書庫 消えゆく果実3


自分がどのような経緯で産まれたのか、男は知らない。
物心ついた時から、周囲の大人たちの冷たい視線に囲まれて育ってきた。
親戚の家をたらい回しにされた挙句、施設に預けられた。同い年の孤児達が次々と引き取られていく中、彼だけが一人、暗い部屋で天井を見つめる毎日を過ごしていた。
人とは違うモノが見え、異形のモノと会話をする彼を、仲間や家族として扱ってくれる人間は誰一人としていなかったのだ。
けれど、あの場所なら。
この身に流れる魔性の血ごと、受け入れられるはずだと、夢を見てしまった。
「どうして………おれは」
ぽつりと漏らす。果実を啜る少女が、不思議そうな表情を向ける。
「ディオウル?」
嫌な夢でも見たの、と問いかけながら、男の顔を覗き込んだ。
濡れた手がそっと男の頬を包み、撫でる。同胞の体液に汚れた、その手で。
「なぜ泣くの。私は平気よ、あなたのために強くなれるんですもの、こんな事はなんでもないわ。もっともっと食べて、力をつけるの。あなたを守るための力を」
自分を慕ってくれる少女。しかし彼女もまた人ではない。どんなに懐かれても満たされないのは、人肌が恋しいからだろうか。
「どうしておれは、人に染まる事が出来ないのだろう………」
美しい青年。人と共存しながら、浮城で確実に地位を得て、だが決して歳を取らない青年。
あの強かさが自分にも備わっていれば、何かが変わっていたのだろうか……。


街の入り口は、薄い膜のようなもので閉ざされていた。
立ちすくむラエスリールに怪訝そうな視線をやりながら、人々は事も無げに街の中へ入っていく。
「結界……か」
浮城の人間だけを拒み続ける、目に見えない強固な壁。それが、ラエスリールの足を踏み留まらせている。
「セスラン様は、この事をご存知だったのだろうか」
返事が返ってこないことは承知で、彼女は呟いた。
ここに知り合いがいる、と言ったのは、偶然とは思えない。あのセスランが、街に棲みついている魔性の気配に気づかないはずがないのだ。
だが、浮城に報告はされていない。異常事態に気づいていながら、ラエスリールを使いに寄越したという事は、つまり……。
「闇主。お前ならこれを破れるか?」
背後にいる護り手を振り返ろうともせずに、ラエスリールは尋ねた。
相手が顔を輝かせたのが、気配で判った。
「あ、やっと頼ってくれるんだ。嬉しいなー、ようやく闇主さんに心を開いてくれる気になったんだね」
「無駄口を叩くな。出来るならさっさとしろ」
闇主は一歩前に進み出ると、透明な膜の前にすっと手を翳した。
結界が解かれるのを待たず、ラエスリールは膜の中に強引に足を踏み入れる。空気の抵抗は既になくなっていた。
「ねえラス、お礼は?お礼は?」
しつこく求めてくる護り手を無視して、彼女は足を進めた。気配のより強い方角へ。
───カタカタカタ。
例によって例の如く、食欲魔神が騒ぎ始めた。
「うるさい。静かにしていろ」
護り手と破妖刀、両方に有効な台詞を吐き捨てながら、ラエスリールは鞘に手をかけた。
「私は出来れば、誰も傷つけたくはない……」
───嘘ばっかり。
皮肉な声が、思念となってラエスリールの心に流れ込んでくる。
ラエスリールを使い手に選んでおきながら、まだ完全に彼女に従ったわけではない。主人を無視して暴れまわる、我が儘な破妖刀だ。
───あの人も、初めはそう言っていたわ。だけど……
「私は、私だ。以前の使い手と比べるな」
ぴしゃりと言い切り、ラエスリールは軽く鞘を叩いた。
苛めたつもりはなかったが、紅蓮姫はとりあえずそれでおとなしくなった。
身を包む空気が変化したのは、それからしばらくしてからだった。
ラエスリールの周囲の人々が、忽然と姿を消した。人だけではない。賑わっていた露店も、先程まで歩いていた舗道も、白い結界の中に飲み込まれていった。
「これは………」
立ちすくむラエスリールの耳に響いてきたのは、聞き覚えのある少女の声だった。
「さっき、忠告したわよね」
反射的に、背後を振り返る。
そこには、年の頃なら十二・三に見える外見の少女がいた。
紺色の髪。背中に、蛾によく似た茶色の羽を持つ───明らかに、人間ではないその姿。
「彼を奪っていかないで、って───」
凛とした少女の声が、空間を支配している。
現れた少女の容貌に、ラエスリールは奇妙なものを感じた。
目の前に居るのは、紛れもなく妖鬼だ。人の顔をどうこう言う資格はないが、とびきり美しいわけでもない。
亜珠との死闘を乗り越えて、彼女もだいぶ目が肥えてきている。入り口に結界を張るほどの力が、果たしてこの妖鬼にあるのだろうか?
