書庫 向日葵(ちびラス&リーダイル)


あれは、遠い夏の記憶だった。
今でもまざまざと思い出すことが出来る…あれは日が高く昇った蒸し暑い午後の日のことだった。
父と母が、珍しくも揃って家を空けることとなった。
「大丈夫だな?」
何が、とは父は言わなかった。問い返す勇気も当時のラエスリールにはなかった。
ただ、父の言うことは絶対だったから…言い付けさえ守っていれば、父の秀麗な顔が曇るのを目の当たりにすることはなかったから、こくりと頷いた。
「はい、父さま」
淡い微笑みとともに、頭に置かれていた手が不意に離れた。
その傍らで母が、心配そうに幼い子供たちを見つめている。
「大丈夫なの、ラス?やはり私だけでも残った方が…」
その言葉に顔をしかめた父が何かを言い掛けた時、部屋の隅に座っていたリーダイルが口を挟んだ。
「心配いりませんよ、母上」
ラエスリールは思わず弟の顔を見た。母に話し掛けるときの弟の口調は、いつもこんな風に堅く、事務的な印象を与える。
育ち盛りの少年特有の照れがそうさせるのではない。子供心にラエスリールは気付いていた。リーダイルは明らかに母を疎んじている。
少なくとも父と同等の存在とは考えていないようだった。
気丈な母もリーダイルの扱いには苦労していた。
リーダイルは立てた膝に手を置き、もう片方の足を床に投げ出していた。
「ラスは…姉上は僕が守ります。僕にもその程度の力は有りますから」
声に宿る力に、ラエスリールはただならぬものを感じた。父と向き合った際に感じる畏怖と似たようなものだった。
「リーダイル…?」
恐る恐る話し掛けると、弟はあどけない表情に戻り、「ん?」と問い返してきた。
彼がこんな表情を見せるのはラエスリールの前だけだということに、彼女はまだ気付いていなかった。
「行くぞ、チェリク」
痺れを切らした父は不安げな母を伴って姿を消した。
それを待っていたかのようにリーダイルは立ち上がり、姉の手を取った。
「行こう」
突然の行動に、ラエスリールは面食らった。
「ど、どこに?」
「いいところ」
言い置いて弟は駆け出した。腕を引かれながら、ラエスリールは慌てて叫んだ。
「でも父さまが、お家から出ちゃいけないって…!」
頬を紅潮させたリーダイルは、姉の制止にも耳を貸さない。
「僕がいるから大丈夫。それに、僕は父さまなんか怖くないよ。ラスは?ラスは怖い?」
ラエスリールは少し考えた後、小さく答えた。
「少し、怖い…」
あはは、と弟は笑った。走り続けていると空気が変わった。緑の木々が次第に減っていき、日差しが直接肌を焼くようになると、リーダイルは足を止めた。
「あっ…」
急に立ち止まった弟の背中に軽く鼻を打ち付けたラエスリールは、ゆっくりと彼の視線の先を追った。
「ど、どうしたの、リーダイ…」
ざあっと前方から吹いてきた風が、彼女のその先の言葉を奪った。
二人の前に見えてきたのは深い崖だった。怯えるラエスリールの手を握ったまま、リーダイルは崖の淵へ座り込んだ。
足場が崩れるのではないかと彼女は気が気ではなかった。
「ほら、あそこ」
弟は嬉々として崖の向こう岸を指差した。そこには背の高い花が無数に群生していた。
大人の背丈ほどもある太い茎の先に、これまで見たこともないくらい大きな花が咲いている。
その黄色い花弁の中心は真っすぐに太陽を見据えていた。
幼いラエスリールは、その花の名前を弟に尋ねてみた。
「リーダイル、あれは…?」
握られた手に力が込められた。
「あれはね、向日葵っていうんだよ。もっと近くで見てみたい?」
リーダイルはそう言うと、足を更に一歩踏み出した。
「あ、あぶな…」
ラエスリールの叫びは徒労に終わった。弟の体が地を離れ、ふわりと宙に浮いたのだ。
彼と手を繋いでいたラエスリールの体も、引きずられるように浮かび上がる。
