書庫 緑風千里(千禍×翡蝶)


───風を駈けて、逢いにきて。
虚空に紅の風が吹き抜ける時、千年の飢えは満たされる。
悪戯な貴方は、いつも相手を驚かせるために、様々な策を弄しなさるのね。
判っているのに驚いた振りをして差し上げるのは、こちらの譲歩なのですわよ?
子供のような貴方。重ねる体は熱いのに、くちびるだけは冷たくて。
不機嫌な顔も、舌打ちも、髪を掻き上げる仕草も全てわたくしのもの。
そう、貴方は気付いていらっしゃらない。
貴方の存在そのものが、わたくしにとっては新鮮な刺激であることを───。





「翡蝶?」
青年にしては珍しく、気遣わしげな声が耳を打った。
仰向けになっていた彼女は億劫そうに瞼を開く。
目に映ったのは闇を凝らせたような深紅の髪だ。情人である柘榴の妖主は、翡蝶の上に股がったまま、彼女の首筋の辺りをじっと見ている。
「失礼…何でもありませんわ」
にっこりと浮かべた笑顔は、我ながら極上のものだったように思う。しかし青年は簡単には騙されてくれない。
「何を隠している?新しい遊びでも思いついたか?」
執着心の薄い青年は、他人の玩具を横取りするようなことはしない。例えそれが役立たずな代物であっても、自らが最初に目を付けたのだということに何より価値を置く男であったから。
けれど翡蝶の隠しているモノは一時の快楽を味わうための玩具などではない。目の前のこの男の心を繋ぎ止めておくために、是が非でも必要なモノだ。
だからこそ、今は気付かれてはならない。
「貴方と共にいることが、わたくしにとって一番の娯楽ですわ。ああ、でも、誤解なさらないで。貴方を縛る気など毛頭ございません。わたくしのお慕いする方はただ一人、熾翠のお姉さまだけ…」
聞けば誰もが溜め息の出るような美声で、彼女は告げる。姉という名のもう一人の自分。彼女にとっては自らと同等に大切な存在だ。
千禍は軽く肩を竦めた。
「なら、お互い様ってわけか」
「え…?」
思わず真顔で聞き返す翡蝶を前に、千禍はくつくつと笑いだした。
「実はな翡蝶。お前に是非とも紹介したい奴がいるんだ」
楽しげな声の響きに、しかし翡蝶は不穏なものを感じた。
見つめ続けていると、千禍の姿が次第に変化していくのが判った。短かった深紅の髪が腰の辺りまで伸び、乳房は豊かに膨らんで、女性としか呼びようのない姿に変わってゆく。
「何のおつもりかしら?」
怪訝な表情を隠そうともしない翡蝶に、美しい女性となった千禍はやはり女性の言葉で告げる。
「まあ、見ておいで」
翡蝶の前で、深紅の美女はゆっくりと口を開く。
「内梨」
彼がそう告げると同時に、視界が真っ白に染まった。
何事かと思う程度には、衝撃的な変化であった。
強い妖気が近付いてくるのが感じられる…葛衣と同等か、あるいはそれ以上の力の主だ。

