ようやく捕らえた娘を手中に転がして、桜妃は非常に満足していた。 「ねえ、どんな感じかしら?父親に求められ、母親から憎まれる気持ちは」 苦痛に顔を歪める娘の姿に、彼女は心が浮き立つのを感じた。 顔も知らない他者からの蹂躙であるのならまだ耐えられように、娘に危害を加えているのは血の繋がった肉親である。それはさぞかし辛いことだろう。 シェンツァ・リーウェン。 父親の名はドードラ。母親の名はカナン。 それは紛れもなくこの娘にとっての現実だ。しかし翡翠の妖主の配下たる桜妃の紡ぐ夢は、その事実さえもねじ曲げてしまう。 「あなたが目覚めれば、この夢も消えるの。そうすれば現在のあなたは助かるわ。でも、彼らはこの膨らんだ夢と共に消えてしまう。親である彼らが消えてしまえば、あなたの存在も初めからなかったことになる。……どっちに転んでも、あなたはお終いよ。私の夢に紛れ込んだのが不運とあきらめなさいな?」 両親の記憶と共に全てを思い出したらしい娘は、だがどうすることもできずに、されるがままに首を前にうなだれている。それを見て彼女はころころと笑う。 「安心なさい。あなたたちはとっても美味しそうな魂を持っているから、ただ消滅させるなんて勿体ないことはしないわ。鬼籍に入る前に、捕まえて妖鬼の餌にしてあげる。そうね……この間、あたしのために花を摘んできてくれた妖鬼。あいつに食べさせてあげようかしら。あれももう少し力がつけば、少しは見栄えが良くなるだろうし……」 シェンツァ・リーウェンは俯いたまま、ぽつりと呟いた。 「そんなこと、させない…………」 泣き言にしては、力のこめられた台詞に、桜妃は不快げに眉を潜める。 身の振り方もわからない愚か者……彼女の目にこの娘は、そんな風にしか映らなかった。 「往生際の悪い小娘ね。これ以上痛めつけられたくないなら、素直に運命に身を委ねた方がいいわよ?」 桜妃の命取りは、娘の背後にいる存在に気づかなかったことだ。主である翡翠の妖主と比肩する強大な力の主が、ちっぽけで脆弱な人間にすぎぬシェンツァ・リーウェンの存在を、今は何よりも必要としていることに気づかなかったことだ。 思い当たることがないのは当然だろう。上級魔性が、さして美しくも強くもない者に心を砕くことなど有り得ない。それが人間であればなおさらだった。 「お願い……助けて」 しかし、目の前の娘は誰かを呼んだ。 声に宿る力に、桜妃は息を呑んだ。悪足掻きだと鼻で笑えない程度の力を、少女の中に感じ取った。 正確にはそれは娘の力ではない。それなのに……これは。 そんなはずはないと、笑い飛ばすことなど出来なかった。 誰を呼んだのか。 まさか………………。 桜妃の首筋に悪寒が走った。主人を目の前にした時と同じ畏怖が、唐突に彼女の全身を駆け抜けた。 それは無知のなせる業だったとしか言いようがない。一介の人間が、魔性の王をその場に呼び寄せるなど。 後にいかなる報復が、代償が待っているか、知らぬがゆえの………………無知ゆえの、奇跡。 「助けてっ…………!」 娘の叫びと共に、その腕を捕らえていた二人の体が弾け飛んだ。 壁に背中を打ち付けた青年はその反動でうつぶせに倒れ込んだ。その体に重なるようにして倒れ込むのはカナンという名の美しい少女。しかしその容姿は、徐々に異なったものに姿を変えていく。 細い手足は太くて頑丈なそれへ。白い肌は日に焼けた健康そうなそれへ。背中の辺りまで流れていた金色の髪は、油っけの少ないぱさついた黒髪へ……。 それは夢の終焉であった。小さな部屋は村の外れの一軒家へ姿を変え、青年と少女の衣服は着古した作業着へと、移り変わっていく。 シェンツァ・リーウェンは膝を突き、大きく息をついている。 もう、大丈夫…………。 そう言わん許りのその表情を憎らしく思うと共に、桜妃は自らの負けを知った。 術を解かれたことに、彼女は愕然としていた。こんなことが可能な存在を彼女は数えるほどしか知らない。立ちすくんだままの彼女の耳を、ぞくりとするような魅惑的な声がくすぐる。 ────悪戯が過ぎたようだな。 主人では、ない。男の声だ。 誰の介入によるものなのか、もはや知る必要もなかった。