そして、たわいなくその術を破った張本人はと言えば、いつの間にかその場から姿を消していた。
(あいつ、また……!)
憤りが芽生えかけるが、ぐっと堪える。
そもそも、闇主が傍にいないことで怒りを感じる事自体、間違っているのではないか。それより今は、この妖鬼と話をすることが先決だ。
「私にはお前の言っている事がわからない。『彼』とは誰なのだ?」
すると少女は、大きく目を見開いた。もともと幼い顔が、そうするとますます子供らしく見える。
「本当に、何も知らないの?だってあなた、浮城の人なんでしょう?」
咎めるように、馬鹿にするように。少女は薄汚れた羽をかすかに動かした。
「浮城にも、色々な人間がいるんだ………」
ラエスリールは唇を噛んだ。最近初仕事を終えたばかりなのに、とても浮城の外のことまで気は回らない。
こういう時、自分の人付き合いの悪さや、情報の少なさが、嫌になる。
「ああ……もしかして、あなたも彼の同類?」
少女は、薄汚れた羽をゆっくりと広げた。
羽には複数の目玉がついていて、その全てがラエスリールを不躾に観察している。
破妖剣士の気配から、人と違うものを読み取ったようだ。
「つまり、半妖なのね」
いつ聞いても、胸に突き刺さる言葉だ。
しかしラエスリールが動揺したのは、言葉そのものではない。亜珠に言われた時よりも、さらに屈辱を感じている自分の心に、だった。
───なぜ、『妖鬼』ごときに。
意識の下でそう思ってしまった己に気づいてしまい、彼女は思わず口元を覆った。
(これでは、魔性と同じではないか……)
そんなラエスリールに、少女は意外にも優しい言葉をかけてくる。
「気にしなくていいわ。力が劣るのは、あなたのせいじゃないもの」
優越に満ちた口調───己の優位を、疑ってもいない口調。
「彼の気配に惹かれて来たのね?でも、ここは私と彼だけの楽園なの。誰の介入も許さないわ」
妖鬼とは思えぬ力に溢れた少女は、そう言ってラエスリールの背後を指差す。
「お願いだから、帰ってちょうだい。私だって、浮城の人間を傷つけることは本意ではないの。だからこうして結界を張って、人の目に触れないように静かに生きているの」
人を傷つけないように暮らしているのだから、文句を言われる筋合いはない。
それを邪魔する権利がお前にあるのか、と暗に告げている。
「浮城の人間とて……馬鹿ではない」
魔性の気配に暴れ始める紅蓮姫を宥めながら、ラエスリールは告げた。
「依頼がない限り、無闇に魔性の世界に干渉したりはしない。そういう決まりなんだ。お前たちが、浮城の手の者に狙われていると言うのなら……何か罪を犯したか、それ以上の理由があるはずだ」
当たっていたのか、少女は嫌そうに顔をしかめる。
悪意のない魔性なら、放っておくことも考えた。だが浮城に仇なす存在は、許すわけにはいかない。
「先程、お前たちの結界の中に入って行った小鬼がいたな……あいつらは、どうした?」
そう告げた瞬間、少女の顔色がさっと変わった。
街から吹き飛ばされたラエスリールを、集団で取り囲み、傷口を癒してくれた小鬼たち。とても心配そうに。
彼らは、ラエスリールを同胞だと勘違いしていたのだと思っていた。そうでなければ、親切に介抱される理由などないのだから。
だが、少女のこれまでの言動と、今の言葉を聞いた時の表情から、ラエスリールは確信した。
あの小鬼たちは、勘違いで彼女を助けたのではない。間違いなく、『仲間』だったのだ。
「私は、最近ようやく仕事を与えられるようになったばかりだから、すぐには気づかなかった……けれど、思い出した。あの小鬼たちの中には、見覚えのある顔もあった」
彼らと親しく話す機会など、ほとんどなかったから、思い出せないのも当然なのだが。
「あいつらは、浮城の護り手たちだ。彼らをどこへやった?」
しばしの沈黙の後、少女はふうっと息を吐いた。
「ばれちゃった、か……」
言葉とは裏腹に、罪悪感など微塵も感じていない表情だった。
やはり、とラエスリールは絶望的な気分になる。
何という事だ。闇主と縁を切り、義母に一刻も早く、新しい護り手をつけてもらおう、と思っていた矢先なのに。
ただでさえ少ない護り手が、この少女のせいで減ってしまった。
(到底、許すわけにはいかんな)
どこか見当違いな怒りを少女に抱きながら、ラエスリールは紅蓮姫の鞘を掴んだ。
「そうよ、全部殺したのよ、悪い?あっちから来たんだから、迎え撃つのは当然でしょう」
少女の表情に殺意が宿る。
「この事を、浮城に報告するなら、あなたも殺すわ」
「待て!」
暴れだしそうになる紅蓮姫を制止し、ラエスリールは叫んだ。
白い空間に、彼女の声が響く。
「お前と浮城との間に何があったかは知らないが、その『彼』だけは解放すべきだ。私と同じ、半妖なのだろう?」
この少女は、その『彼』とやらに恋している。いかに鈍いラエスリールとてそれは判った。
半妖とは言え、人間の男性を拉致しているのなら、それは立派な罪だ。
「それが何?」
少女は笑った。
「彼を浮城から追い出したのは、あなたたちじゃない。───半妖だからって爪弾きにされて、どこにも行き場がなくて。命を絶とうとしていた彼を、私が救ってあげたのよ」
ラエスリールは息を呑んだ。それは、あまりにも……自分の境遇と似ていたから。
「あ………」
記憶が刺激される。脳裏に甦ってくる光景がある。
いらない!私なんて、いらない!
