書庫 夜露の痣(亜珠×シュライン)


※注意
シュラインの貞操が無事のまま救出された設定です
シュラインの婚約者が出ます






寝台を朱に染めて、横たわるガンディア国王──幼い頃から、その厳格な後ろ姿を見慣れていたシュラインは、その物体が父親なのだとは、すぐには信じられなかった。
魔性の男は、その光景を、まざまざとシュラインに見せつけた。彼女の心に、より深い絶望感と、孤独を植えつけるために。

「いやあああ、お父様、お父様……っっ!!」
空中に浮かぶ珠に映し出される光景に、シュラインは絶叫した。
苦痛に歪められた顔には、かつての凛々しい面影は微塵もなく、滑らかな弁舌で民を魅了したその口からは、赤黒く変色した舌が覗いていた。
奇妙な形に曲がった首と手足、全身に無数に走った切り傷は痛々しく、空気に晒された内臓からは、おぞましい臭気までもが伝わってくるようだった。
無残、の一言だった。妻を愛し娘を愛し、また同じほどに民を愛した国王の、それが最期だった。

「お父様…わたくしの、せいで…」
衝撃は悲しみへ、悲しみは怒りと憎悪へと変化する。ぎり、と床に爪を立てる。美しく整えられた爪が剥がれ、薄く血を滲ませた。
父の苦痛は、こんなものではなかっただろう。浮城に救いを求めたせいで、彼は妖貴の怒りを買った。気を失うことすら許されず、息絶えるその時まで、痛めつけられて───。
虚ろに見開いた目を天井へ向けて、寝台からだらりと腕を垂れ下げたその姿は、シュラインの脳裏に焼きついて離れない。せめてその身体に駆け寄り、開かれたままの瞼だけでも、閉じさせてやりたかった。
けれどそれは叶わぬこと。この身は魔性に囚われ、自由のままならない状況だった。
父は、自分のせいで、命を絶たれた。自分さえ、亜珠に目をつけられなければ、こんなことにはならなかった。
何故、シュラインを見過ごしてはくれなかったのか。執務に追われ、娘のことなど満足に省みることもしなかった父が、母の助言で浮城に救いを求めた──それが、仇になった。
犠牲になった兵士たちや、父の事を思うと、シュラインの胸は引き絞られるような痛みを覚えた。彼女が意図した事ではないとは言え、シュラインは紛れもなく、ガンディアに災いを招いたのだ。死ぬはずのなかった人々が、彼女一人の為に尊い命を落とした。母は、決して亜珠を…いや、シュラインを許さないだろう。
もう、駄目だ。これだけの犠牲が出た、その事実は消せない。あの破妖剣士が亜珠を倒してくれたとしても、一体自分は、どんな顔をしてガンディアに戻ればいいのだろう…!

