書庫 逢瀬の夜(佳瑠×ソルヴァンセス)


微かな衣擦れの音が、ソルヴァンセスの耳に忍び入ってくる。
甘い香りが鼻孔を刺激し、夢の中だというのに彼は薄く目を開ける。視界を覆う黒髪を見た。
「ソルヴァンセス」
優しい声。
侍女ではなく、婚約者でもない。成熟した、大人の女性だ。
滑らかな指を使って彼の頬を包み込み、唇を寄せる。
髪と同じ漆黒の睫毛に、真紅の唇。この世の者とは思えぬ美貌の女性だ。
「佳瑠」
いや、実際。
自分のこの体は既に彼岸へ渡ってしまったのかも知れない。
彼女の美しさは人間の域を遥かに越えていたから。
この女性はきっと神からの贈り物なのだ。
死にゆくソルヴァンセスが、あの世で淋しくないようにと、神がこの女性を遣わしてくれた。
今はそんな風に思えた。
「ああ、佳瑠」
愛しい女性の名前を呼ぶ声は、まるで自分のものではないように聞こえる。
佳瑠は嬉しそうに頷き、間近に寄った唇を深く重ねた。
「ええ、わたしはここにいるわ、ソルヴァンセス。ずっと一緒よ」
今から思えば、滑稽な話だ。
現実世界には永遠などという時間は存在しない。
だから、このまま彼女と共にいる事が、現の世との別れに繋がるのだと、薄々気付いていた。
しかし、だからといってこの温もりを断ち切ることは出来ない。


「何だって!?」
駆け寄ってきた従者からの報告に、ソルヴァンセスは顔色を変えた。
「マーセルヴィンス姉上が、失踪…それは本当なのか!」
「は、はい」
廊下に跪き、従者はしきりに恐縮しながら告げた。
マーセルヴィンスはソルヴァンセスの姉であり、このカラヴィスの第一公女でもある。
美しく聡明な女性と誉れ高い彼女が、昨晩寝所を出たきり行方知れずになっているという。
従者たちが必死で捜索にあたっているが、自室に書き置きはなく、門番は異変はなかったと言い、また家出のために荷物をまとめた痕跡もない。
「よもや、魔性の仕業では」
呻く従者を、ソルヴァンセスは叱りつけた。
「滅多な事を言うものではないよ。それより、この事はあの子には話していないだろうね?」
中庭には雨が降り始めていた。
特殊な力を持ったが故に親族から敬遠されている妹…リーヴシェラン。
彼女は辛い事があると、必ず庭に出て泣く。
「はい。今のところは」
「それならいいんだ。リーヴィには、姉上がいなくなった事は当分の間伏せておいて欲し…」

背後で、かたりと物音がした。
振り返ったソルヴァンセスは、そこに幼い妹の姿を認める。
その顔は、ひどく青ざめていた。
腕に琴を抱えたまま、リーヴシェランは後ずさった。
「姉さまが…いなくなった?」
「リーヴィ」
ソルヴァンセスは慌てて妹の前に屈む。
「違うんだよ。姉さまは少し出掛けただけさ。すぐに戻ってくるよ」
従者は口元を押さえ、吐き気を堪えるようにしてその光景を見つめていた。
何故ならリーヴシェランの肩と腕には、異様な形をした化け物が張りついていたからだ。
化け物は真っ赤な舌を出して、口々に叫ぶ。
『う・そ・だ』
『う・そ・だ』
「うそよっ!」
リーヴシェランも一緒になって叫んだ。
「兄さま、嘘ついてる。だってこの子たちがそう言ってるもの!」
この子たち、と言いながら、リーヴシェランは体に纏わりつく妖鬼たちを抱き締める。
うけけっ、と不気味な声で妖鬼が嬉しそうに笑った。
従者はたまらずその場を立ち去った。正常な人間の反応だ。
しかしソルヴァンセスは怯えもせず、真っすぐにリーヴシェランを見据えた。
「リーヴィ。そのお友達と、わたしの言う事と、どちらを信じるんだい?」
「だって」
リーヴシェランは涙ぐんだ。
「この子たちは、本当の事を教えてくれるもの。他の人みたいに、嘘を言ったりしないもの」
危険な兆候だ。
この幼い妹が孤独を抱えている事は、知ってはいた。
今までは自分とマーセルヴィンスの存在がその孤独を埋めていた。
しかし今、あの美しい姉はいない。
ソルヴァンセスとて、いつまでも傍にいてやれるわけではない。
このまま人の間で迫害され続けた彼女の心が、人を信じられず、やがては自分を慕ってくれる魔性の存在を支えにするようになってしまったら…。
それは最も恐ろしい可能性だった。
妹が破滅に向かうのを見たくはなかった。
「君は一刻も早く浮城に行った方がいい」
だから、告げたのだ。それが彼女の為だと思ったから。
リーヴシェランの愛らしい顔が強ばった。
「どうして。あのお話はもう断ったはずでしょう?」
それはマーセルヴィンスがいなくなる前の話だ。
あの時と今とでは状況が違う。
「あたしは浮城には行かない。ずっと兄さまと姉さまの傍にいるの」
ソルヴァンセスは妹の肩を掴んだ。
「いいかい、君はその才能ゆえに孤立する。
ここにいるより、同じ資質を持つ子供たちと居た方が君の為なんだよ。だから」
必死の説得は、だが幼いリーヴシェランにはうまく通じない。兄の言葉を聞くにつれ、その緑の双眸に悲痛な色が浮かんでいく。
「兄さまは、あたしが邪魔なの?」
「そうではないよ。君は神に選ばれた子なんだ。才能の芽は、それにふさわしい土壌があってこそ伸びるもの…浮城に行きなさい。空の上には、悲しいことなんて何もないのだから」
妹はかぶりを振った。
「いやよ!あたしは兄さまと姉さまと、ここに」
「リーヴィ、姉さまはもういないんだ!」
叫んだ言葉にリーヴシェランが目を瞠った。しまった、と思ったがもう遅い。
妹は片腕に琴を抱えたまま、ソルヴァンセスの手を勢い良く振りほどいた。
「嘘つき…兄さまの嘘つきっ!」
濡れた中庭に飛び降りる妹の背を、ソルヴァンセスは追い掛ける。