ダレカラモヒツヨウトサレナイコンナセカイナンテホロンデシマエ。
嵐の夜。打ちひしがれている少女。ブロンズの髪の青年。
他にも、誰かいた。優しい言葉をかけてくれたはずなのに、思い出せない。
恐ろしい人だけれど笑顔は怖くなくて。
意識を失う最後に、抱きしめられた感触があった。
あれは………あれは、誰だ?
鼻孔をくすぐる甘い香りで、ラエスリールは現実に引き戻された。
パタパタと羽を揺らして、少女が黄色い粉を飛ばしていた。空間に粉が満ち、肺の中へと侵入しようとする。
「痛くないように、眠らせてあげるわ。半妖の果実は、どんな味がするのかしら?」
子守唄を歌うように、少女が囁く。
慌てて口と鼻を覆うが、間に合わない。それを吸い込んだ途端、ラエスリールの膝からがくんと力が抜けた。
「く……」
粉に、特殊な成分でも含まれているのか。空間に舞う粉の量はますます増えていく。布で覆っても、もう意味を持たない。
次第に、瞼が下がってきた。
「あ、んしゅ……闇主」
息を吸い込むたびに、粉が喉を塞ぐ。薄情な護り手の名を、彼女は必死で呼んだ。
「結界を!それと、セスラン様から預かった包みを、元の持ち主の所へ!」
返事はない。
それでも、叫び終わった瞬間、呼吸がふっと楽になるのがわかった。
呆然としている少女に向かって、ラエスリールは破妖刀を構える。
「セスラン、ですって……!?」
術が破られた驚き以上のものが、少女の顔を歪ませていた。
「知っているのか」
「ええ、よーーーく知ってるわ。あなた、そいつの使いで来たの!?今更、何の用なのよ!」
叩きつけられる、純粋な悪意───少女の怒声は、耳をビリビリと打った。
話が通じる相手ではない。それに加えて、ラエスリールは言葉が不自由だ。だが、少女が大事にしている『彼』には、少し興味があった。
「傷つけているのは、お前も同じだろう。お前の罪を知ったら、彼も悲しむのではないか」
「そうよ、だからあなたには消えてもらう必要があるのよ!」
言い切り、少女は力を振るった。
枯葉のような色をした羽が翻り、また新たな粉を飛ばす。その粉の殆どは、ラエスリールの身体には触れずに弾かれる。闇主の結界のおかげだ。
「悪いが私はまだ、死ぬわけには行かない」
先程は不意を突かれたが、この妖鬼の動きの、何と遅いことか。妖貴に比べれば、攻撃をかわすことも受けることも、造作なかった。
「多少痛い目に遭わなければ、わからないようだな!」
心臓の数は二つ。腹部にあるのを一つ頂いても、構わないだろう。
危険を察し、空中に逃れた少女に向かって、ラエスリールは紅蓮姫の切っ先を振り上げた。柔らかな肉を裂く、確かな手ごたえがある。
───うわ、不味い餌。噛まずに飲み込んじゃおうっと。
失礼極まりない感想とともに、紅蓮姫は相手の心臓に詰まる命を啜り上げた。眉間に皺を寄せながら飲み下している様子が、容易に想像できる。
「私の命……命、っ!」
少女は悲鳴を上げ、紅蓮姫から逃れようとしていた。先端がまだ腹部に刺さっている。抜くためには紅蓮姫に触れなければいけない、だがそれも嫌だ、という表情だった。
相手が弱すぎるせいか、ラエスリールはやや気の毒になった。
純粋な愛情、純粋な憎悪。ひねくれた上級魔性に比べて、下級魔性はあまりにも感情表現が豊かすぎて、こちらとしてはうらやましい部分もある。
「さあ、大人しく彼の居場所を教えるんだ。その後で、お前も一緒に浮城に連れて行こう」
少女の処置は、浮城に任せた方がいいような気がする。まだ新米である自分が勝手な判断をして、また余計な恨みを買うのは御免だ。
「セスラン様にも、詳しく話を聞く必要があるようだし……」
ずるり、と破妖刀を引き抜く。解放された少女の身体は、地面に叩きつけられた。
「みっともない。強くなってないじゃない、私……」
弱々しい声で、少女は呟いた。
ラエスリールにあっさり倒されたことが、よほど悔しかったのだろう。
「浮城の護り手だって倒したのに、全然強くなってないじゃない」
「そんな事はない。あの結界は、私だけでは破れなかったのだから」
その力を、人間のために使う気にはなれないか。ラエスリールはそう続けるつもりだった。
だが少女はさらに、驚くべき事を口にした。
「戦いで強くなれなきゃ、何の意味もない!それじゃあ何のために、私は禁忌を犯したのよ!」
息を呑むラエスリールの前で、少女は膝に拳を打ち付けた。
「仲間を殺して食べれば強くなれるって、とあるお方に聞いたからっ!だから、私はっ……ディオウルを取り返そうとするあいつらを、殺して、取り込んだのにっ!強くなれるなんて、でたらめだったんだわ!!」
血を吐くような叫びだった。
目前に突きつけられた事実に、ラエスリールは、言葉もなかった。
(食べた……護り手を?)