怖かったので、なるべく下を見ないようにしていた。
弟に「目を開けていいよ」と言われるまで、瞼を閉じていたことにさえ気付かなかった。
「あ…」
目を開けたとき、視界が黄色で埋めつくされた。向日葵が咲く丘の中心に二人はいた。
地に足が着いている事実にラエスリールは安堵しながら、向日葵の根元に座り込んでいる弟を見た。
「見せたいものって、これ?」
リーダイルはこくりと頷いた。
「この間父上と遊びに行ったときに見付けたんだ。ラスは花が好きだからこれを見せればきっと喜ぶと思って」
ぱきり、と茎の折れる音がした。ラエスリールは思わず顔を背けた。向日葵が首を捻って、苦しげに頭を垂れた。
大地からぴんと伸びていた茎に亀裂が走り、太陽を向いていた花弁さえも地に散っていく。
次々に萎れていく向日葵の、その中心にいるリーダイルの口元には歪んだ笑みが浮かんでいた。
ラエスリールは何と言葉を掛けて良いのか判らず、唇を噛んだ。
「ほんの一瞬でも、見せられて良かったよ。この花は夏の間しか咲かないんだって」
あどけない口調がラエスリールの心に重くのしかかる。
「リーダイル、わたしは」
それでも姉として、言わねばならないことがある。
「気に入らなかった?」
「そうじゃないの。わたしは」
弟が放つ妖気は尋常では無かった。触れるだけで、いや、近くにいるだけでも花は萎れ、地に落ちる。
その光景を見るたびに傷つくのは弟の心…判ってはいたのに。自分の軽率な言動をラエスリールは恥じた。
雨期が続き、危険だからと家から出ることを許されなかった時、退屈した彼女が「お花を見にいきたい」と洩らしたのを、弟は聞き逃さなかったのだ。
───あれは、おまえを喜ばせるためなら何でもするだろう。
いつだったか父が言っていた。
今ならあの言葉の意味が判る。しかしそれは幼いラエスリールの心には受けとめきれない愛情だった。
嬉しいだとか、悲しいだとか、それ以前に重荷に感じてしまう。
どんなに思われていても満たされないのは、弟の力で枯れていく花を見てしまったからだ。都合の悪い現実に蓋をして生きていく器用さを、ラエスリールは持ち合わせていない。
「悲しむことはないよ。花たちもラスに見てもらえて本望だってさ」
必要な犠牲だったのだと、弟は割り切る。そんな弟の背中に彼女はどうしても追い付かなかった。
「違う…ちがうの」
ラエスリールが愛したいのは、何を犠牲にしてでも守ってくれる弟などではない。ただ、一緒に花を見て綺麗だねと笑い合える弟なのだ。
それは許されないことなのだろうか?半分とはいえ魔性の血を引いている自分たちには、美しい花を愛でることさえ許されていないのだろうか?
「ラス…」
頬に伝う涙を、立ち上がったリーダイルが掬い取った。
ラエスリールはただ、泣いた。父を恨んではいない。母も弟も自分を好いてくれているし、ラエスリールも家族を愛していた。
「ラス…姉上、泣かないで。僕がいるから。泣かなくてもいいんだよ」
なのに、どうしてこんなに切ないのだろう。愛し愛されてなお足りないと思うのは、弟が見せてくれた向日葵が、こんなにも悲しく映るのは?
「わたしは…」


今でも思い出すたびに胸が痛む、夏の記憶。一面に咲いた向日葵。
「好きだと言ってなかったか?」
長い苦悶の果てに彼女が選んだ相手は、しかし結局、共に花を見て笑い合える男ではなかった。
弟以上に傲慢で残酷で、花を枯らすことなど何とも思っていない男だった。
それでも彼女は闇主の手を取った。
理由など判らない。
ただ、今なら弟の思いが…たった一つのものをがむしゃらに求めていたリーダイルの切なさが、少しだけ判ったような気がするのだ。


──おわり──


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