雨が、リーヴシェランの髪に真珠のような雫を作っていた。
ぬかるみの中に室内履きのまま足を踏み入れるソルヴァンセスの前で、彼女は髪を数本、引き抜いて琴に張った。
「いいもん。姉さまの行方は、お友達に聞くもん」
リーヴシェランは緑の瞳から水滴を落とした。
涙なのか雨粒なのか、判別しがたい。
「やめなさい。それを奏でるのは一日に一回きりだと、姉さまと約束しただろう?」
自身の声も雨のせいで聞き取りにくい。
「約束?」
リーヴシェランは泣き笑いのような表情を浮かべた。
「先に約束を破ったのは、姉さまの方だわ。ずっと一緒だって言ったのに、姉さまは勝手にいなくなってしまった…」
一本、また一本。
髪を引き抜き、呪いのように弦を張り続ける妹の姿に、ソルヴァンセスは返す言葉もなかった。
「それなら、残されたあたしが姉さまとの誓いを破ったって、いいよね…?」
最後の弦が張られる。琴を固定すると、小さな指がびぃんと弦を弾いた。
とろけるような音色に混じって、その唇からかなしい唄が零れだす。
彼女は普段は唄など歌わない。琴が奏でる完璧な音色に、余計な雑音は不要だから。
けれど、ああ、これは子守歌だ。マーセルヴィンスが、よくリーヴシェランの枕元で唄っていた…。

信じているの
濡れた芝生の上で
夢を誓い合ったこと

小指に嵌めた約束 が
わたしを支えているから

あなたを包む風が
いつでもやさしいもの で
ありますように

ほら、おやすみなさい

ソルヴァンセスは静かに妹に歩み寄った。
既に音色に引き寄せられた妖鬼たちが周辺に集っていたが、気にはならない。
「リーヴィ、やめなさい」
妹の耳には、兄の声が届いていない。傷つくことに怯える幼子は、自分を肯定してくれる相手の言葉しか受け入れない。
否、それだけならまだいい。
リーヴシェランの場合、その相手が妖鬼であり、魔性であるという事にこそ問題がある。
「このままではいけないんだよ」
ソルヴァンセスは優しく告げた。まるで自分自身に言い聞かせるように。
「立ち止まっていては、真実は見えて来ないんだ…」


