書庫 螺旋迷宮3(闇主×シェン)


 記憶の戻らぬまま、青年の元で何度目かの不安な夜を迎える少女は、天井を仰いだまま身動ぎもしなかった。
 親切にしてもらえばもらえるだけ、シェンは怖くなる。初めのうちこそ、極めてお人よしで純朴な青年の厚意に素直に甘えていたものの、近頃自分を見るドードラの目が、何やら思い詰めたものに変わってきたように思えてならなかったのだ。
 それは、まるで……。
 頭に浮かんだ思いを、自惚れだとシェンは片付けようとした。あんなに綺麗な青年が、平凡な彼女に対して同情以上の感情など抱くはずが無かった。
 椅子の上で膝を抱える彼女に、仕事場から戻ってきたドードラがいつも通りに優しく声をかける。
「今夜はまた一段と冷えますね。新しい毛布を出しておきましたから、先にお休みになってください」
「え、でも……ドードラさんは?」
 思っても見なかったことを言われて、シェンは慌てて問い返す。
 家主より先に床につくわけには行かなかった。というよりも、彼の寝室の明かりが消えてから出ないと、シェンは安心して眠れないのだ。ドードラもそんな彼女の気持ちを汲んでくれていたからこそ、今まで彼女より早い時間帯に就寝していた。
 それはもはや暗黙の了解となっていたのに、今日に限って、何故彼はこんなことを言い出すのだろう。
「まだ片付けなければならない仕事が残っていてね。あ、大きな物音は立てませんから、安心して眠るといいですよ」
 穏やかな瞳。けれどそれがシェンには怖かった。とてつもなく怖ろしく感じられた。
 しかし、敢えて逆らう勇気もない。居候の身でありながら、ここまで親切にしてもらっているのに、その思いを疑ったときに受ける報いが何より怖かった。
「わかりました、それじゃ…おやすみなさい」


 寝室で、良い香りのする毛布に包まりながら、シェンは目を伏せた。
 隣室からは規則正しい筆記の音が聞こえてくる。さらさらと澱みなく文字を書いていく音に混じって、帳面をめくる音、印を押す音。
 心地よい律動に、次第にうとうとし始めた彼女は、数十分もしないうちにそれらの音が途切れたことに全く気づかなかった。
 彼女は無防備でいた。四肢を伸ばしきり、眠りについた後は、いつもと変わらぬ朝を迎えるつもりでいた。
 だが、静寂は長くは続かない。
 寝室の扉が音もなく開き、明け方まで仕事をしていると言ったはずの青年が姿を現した。頬に隣室からもれた明かりが差し込み、眩しさを感じてシェンは目を大きく開く。
「あ、の……?」
 目の前に青年の膝が見えた。すぐには状況が掴めないでいる彼女の視界に、今度は青年の真摯な顔が収まる。
 その瞳を見ていると、シェンは何故か懐かしいような感覚に囚われる。見つめていると、安心する。
 これと同じ瞳の持ち主を、彼女は確かに知っていた。
 ああ、けれど、やはり思い出せない……。
焦燥するシェンの前でゆっくりと膝を折り、屈みこんだドードラは、やがて押し殺すような小さな声で囁く。
 薄暗い明かりの中に、ドードラの端正な顔が浮かんでいる。
「やはり、ご迷惑でしょうか……」
「え、何がですか?」
 思わず聞き返してしまったのは、話のつながりが全く見えなかったからだ。
 これが夢ならば、場面や話があちこちに飛散するのも納得がいく。うかつに返事をしてしまったら、今見ている夢の結末がとんでもない方向に転んでしまう可能性があった。
 ドードラは照れくさそうに頭を掻きながら、意外なことを口にする。
「ですから……あなたさえよろしければ、ここでずっと一緒に暮らしませんか。私は頼りない男ですが、収入は人並みにあります」
 優しい言葉と共に、美しく整った顔がシェンを覗き込んでくる。
 ……ぞくり、と背中に寒気が走った。
 嫌悪ではない。恐怖だった。似たような感情に支配されたことが以前にもあったような気がして、彼女は必死で記憶を探る。
『シェン?どうした?』
 怪訝そうな青年の声が、聞こえた気がした……。
『いやっ!』
 夢中で魔性の青年にしがみつく自分がいた。
「あ、ああ………」
 あのときの恐怖だった。
 自分の存在が握りつぶされそうになる恐怖だった。
 危険だ。
 この申し出を受けてしまったら、危険だ。
「い、いやっ……」
 これは夢なのだと、幾度も頭を振るシェンの耳に、少女の甘い囁きが聞こえてくる。
『そうよ。これは夢。あなたにとって、最も都合の悪い夢』
 初めて聞く少女の声が、シェンの体をびくりと震わせた。
 だれ……?
 視界が、ぐにゃりと歪んだ気がした。
 ドードラの姿も、雑然とした部屋も、すべてが遠ざかる。
 え、と思う間もなく、彼女の意識は再び飛んだ。

