書庫 水の星座(千禍×翡蝶)


熟れた果実を思わせる温もりが、彼女の肌に覆い被さる。その男の重みも、体温も、翡蝶には既に慣れたものだ。

───この男の身体からは、いつも別の女の匂いがする。

それは、彼女の誇りをひどく傷つけることであったが、不思議と、悔しいとは思わなかった。彼の心を留めておくことの出来ない自分自身に対する苛立ちが、何より大きいから、かも知れない。
彼の能動は、余計なことを考えさせない力に溢れていた。邪念や、苛立ちごと、強烈な深紅に染め上げていく。翡蝶が本気で、演技などではなく本気で、身を捩らせ、苦痛の声を上げるのを、男は悦んで聞いた。手探りで位置を確かめ、彼女は、男の背中に爪跡を残した。
ささやかな報復として。



「もう、お帰り…?」
うすぼんやりとした眼をして、翡蝶は問いかけた。
深紅の髪の男が起き上がり、自分に背を向ける気配を感じたからだ。
新緑の巻き毛が、濡れた唇の端にまとわりついた。それを鬱陶しげに指で払って、彼女はふくよかな胸を布で押さえる。
千禍は、虚空の縁に手をかけて、所在なさげにしていた。そんな何気ない仕草にも、妙に心惹かれるものがある。
後ろ向きのため、表情は不明だ。鮮やかな深紅の髪が肩にこぼれている。伸びた背筋は、情事の余韻さえ残していない。
客人を見送るのは、一応の礼儀だった。寝台から起き上がろうとした彼女は、ふと動きを止めた。
背中を向けたまま、千禍がひらひらと手を振ったからだ。
いいから、寝ていろ、と言いたいらしい。
翡蝶は、わずかに頬を緩めた。
身体に上掛けを巻きつけ、こくりと頷く。まるで少女のように。
男はしばらくの間、背中で翡蝶を見ていた。やがて、言った。

「また、来る」


来てもいいか、ではない。彼はそういう男ではない。
かつん…と、靴底が鳴る。
同時に、周囲を彩る闇に、刷毛で擦ったような紅い軌跡が生まれた。その紅に溶け込むように、彼女の情人は姿を消した。




相手の気配が完全に消えたのが判っても、翡蝶の顔は緩んでいた。そんな自分を叱咤するように、両頬を手で挟み、音を立てて何度か叩く。
火照りは、やがて治まった。愛人に弄ばれていたひとりの女は、少しずつ、娼婦から女王の姿に戻っていった。
乱れた巻き毛が、浮き出た鎖骨に、豊かな胸の谷間に、なめらかな腹部に滑り込んでその肢体を覆い隠す。ここ数百年、あの男にしか触れさせていない身体だった。
愛しげに、自らの身体を抱きしめ、彼女はしばし余韻に浸っていた。

そうして、次の逢瀬を思い描きながら、乱れた敷布を整えようとした時───。


何かが、指と爪の間に絡まった。
不審に思い、彼女は『それ』をゆっくりと、目の前に持って行く。
それは、女の髪と見紛うほどの、長い、長い糸だった。
その糸が、爪の隙間に挟まっている。
紫紺の、糸だ。
その色彩を眼にした瞬間、先ほどまでとは違う種類の興奮が、ほんの一瞬だけ彼女の中を駆け抜けた。
───何故、こんなところに。
疑問はやがて憤りに変わり、頬が紅く染まる。
この糸を操る女を、翡蝶はひとりだけ知っていた。


千禍の皮肉げな微笑みが、眼に甦る。
今日もまた違う女の香りを漂わせてきた彼に、何も尋ねることが出来なかった己の弱さを、今、改めて思い知らされた。
彼は…いや、もちろん翡蝶も、相手に縛られることを好まないのだ。約束などしていない。だから、彼が、余所で誰と何をして遊ぼうが、止める理由などない。
「…ふっ」
薄い笑いが、翡蝶の唇の端に浮かんだ。
手のひらに、その糸を握り締める。長い長い、糸。

