書庫 螺旋迷宮2(闇主×シェン)


 少女が目覚めたのは、硬い寝台の上であった。

「ああ。気が付かれましたか」
 瞼を開いた時に映ったのは、心配そうにこちらを覗き込んでいる、優しそうな顔立ちの青年だった。
 年齢は、二十歳前後といったところか。色白い肌に、青い双眸……。
 きれいなひとだわ……。
 深緑の瞳で青年を見つめながら、少女はそう認識した。けれど、人外の美貌、というほどではない。そこまで思考を巡らせた後、自分は何故こんなことを考えてしまうのかと思った。
 口を動かすと、意外なほどすんなりと声は出た。
「わたしは……」
 上体を起こそうとすると、美しい青年に片手で止められる。
「動かない方がいいですよ。打撲で全身が痛むはずです」
 少女は横になったまま、大きく瞬きをした。毛布の中で、軽く腕を動かしてみる。痛みなど全く感じない。
 けれど目の前の青年は、本気で彼女の身を案じているらしかった。
「ここは、ランティスの町です。具合が良くなるまで休んでいくといいですよ…心配はいりません。私はここで一人暮らしですから」
 思いやりに満ちた言葉よりも、少女の胸には引っ掛かるものがあった。

 ランティス………?
 少女の疑問は呟きとなって、目の前の青年の耳にまで届く。
「ですから、ランティスの王都、ティンダですよ。…そんなに驚かれているところを見ると、この辺りの方ではないのですね」
 ランティス………ランティス………ティンダ…………
 頭の中で、二つの単語が回る。
 そんなはずはない、と少女は思った。ここがそうであるはずがない。
「違う…わたしは…」
 敷布を握る手に、力が籠る。青年は怪訝そうに、少女の方に身を乗り出してくる。
「どうかされました?」
 真摯な瞳に、しかし少女は萎縮してしまう。横を向くと、長い黒髪が、ぱさりと頬にかかった。
 衣服は、身に付けていた。目線を下に落とすと、女物の靴もきちんと揃えて置かれている。寝台に運ぶ際、この青年が脱がせてくれたのだろう。
「い…いえ、わたしは…」
 少女は戸惑っていた。焦燥の理由が、自分自身にも判らなかったせいだ。
「わたしは…………急いでいるんです」


 そうだ。
 一刻を争う事態なのだ…こんなところで、寝ているわけにはいかない。
 起き上がった時に、部屋の全体が見えた。一人住まいという青年の家に、寝台は一つきり…それを独占してしまっている状態に、申し訳ない気持ちが満ちてくる。
「急いでいる、というと…旅の途中か何かですか?それにしては、お荷物の方が見当たらないようですが…」
 青年の疑問に答えようとして、少女は口ごもった。
「わ……わたしは……」
 少女はあまり人見知りなどしないし、内気な方でもなかった。それなのに何故言葉が出ないのか…答えは一つだった。
 説明すべきことが、全く見つからないからだ。
「失礼ですが、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
 少女の焦りなど全く知らぬ青年が、穏やかに伺いを立ててくる。


「シェン……」
 呟くように少女は答える。頭に残っている言葉の幾つかを、反芻しながら。
「いいお名前です、しかし…それは略称ですね。正式なお名前は…?それと、お住まいが判れば、後ほど私が送らせて頂きますが」
「わかりません」
 シェンはそう答えるしかなかった。膝を抱え、俯く彼女の頭には、引っ張られるような痛みが残っている。
 それが何によるものなのか、それすらも今は思い出せなかった。
「わからない…?」
 青年はなんとも言えない顔をした。似たような反応を、誰かから受けたような気がして、少女はますます辛くなる。
『お前、本当に何が起こってるのかわからないのか?』
 呆れたように見下ろしてくる男の眼差しが、脳裏に閃いた。
「あっ……」
 小さな声を漏らして、シェンは頭を抱える。
「え?」
 驚いたように、青年が見返してくる。しかしその時にはもう記憶の断片は姿を消していた。
「い…いいえ………」
 唇が乾いてくるのは、緊張のためではない。
 長い間光の差さない世界に閉じ込められていたような記憶は残っている。しかし、ここはもう暗闇ではない。地に足は付いており、暖かな毛布が与えられ、側には親切な人もいる。
 なのに、これは…この不安は、なんなのだろう。
 半身をもぎ取られてしまったような、裸にされてしまったような、この心細さは。
「ええと……シェン、さん」
 ぽりぽりと額を掻きながら、青年が告げる。
「取りあえず、食事にしませんか。詳しい話はそれからにしましょう」


