書庫 砂兎(邪羅&ラス)


矢の先端が、鈍い音をたてて兎の背中に突き刺さる。
それまで岩場をせわしく駆け回っていた兎は、たった一撃でびくびくと痙攣して動かなくなった。
空中であぐらをかいていた邪羅は、感心して口笛を吹いた。
「すげー。これで6匹目じゃん」
誉められた女性は弓を下ろし、少し照れ臭そうな表情を見せた。
肩の上で切り揃えた黒髪と、左右で色違いの瞳が印象的な、美女である。
ただし本人にその自覚はないが。
「いや…大したことはない」
ぎこちない話し方をするその女性は、名前をラエスリールという。
「狩りなど久しぶりだったから、どうも腕が鈍ったようだな…」
血の海に横たわった獲物に歩み寄り、ラエスリールは軽く手を合わせた。
不毛の地にわずかに生える雑草を無心に食べていた砂兎は、今度は一瞬にして食われる側となった。
目を閉じて彼女は大地の恵みに感謝の祈りを捧げていた。
邪羅は神など信じていないが、彼女が祈りを終えるまで何となくその横顔を見つめていた。
「今日の収穫は十分だったな」
言いながら、ラエスリールは仕留めた兎を麻の袋に詰めた。
その手は獲物の血に染まっているというのに、不思議と汚いとは思わなかった。命の赤、情熱の赤、太陽の赤。ラエスリールには本当にその色が良く似合う。
「姉ちゃん、弓矢なんて使えたんだな」
地面に下りた邪羅は、素朴な疑問を口にした。
ラエスリールは矢尻にこびりついた血を布で拭き取っていた。
「ああ…サティンに教わったんだ。動くものを捕らえるには、これが最適らしい」
「なるほど…」
貴重な蛋白源がずっしりと詰まった袋を肩に担ぎながら、彼女は言う。
「わたしはずっと穀潰しだったから…せめて狩りだけでも他の者より成果をあげなければ、城長の養女として肩身が狭い。ずっとそう思っていたから」
ラエスリールは俯いて足元の砂を蹴った。過去の辛い思い出を、噛み締めるように。
「姉ちゃん…」
邪羅は足を止めた。
今は自分よりも背が低い女性の、色違いの瞳をじっと見つめる。
「そんなに悲しそうな顔、しないでくれよ。でないとおれ」
兄ちゃんとの約束、破っちまいそうだ。
台詞の後半は言わないでおく。今の彼女には決して、思い出させてはいけないのだった。
「おまえは、わたしなどには勿体ない護り手だ」
彼の気も知らずに、ラエスリールは優しく言った。
そう、邪羅は彼女の護り手だ。だがそれは、あの男が植え付けた偽りの記憶に過ぎない。
あの男はいつだってそうなのだ。
自分のいいように他人を利用してそれが当然だと思っている。
考えると胸がむかむかしてきたので、邪羅は話題を変えた。
「なに言うんだよ、おれだって姉ちゃんといるの楽しいぜ?それにこうして二人でのんびりするのって、久しぶりだしー?」
頭の後ろで手を組んで、明るく笑う。
自分に出来ることと言えば、それくらいしか思いつかない。
「そうだな。そう言えばお前と初めて会ったのも、狩りの後だったな」
「そうそう」
「あの時、お前は浮城に依頼に来て、自分をまだ人間だと思い込んでいて…」
ラエスリールの言葉が途切れた。不審に思って見ると、彼女は頭痛を堪える時のような、険しい顔をしていた。
「その時…誰かがわたしの傍にいなかったか…?」
何かが、記憶に引っ掛かったらしい。彼女の指が額から眉間にかけて緩慢に移動する。まるで、そこに詰まった何かを探り当てようとしているかのように。
「誰かがいた…わたしと、お前の他に誰かいたんだ」
ラエスリールの片方の瞳…今は深紅に彩られたそこが、封印された記憶を掘り起こそうと苦悶に歪んだ。
「あれは…あの、男は…?」
「姉ちゃん!」
邪羅は慌てて彼女の二の腕を引っ張った。耳元で名前を呼ばれ、ラエスリールは我に返ったようだった。まだぼんやりした顔をしている。
「わたしは…」
彼女は困惑した表情を浮かべた。存在しないはずの記憶が、時折陽炎のように表に現れては彼女を苦しめている。
それはかつて闇主という男とともにあった記憶だった。
彼は、自らの失態を覆い隠すためにラエスリールの傍を離れ、その間、邪羅を仮初めの護り手としたのだ。
「姉ちゃん…」
あの男の言いなりにならざるを得なかったのは、無理に記憶を引き出すことで、彼女の精神に悪影響をおよぼす恐れがあると脅されたからだ。
「大丈夫か?顔、真っ青だぜ」
彼女の苦しみを判っていながら、気付かない振りをしなければならない。近くにいるのに触れることも出来ない。
脳裏であの男の高笑いが聞こえてくるようで、いまいましい。
「…邪羅」
不意にラエスリールの声が低くなった。
「え、なに?」
彼女の声を聞くために顔を近付けた。するとラエスリールは軽く首を傾げながら言った。
「少し、確かめたいことがあるんだが…いいか?」
手にしていた荷物を砂の上におろすと、真剣な顔で見つめてくる。
何なんだろ一体、と思いつつ、邪羅は目をしばたたかせた。
「いいけど…」
次の瞬間、ラエスリールは邪羅をぎゅっと抱き竦めた。
あまりに突然の行動に彼は一瞬、自分の身に何が起こっているのか理解出来なかった。
「ね、ね、姉ちゃん!?」
ザハトではない、この姿の時に抱き締められるのは、間違いなく初めてのはずだ。
以前に比べたら随分と肉付きのよくなった、けれどまだ肝心な所に膨らみが足りない肢体がもたれかかってくる。
焦ってわたわたと手を振り回したあと、邪羅ははたと気付いた。
考えてみたらこれは絶好の機会ではないか。
周囲に見ている者はいない。
世話焼き姉さんも笑顔大魔神もやかましい小娘も、全て記憶を操作され、邪羅の事をラエスリールの護り手として認識している。
最悪な赤い男も今、傍にいない。ラエスリールを独り占め出来るのは、世界中でたったひとり、邪羅だけなのだ。その事に気付いた彼は、そっとラエスリールの背中に手を置いた。
「…どうしたんだよ。姉ちゃんらしくないぜ」
理性を保ちつつ、慎重に尋ねる。
自分の知っているラエスリールは、誰彼かまわず抱きつくような性格ではない。
(いや、そりゃ、多少羞恥心が薄いところはあるけれどさ。おれだってほら、一応男なわけだし)
などと胸のうちで呟いてみる。
ラエスリールは、邪羅を見ていなかった。
「すまない…」
吐息のような囁きが、彼の胸を焼いた。
(なんで、謝るんだよ、姉ちゃん。迷惑なことなんてなんにもないんだよ)
そう言いたかったが、恐らく彼女には聞こえない。ラエスリールは確かにこの胸の中にいるのに、どこか遠いところを見ていた。
彼女にそんな顔をさせているのは誰であるのか、痛いほど判っていた。でも、それならなぜ、目の前の存在に温もりを求めようとしたのか。
いや違う。ラエスリールが邪羅に求めたのは、温もりではない。求めているのは、追い掛けているのはあの男の……影だ。
「違うな…やはり」
邪羅から離れると、ラエスリールは悲しそうに呟いた。
「何が」と問い掛ける前に、彼女は予想していた答えを投げた。
「感触が、違うんだ…全然」
二人の間をざあっと風が吹き抜け、砂塵に黒髪が舞った。
ラエスリールは前髪を押さえながら、砂が目に入らないように、きつく目をつむっていた。
「姉ちゃん」
邪羅の声は硬くなっていた。
彼女が何を確かめようとしていたのか、はっきりと判ってしまったからだ。
「わたしは…以前にも、こうして誰かに抱きついたことがある」
邪羅の体にあの男の気配を感じたとでもいうのか。
目を開けて、ラエスリールは呻いた。
「今までずっと、それは護り手のお前だと思っていた。けれど…違う」
彼女は先程の感触を確かめるかのように両手を握り、また開いた。
手のひらが汗ばむまで、幾度となくその動作を繰り返した。
「判らない。お前ではないのなら、誰なのだ…?」
泣きそうな表情で、尋ねる。色違いの瞳に魅了の力が、これでもかといわんばかりに、溢れている。
この奇跡の娘は、罪の無い顔でそうやって、何度も邪羅を恋に落とす。彼女の気持ちが向かう先は、結局は、あの極悪妖主の元でしかないのに。
「…ずるいよ、姉ちゃん」
邪羅は笑った。いつもの彼らしくない笑い方だった。
「どうしていつも、あいつの事ばっかり考えるかな。今、姉ちゃんのそばにいるのはおれなのに」
大切な女性はいつでも別の相手のことを思っている。
彼女が傷つくところを見たくないばかりに、損な役回りばかり引き受けてきたけれど。
さすがに今回ばかりは、ひどい。
「なんで、おれじゃなくてあいつなわけ?」
低く抑えた声で言った。