 何だか、大切なことを忘れてしまっている気がする……。
 頭を下に、ゆるやかな螺旋を描いて落下しながら、シェンはそんな風に思っていた。
 くるくると、記憶が巻き戻されていく。
 記憶を失う前は、確かに魔性の青年と共にいたのだ。
 魔性のくせに妙に人間臭いところがあって、どういうわけか一緒に旅をしていた。
 けれど、一緒に眠ったり食事をしたりした記憶は全くない。ということは、あれもまた夢の中の出来事であったのか……。
『早く………しろ。そうしたら、おれが………してやるから』
 何かを急かされていたような記憶もある。
『シェン!』
 自分を呼ぶ、必死な…その声。
 普段は憎らしいほど落ち着いているくせに、時折妙に子供じみた面を見せる、あの青年と共に旅をしていた。『欝陶しいから張りつくな』
 そのくせ、離れようとすると、乱暴に腕を掴んで引き寄せてくる。
 腕ではなく、小動物さながらに首根っこを掴まれたことも…確か、あったような気がする。
『この馬鹿…勝手に離れるなと言ったろうが!』
 人を人とも思わないような、ぞんざいな口調…確かに、記憶はあるのに。
 自分に好奇の目を注ぐ怖い人たちを追い払ってくれた後で、忌ま忌ましげに呟いたりもした。
『手間かけさせるんじゃない』
 大きな胸に抱き抱えられた時、不思議なくらい安心する。
 あれは………。
 誰であったのか。
 何と言う名前の存在だったのか。父ではなかった。兄でもなかった。
『何か思い出せたか?』
 うん、とシェンは頷く。
 待ってて。あとちょっとで、思い出せそうな気がするから…。
美しい少女が、泣いていた。目を真っ赤に腫らして泣いていた。
大きな姿見のある部屋だった。この少女の個室らしく、とても狭い。シェンと少女がいるだけで既に満室状態であった。
「誰…?」
 背後に突然現れたシェンに、金の髪の少女は明らかに驚いていた。けれど、それよりも悲しみの方が勝っているのか、再び顔を伏せて泣き始める。
 嗚咽だけが、閉め切られた小さな部屋に響く。シェンは何と言ったら良いのかわからないまま、途方に暮れて少女のうずくまった背中を見ていた。
 身に着けている衣服は上等な絹だった。自分のそれと比べるといささか恥ずかしいものがある。泣きじゃくる少女はシェンと同い年くらいに見えた。
「誰か知らないけど、出てってよ………出てって…」
 そうは言われても、出口の扉は少女が塞いでいる。扉を開けた先にまた別の世界が広がっていたら、それはそれで嫌な気もするけれど。
 うーん、とシェンは唸った。しかし、放っておけば覚めてしまう夢ならば、特に無理をして出て行くこともないか、と思う。
 立ったままの姿勢から、少女の後ろに屈み込んで、そっとその肩を抱いた。
 ここがどこかなど、聞くだけ無駄だった。ただ純粋に、慰めたいと思ったのだ。
「ねえ、どうして泣いてるの?せっかくそんなに綺麗なんだから、もったいないわよ?」
 少女の肩がわずかに震えた。ゆっくりと首を振る。
「駄目なの。いくら綺麗な顔をしていても、綺麗な声をしていても、あの人が振り向いてくれないのなら、何の意味もない…」
 少女はただ泣くばかりだった。
「失恋したのね」
年頃の少女として、シェンにも多少の経験はある。
 彼女の初恋の相手は、村で一番の美丈夫だった。もちろん遠くから見ているだけで、告白などする勇気さえ持たなかった。自分では彼にふさわしくないことくらい判りきっていたし…それに。
『わたしって、このままじゃ平凡な人生は歩めそうにないわ』
 魔性絡みの騒ぎを起こす度に、そうやって自己嫌悪に陥るシェンを、いつも励ましてくれる幼馴染みがいた。
『何言ってるんだよ。大丈夫。絶対大丈夫』
 少しずつ、記憶が戻ってくる。
 幼馴染みの少年は、ラウ…と言った。ラウシャンと言った。
 そうだった。あの子、いつもわたしのこと何て呼んでたっけ…?
『平気だよ、リー』
 シェン………リー……。忘れていた名前を、思い出しかける。
 重なってくる記憶がある。
『じゃあ、愛称でいいから。シェンでもリーでも……とにかく、お前呼ばわりだけはやめて』
 青い瞳の魔性の青年が、軽く肩をすくめた。
『じゃあな、シェン』


