切り取られたように円い月が、地上に白光を注ぐ。 それはこの世界を創造したガンダル神の御心を表すかのような、穏やかで優しい光だった。 願わくば争いのない世界を。それは誰もが胸に一度は抱く想い。 だが、現実は───。 人と魔性は、争い合わずにはいられない生き物である。 或いは立場が逆転し、人が魔性を完全に支配するような時代が来たとしても、今度はそれを覆そうとする動きが魔性の間で起こるだろう。 不毛な争いは繰り返される。 ガンダルが何を思って自らの子供を二種に分けたのか…それを知る者はいない。 「月が綺麗だね……」 紅蓮姫の主・ラキスは眩しげに夜空を見上げていた。まだ幼さを残した優しそうな面立ちは、剣を持つにはあまり相応しくない。 闘いの前だというのに、彼の鼓動は平常通り穏やかだ。その体に包まれていると、彼女は波に揺られているような気分になる。 本当は、魔性を刻むよりも、山菜を刻むのが似合う少年だった。人を傷つけることに、人一倍ためらいを感じてしまう少年だった。 そんな彼を無理矢理闘いの場に引きずりだし、幾度となくその手を魔性の血に染めさせ、それでも傍を離れようとしない己の傲慢さを、紅蓮姫は深く恥じる。 彼を守る為というのは口実に過ぎず、ただ自分は食欲を満たしたくて、無意識にラキスを利用しているだけなのかも知れなかった。 ───私は酷い女だわ。 呟く彼女に、少年は驚いたような目を向ける。 「どうしたんだい?」 養蚕場の窓から差し込む月光が、彼の華奢な肢体を照らしだしている。 その澄んだ瞳に映っているのは一振りの刀…そう、それが自分。魔性の命を啜って生きる妖刀・紅蓮姫。 自分の本性を、そして出生の秘密を知っても、ラキスは変わらず笑いかけてくれる。 シリイを殺したも同然の彼女の事を恨んでも当然なのに、夢で逢う時の彼はいつも笑顔で、首筋に頬にくちびるに、惜しみない口づけを。 憎悪によってこの世に生まれ落ちた彼女に、初めて光を与えてくれた人。 紅蓮姫にとっては、彼の存在こそが全てなのだ。 ───何でもないの。大好きよ。 ラキスはしばらく不思議そうに彼女を眺めていたが、やがて淡く微笑んで言った。 「僕もだ」 月はやがて雲間に隠れ、深い影が室内に落ちた。 ラキスは頬を震わせた。冬の肌寒さに勝るほどの強い妖気。 紅蓮姫は布を取り払われ、彼の腕の中からその掌へと移動させられる。 床全体に藁の敷かれた小屋には、ラキスと紅蓮姫の他には蚕しかいない。 だが明らかに気配は近付いている。 柄を握る手に力が籠る。少年は立ち上がり、慎重に室内を見回した。 窓という窓は全て開け放たれ、冷たい夜風が流れ込んできている。 藁に火が燃え移るのを避けるため、室内では燭台は使えない。月光のみが頼りだった。 狭い小屋の中に均等に並べられた飼育箱の中には、無数の蚕が眠っている。 あれだけは何としてでも死守しなければならない。 ───気をつけて。すぐ近くにいる。 室内に緊張が走る。気配に疎い人間であれば感じることもない緊迫感が伝わってくる。 ご馳走の予感に、紅蓮姫は舌なめずりした。なかなか強い妖気だ。ウシャルの言っていた通り、妖鬼であることは間違いないだろう。 「君がそんなに喜ぶってことは…結構大物、かな?」 苦笑めいた呟きが聞こえて彼女ははっと身を竦ませる。見上げればラキスの困ったような顔があった。 ───だ、大丈夫よ。私がついてるわ。 声に動揺が滲むのは、多少の後ろめたさがあるからだ。 幾ら相手が上物と判ったからといって、彼の気持ちも考えずに喜ぶべきではない。ラキスにしてみれば、敵は弱いに越したことはないのだから。 けれどここ最近雑魚の命しか口にしていなかった紅蓮姫は、ラキスへの思いとは裏腹に、湧き上がってくる食欲を抑える事が出来なかった。 「お兄ちゃんがあたしの相手?」 突然室内に響いたその声に、紅蓮姫は素早く反応する。 ───ラキス、後ろ! 彼は後方を振り返った。漆喰で固められた壁から、指らしきものが突出していた。 ずず、と指が根元まで突き出され、子供の両手が現れる。 その小さな掌が、まるで暖簾でも掻き分けるような動作で壁を左右に押し広げ、ぽっかりと開いた穴から幼い少女の顔面が露出した。 白い髪、白い肌、白い瞳。明らかに人ならざるモノ。 その顔の下半分は布で覆われており、布の両端は頭の後ろで結ばれていた。 唖然として見守る二人の目前で、その少女は体を前へ乗り出し残った足をゆっくりと壁から引き抜いた。 少女を吐き出した壁は何事もなかったかのように収縮して、元に戻った。 「妖鬼…?」 ラキスの動揺が、柄を通して紅蓮姫にも伝わってきた。 床に足をつけ、いまや全身を顕にした少女は、極めて人間に近い姿をしていた。 まだ成熟しきっていない短めの手足、薄い胴体を包む柔らかそうな布地が愛らしさを引き立てている。 衣裳の端を軽く摘むと、妖鬼とおぼしき少女はあどけない仕草で膝を曲げ、首を傾ける。 「あたし、戒狐(かいこ)。またお食事に来たの。お兄ちゃんは?」 人間に通じる言葉を持つこと、それにこの容姿からして、これまでの魔性とは明らかに格が違うのが判る。 紅蓮姫の心はその命を啜る期待に震えた。 嬉々とした波動を恋人に伝えるが、彼は何故か微動だにしない。柄をきつく握ったまま、唇を噛み締めている。 ───どうしたの? 恐がっているのだろうかと心配になって尋ねる。 ラキスは目の前の少女を見つめ、何度も首を横に振った。 「…きない…」 言葉がよく聞き取れず紅蓮姫は今一度尋ねた。 ───え? 「僕には出来ないよ」 紅蓮姫は驚いて主人を見返した。次の瞬間、戒狐の瞳がかっと見開かれた。 「しゃあああああっ」 甲高い叫びとともに、少女の顔半分を覆う布がはだけて落ちた。 その下から現れたのは、真っ赤な唇。耳の辺りまで大きく裂けた醜い口から、不気味な糸が吐き出される。 ───ラキスっ! 紅蓮姫の叫びは意味を成さなかった。 粘つく白い糸は彼の体に巻きついて動きを封じる。 戒狐はそれを見て満足そうに微笑んだ。 「どうせあたしの邪魔をしに来たんでしょ。ざぁんねんでした」 うふふっと笑うその顔は無邪気な子供さながらで、しかしそこに浮き出た巨大な口を見てしまったからには恐怖の対象としかならない。 「そんなに遊びたいならつきあってあげる。食前の運動にちょうどいいもんねー」 ここまでされても、ラキスは動かない。いや、既に動けなくなっているせいもあるだろうが。 全身を糸で固定されてなお俯いている彼に向かって、紅蓮姫は叫んだ。 ───ラキス、何故なの。何故戦えないの! 叫びながらも、彼女には理由が見えていた。 これまで対峙してきた魔性は、お世辞にも人とは呼べぬ外見の持ち主だった。 容姿は醜く、言葉を持たず、知能も発達していない下級魔性ばかりだった。 だがこの妖鬼は…戒狐と名乗るこの魔性は、幼い少女の姿をしている。それが、彼を戸惑わせているのだろう。 ラキスはかすれた声で呟いた。 「だって……だって女の子じゃないか」 ───でも魔性なのよ。殺さなければあなたが殺されるわ! ラキスは、母を殺めた魔性という種族を憎んでいたのではなかったか。 なのに紅蓮姫の食欲や自らの命よりも、この少女のそれを優先させるというのか。 そんなことは絶対に認められない。許せない。 ───戦ってラキス。私を鞘から抜いて。 「言葉が通じる。何とか説得出来ないかな」 ───馬鹿なことを。状況を見れば不可能なことくらい判るでしょう! ではあれは偽りだったのだろうか。危険を冒しても共にあることを望むと言ったあの言葉は。 ───浮城に行こうって言ってくれた時、嬉しかった。なのに今更逃げるの?私を置いて。そんなの…そんなの、私の好きなラキスじゃないっ! 