ラエスリールの記憶はもちろんまだ戻っていない。
あいつ、という曖昧な人称は、彼女の記憶を取り戻すきっかけには至らなかった。
「どういうことだ。お前は…何か知っているのか?」
ラエスリールが一歩前に出た。不安そうに見つめる瞳。
この人をいじめたくなる赤男の気持ちが、何となく判るような気がした。
「知ってるけど、教えない」
ぺろりと舌を出す。それがせめてもの意趣返しだ。
このくらいはさせてもらわなければ、割に合わない。
「答えるんだ、邪羅!」
詰め寄るラエスリールを、ひらりとかわす。
「教えないったら教えないーっと」
どこまでも鈍感で愛しい女性に背中を向けて、邪羅は歩きだした。
ラエスリールが慌てて追い掛けてくる。
邪羅は歩く速度を速めた。
いつもは追い掛けてばかりだけれど、たまには、追い掛けられるのも悪くない。
「待てったら…こら!」
夕暮れの白砂原で、追い駆けっこをする二つの人影があった。
一人は必死の形相で、もう一人はひどく楽しげに砂地を走っている。
彼女に全てを話すのは、まだまだ先の話だ。それまでは、例え短い間でもラエスリールの護り手を精一杯演じていたい。こうやって二人きりで過ごす時間を、大切にしたい。きっともう二度と、こんな機会はないだろうから。
「待てと…言っている…」
後ろを走る、ラエスリールの息は次第に上がってきていた。
獲物の入った袋と弓矢を担いだまま、全速力で走っていたのだから、無理もなかった。
振り返って邪羅は笑った。
「もうすぐ門限だろ?早く行かないと閉められちゃうぜ」
努めて明るく告げて、彼はそっとラエスリールの手を取った。
折しも閉門を告げるドラの音が、風に乗って聞こえてくるところだった。



──おわり──


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