「とても綺麗な人だったわ」
 ぱちん、と泡が弾けるように掴みかけた記憶が失せた。
 シェンは思わず少女の顔を見てしまった。少女は目を腫らしたまま、語り始める。
「村中の女性があこがれていた。あたしは彼に釣り合う女になりたかった。綺麗な顔も、綺麗な声も、綺麗な手足も手に入れた。けれど…それなのにドードラは行ってしまった。あたしを置いて村を出て行ってしまったの」
 聞き覚えのある名前に、目を見開く。
「ドードラ?」
 その声に少女も驚いたのか、濡れた瞳にシェンの姿を映す。
「彼を知ってるの?」
 頭の芯が、じわりと熱くなる。
  ドードラという名前を聞いたのは初めてではない。そして、ついこの間のことでもない。
 もう随分前から、シェンは彼の名前を知っていたのだ。だからこそ、彼に求婚されたときは、恐ろしくて逃げ出したいと思ってしまったのだ。
 なぜなら、彼の存在なしに、彼女の存在は有り得なかったからだ。
 彼を受け入れることは、自分の存在を殺してしまうということだったのだから。
「シェンさんっ!」
 慌てたような、青年の声…振り返った先には、やや青ざめた顔をしたドードラが佇んでいた。
 三人の人間を収容した部屋は、先程よりも息苦しく感じられる。
彼は何故ここにいるのか。あるいは彼を思う少女の心がドードラを呼び寄せたのか。
 いずれにせよ、シェンにとっては不幸としか言い様がない状況であった。美しい青年は、美しい少女には見向きもせずに、シェンに向かって思いの丈をぶつけてくる。
「心配しましたよ、急にいなくなってしまうから…そんなにわたしがお嫌いですか。それとも誰か他に思う方がいらっしゃるのですか」
 頭の隅に魔性の青年の顔が浮かぶ。
 助けて、と叫びたかった。けれど出来なかった。
 彼の名前を思い出せない。こんなことになってもなお思い出せない。
 背中を向けていても、シェンには判った。シェンの背中を見つめている美しい少女の顔が、次第に憎悪に彩られていくのを。
 青年の心が誰にあるのかが、少女には判ってしまったのだ。
「あなたが…あなたが、ドードラの心を奪ったのね!」
 今度はシェンが青ざめる番だった。違う、と言いかけた彼女の腕を、少女がぐいと引っ張る。
 血走った瞳がシェンを縛り付けるのと同時に、少女の思念が心に流れ込んできた。
『あたしがもっと美しかったら』
『そうしたら、きっと彼も振り向いてくれる』
 美しくなるのが彼女の願いだった。ころころと丸い体付きも、太い手足も、気に入っている部分など一つもなかった。
 そんな自分に、優しく声を掛けてくれたのが彼だった。たとえ近所付き合いの延長だったとしても、カナンにはそれが嬉しかったのだ。恋敵は多かったけれど、捨て身になれば何でも出来た。
「ずっと綺麗になりたいって思ってた。だから、一つ目の願い事はもう叶ったわ。でも、もう一つの…彼を手に入れるってお願いはまだ叶ってない…!」
 だから、とカナンは呟いた。
「だから…お前の存在が邪魔なのよ!」
 一方では、美しい青年が、シェンの側に佇む。
 優雅に彼女の右腕を取って、自分の方へと引き寄せる。
「ずっと、商人になるのが夢でした。ですから、一つ目の夢はもう成就しました。けれど、それよりもっと大きな夢は…わたしを理解してくれる女性と共に暮らすという夢は、いまだ叶っていません…」
 ドードラが、シェンの右腕を強く引く。
「そのために、あなたの存在が必要なんだ!」
 両腕が同時に、別の方向へと引っ張られる。
 叩き付けられる好意と、悪意。愛情と憎悪。
 そのどちらも、今のシェンにとっては苦痛でしかなかった。
 きりきりと体が捩じられる。尋常でない力で捩じられる。
「いやあっ!」
 引き裂かれる激痛に、シェンは身悶えした。