 青年の名前は、ドードラと言った。
 為替商を営んでいるという彼の住居には、図式や数字の羅列が記入された帳面や算盤などが、所狭しと転がっている。それらを慎重に跨ぎながら、客人のところまで白湯を運ぶ青年の足取りは、慣れていないのかおぼつかないものだった。
「若い女性に見せるような部屋ではありませんね。散らかっていて本当に申し訳ありません」
 恥ずかしそうに告げる青年に好感を覚え、シェンは少しだけ微笑むことに成功した。
 笑顔には不思議な力がある。不安は依然として残っているものの、彼女が微笑んだことでドードラも安心して笑顔を返してくれる。それによってシェンもまた安心を得る。
 こういう好循環を作り出す術を、彼女は自然と身につけていた。誰から学んだものでもない、それは彼女の人間性の豊かさの現れであった。
『おまえは、おれが怖くないのか?』
 頭の隅で、またあの声がする。
 低く、魅惑的な青年の声だった。数十年生きただけの人間のそれにしては、重く、深みのある声音……。
 彼が人間でないことは、出会ってしばらく後に判った。それでも、シェンは彼に恐怖よりも安堵を感じることの方が多かった。だから言ったのだ。
『別に、怖くないわけじゃないわ。だけど怯えていても始まらないじゃない。それに、人間の男の人にも、魔性と同じくらいたちの悪い奴だっているし。わたしは取りあえず、今出来ることをするだけだもの』
 魔性の青年が笑った気がした。
『…面白いよ、お前は』
 思えば、あれは彼なりの褒め言葉であったのかも知れない。
 彼は、確実にシェンの側にいた。その記憶はある。
 しかし、その必然性が…経緯が、そして自分の生い立ちが、どうしても思い出せない。
「シェンさん?」
 青年が、問い掛けてくる。
 落ち着くまで、ここでのんびりして行けばいいと言ってくれた彼は、とても親切だ。その親切に甘んじて、既に居候の立場に落ち着いてしまっているシェンとしては、掃除や炊事など、身の回りの世話をすることぐらいは礼節の範囲内だったが、独り身が長いというドードラは「さすが女性ですね」などと妙に感心したりしている。実際、彼は外見に似合わずだらしのないところがあり、シェンがいくら部屋を整えてもすぐに荒らしてしまうのだ。
 だが、これほど美しい青年ならば、実のところ恋人の1人や2人いたとしてもおかしくはない。独りでいるのも、女性の理想が高いだけなのだろう。
 何にしても、このままずるずると厄介になっているわけにはいかなかった。妙な噂などが立つ前に、一刻も早く記憶を取り戻してここを出て行かなければならない。年頃の男女が一つ屋根の下で生活するのは、彼女の持つ常識から考えてあまり良い事とは思えなかった。
「白湯のおかわりはいかがです?今夜はだいぶ冷えますからね」
 いつの間に飲み干したのか、彼女の手には空の器が握られている。
 シェンはしばし唖然とした。本当に、いつの間に…?
「じゃあ…お願いします」
 器を差し出す時の重みで、腰掛けている椅子が少し傾いた。ドードラの瞳が間近に迫り、シェンは慌てて下を向く。
「お、お仕事は大変なんですか?」
 間近に見る青年の顔は、改めて見ても美しかった。そんな彼の瞳に自分がどう映っているのかと考えると、恥ずかしくて堪らなくなる。
 寝台の脇にあった姿見で、先程自らの姿を確認してみた。黒く長い髪と深緑の瞳を持つ、十七、八の少女の姿がそこにあった。
 あれが今の自分の姿なのだと思ってみても、実感がわかない。
 記憶は戻らないのに、幻聴だけが時折彼女の鼓膜を締め付けるような痛みとともに聞こえるのであった。
 ドードラは彼女の器に白湯を注ぎ込むと、向かい合わせに腰掛けた。天井に向かって、思い出すように目を細める。
「わたしは名もない村の生まれでして。こういう大きな都市で商売をすることは、子供の頃からの夢だったんですよ。けれどもう一つの夢はいまだ叶っていません」
 器を両手で持ったまま、シェンは首をかしげる。
「もう一つの夢…?」
「わたしを理解してくれる女性と共に暮らすことです」
 青年の瞳と、シェンのそれがぶつかりあう。
 彼の抱えていた思いが、耳に直接届いた。