「我が君っ!」
翡翠の空間を引き裂くようにして現われたのは、漆黒の色彩を纏った、かなり格上の妖貴――純白の、裾の長い衣裳をはためかせて。
「我が君っ、内梨はここですっ!お呼びでしょうか?」
艶やかな黒髪は真っ直ぐに背中に流れ、くるくると輝く瞳は実に愛らしく、形のよい唇は雪溶けに咲いた一輪の花のようであった。
淡雪の内梨。彼女の噂は翡蝶も幾度か耳にしていたが、実物を見るのはこれが初めてだ。
確かに、美しい。翡蝶もそれは認めざるをえなかった。だが美貌だけでは柘榴の妖主の心は動かせまい。一体どうやって彼に取り入ったのか…その経緯は是非とも詳しく知る必要がある。
口元に淡い笑みを浮かべながら、翡蝶は相手の反応を待った。
「内梨、ここへおいで」
「はいっ、我が君!」
まだ幼さを残した仕草と口調だ。
内梨は千禍の傍らに跪くと、翡蝶の方を向き臆することなく「初めまして」と言った。
「紹介するよ、わたしのお気にいりの子だ。さあ内梨、翡蝶に挨拶しておあげ」
内梨は頷くとにっこり笑った。
「翡翠の君にはお初にお目にかかります。あたし、淡雪の内梨と申します。趣味はあやとりと、リリアン。白くてぴちぴちのお肌が自慢でーす。えへっ」
翡蝶は首を絞めたい衝動を必死に堪えていた。こんなただ若くて美しいだけの、頭の軽そうな小娘が千禍の側近?少しは自分に近しい部分もあるかと期待していたのに…。
内梨の横で、女性姿の千禍は吹き出しそうになるのを辛うじて堪えている。
「すまないね、翡蝶。躾の方は九具楽に任せてあるんだが、まだ至らない面もあって。悪く思わないでやっておくれ」
言いながら顔が笑っている。絶対に、わざとだ。
「よろしいんですのよ。若輩者が礼儀をわきまえぬのは当然のこと。必要以上に賢しい子供など目障りなだけですわ」
翡蝶は故意に『若輩』と『子供』の部分を強調してやった。
ぴくん、と内梨の頬がひきつる。
それを見やり、余裕を取り戻した彼女は艶やかに微笑んだ。
「内梨と言ったかしら。さてもまことに可愛らしきこと…まるで蝋で拵えた人形のようですわ。少々胸の張りが足りないのが難ですけれど」
内梨が顔を上げた。
明らかにむっとしているのがわかる表情…相当素直な性格の持ち主らしい。けれど相手が相手なだけに、言い返すべきか迷っているのだろう、ちらりと女千禍の顔色を伺った。
彼女…いや『彼』は、軽い目配せを内梨に送る。内梨の顔が途端に輝いた。存分におやり、という合図だったらしい。
二人の間に流れる親密な空気に、翡蝶は胸の底が焦げつくような嫉妬を覚えた。
内梨は色白の頬をぷうと膨らませ、翡蝶に指を突き付けて叫ぶ。
「翡翠の君、お言葉ですけどっ!」
「何かしら?」
「あたし子供じゃありませんっ!確かに胸は貴女の方があるけど、肌の美しさならあたしのが上ですっ!今時褐色の肌なんて流行りませんよ、ねー我が君♪」
女千禍は悠然と腕を組みながら笑う。
「わたしは別にどちらでもいいね。肌の色でおまえを選んだわけではないのだから」
「いやーん嬉しい。内梨感激ですっ!」
女千禍は抱きついてくる内梨の頭を撫でてやり、先程からこめかみの辺りをひきつらせている緑髪の美女に声を掛けた。
「それじゃあ翡蝶、今日はこの辺りでお暇するよ。わたしはこれからこの子に、手取り足取り教えなければいけないことがあるからね」
そう言うと、まるで見せつけるように内梨の体を引き寄せる。
女性の姿であるのにも関わらず、翡蝶の全身は更なる嫉妬に粟だった。内梨がその腕の中で幸せそうに目を細めているのが、吐き気をもよおすほどに不快だった。

二人の姿がその場から消え去っても、彼女はしばらく何もない空間を睨み付けていた。
柘榴の妖主は、気紛れな男だ。
今のところはあの内梨という娘がお気にいりのようだが、そのうち飽きてまた自分の所に戻ってくるだろう。
翡蝶はただ、その時を待てばいい。これまでにも何度か繰り返されてきた事だ。
使い捨ての玩具にいちいち嫉妬する必要などないのだと、理屈では判っているのだ。
「ああ、けれど…」
翡蝶は深いため息をついた。
こんな姿を姉が見たら、女々しいと鼻で笑われてしまうだろう。
己の弱さが厭わしい。たったひとつの存在故に、ここまで心乱されてしまう己のこの脆弱さが。



『その時』は、意外なほどに早く訪れた。
姉の配下の者から知らせを受けた翡蝶は、驚きのあまりしばし言葉が出なかった。
「あの小娘が、自ら千禍の元を去ったですって?」
静かな怒りに、声が震える。あれだけ思いをかけられておきながら、彼女は事もあろうに人間の男に心を移したのだという。
それは信じがたく、また許しがたい行為だった。
確かめなくては…血走った瞳で翠夢鏡を覗き込むと、そこにはさして美しくもない人間の男とともに、幸せそうに微笑んでいる内梨の姿があった。
翡蝶の肩がわなわなと震えた。それでも、表面上はあくまでも優雅な立ち居振る舞いを崩さない。
「何ということ。あれほど大切にされておきながら、この裏切り…まことに理解に苦しみますわ。常々より愚かな娘だとは思っていたけれど、よもやここまでとは。千禍もさぞや嘆かれていることでしょう…」
きり、と鏡の表面に爪をたてる。内梨の映像がやや乱れた。
「許しがたい屈辱ですわ…わたくしのみならず、千禍の心まで嘲笑うとは。物の価値の判らぬお前など、もはや存在する意味がない」
だから…消えておしまいなさい。
低く呟いて、翡蝶は鏡に触れた指の先から力を流しこんだ。
それは、遥か千里を越えて届く力だった。
淡雪の内梨を裁くための純然たる力の結晶を、憎悪とともに叩きつけようとした、まさにその時だった。