「うふふ…」
片手で顔を覆い、翡翠の妖主は、笑いを噛み殺すのに苦労した。






「これは、翡翠の君」
漆黒の色彩持つ女は、驚いたように彼女を出迎えた。
実際、本当に驚いているのかも知れない。髪と同じ色の瞳は、大きく見開かれている。長い髪は揺るやかに曲線を描き、黒衣から伸びたしなやかな手足は、翡蝶ほどではないが長く、細く、異性を魅了するのに充分だった。
「お会いするのは、これが初めてかと存じますが…紫紺の配下である私めに、どういったご用件でしょうか」
深く頭を垂れる美しい妖貴の前で、翡蝶は艶然と微笑を浮かべる。
全く、しらじらしい。
そんな澄ました顔をして、ごまかせるとでも思っているのだろうか。
何のために自分がここに来たのか、判らぬはずもあるまいに…この、佳瑠という名の女狐は。


「そう、堅くならないで頂戴。用と言うほどのことでも、ないのだけれど」
翡蝶は穏やかに微笑むと、足音も立てず佳瑠に歩み寄った。彼女は、怪訝そうに顔を上げた。
指に絡めた糸を、佳瑠の目前に掲げて見せた。
そう、これは間違いなくこの女のものだ。

「あなた、わたくしのお部屋に、忘れ物をしたのではなくて?」
ゆっくりと、甘く優しい声で問いかけながら、翡蝶は身を屈めた。
別に、責めているわけではない。責める理由もない。
ただ、この女にこれを届けに来ただけだ。きっと困っているだろうから。
長い、紫紺の糸が、空中で揺れる。
翡蝶は、相手の顔が驚愕に彩られるのを期待した。恐怖に顔を引きつらせながら、必死で謝罪と言い訳の言葉を並べ立てる妖貴の女の姿を、期待した。




「ああ、これは…」
しかし、翡蝶の予想は、見事に裏切られた。
佳瑠は、この確固たる証拠を突きつけられても、全く動じなかったのだ。
「はい。間違いございません、確かに私のものです。以前に柘榴の君とお会いした時、たまたま絡まったのでしょうが…」
得心がいったと言うように、頷く。漆黒の瞳には、焦りの色ひとつ見えなかった。


千禍の残していった糸を握り締め、翡蝶は内心で呟いた。
───何をぬけぬけと。
そんな言葉が、思わず喉をついて出そうになる。
だが、それは出来なかった。自分は妖主で、この者より立場が上。格下の言葉に感情を乱されることなど、あってはならないはずなのだ。
「たまたま?本当にそうかしら。こんな勘繰りはしたくないのだけれど、あなた、千禍と何度か密通しているのではなくて?」
抑えていた言葉が、口から迸った。はっとして口元を押さえる彼女を見て、佳瑠は首を傾げた。
「これは、おかしなことをおっしゃる。密通も何も、翡翠の君は、とうにご存知だとばかり思っておりましたが?」
その言葉には、罪悪感も、後悔も、全くと言っていいほど感じられなかった。
翡蝶は、いつでも怒りに任せてこの女を引き裂くことが出来る。その事実を、この女は理解しているのだろうか。それとも単に馬鹿なのだろうか?



唖然として見つめていると、佳瑠はふっと肩の力を抜き、表情を和らげた。
「ああ、なるほど…」
漆黒の双眸が細められた。
「その様子では、ご存じなかったのですか。しかし、わざわざお知らせするほどのことでもありますまいに」
かすかな笑みを唇の端に浮かべる女を見て、翡蝶はぎりりと奥歯を鳴らした。
相手の余裕の態度が、気に喰わない。土下座して謝罪すれば、許してやらないこともなかったのに、何なのだ、このふてぶてしさは。
「わたくしは、そんなことが言いたいのではないの」
ふつふつと湧き上がる怒りを抑えつつ、彼女は言葉を紡いだ。
「身の程をわきまえなさいな。わたくしたちのことを知っておりながら、千禍と関係に及んだその度胸は認めましょう。けれど、痕跡を残すようなやり方は、あまり利口とは言えないわね…」