「よく眠れたかな、花嫁」
シュラインを現実に引き戻したのは、この場にあまりにもそぐわない、穏やかな男性の声だった。
頬を伝う涙を拭い、シュラインは呼吸を整えた。
魔性は、人間の絶望と慟哭を、何よりの糧とする。わざわざ相手を喜ばせる必要は、シュラインにはなかった。
ほどなくして現れる、漆黒の影。それは、耳障りな靴音を立てて床の上を歩き、打ちひしがれているシュラインの傍らに、当然の如く寄り添った。
「こ、これ以上…」
この男が側に来るだけで、全身に鳥肌が立つ。自分より強い者に感じる恐怖とは、また違う。初めて接する、未知のものに対する恐れ、だった。
「これ以上、わたくしにあなたを憎ませるおつもりですの…亜珠の君」
泣きはらした顔を上げれば、そこには眩暈がするほどの美貌があった。優美な、それでいて決して女性には見えない端正な顔を、艶やかな長髪が縁取っている。
完璧な形をした唇が動き、残酷な言葉を口にする。
「邪魔者を片付けただけのこと。何を嘆く必要がある?」
胸の奥でくすぶっていた炎が、一瞬にして勢いを増した。
「片付けた、ですって…!?」
人を、物か虫けらのように扱うこの男の発言は、シュラインの心を常にかき乱す。
漆黒城に連れ込まれて、どのくらいの時間が流れたのか不明だが…その間、彼女は今までにない、激しい感情の起伏に悩まされていた。
「そうとも。そなたの父上は、そなたが他の男のものになることが、余程お気に召さなかったらしい」
言って、魔性の貴族は微笑んだ。髪と同じ色の黒い瞳は、玩具を見つめる子供さながらに、愉しげな光を浮かべている。
「そうではありませんわ。わたくしには、子供の頃より将来を誓い合った、婚約者がおりますの」
シュラインは、慎重に言葉を紡ぐ。自分の言葉のひとかけらでもいい、亜珠を傷つけることが出来たら。
「お父様があなたを拒んだのは、あなたがわたくしと釣り合う程度の男性ではなかったからですわ…そう思いませんこと?」
赤く充血した目で、シュラインは魔性の男を凝視した。
殺されても構わない。彼の心に『不快』という名の傷を一瞬でも走らせることが出来たら、それが亡き父へのはなむけとなる。
だが、男は怒りをあらわにすることはしなかった。すい、とその顔を近づけると、シュラインの耳朶を軽く噛んだ。
押し殺した悲鳴をものともせずに、亜珠は、彼女の身体を引き寄せた。黒衣に包まれた、冷ややかな身体の感触に、彼女は本気で怯えた。
身体が床から離れる、浮遊感覚があった。気がつけば、寝台の上に横たえられていた。シュラインの華奢な肢体の上に覆い被さり、見つめている男の背後には、どこまでも暗い漆黒が広がっていた。
飲み込まれる。反射的に、そう思った。
「触らないで…汚らわしい!」
自由になる腕を振り、目の前に垂れ下がった黒髪を払う。払うたびに、ふわりと甘い香りが広がって、シュラインの理性を狂わせた。
「汚い、とは?」
優しい声で問いかけるその顔に、先程見た父の死に顔が重なる。
どんなに甘い声で誘惑しても、この男は魔性だ。心までは、彼に奪われるわけにはいかない。
「お父様を…大切なお父様を殺めたその手で、わたくしに触れないで!!」
憎悪に、瞳を輝かせながら、シュラインは男を罵倒した。そうすることで、心の支配から逃れようとした。
「手を離しなさい。それ以上触れたら、舌を噛みます!」
気丈に喚く王女の姿に満足してか、亜珠は軽く喉を鳴らした。
「何なりと…だが、そなたがここで息絶えれば、残された民はどうなる?」
シュラインの抵抗が止まった。信じられぬことを聞かされたかのように、視界を覆う闇の化身を見た。
「な…にを…」
「ガンディア国王は、民に愛される良き王だったらしい。その国王を失った民は、さぞかし嘆き悲しんでおろうな。悲観にくれて後を追う者も、数十人、いや、数百は下らぬだろう」
その言葉の裏に隠された意味が、判らぬシュラインではない。
「私が、思い通りにならなければ、民に危害を加えるおつもりだ、と…?」
掴んだ黒髪が、虚しく指の間を滑り落ちていく。
「そなたの父上も、一人で彼岸に旅立つのでは寂しかろう?道連れは、多いに越したことはないではないか」
シュラインの身体から、力が抜けていった。青ざめた顔には、行き場のない怒りが滲んでいる。
「あ、あなたと…いう人は…」
絶望という言葉を、これほど身近に感じたのは、初めてのことだった。
自分の存在が、こんなにも無力で、役に立たないものであったとは、知らなかったのだ。
「それとも、そなたの母上の方を先に送ってやるべきかな?彼女は我等の同胞に仇なす、憎き浮城の手先。現役を退いたとはいえ、未だに奇妙な気配を纏っているな。目障りと言えば、確かに…」
「やめて!!」
シュラインは叫ぶ。
国王を失い、また王妃までも失ったら、ガンディアは今度こそ破滅の道を辿るに違いない。次期国王はまだ、後見が必要なほどに幼い。彼を意のままに操ろうとする大臣達が、内政を乱し──その皺寄せは間違いなく、罪なき民草に及ぶだろう。
「やめて、ください…わたくしは、どこへも行きません、ですから、ガンディアにこれ以上の手出しは、どうか!」
悲痛な声を張り上げるシュラインを見下ろし、男は愉快そうに笑う。
「そうだ、それでいい…そなたさえ大人しくしていれば、しつこい羽虫は放っておいても良い。望みがあれば、なんなりと叶えてやろう…そなたの、心がけ次第でな」
白い指が、彼女の顎を捕らえる為に伸びてくる。シュラインは目を閉じた。
早く、時が過ぎていくことを願った。けれどそれは無意味な願いだということも、認識していた。
閉ざされた空間に、朝日は差し込まない。この場所は、常に夜が支配している。孤独な闇だけが幾重にも広がって、希望の朝が来ることは、決してない…。