相手が妖貴以上の力を持つことは明白であった。 金か、紫紺か、あるいは………………? しかし、その姿を視界に納めることは叶わなかった。左肩に突如叩き付けられた力によって、桜妃は呻きを上げた。 「くっ…………!」 砕けた肩から、真紅の血が溢れだす。 よろめきながら、彼女は姿なき相手に向かって声を飛ばす。 なぜ、という思いがあった。 「ま…………魔性の王たる方が……何故、人間などに荷担を……っ!」 答えはない。代わりに、右肩に激しい衝撃が走る。流れる真紅に混乱しながら、声の主を捜そうとする彼女の目に、しゃがみこんでいるシェンツァ・リーウェンの姿が映る。 妖主の助力を得ている忌まわしい小娘は、痛みの残るらしい両腕をしきりに擦っていた。 それを目にし、まさか……と桜妃は思う。頭に浮かんだ考えを、すぐには否定することが出来なかった。 予感は的中していた。左の腕に、引き裂かれるような痛みが走る。 「あう……っ!」 痛むだけでは済まなかった。きりきりきりと、実際に腕は引き絞られ、腕の付け根から血が滴り落ちる。 続いて、右の腕。嫌な音を立ててそれは床に落ちた。腕などたやすく再生がきくが、失った力は容易には戻ってはこない。 「何故……何故っ!」 恐怖よりも、悔しさの余り、桜妃は叫んだ。 シェンツァ・リーウェンの味わった痛みを、彼女にも味わわせようというのか。この妖主はそれほどまでにこの娘が大切なのか。一体、これのどこに、そんな価値があるというのか……! 許せなかった。こんなことがあっていいはずがなかった。 引き際というものを忘れ、桜妃は無力な小娘に左手を伸ばす。 消してやる………………! しかし、それを見透かしたように、圧倒的な力が、彼女の体を束縛する。 もはや声も出せなかった。動かしがたい現実に、唇を噛み締める彼女の耳元で、低い声がした。 ぞっとするほどに冷たい声音だった。 ────失せろ、桜妃。 疑問も、憤慨も、消し飛ぶほどに恐ろしい囁きだった。あと少しでも、引き際が遅れていたら、彼女は確実に消されていただろう。 名前を呼ばれ、命じられた以上、それは強制であった。叶わぬ力の主に牙を剥くほど、彼女は愚かではない。彼女はそうして、退却を余儀なくされたのだ。 「…………承知、致しました………………」 きつく、きつく歯噛みしながらも…………頷く。 それ以上、干渉する力は働かなかった。 手傷を負ったまま、桜妃はその場から立ち去る他はなかった。 腹立たしさは収まらない。 なぜ……脆弱な人間が。あんな小娘が。なぜ、美しくないものが、美しいものに愛でられる?なぜ、力なきものが、力あるものにああまで慈しまれる? 許せない……許さない。あんな小娘、ちっとも綺麗じゃないのに………………! 桜妃はその現実をどうしても受け入れることが出来なかった。 彼女の憤りは、この後別の少女に向けられることとなるのだが……それはまた、少しだけ先の話である。 ※ このひとって、いつも笑ってれば、いい線いってるんだけどなあ……。 目の前に現れた黒い装束の青年が、これ以上はないというほどの仏頂面で自分に向かって手を差し伸べるのをぼんやりと見やりながら、シェンツァ・リーウェンはそんなことを思った。 悽惨たる状況であった。 みすぼらしい身なりをした少女と青年は意識を失ったまま倒れ、床や壁には魔性の残していった血や肉片がこびりついている。歪められた空間の影響を受けて、寝台や調度品は奇妙な方向にねじ曲がっていた。 寝室の扉の向こうから、微かに聞こえる呻き声は、青年の母親のものだろう。彼女にとっては、祖母と呼ぶべき存在……しかし、その生死を確認する気力は残されていなかった。 こんな状況にあっても、やはり無事なのはシェンツァ・リーウェンただ一人…………その事実が、彼女の心に重くのしかかる。 青年の腕に素直に掴まると、彼女は再会の挨拶とは違う言葉を口に乗せる。 「さっきの……怖い女の子は……?」 「問題ない。追い払っただけだ」 青年の答えも簡潔なものだ。「そう」と呟いて、シェンツァ・リーウェンは俯いた。 それに応えるように、床に落ちていた肉片が崩れ、形を無くす。