吐き出した言葉に、佳瑠は大きく目を瞠った。
───まるで、そこに到ってようやく、翡蝶が腹を立てていることに気づいたとでも言うように。
その表情に違和感を抱く間もなく、佳瑠の目は、何かを探るかのように、こちらを念入りに見つめてきた。
「翡翠の君…」
同情にも似た光が、漆黒の瞳に浮かび上がった。その視線に翡蝶はうろたえ、そして、本音を吐露したことを激しく悔やんだ。
何故、こんな瞳で見つめられなければならないのか。妖貴風情に、何故、情けをかけられなければならないのか。
翡蝶の戸惑いなど素知らぬ様子で、佳瑠は告げた。
「よもや、柘榴の君の事が?…まさか。仮にも妖主たるお方が、唯ひとつの存在に心奪われることなど、有り得るのでしょうか」
心底不思議そうに尋ねてくる女から、翡蝶は顔を背けた。だが、佳瑠の興味深げな視線は、まっすぐに彼女を射抜いてくる。


こんなことになるとは思わなかった。余裕がないのは、翡蝶の方だった。
佳瑠は、千禍とのことを、完全に遊びと割り切っている。だからこそ翡蝶の怒りが全く理解できず、ましてやその怒りが自分に向けられているとは、夢にも思わなかったのだろう。
佳瑠が平然としていられるのは、そういう理由からだ。
では、翡蝶が平静でいられないのは?



その先に待つ事実は、認めたくはなかった。
けれど、今この場所に立って佳瑠を問い詰めていることが、まさにそれを証明してしまっている。
佳瑠は、動揺している翡蝶を落ち着かせるように、穏やかな口調で語りかける。
「柘榴の君は、確かに魅力的な男性ではございますが…本気で惚れられる類の方ではございません。翡翠の君とて、その事はよくご存知のはず」
「お…」
翡蝶は、思わず声を荒らげた。
「お前に指摘されるまでもないわ!」
美しい巻き毛が、その感情の渦を現すかのように、横に広がる。


気づいていた。千禍は、決して誰のものにもならない。誰にも捕まらない。
それを苛立たしく、歯がゆく思う自分の気持ちを、俗に何と呼ぶのかも。
「でしたら、よいのですが…」
佳瑠の瞳は、いまだ哀れみの光を帯びていた。彼女は明らかに、翡蝶に対して同情していた。
千禍に固執する、一人の『女』に対して。
「恋に、出口はございません。逃げ道もございません。翡翠の君ほどのお方ならば、ふさわしき相手はいくらでもおりますでしょう。危険な男には、あまり深入りせぬが吉です」
翡蝶は唇を震わせた。これでは、全く立場が逆ではないか。
本来ならば、優しく諭すのは翡蝶の役割で、この女は、青ざめながら地に伏して詫びているはずだったのに。それを見るだけで、翡蝶は満足して帰るつもりだったのに。一体、どこから間違えてしまったのだろう。
「かの方に捕らわれ、最後に傷つくのは貴女。同じ女として、口を挟まずにはいられませんでした」
無礼をお許し下さい。
そう言って、漆黒の女は頭を垂れた。





「あの女…!!」


居城に帰るなり、翡蝶は枕を壁に叩きつけた。
息を弾ませるその肩が、やがて有り得ない速度で震え始める。
自分の中には、もうひとつ自分が居る。それが嫌だったから、ふたつに分けた。
けれど、まだ駄目だった。弱い自分が、どうしても出て行ってくれない。千禍と逢瀬を重ねるようになってからは、ますます、折に触れて、不安の波が彼女を内側から苦しめるようになった。
「あの女…よくもっ…!!」
脳裏に甦る、佳瑠の忌々しい視線。
千禍とはあくまでも遊びだと主張する一方で、仮にも妖主である翡蝶に、生意気にも説教をした。
あの妖貴に指摘されたことが、頭から離れない。
───本気で惚れられる類の方ではございません。
───捕らわれ、傷つくのは貴女。


判っている、そんな事。あの男とは、遊びのはずだ。
自分も、もちろん相手も、そのつもりでいる。
判り切った事を指摘されたから、腹を立てているのだ。これは断じて嫉妬などではない。そんな下賤で醜い感情など、翡蝶は持っていない。断じて!