「そなたの涙は美しい」
頬に零れた夜露のような雫を舐め取り、魔性の男が囁く。
返事がないのを確かめると、苦笑し、横を向いた顔を正面に向かせる。
シュラインは、震えていた。
異性にこのように触れられるのも、物のように扱われるのも、これまでにない経験だった。
「そう拒まれては、わたしとしては多少傷つくわけだが…言ったはずだ。そなたを傷つけることは、本意ではないと」
どこか寂しげな顔は、演技とは思えない代物だった。彼は、本気でシュラインを想っていると、そう思い込んでいるのかも知れない。魔性は、自らの心さえも偽る生き物だから。
「では、いまわたくしにしていることは何なのか、お答え下さい。力に訴え、弱い者を押さえつけることが、暴力でなくてなんなのです」
王族としての誇りが打ち砕かれ、こうして魔性のなすがままに弄ばれている自分が、ひどく惨めな生き物のように思えた。
この身を彼に委ねれば、ガンディアが滅ぼされることはない──自己犠牲という尊い、そして自分にとって都合のいい現実が、ゆっくりと、彼女の前で展開されようとしていた。
諦めることは、実に楽だ。あの少女は、自分を助けに来てくれようとしているのに──既に心身ともに魔性の手に堕ちてしまったシュラインを見たら、さぞかし落胆することだろう。
「何か勘違いをしているな。そなたの父上にした事と、いま、こうしてそなたにしている事とは、まるで違う。なぜそれがわからない?」
秀麗な顔が、現実を突きつける鏡さながらに、間近に迫る。シュラインは薄く笑った。
「あいにく、わたくしはあなたのような優れた知性は持ち合わせておりませんの。下劣な人間にも理解できるような、簡潔なお言葉を望みますわ」
彼女の挑発にも、亜珠は乗ってこない。
「私はこの体を壊す気はない。痣も、残さぬ」
二の腕を、男の繊細な指先が滑った。ぞくりとするものを背筋に感じながら、シュラインは必死で男の腕に爪を立てた。
「生み出す行為と、破壊する行為は、対極だとは思わぬか?」
生み出す…産ませられる?
脳裏に、おぞましい想像が広がった。覚悟していなかったと言えば、嘘になる。そもそも亜珠は、自分の妻とする目的でシュラインを攫ったのだ。
しかし、この男は魔性で、妖貴だ。人間の男が人間の女を求めるように、シュラインに接するとは限らないのではないか、と、一抹の望みを抱いていたことは事実だった。
「そなたは人の間では、白月華…と呼ばれているそうだな。ならば、何物にも染まらぬその無垢さで、わたしの漆黒を染め変えてはくれぬか」
歯の浮くような台詞とともに、亜珠は身を屈め、シュラインの花弁のごとき唇を塞いだ。冷たい感触に、背筋が凍る。
歯を食いしばり、それ以上の侵入は許さない。震える身体を、声を、相手に悟られないようにするのが、精一杯だった。
「白が黒に染まることはあっても…、その逆など、ありえませんわ」
亜珠の口付けの合間に、切れ切れの声を漏らす。何とかして、この場だけでも切り抜けたかった。
「無垢な女がお好みなのでしょう?でしたら、わたくしを求めるのは筋違いと言うもの。わたくしの心は、既にあなたへの憎悪で満ち溢れております」
そんな女を抱いても…と、続けようとしたシュラインは、ふと、温もりが離れるのを感じた。

亜珠は、背後の闇に視線をやっていた。その先には何も存在しない。少なくとも、シュラインの瞳には、ぽっかりと口を開けた闇だけが見えていた。
呪縛から逃れ、半身を起こしたシュラインは、怪訝そうに亜珠を見上げた。その時の彼の姿が、あまりにも無防備であったからかも知れない。シュラインに注意を向けていない亜珠の姿を見るのは、珍しいことだった。
蝋細工のように冷たい横顔は、この世にはない遠くのものを見つめているようで、シュラインは不安に駆られた。彼女には見えていない『何か』が、そこには見えていたのか。