「何をしている?」
ぞっとするほど低く、魅惑的な声が背後でした。
音もなく翡蝶の後ろを取った柘榴の妖主は、姿を現すや否やゆっくりと彼女に歩み寄ってくる。
「せ、千禍……」
放出しかけた力を掌で握り潰し、翡蝶は慌てて振り返った。これまで見たこともないほど冷たい表情を目の当たりにして、知らず唇が乾いてくる。
全てを切り捨てた無表情のままで、千禍は言葉を放つ。
「内梨に手を出すな。あれはおれの部下だ」
翡蝶は上体を反らし、高らかに笑い声を上げた。
「部下……部下ですって。千禍、お気は確か?……まさか、自分を裏切った小娘を庇うおつもりですの!」
それには答えず、千禍がすいと腕を延ばした。笑いの止まらない翡蝶の片頬に触れる。
「言いたいことはそれだけか?意外に少ないな……」
端正な顔が近付き、唇が重なる。
翡蝶は反射的に目を閉じた。青年の背中に腕を回す。
久方振りの口づけは、変わらず冷たい感触を残すだけに終わった。その後で腕の中の翡蝶を見下ろしながら、千禍は呟くように言った。
「おれが傷ついているとでも?」
翡蝶はかぶりを振るどころか、「違ったかしら」と逆に問い返す。
青年は皮肉げな笑みとともに、翡蝶の額を軽く小突いた。
「例えそうだとしても…他でもない、内梨が選んだ道だ、止めはしないさ。それに、ああいう奴だからこそおれは気に入ったんだ。こっちの顔色を伺ってびくびくしてる配下なんぞ願い下げだからな」
それでも、どこか強がっているように見えた。判っている。内梨を傷つけても彼の心が癒されるわけではない。けれど。
───それではわたくしのこの思いは、どこへいけばいいと言うの…?

「何を憂う?」
気が付けば千禍は笑っていた。翡蝶の顔をおかしそうに見つめながら。
「千禍…?」
「おれのために怒ってるお前を見るのは、そんなに嫌いじゃないんだがな。おれの心は内梨のものじゃないし、ましてやお前のもんでもない…だから、例えばお前らの身に何が起ころうが、傷ついたりはしないんだよ」
優しい指先が肌に触れる。つれない言葉とは裏腹に、熱の籠もった抱擁が彼女を包む。静かに、褥に横たわりながら、それでもいいと翡蝶は思った。
大切なのは自分だけ…それでこその、彼。美貌で知られた淡雪の内梨も、千禍の心を完全には捕らえることは出来なかったのだ。その事実に翡蝶は少なからず安堵していた。
「わたくしは…」
彼の頭を胸に抱え込みながら、翡蝶は熱に浮かされたように呟く。
「あの娘に勝ったと思って良いのですわね……?」
千禍は答えない。
けれど、来てくれた。去るものは追わず、来るものは拒まない……千禍はそういう男だ。
「答えて、千禍……」
問い掛ける唇を、強く塞がれる。野暮な質問は無しだ。耳元で彼はそう囁いた。微かな衣擦れの音とともに、繰り返される行為。そっと目蓋を閉じても、傷ついてなどいないと言い切った時の彼の鮮やかな笑顔が、何時までも翡蝶の目に焼き付いて離れなかった。







───そう、決して後ろを振り返らないあなたは、誰よりも強い人。
けれども、と翡蝶は心の中で思いを紡ぐ。
それは決して口に出される事のない想いだった。
───もしわたくしが他の男の元へ行ったら、追いかけて来てくれる?
千里を越えて、逢いに来てくださる?
貴方といるだけでわたくしは満たされる。けれど自分から膝を折るのは絶対に嫌。
貴方の方から、逢いに来て。
行き違いになってしまうのが恐いから。拒まれる事を恐れているから。
そう、貴方は気付いていらっしゃらない。貴方と同じ時間を過ごす度に、わたくしはどんどん脆くなっていく───。



──おわり──


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