意味もなく壁に爪を立て、絹の上掛けを引き裂いた。床を踏み鳴らし、鏡台に拳を打ちつけた。
悲鳴にも似た声が、喉から迸る。
激しすぎる感情に、胸が押しつぶされそうだ。寝台に伏した。声が外に漏れぬよう、顔を押し付け、何かを叫んだ。自分でも聞き取れない不明瞭な発音だった。

千禍。
千禍、千禍。
心の中で、何度呼んだか知れない。執着は、相手の男性ではなく、いつでも彼女自身を縛ってしまう。
あの笑顔も囁きも冷たい背中も、この髪に纏めてくるんで焼き捨ててしまえたらいい。



「酷い有り様だな、おい」
呆れたような声が、背後でした。
頬に乱れた髪の跡をつけて、翡蝶はのろのろと振り返った。
男が立っていた。
いつでも変わらない深紅の髪と瞳、人を小馬鹿にしたような表情を浮かべ、ただ、そこにいる。
いるだけなのに、何故、こんなにも気持ちが乱されるのだろう。


「千禍…」
声に出して、相手の名を呼ぶ。
見苦しい姿を見せたことについては、今は何も感じなかった。
感覚が麻痺していて、しばらくは、虚ろな目で男を見るのが精一杯だった。
「どうして。今日は別に、お約束は…」
「遊びに来るのに、いちいちお前の許可をとらなきゃいかんのか?」
ぞんざいな口調で男は言い、遠慮無しに寝室に踏み込んできた。
翡蝶は慌てて場所を移動しようとした。男はそれを許さず、彼女の顎を乱暴に掴み、上向かせた。
迫る唇を、翡蝶は手のひらで押さえつける。男は目を丸くした。
「何だ、嫌なのか?珍しいな」
「嫌ではないけれど…早急すぎますわ」
それに、「珍しい」とは何事だ。
人を、いつでも準備万端な女のように言わないで欲しい。


「お茶をいれるわ。そこにお掛けになって」
椅子を勧めるが、千禍は座らない。
「いらん。それより、この部屋の荒れっぷりは何だ?配下の連中が怯えてたぞ、たいそうお怒りのご様子だってな」
翡蝶はぷいと顔を背けた。人の気も知らず、呑気なものだ。
「言いたいことがあるのなら、はっきり言ったらどうだ?」
今度は背を向ける。
「わたくしはお姉さまとは違うの。情緒を損ねるような言葉は操りません」
「オネエサマ、ねえ…」
千禍は妙な発音の仕方をして、顔をしかめた。
「何が気に入らんのか判らんが、とりあえずおれの要求の方を満たしてくれ。話はそれからだ」
勝手な理屈を吐いて、男は翡蝶の身体を引き寄せた。顎を器用に使って髪を掻き分け、耳を軽く噛む。
甘い痛みに、顔をしかめた。形だけの抵抗は、やがて消える。耳元の髪を梳き、その手を胸に滑り込ませながら、男は言った。
「おれを呼んだだろう?」


翡蝶はかすかに息を呑んだ。
声に出してはいない。なのに、聞こえたのだろうか。それで?
いや、そんな殊勝な彼ではない。


瞼の裏に星が降る。それが光なのか、残像なのか、翡蝶には判らなかった。
涙を流すことの出来ないこの身は、悲しみを癒す術を知らない。
ただ、目の前の相手と一時の温もりを分かち合うことしか知らない。


「気の済むまで、つきあってやるよ」


そう言って、抱き締める千禍の腕からは───。



また、別の女の香りがした。




──おわり──


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