからではなく、私が怖いからでしょう?
よっぽどそう言ってやろうかと思ったが、やめた。心まで汚されたと思われてはたまらない。
辟易しながら、彼女は促され浴室へ向かった。数人の侍女が周囲に群がり、寝巻きを脱がしていく。
古参の侍女はシュラインの白磁の肌に、そろそろと指を伸ばした。その指先はまるで汚いものにでも触れるように、硬く強張り、表情は冴えない。

シュラインがガンディアに戻ってきたのは、今から一ヶ月ほど前のことだ。
自分を助けてくれた浮城の破妖剣士とは、国境付近で別れた。これ以上は自分の仕事ではないからと言いつつも、憔悴しているシュラインを気遣い、何度も労いの言葉をかけて去って行った。
年齢が近いせいか、妙な親近感を覚える少女だった。とても無口で、不思議な琥珀の瞳をしていた。
状況が状況だったから、充分な礼も出来なかったが、いつか恩返しをしなければならない日がくるだろう。もっともそれは、今後の身の振り方が決まってからの話になるが。
シュラインは、薄く自嘲の笑みを浮かべた。
再会した母からの最初の一言が、いまだに耳の奥に残って消えない。
───身体を清めなさい。
謁見の間で、ミランスが開口一番に言い放った台詞が、それだった。
辛い思いを味わった娘に対する冷たい態度に、その場にいた誰もが息を呑んだ。
「しばらくは、王宮の外に出ることは禁じます」
一段高い場所から娘を見下ろして、傲然と告げるミランスは、かつて浮城の捕縛師として第一線で活躍していた過去を持つ。シュラインが亜珠に奪われた後も、国を守るものの務めとして冷静に指揮を取り、国王の死体を目の前にしても、取り乱すことさえしなかったという。
氷の王妃、と一部で囁かれているのも知っている。その氷の刃が今、肉親である自分の喉元に突きつけられている。
「お母様…」
覚悟はしていた。絶望というよりむしろ、諦観の念が、シュラインの胸中を占めた。
自分は、かつての自分とは違う。本人が変わっていないつもりでも、周囲は決してそうは見てくれない。
「あなたは聡明な娘です。今の自分がどういう状況に置かれているか、充分理解しているはず」
室内が異様なざわめきに包まれるのも、ミランスにとっては、どうでもいい事らしかった。
「速やかに部屋に下がりなさい。後で医者をよこします」
シュラインは黙って頭を垂れた。
自室に戻ると、それまで着ていた服を脱がされた。まるで病人を扱うように、数人かかりで浴室に運ぼうとする人々の手を、シュラインは振り払い、自分の足で浴槽まで歩いていった。シュラインの身体は丁重に、隅々まで洗われ、長く伸ばしていた爪まで切り落とされた。その後、何人かの医者が彼女の元を訪れ、診察をしていった。
以前は、家族でもない者に身体に触れられるのは厭わしかった。だが今は全てがどうでも良い。彼らはみな、同情と恐怖の入り混じった目で彼女を見つめ、うわべだけの励ましの言葉をかけていった。
ミランスの言う通りだ。これから先何があっても、魔性に攫われた王女、の烙印は消えない。ガンディアに戻った以上、現実は現実として、受け止めなければならなかった。