渾身の叫びを叩きつける。びくん、とラキスの肩が跳ねた。 「どうしたのお兄ちゃん。せっかく破妖刀持ってるんだから、使ってみれば」 挑発するように戒狐が囁く。 辛うじて動く唇で、ラキスが弱々しい言葉を吐いた。 「君は何故、人を傷つける?」 少女は心外な、というように肩を竦めた。 「ここはもともとあたしの遊び場だったの。後から割り込んできたのは人間の方だもん。それに人間の心臓って、体質的に合わなくてえ…力をつけるためには蚕が最適なの」 魔性の吐いた言葉が、紅蓮姫の心に重くのしかかった。 人も、魔性も、そして破妖刀たる自分も結局は同じだ。 自分の欲求を満たす事が最優先であり、その為に他者を傷つけるのはやむを得ない。 それを頭では理解していても、行動に移すのをためらうのがラキスという人間だ。 初めて彼の姿を見た時、紅蓮姫はその周囲だけが光で満ち溢れているような気がした。彼を失う事など、考えられない。 ───お願い、戦って。 ラキスは目の前の少女をじっと見つめ、それから大きく息を吐いた。 「ごめん…やっぱり、出来ない…」 その手から力が抜けた。 指から抜け落ちる柄…そう、彼はあろうことか紅蓮姫を放してしまう。 悲痛な叫びは、もう届かない。 冷たい藁の感触が直に伝わる。紅蓮姫は彼に縋りつく両腕を持たない。彼とともに歩む両足を持たない。 ラキスが放してしまえば、それまでなのだ。 藁の敷かれた床に投げ出された紅蓮姫は、ひたすら主の名前を呼んだ。 「なあんだ、もお終わり?」 心底つまらなさそうに戒狐が呟く。 「それじゃあ、あたしが止めを刺してあげる。と、その前に腹拵えね」 少女が背を向けると、ラキスを縛る糸の力が緩んだ。彼はがっくりとその場に崩れ落ちる。 夜の闇の中、戒狐の長い髪が怪しく蠢いた。 触手にも似たそれは幾本にも先端が分かれ、飼育箱を次々と開放していく。 中には白い蚕がうようよと生息している。 人であれば到底食欲など湧かぬその姿も、少女にとってはこの上なく魅力的に映るらしい。 「どれもこれもおいしそう…さあ、いっただきまーす」 ラキスが動いたのはその時だった。 温かな掌の感触を柄に感じる。握られている、と紅蓮姫は確信した。 身を起こしたラキスは素早く鞘を抜き、身を縛る糸をぶつりと断ち切った。 ───ラキス! 紅蓮姫は歓喜にうち震えた。 彼は戦意を失ったわけではなかったのだ。 気配に気付いた戒狐が振り返り、驚愕に目を見開いた。 自分目がけて走ってくる少年の姿に慌てて髪を操る。彼は器用に髪を避け、少女の懐に飛び込んだ。 心臓は二つ…足首と、腹部。 「いくよ、紅蓮姫!」 ───ええ! 光り輝く深紅の刀身が、戒狐の腹部に埋め込まれた。 命が流れ込んでくる嬉しさより、ラキスに捨てられたのではなかったという喜びの方が大きかった。 まんまと命の一つを奪われた戒狐は、悔しげに歯軋りした。 「卑怯者」 少女は痛みと屈辱に顔を歪めて、吐き捨てるように言った。 「お兄ちゃん血の匂いがする。今までその刀で、沢山魔性を殺したんだ」 ラキスの顔もまた辛そうに歪んだ。 少女はなおも言う。 「でも、あたしは誰も殺してない。元はと言えば人間が縄張りを荒らすからでしょ?本当なら皆殺しにしても良かったけど、あたしの好物を育ててくれているみたいだから、目をつぶってあげてるのよ。食事の邪魔をしようとした人間は多少痛めつけたけど、そんなの当たり前の事じゃない。何がいけないの」 戒狐の声は狭い室内に凛として響いた。 正しいのは自分だと信じている彼女とは異なり、今のラキスと紅蓮姫にはあまりにも迷いが多すぎた。 「しかも不意打ちなんて最低。破妖刀がなきゃ何も出来ないくせに、皆に持ち上げられて正義の味方気取り?ばっかみたい」 気丈な台詞とは裏腹に、額には汗が浮かんでいる。時間を稼ごうとしているのが見え見えだった。 ───ラキス、気にしては駄目。早くとどめを。 紅蓮姫の声を遮り、少年は静かに告げる。 「僕は何も、人に誉められたくて刀を持っているわけじゃない」 「じゃあ、あたしを殺そうとするのはどうして?街の連中にお金を握らされたからでしょ」 「違う」 言って、ラキスは膝をついている少女に歩み寄った。 目前に屈み込むと、紅蓮姫を左手に持ちかえ、戒狐の体に右腕を回す。 そして何を思ったか、その体を強く抱き締めた。 紅蓮姫には彼の行動が理解出来なかった。ただ、彼の震えだけが指先から伝わってきた。 「人のためなんかじゃない…自分のためだ。僕は僕のことしか考えられない。自分が一番大事だから」 そう言って、目を見開いている戒狐の足首に刀身を突き立てた。 流れ込んでくる命を啜りながら、紅蓮姫は何か苦いものを感じていた。 「ごめん…消えて欲しい。君は邪魔だ」 血を吐くようなラキスの声。 この残酷な言葉を口にするのに、どれだけの勇気を必要としただろう。 苦しくて息が詰まりそうな沈黙の後、死を宣告された少女は力のこもらない声を紡いだ。 「お兄ちゃん、泣いてるの?」 不思議な事に、その表情には怒りも悲しみも感じられなかった。彼女もまた、ラキスの行動の真意を計りかねているようだった。 ラキスは更にきつく戒狐を抱き締める。それによって刀身に重みが加えられる。 彼の望みのままに、命の最後の一滴を啜り終えた紅蓮姫は、少女が消失するのを待った。 今自分に出来る事は、それだけしかないように思われた。 「どうして、泣くの。消えるのはあたしなのに」 戒狐の力が、輪郭が、見る見るうちに薄れていく。 大きく裂けた口から、かつて彼女が飲み込んだ蚕の死骸が零れ落ち、床の上に散乱した。 「どうしてお兄ちゃんが泣くの…?」 その言葉を最後に、戒狐という名の妖鬼は消失した。 夢の中で、少年は泣いていた。膝を抱えて泣いていた。 朱金の瞳を持つ少女が、心配そうにその傍らに屈み込む。 ───泣かないでラキス。私はずっとあなたの傍にいるわ。 ラキスは俯き、何度もかぶりを振った。 「僕は何も判ってなかった。命を奪うという事がどんな事か、何も判ってなかったんだ」 ───あなたは悪くないじゃない。 「いいや…半端な気持ちで破妖剣士になるなんて言い出した僕が悪いんだ。つまらない事で迷って君を不安にさせた。あの子にも、余計な苦痛を与えてしまった」 ───でもあの餌、ラキスに抱き締められて気持ち良さそうにしていたわよ。 「そんなの君に判るもんか」 半ば八つ当たりぎみにラキスは呟く。 「放っておいてくれよ。一人になりたいんだ」 彼は、あくまでも自分を責め続ける。 それが出来るのは、彼が強いからだ。傷ついても決してそこで立ち止まらない、そんな少年だからこそ惹かれてやまないのだ。 瞳に浮かぶ涙を、紅蓮姫はそっと唇で拭った。口にも水滴が落ちていたのでそれも舐める。 ラキスの頬がほんのり朱に染まった。体の方は正直である。 「…い、今はそういう気分じゃ…」 そっぽを向いて言い放つが、あまり説得力はなかった。 ※ 浮城の書庫の片隅で埃を被っている古い書物の中に、こんな記述がある。 【───その者、気質穏やかにして柔和なれど、剣を握れば数多の小鬼妖鬼を一刀のもとに斬り捨てる驚異の剣士。 生涯妻も恋人も得ず、愛刀紅蓮姫のみを頼りに戦場を駆け、四十過ぎまでを生き抜く。 剣士としては破格の長寿ゆえに、無敵の女神がついているとも、ガンダル神に守護を受けているのだとも、言われたその者は。 名を、《破妖剣士ラキス》という。】 ──おわり── 20年くらい前の、サークル会報に書き下ろしたものです。 実は当時、「月が綺麗〜」に裏の意味があることを全く知らず、後で知って「さすがラキス」と思いました。 戻る [*前] | [次#] ページ: TOPへ |