 その時、空間に異変が生じた。
 四角い部屋が漆黒に彩られ、淡い翡翠の光が蛍火のように目の前をちらついた。
 光はすぐに消え、代わって室内の壁を裂くようにして現れたのは、長く、艶やかに螺旋を描く黒髪だった。
 風もないのに、髪ははためき、踊る。 唖然とする人間達を嘲笑するような、少女の声が空間に響き渡った。
「いいわ…」
 その声が、空間そのものを震わせて、闇の化身のような少女が姿を見せた。
 豊かな黒髪と、同じ色の大きな瞳。色白の肌には傷一つなく、四肢はあくまでも伸びやかで、声はあくまでも涼やかであった。
 漆黒に彩られた床に静かに足をつけた少女…その足下には、影がない。
 シェンの体中に緊張が走る。
 魔性だ。
 人でいえば十四、五に見える少女の赤い唇から、傲慢な言葉が漏れる。
「いいわ。人の膨れ上がった欲望はうっとりするほど綺麗。成就しても飽き足らず、また新しい夢を追い求め続ける…愚かで、可愛らしい人形たち…」
 くすくすと少女が笑う。
 闇に潜み、夢を操る存在は、シェンの苦しむ姿を間近で見たいがためにその姿を現したのだ。
「あなた、なの…?」
 危険、と心が告げていた。
 それでも、彼女は問い掛けずにはいられなかった。
 彼女を夢に引きずり込んだのも、この二人の夢を弄んで苦しめていたのも、全てこの魔性の女の娯楽によるものだったのか。
 頭の中で、かちり、と歯車が合わさる音がする。その時、シェンツァ・リーウェンは思い出した。
 時の迷宮に迷い込み、そこで美しい魔性の青年に連れ出されたこと……。
 以前の記憶を取り戻すことを条件に、元の時代に戻してもらえることを約束したこと……。
 しかし何者かの力によって、青年のもとから引き離され、過去に連れ去られたこと……。


「全部、あなたの仕業なのねっ!」
 魔性の少女が笑う。
「まあ……気丈なのね。まだそんな口がきけるなんて」
 冷たい瞳がシェンツァ・リーウェンを見据える。
「でも、勝手に迷い込んできたのはあなたよ?あたしには、時の流れに干渉するような力はないもの。未来から来たあなたが過去の騒動に巻き込まれて消滅するのは、運命の悪戯というのではなくて?」
 ぎり、ぎり、ぎり。
 腕を引き絞る力は続いている。
 少女は少女の夢のために、青年は青年の夢のために。
 いともたやすく他者を犠牲にしようとしている。
「やめて………」
 激しく抵抗出来ない理由が分かっているだけに、シェンツァ・リーウェンは呻く。
 これはもはや夢ではない。このままでは、遠い昔、実際に起こった出来事としてシェンツァ・リーウェンの死が歴史に刻み込まれてしまう。
 いや、正確にはそれは死ですらなかった。彼女はこの時点ではまだ誕生していないのだから。存在しない者の消滅は果たしてあり得るのか。未来から過去への時間溯行を経てこの場に存在している人間は、過去の歴史に干渉することが可能なのか。
 しかし、そんな矛盾を覆して余りあるほどに、この痛みは紛れもない現実をシェンツァ・リーウェンに突き付ける。そして魔性の囁きとともに、意味をなさない選択を彼女に迫るのだ…即ち、今消えるか、後で消えるか、二つに一つ、どちらか選べと。
 やめてよ……二人とも…………!
 全てを思い出した彼女は、いたたまれなくなって唇をかむ。
 ドードラ。
 カナン。
 今、自分の腕を引き裂こうとしている彼らが誰であるのか、その名前と共に全て思い出してしまったから。
 だから…彼女は叫ぶ。


「やめてよ、お父さん、お母さんっ!」






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