血痕すらも残さずに、魔性の少女の残り香は完全に消え失せた。 沈黙が、両者の間に横たわる。 とりあえず、ありがとう、と言うべきなのだろう、けれど…………。 今回はどうも、素直に喜べないものがある。俯いた頬に、ぱさりと黒髪がかかった。 「わたし……また生き残っちゃったんだ……」 死にたかったわけではない。 だが、自分の周囲の人達が傷ついて、自分だけが無傷なのはどうにも心が痛む。そういう状況を目にした人間が、シェンツァ・リーウェンを魔性の手先呼ばわりする人間は多かった。 だから故郷の村を出た。これで少なくとも、大切な人達を巻き込むことはないと思ったから。 だが、同じことなのだ。どこにいても、何をしていても魔性を引き寄せてしまうこの体質を、今ほど恨めしく思った試しはない。 結局、現実の両親だけでなく、過去の両親まで巻き込む羽目になってしまった………………。 彼女のせいではないのだろう。あの魔性の少女も言っていた、シェンツァ・リーウェンがかかわってくることなど予定外であったと。しかし、そんなことは気休めにすらならない。 珍しく沈んでいる彼女の頭に、青年がそっと手を置いた。 「悪い夢から、まだ覚めていないようだな……お前らしくもない」 楽天的な性格が持ち味のシェンツァ・リーウェンとて、年頃の少女だ。落ち込むこともあれば、傷つくこともある。この青年にはそういうことはわからないらしい。 「だって、わたしのせいで、みんなが巻き添えになる……あなただって」 彼女は青年の青い瞳を見た。 「あなただって、そうでしょう……?」 引き裂かれる前の記憶が、蘇る。 シェンツァ・リーウェンの髪を敢えて手放した千禍の真意を、彼女は知りたかった。 救いを求めた彼女に対して、すぐには側にいけない、と言った理由も。 青年は答えない。代わりに、倒れている両親の方に顎をしゃくる。 「あれを見てもまだ、そんなことが言えるか?」 はっとして、彼女は顔を上げた。 ドードラの体に折り重なるようにして、倒れているカナン。 意識は失ったままだというのに、いつの間にかしっかり手を繋いでいる。その口許に浮かんでいるのは、苦悶ではなく、幸せそうな微笑みだった。 彼らは間違いなく、惹かれ合っていたのだ。 夢を叶えたいと思う一方で、青年は誰かに引き止めてもらうことを望んでいた。繋がれた手と手は、これからも決して離れることはない。 シェンツァ・リーウェンは恐る恐る青年の顔を見た。青年も彼女の顔を見て、真顔のまま、しっかりと頷き返してくれる。 お前は、生まれるべくして生まれた。 言葉にならない彼の声を、シェンツァ・リーウェンは読み取った。不安がゆっくりと溶けていくのを感じながら、彼女は初めてこの青年にお礼が言えた。 「ありがとう……」 意外そうな顔をする青年を見ていると、何となく照れくさくなり、彼女はそっぽを向く。 「悪い夢は、もう終わったんだもの……これから二人で、本当の夢を紡いでいくのね」 目覚めたドードラに、カナンは恋文を渡す。そして告げるのだ……行かないで、と。 あたしは美しくはないけれど、こんなにもあなたを慕っていますと。 その告白の行方は、確認するまでもない。ここにシェンツァ・リーウェンが存在しているのが、何よりの証拠だ。夢は二つとは叶わなかったけれど、最大の夢は二人で成就させたのだ。 シェンツァ・リーウェンはそっと自らの体を抱き締めた。決して豊満とは言えない薄い胸、細い手足、真っ直ぐで硬質な髪……これといって特徴のない、平凡な顔立ち。 美人ではないけれども、自分の姿を、形を愛しいと思える。それは両親から受け継いだものだから。夢を紡ぎながら、互いに悩み傷ついて成長していった彼らの輝かしい魂をそのまま受け継いでいるものだから。 異常なまでに魔性邂逅率が高いという特異体質を持って生まれてしまった娘のために、今後様々な苦難を共に背負うことになってしまう二人だったけれど……せめて、今だけは。 わたしの分まで、どうか………………幸せに。 二親の未来に思いを馳せるシェンツァ・リーウェンの頭を、ごいん、と小突く男がいた。 