真実など見えなくとも良い、と今は思う。
あるのはこの優しい温もりと、偽りの言葉だけでいい。
「どうしたの?」
問い掛けてくる佳瑠の頬に、ソルヴァンセスはそっと手を這わす。
「ああ、妹の事を考えていたんだ…それから、姉の事も」
佳瑠がわずかに目を瞠った。しかしすぐにその表情が艶やかな微笑みの形に彩られる。
「そうなの…寂しいわね」
「何故?」
「わたしの事だけ考えてはくれないからよ」
笑って、佳瑠はソルヴァンセスを抱き締めた。
彼も笑みを零す。幸せな時間。
公子としての立場も忘れて、彼女との逢瀬だけを楽しみにしている自分が居る。
夢と現の境界線が、次第にぼやけていく。姉の行方も、大切な妹の行く先も、今はどうでも良いこと。
たった一人の存在を除いては。今、確かにこの腕の中に居る、愛しい女性を除いては。
「君に会うまでは、わたしはずっと、夢を見ていたような気がするよ…佳瑠」
彼女がくれる微睡みに全身を浸しながら、ソルヴァンセスは語る。
傷つきやすい姉と妹の間で、長く奮闘してきた。
本当は自分でも知らぬ間に、心に闇を飼っていたのかも知れない。
けれどその過去は決して無駄ではなかった。
何故なら、こうして君という人に出会えたのだから、と…。
「本当に、馬鹿なお人形さん…」
眠りの淵へと落ちていった青年の頬に指を滑らせ、佳瑠は愛しげに呟く。
指先は、青年の身体のあらゆる場所を記憶している。
柔らかいところ。堅いところ。深いところと、浅いところ。
温かい吐息と、絡まる手足。
そう、佳瑠だけが彼の全てを知っていてソルヴァンセスは彼女の全てを知らない。
知らせる必要は、ない。
「あなたはじきに人ですらなくなるのよ」
意識を手放した青年を見つめながら、佳瑠はひとり優越に浸る。
彼は彼の知らぬ間に、佳瑠だけの人形になるのだ。
「何も知らないくせに…幸せな顔で」
誰かに愛されるということは、何と心地よいものだろうか。
紫紺の妖主の配下としてまた一人の女として、これまで数々の男たちと渡り合い、偽りの愛を交わして来たけれど、彼ほど清らかで、また不安定な波動を放っている人間は初めてだった。
ソルヴァンセスを見ていると、心の奥底の、普段は決して味わうことのない感情をくすぐられる。
甘くこそばゆく、時に欝陶しくなるくらいの快感。
騙されているのも知らないで、逢瀬のたびに、行かないでくれ、傍にいてくれと請う青年を心底愛しく、また愚かしく思う。
この青年の全てを手中に収めてしまいたい。

「女ってのは、つくづく貪欲な生き物だな」
耳の真横で、深紅の男が呆れたように呟く。
「男の全てを手に入れなければ安心出来ないってわけか?自信のなさの裏返しってやつじゃないか、それは」
そのよく通る低い声を、佳瑠は瞼を閉じながら聞いた。
会話を続けていても、愛撫は途切れる事がない。
「…そうでしょうか」
敷布は、佳瑠の背中の動きにつれて擦られ、複雑な皺を刻む。
息ひとつ乱さずに、男は彼女の足首を掴み、持ち上げた。
「ああ。相手のことを欲しいと口にした時点で、自分の負けだ。少なくともおれはそう思うぞ」
褥に折り重なった二つの体はしばらくの間動かない。
闇の中に息づくものは他になく、佳瑠の白く豊かな乳房だけがくっきりと浮かびあがっていた。
胸を上下させながら、擦れた吐息を洩らす佳瑠を満足そうに見やると、男はさっさと帰り支度を始める。
「柘榴の君…」
唇で呼びかけた。
「あん?」
うるさげに振り返るその顔がまた、魅力的だった。
仰向けの姿勢のまま、佳瑠は気怠げに男を見る。
「あなたに捕らえられた…と申し上げたら、どうなさいます」
すると男は鼻で笑った。
「馬鹿かお前は。余力を残しているうちは、捕まったとは言わないんだよ」

柘榴の妖主の言葉はつじつまが合っていない。
相手の全てを欲しがるのは貪欲だと言っておきながら、
その一方で上記のような台詞を吐き、相手に絶対の忠誠を誓わせる。
存在そのものが矛盾しているような男だから、言動に一貫性がないのも頷ける。
完璧な美貌の主ほど、内部には不安定な要素を抱えている。
妖主の性格がみな、ある意味破綻しているのはそれ故か。
人の器は、脆い。
どんなに美しい者も、時の流れには逆らえない。
花はいずれ枯れ朽ちる。人はいずれ、倒れ腐る。
愛しい、愛しいソルヴァンセスを、そんな目に遭わせたくはなかった。
何よりこれは彼の意志なのだ。
彼は、自ら佳瑠を求めた。『行かないで欲しい』とは、了承の証。
肉体を離れ、人であることを捨て、それでも佳瑠と共にありたいと願ってくれた。
これは彼の意志だ。自分は、ただそれに従っているだけ。
そこには悪意はなく、穏やかな支配欲があるだけだった。
「もうすぐ…時が満ちるわ」
彼の時間は永遠に自分のものとなる。誰にも邪魔はさせはしない。
過去に手のひらをすり抜けていった男達の顔は、覚えていない。
覚えているのは微かな倦怠と、虚しさ。
そしてその度に柘榴の妖主の言葉を思い出すのだ。
──欲しいと口にしたら負けだ。
あの時は確かに佳瑠もそう思っていた。
けれどもういい。
本当に愛しい相手が見つかった以上、誇りなど邪魔なだけだ。
それでも佳瑠が戦いをやめないのは、ソルヴァンセスを取り戻そうとする輩がいるから。
魔性としてではなく、女として戦うのだ。
大切なものを、欲しいと望んで何が悪い?

「……行くわ、わたし」
もうすぐ、絶対を手に入れる。佳瑠はそう信じて疑わなかった。



──おわり──


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