 次の瞬間、シェンの頭の中に広がったのは、農村の光景であった。
 見上げると、既に低い天井も、薄暗い照明も見当たらない。代わってどこまでも突き抜けていきそうなほど青い空があった。空には、雲一つない。それと平行して続く田園には、刈り入れの作業を行う人々の姿が点々と存在している。
 どこかで似たような風景を見たことがあった。あるいはそれは彼女の生まれる以前のそれであったかもしれない。懐かしさを覚えるままに、彼女は一歩踏み出した。
 いつの間にか靴を履いていた。中身が冷めるまでと握っていた陶器の器も、どこに置いたのか見当たらなかった。そのことを疑問に思った瞬間にでも、彼女は夢から覚めただろう。けれどこの時のシェンは、無垢な赤子が光に向かって手を伸ばすように、無意識にその風景に引きつけられていたのだ。            
 大地は、昨晩降った雨のために多少の湿り気を残しており、作物の根が浮き上がって掘り出しやすくなっていた。良い天候にも恵まれ、村人は総出で収穫に望む。
 どこからか吹いてくる風が、湿った土の匂いを運んでは髪を撫でてゆく。人々はシェンの存在に気が付いていないようだった。
 彼女は声の聞こえる方へ歩んでいった。
 運搬用の手押し車に凭れかかって居眠りをする男の姿と、それを見つけて叩き起こす妻らしき女性がいた。
 その傍らにはまだ幼い少年がいて、戸惑ったように両親の顔を見比べている。慌てて起き上がり、妻に追い立てられるようにして作業に向かう男。
 それを見て、少年の胸に去来するものは未来の自分の姿だった。
 このまま行けば、父の後を継ぐことになるだろう。しかし少年は、何年経っても土いじりには慣れることがなかった。手足を、顔を泥だらけにして働くことの意味を、両親に問いたくても出来なかった。
 理由などとうに忘れてしまうほどの昔から、彼らは土を耕してきたのだ。何十年も、あるいは何百年も連綿と受け継がれてきた制度に、少しでも異を唱えるものは即座に村八分となる。
 村を追われたとしても、親戚のないドードラの一家には他に行くあてなどないのだった。
『俺には才能がある。こんな田舎で一生を費やすなんて真っ平だ』
 父親の姿を哀れに思うと共に、少年の心にはそんな思いが芽生え始めていた。
 少年はやがて青年となり、夢を実現するために故郷の村を出るのである。



「シェンさん?」

 気遣わしげな青年の声が、耳を打った。
 現実に引き戻されたシェンは、軽く瞬きをしながらドードラの顔を見つめ返す。
「あ、わたし…ご、ごめんなさい。ちょっと考え事してて…えっと」
 妄想にしては、余りにも肥大した現象だった。風の質感や土の匂いまで肌で感じるほどの現実が、 確実にシェンの身体に感触として残っている。だとしたらあれは夢ではなかったのか。
 こっちが、現実?
 目の前にいる青年は、先ほどと何ら変わりない青年だった。幼い少年では、ない。
 あれが彼の過去の記憶の一部なのだとしたら、なぜ全くの他人であるシェンが彼の記憶を覗くことが出来るのだろう。
 いや、覗いたのではない。彼女の意思に反してそれは流れ込んできたのだ。睡魔のように唐突な、そして目覚めの時のようなあっけない終焉。
 彼女は混乱していた。自分が何者かも判らないというのに、このままでは不安材料は増えていくばかりだった。
 そんな彼女に、ドードラは優しく語り掛ける。