「乱華さまの、ご来訪か…」
かすかな溜め息とともに、亜珠が呟く。やれやれと、肩をすくめる仕草が、妙に心に残った。
ランカ、というのが魔性の名であることは判るが、彼にとって、それがどんな影響を持つ人物なのかは、判らない。
亜珠はシュラインから離れ、静かにその身を起こした。寝台の上に乱れていた漆黒の髪が、起き上がった途端に、元の落ち着きを取り戻す。
「亜珠の、君…?」
何故、呼んでしまうのだろう。憎んでも憎み足りない、男の名前を。
──そなたはわたしの花嫁なのだから。
そう言って、シュライン如きに真名を呼ぶことを許したこの男の真意が、彼女にはどうしても掴めなかった。呼ぶことで、彼を支配する能力など、シュラインにはなかった。そんな力があるのなら、今すぐにでも彼を殺して、自由の身になることも可能だった。
……可能なはず、だった。
けれど、その憎いはずの存在を口にするたびに、たまらなく切ない気持ちになるのは何故か…。
「どこへ、行かれますの…お答えによっては、わたくしにも考えがございますわよ」
背中を向ける男に、シュラインは震える声を投げた。彼を止めることが出来るのは、いま、この世界において自分一人しかいない。
彼の暴挙のために、誰かが傷つくのも。そして、自分のために、彼が血を流すのも嫌だ。シュラインが憎む男は、誰よりも強く、傲慢で、冷酷でなければいけないのだ。
彼を憎めなくなったその瞬間、シュラインのこの気持ちは、行き場を無くしてしまう。光の差さない牢獄の中では、亜珠に対する憎しみだけが、辛うじて彼女が生きていける証だった。
「案ずるな。約束通り、そなたの故郷にこれ以上の手出しはせぬ…もっともそれは、あの生意気な破妖剣士の始末を終えるまでは、の話だがな」
亜珠は一度だけシュラインの方を振り返って、微笑んだ。
「じきに、婚礼の衣装が届く。それまでは、ゆっくり休むがいい。我が麗しの花嫁よ」
言って、魔性の男は黒衣を翻す。闇が、生き物のように彼の全身を包み込み、彼の姿は、跡形もなく消えた。
シュラインは亜珠が消えた闇の方角を、じっと見つめていた。
身体は、優しい抱擁によって火照っている。唇には、未だ熱が残っており、彼に紛れもなく求められていた事実を、その部位に刻んでいた。
「所詮、わたくしなど……数多くある玩具のうちのひとつ…!」
呪うように吐き捨て、シュラインは、千切れるほどに強く唇を噛みしめた。白い拳を振り上げ、何度も、枕に叩きつけた。
彼の身体が離れたことを、一瞬でも『寂しい』と感じてしまった、自分に対する怒りだった。





「わたくしからお話できることは、これで全てですわ…王太子」
面会を求めた婚約者の前で、シュラインは丁寧に頭を下げた。
ガンディアに帰還して後、半年近く外出を許されなかった彼女の頬は青白く、体重も随分と落ちている。それでいて、瞳に宿るのは激しい『意思』の力。目の前に座るハイデラ王太子を圧倒させるほどの存在感が、そこにあった。
美しさだけではない、別の何かが、シュラインという存在を内側から確立させている。

「では…」
シュラインの婚約者たる男性は、惚けたように口を開けていた。
自分が想像していた事実とシュラインの話が、あまりにもかけ離れていたからだろう。
「では、その妖貴は、本当の意味で貴女に触れることはしなかった、と…そういうことですか」