「何を一人で悦に入っている?」 予想していなかった攻撃に、彼女は前につんのめり、頭を押さえつつ青年を振り返った。 「な、何するのっ!人がせっかく感動に浸っているときに…………」 たいして痛かったわけではないが、思考を中断されたのは不愉快である。 睨み付ける彼女に対して、青年は依然として不機嫌なままだ。 「こいつらがくっついてお前が生まれるってのは、確かにめでたいことだ。けどな、おれを呼ぶのがあとちょっとでも遅かったらどうなってたと思う?もう少し自分の立場ってものを理解してから行動に移れ」 完全な説教口調である。 「だ……だって……わたし、まだあなたのこと名前で呼んだことないし…………」 名前というのは最強の言霊なのだ、と言ったのは彼だ。千禍、という名前はしっかりと頭に刻み込まれていたが、気安く口にしてはいけないのだとシェンツァ・リーウェンの直感が告げていた。 ましてや、上級魔性の罠に掛かったせいで彼の存在までも忘れてしまっていた、などと口にしたら、この青年が傷つく……ような気がしたのだ、何となく。 しかし彼女が思っているよりもずっと、青年の神経は図太く出来ているらしかった。 「だから、好きに呼べと言ってやっただろうがっ!だいたい、危なくならなきゃ呼ばんのか、お前は?ったく、お前のそういうところがあいつに遺伝しちまったんだっ!」 前半の台詞はともかく、後半のそれはシェンツァ・リーウェンには理解の及ばないものだった。ゆえに、首を傾げてこう答えるしかない。 「な、何のこと……?」 青年がちっと舌打ちする。「ああ、なんでもない。過ぎたことをとやかく言っても埒があかんからな。……そろそろ行くとするか。しっかり掴まっとけよ」 彼は半ば無理やりに、彼女の手を取って袖を掴ませる。 「今度は放すんじゃないぞ。いちいち拾いに行くのは面倒だからな」 夢の続きは、やはり現実だった。覚めない夢など夢ではない。しかし眠りが、そして未来への希望があるからこそ人は生きてゆけるのだ。幼い頃に見た幸せな夢が、いつか現実となるように。 ねえ、とシェンツァ・リーウェンは再び問い掛けた。 「あん?」 うるさそうに、青年が答える。 「あの時、どうしてわたしの髪を放したの……?」 複雑な理由を、彼女は予想していた。こうして助けに来てくれたからには、見捨てられたわけではないということは判った。その不安が解消した以上、今度はそれに代わる理由を得て安心したかったのだ。 しかし渋面の青年は意外な答えを返してきた。 「お前が痛がったからだろうが」 あまりにあっさりした答えに、シェンツァ・リーウェンは拍子抜けした。「え?」と問い返すが、青年はそれ以上口を利くのも馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに、口を噤む。 その秀麗過ぎる横顔を、彼女はしばらくあっけにとられて見つめるほかなかった。整いすぎた容貌はあくまで冷たく、人を寄せ付けない雰囲気すら纏っているのに…………。 見つめ続けていると、そのうちに心の中に温かい思いが満ちてくる。嬉しい、と純粋に彼女は思った。 あまりにも単純な、そして最高の理由が、嬉しくて温かかった。 わたしが痛がったから、思わず手を放しちゃって、そうしてわたしを見失った? だからすぐに助けに来られなかったって、そういうこと…………? だって………………そんな。 そんな単純な理由で良かったの…………? 笑いが込み上げてきた。青年は再び拳を上げたが、もはや殴る気も失せたのか、くしゃくしゃと髪をかき混ぜてくる。 「行くぞ」 その声がとても優しかったので、彼女は笑顔のまま頷いた。 舵はこの青年が握っている。ならば可能な限りついていくしかないではないか。 たとえどんなに険しくとも、道は決して閉ざされてはいないのだから。 だから………………もう少し。 もう少しだけ、この青年のことを信じてみよう…………。 広い背中にそっと腕を回しながら、シェンツァ・リーウェンはとりあえず前向きに、そう思うことにしたのである。 ──おわり── 戻る [*前] | [次#] ページ: TOPへ |