あれから一ヶ月が経つが、いまだ母からの許しは出ない。
指示通り、寝室と浴室を行き来する日々。もう王宮の誰一人として、シュラインを神聖なものとして崇めてはいない。
ここにいるのは、魔性に羽をもぎとられた、哀れな小鳥だ。見苦しくてとても人前には出せないから、買い手がつくまで、鳥篭でひっそりと飼われている。
侍女たちは、小鳥を新しい寝巻きに着替えさせると、「おやすみなさいませ」と言って立ち去っていった。
恨んでなどいない、母はいつも、とても正しい。
あまりにも自分が予想した通りの現実が待ち構えていたから、むしろ笑ってしまいたいくらいだ。
命令されずとも、今は誰とも会いたくはない。これから先、医師や侍女以外の人物の前で裸体を晒すことは、二度とないのかも知れない。それでも別に構わないが、自分を命がけで助けてくれたあの少女に、今の抜け殻のようなこの姿を見せたら、どう思うだろうか。
溜め息をついた時、不意に寝室の窓が鳴った。
石をぶつけたような、明らかに人為的なものが含まれたその音に、シュラインは顔を上げた。
「誰…?」
わずかな物音にも反応してしまうようになったのは、あの男のせいだ。暗闇からいつ手が伸びてくるか判らない、そんな恐怖を味わったシュラインは、もう無防備な王女ではなくなっていた。
「誰かいるの?」
気のせいではない。窓の外に、明らかに誰かの気配を感じる。
軽い錯覚を覚える。これは、あの時と、似ている。黒衣の残像が脳裏にちらつき、忌まわしい記憶が刺激される。
──誰なの、姿を現しなさい!!
だが、返ってきたのは、まるで別の青年の声だった。
「ひどいなあ。婚約者の声をお忘れですか」
想像もしていなかった返答に、シュラインは息を呑んだ。
婚約者──ハイデラの王太子。幼い頃からの顔見知りで、いずれは彼の元に嫁ぐことが決まっていた──。
雨戸は黒く塗りつぶされていて、姿は見えない。最後に彼に会ったのは、何年前の話になるのか…記憶にある姿より、成長してはいるのだろうが。
「どうして…こんな所に。約束もなしに女の部屋を訪ねるなど、無礼だとは思いませんの」
無礼と言いつつも、声に力が入らない。シュラインはもう、誰かに強く命令が出来るような立場ではない。
「申し訳ない。ですが、再三出したお手紙も読んで頂けていないようですし、面会の申し出も断られてしまったので、やむなく」
王太子が来ることなど、全く聞かされていない。手紙が来ていた事も、知らなかった。母の仕業だ、とすぐに判った。
答えに困っていると、王太子は平然と言った。
「しかし、寝室が2階にあるのはいただけませんね。もう少しで足が滑るところでした」
「滑るって…まさか、木に登っていらっしゃるのですか?」
「そうです」
シュラインは思わず口元を手で覆った。そう、考えてみればここは2階だった。
急いで窓辺に駆け寄る。むろん窓には鍵がかかっており、開かない。魔性の干渉を受けたとはいえ、シュラインはいまだガンディアの王女、絶望のあまり身投げでもされたら外聞が悪いからだ。この高さでは半端で、死ねない可能性の方が高いが。
「何と無茶なことをなさるのです。危険ですから、おやめくださいませ!」
昔から、いささか常識に外れたところがある青年だったが、物事には限度というものがある。必死で声を投げると、雨戸ごしに、とぼけた声が返って来た。
「大丈夫ですよ」
王太子には見えないと知っていても、何度もかぶりを振った。目の前で人が傷ついたり、危険な目に遭ったりするのは、二度と見たくはない。
「こうでもしなければ、あなたに会えないでしょう。けれど、お元気そうで良かった。声だけで残念ですが」
「私の声など聞いて何になります?婚約破棄のお話は、使いの者から既に受け取っております」
「さあ…どこかで行き違いがあったのか、私は聞いていませんね」
「王太子さま!!」
大声に驚いて、彼が足を踏み外したら──そんな懸念は、既に頭から吹き飛んでいた。
彼のためでなく自分のために、シュラインは早口で告げる。
「以前なら歓迎いたしました、ですが今の私は、おぞましい魔性の息吹を受けた身」
口に出すことで、その事実は彼女の中で、より重みを増していく。
「汚れた女は、貴方の妻になる資格などありません。一緒になっても得になることなど、何ひとつないのです。どうか、これ以上私を惨めにさせないよう、お帰り下さいませ」
王太子は、黙ってその訴えを聞いていた。やがて、短く言った。
「周囲が何と言おうと、私は諦めておりません。シュライン姫」
思いのほか真剣な口調に、胸を突かれた。
同時に、あなたなどに、私の何が──という言葉が、口をついて出そうになる。
安易な励ましや同情など、シュラインの傷を広げるだけだ。それともこの青年はそれを楽しんで……いや、もうやめよう。
考えても、結論などとうに出ている。
「お気持ちは嬉しく思います、王太子。しかし、こればかりは私の一存ではどうにもならぬ事なのです。私のことは忘れて、どなたか良い女性と幸せに…」
「あなたは、好きな男に同じ事を言われて、はいそうですかと聞き入れられるのですか?」
少し怒ったような声に、シュラインは言葉を詰まらせた。
黒衣に包まれた、美貌の男の面影が、視界をよぎった。思い出したくもない、けれどそれは時折甘い痛みを伴って胸に甦る。忘れようとしても忘れられない。
「私も同じです。ですから無理に忘れろなどとは申しません。今は、この気持ちが不変である事だけを、お伝えしたかった」
「…王太子」
「お付きの者が煩いので、今日はこれで失礼します。が…貴女の母君のお許しが頂けたら、次は必ず玄関から」
しばらくして、窓の外で、人が蠢く気配がする。木を降りているようだ。
待って、と口に出しそうになったのは、寂しさゆえか、それとも別の感情ゆえか。
彼は、シュラインとの間には、雨戸一枚分の隔たりしかないと思っているのだろう。
だがそれは違う。彼のよく知る麗しの王女は、いまはどこにもいない。
こんな気持ちなど、知らなければ良かった。亜珠は消えてもこの気持ちは決して消えない。自分から全てを奪い取ったあの男を、本当の意味で、忘れることが出来ない。
がさがさと、梢が揺れる音がする。
「王太子、どこに行かれていたのです!」
数人の足音とともに、男性の怒鳴り声が聞こえてきた。
「またお召し物をこんなに汚して…だいたいあなたには、王族としての自覚が…」
「判った判った。説教は後で聞くから、行こう」
大地を踏みしめる、足音が次第に小さくなっていく。
顔を両手で覆い、床の上に膝をついて、シュラインは嗚咽を漏らした。
自分をこの闇から救い出してくれる人が彼だとしても、その彼に自分は、何を与えてやれるだろうか。


この頃、シュラインは夢を見る。
胎児のように温かな水に漬かり、まどろむ夢を見る。
──目が覚めればもう、あの中には戻れない。
縋れば縋るほど、過去が遠ざかっていくような気がして、涙が止まらなかった。





──おわり──


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