亜珠に攫われ、ぼろぼろに傷ついて帰って来たシュラインに、母と周囲の目は冷たかった。魔性の干渉を受けた王女──どんな穢れを背負っているか、知れたものではない。
だが、この王太子だけは違った。婚約者の危機に何も出来なかった己に責任を感じているのか、それとも魔性の手がついた王女をお情けでもらってやる、優しい自分に酔いたいだけなのか……ともかく彼は、幽閉中のシュライン宛てにせっせと文を送り、面会を求め続けた。
あまりにもしつこい──もとい、真摯な彼の態度に、とうとうミランスも根負けした。
シュラインを刺激しない、彼女の話したことを他者に漏らさない、という条件で、こうして二人だけで会う事を許可したのだ。
「安心されました?」
婚約者の判りやすい反応に、シュラインは意地悪な笑みを漏らす。棘のある笑い方は、以前の彼女にはなかったものだ。
しかし、シュラインから事実を聞かされた王太子は、全く意外なことを言い出した。
「ということは、貴女の方も、彼を本当に愛することは出来なかったと言う事ですか…」
自分に言い聞かせるように呟いて、それから、真剣な表情でシュラインを見た。
「それで、お寂しくはありませんでしたか。貴女は、その男を愛していたのでしょう?」
労るような、慈愛に満ちた瞳だった。その瞳に、嘘や駆け引きは一切なく、シュラインは目を見開いた。
彼は、本当に気にしていないというのか──亜珠との、関係を。それよりももっと広い視点で、シュラインの心の傷を、案じてくれているのか。
「何故…そんな風に、考えられるんですの。直接的な関係はなかったとは言え、わたくしは確かに、あの方に心惹かれておりました…父を殺め、この国に混沌を招いたあの方に。それこそが、わたくしの罪だとは思いませんの?」
震える声で言いながらも、シュラインは期待していた。
この男性は、自分が望んでいる言葉をくれる──そんな期待が、止まらなかった。
「誰かを愛することが罪だというのなら、わたしなどは百回地獄に落ちても足りません。何しろ、幼い頃から、顔も満足に合わせたことのない貴女に恋焦がれているのですから」
王太子は微笑んだ。あの男の笑顔を嫌というほど目の当たりにしてきたシュラインには、彼のそれが、偽りで作られたものではないことがわかる。
「貴女が攫われたと聞いた時、わたしの周囲からはまるで光と音が消えたようでした。こうして再びまみえることが出来たことを、深く神に感謝しているのです」
「…でしたら」
シュラインは膝の上に置いた拳を握った。上質の布を使ったドレスに、皺が寄る。
「でしたら何故、あなたが来て下さらなかったのです」
「シュライン姫…」
彼女は、きっと顔を上げた。
「なぜあの時、わたくしを奪い返しに来ては下さらなかったのです!?救ってくれたのは、わたくしより年下の、か弱い少女でしたわ。あんな少女が命がけで戦ってくれたのに、あなたは…!!」
判っている。これは、八つ当たりに過ぎない。通常の人間である彼が魔性に歯向かっても、無駄死にするだけだ。
それに、シュラインの捜索に忙しかったガンディアに代わって、彼は浮城に多額の報酬を払ってくれたという。それだけでも十分、感謝すべきことだった。
自分は、結局何も出来なかった。周囲の人間を傷つけ、母も傷つけ、ガンディアの威信にも傷をつけた。
誰のことも、責める資格はない………。
「ごめん、なさい……」
神妙な顔をしている王太子の前で、シュラインは顔を覆った。
いまだ、夢に見るのだ。温かい殻の中で、守られているのが当然だった、あの頃を。
「いいえ、貴女の仰るとおりです。ですから、もう一度機会を下さいませんか。これからは、わたしが貴女の側で、お守りします」
シュラインはかぶりを振った。
「わたしなど……守る価値もない女ですわ……」
漆黒城の中で過ごした時間は、彼女の無垢な心に、あまりにも深い傷を残した。
亜珠に惹かれながら、彼の残虐を止められず──結果、彼を殺してしまったも同然の自分が、幸せになることなど、果たして許されるのだろうか。
「そんな風に、自分を貶めるのはおやめなさい。貴女に恋するわたしの心が、無価値だと仰るのですか?」
王太子は彼女の右手を取り、強く握った。あの男のものとは違う、温かい手だ。自分と同じ、赤い血が流れているのだと、実感させられる。
「貴女の苦しみを、わたしに背負わせてください。わたしのような矮小な存在の者でも、大切な人の役に立つことが出来るのだと、思わせて下さい」
これが現実だ。シュラインが、これから生きていかなければならない、辛い現実……。

「わたくしを……許してくださいますか。わたくしの、実らなかった恋を、恋だと認めて頂けますか」
誰にも告げることの出来なかった想いを、シュラインは、伴侶となる青年に告げた。
ここから出たい。誰かに手を引いて、連れ出して欲しい。本当はずっとそう思っていた。
「もちろんです」
頷く王太子の手の上に、シュラインはそっと、左手を重ねた。

「……ありがとう」
今は、それだけ言うのが、精一杯だった。





──おわり──


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