「シェンさん、焦ることはありませんよ。あなたが良識のある娘さんだということは、数日間あなたを見ていてわたしは良く知っています。生い立ちが判らずとも、身に纏っている空気や言葉の端々から…お若いのに相当苦労されてきただろうことも…ね」
 その声には労りがこめられていた。不安げな表情で彼を見るシェンに、少し照れくさそうな顔をしてドードラは頭を掻いた。
「すみません。色々と不躾なことを…数字とばかり向き合っている身で、あまり女性と接する機会が無いものですから…ご気分を害されたでしょうね」
 シェンは慌てて首を横に振った。長い黒髪がさらりと胸に零れ落ちるのを見て青年が眩しそうに目を細めたが、彼女はまるで気づかない。
「と、とんでもないです!こんな、得体の知れないわたしを助けて下さって、親切にしていただいて…わたし、本当に何てお礼をしたらいいか…」
 あくまで紳士的な態度を崩さない青年に、シェンは身の縮こまる思いがした。自分に出来ることなど限られているのに、青年はここにいていいと言ってくれる。記憶が戻るまで。それがいつのことになるか判らないのに。
 あのひととは違う…あのひとはこんなに優しくない。
 記憶を失う前に共にいた男の顔を、シェンは必死で思い出そうとした。男はシェンをしきりに急かしていた。早く思い出せ、早く思い出せ、と。あれは脅迫に近かった。
『死にたいか』
 そうでなければ思い出せと、あの青い瞳の男は言った。
 思い出す…何を?
 それすらも思い出せない。
 俯いているシェンの瞳には、膝にかけた毛布が見えるだけ。故に、今目の前にいる青年がどんな思いで自分を見つめているかなど、判るはずもなかった。





夢の隙間に侵入した者の姿に、桜妃は軽い驚きを覚えた。
 白く滑らかなその頬に片手を当てて、少女らしく小首を傾げて見せる。
「なんということかしら……」
 人の夢に忍び込んでその精神を支配し、彼らがもがき苦しむ様を眺めて楽しむのは彼女の日課だった。単なる悪夢だと相手に気取らせないよう、あらかじめ肉体的感覚を鋭敏にさせて、さながら現実の出来事のように思わせることすら可能だった。
 夢でありながら、傷つけられれば血を流す。夢でありながら、その傷は癒えることなく痛み続ける。
 心弱き者ならば目覚めた後も悪夢の呪縛から逃れられず、やがては眠りに落ちることを恐れるまでになる。そうして徐々に全身が衰弱し、夢と現実の狭間で苦悩する魂は、いともたやすく下級魔性達の贄となるのだ。
 しかし、今回の出来事は予想外のことだった。彼女が獲物と定めた青年の夢に、青年に思いを寄せる少女の夢を重ねようとした矢先のことだ。
 何者かの意識が、唐突に夢の檻の内部に流れ込んできたのは。翡翠の宝玉に映しだされる光景は、第三者の介入によって大きく変調をきたしている。
 宝玉に両手を当て、よくよく覗き込んでみれば、彼女が初めに目を付けた小娘に勝るとも劣らない輝きを持った少女が、不安げな表情で宙を見上げていた。
 長い黒髪と、深緑の瞳を持つ娘であった。生身ではない。少女の肉体は別の場所にあり、強い意志の力でその容貌を保っている。おそらく何かの衝撃で彼女の紡ぐ夢に引きずり込まれてきたのだろう。精神だけの存在でありながら、その魂の輝きは桜妃の食指を動かすのに充分なものだった。
「面白い…そうね、何の偶然かは知らないけれど、素材は多いに越したことはないのだし………」
 人差し指が宝玉を弾く。
と、深緑の瞳の少女はあっさりと別の夢に墜ちていった。
 彼女と縁の深い、もう一人の少女のもとへ。
「ふふふ…」
 囁きが空間を震わせる。それは彼女にとって好ましい変化であった。
 桜妃は鈴の転がるような声で笑いながら、また新たな罠を仕掛けることに決めた。



- 43 -


[*前] | [次#]
ページ:




TOPへ