小鬼を、妖鬼が。力を得るために、その身を食らい、糧としたというのか。
少女の嘆きようを見ていると、魔性の世界においても、それは異様な行為でしかないらしかった。
この少女と、対峙した時の違和感───あれは、間違っていなかった。
ただの妖鬼しては不自然なまでの力に溢れ、しかしその力を使いこなすことは出来ず、ラエスリールに打ちのめされた。
その、事実。
「お前、それは………」
かけようとした声は、第三者の介入によって、見事に遮られた。
「葉蛾実(はがみ)!」
人が立ち入ることの許されないはずの空間に、その青年は突如現れた。
ひどくやつれた面持ちをしている。
青年が近づいてきた瞬間、少女の身体は跳ね起きた。
「ディオウル……こ、来ないで!」
青ざめ、後ずさりする少女は、背中に羽さえ生えていなければ、とても妖鬼には見えなかった。
これが『彼』か。少女のこの反応からして、間違いないだろう。
「本当なのか、葉蛾実。あの時、君が喰ったのは浮城の───」
急いで駆けつけてきたのか、ディオウルと呼ばれた青年は、苦しそうに肩で息をしていた。浮城に在籍していたとは思えぬほど、肌が白い。満足に日の光を浴びていないのだ。
「君の命を狙う眷族が襲ってきたというから、俺はそれを信じていたんだ。君が罪に手を染めても、だから見ぬ振りをしていた……」
ディオウルは呟く。
「なのにそれが、浮城の護り手だったなんて」
力を得るために、禁断の果実に手を伸ばした少女を。この青年は、ただの妖鬼の命と信じ、疑ってもいなかった。
(いや………)
ラエスリールの心に疑念が生まれる。
(本当に、知らなかったのか?)
「破妖剣士の、ラエスリール様ですね」
ディオウルは深々と頭を下げる。その腕には、闇主に託したはずの包みが抱えられていた。
「わざわざ、お届けものをありがとうございます。確かに頂きました」
ラエスリールは目を見開いた。
「その本は、あなたの……?」
この少女に守られていた『彼』が、セスランの知人だったのか。
「はい。私が浮城にいた頃に、彼に貸したものです。もう十年になりますが……」
懐かしそうに目を細める青年の瞳には、昏いものが垣間見える。半妖ゆえに浮城を追われた、と聞いているが、ラエスリールの性格上、詳しく聞くことはためらわれた。
「セスランには、浮城にいた頃、よくしていただきましたよ。本当に」
包みを抱く青年の腕に、力がこもる。
「本当に、ね────」
細い指が、ビリビリと包みを破く。
破かれたのは、包みだけではなかった。中の本ごと、引きちぎっている。
あまりのことに絶句しているラエスリールに、ディオウルは歪んだ微笑みを向けた。
無残に表紙ごと千切られた本は、風の起こらない空間の中で、ただの紙屑と化して舞っていた。
「彼が最初にこの街を訪れた時、言ったはずですよ。二度とおれに近づくな、と」
吐き捨てるような言葉だった。
それは、ラエスリールではなく、彼女の恩人であるセスランに向けられたものだったが……だからこそ、彼女の心は衝撃に震えた。
「セスラン様が、あなたに何を……」
したというのか。
ここまで恨まれるような真似を、あの温厚な青年が。
「何をしたか、だって?とんでもない」
青年は笑う。
「何もしなかったんですよ、あいつは。まだ子供だったおれが、浮城の連中に苛められていても、役立たずと罵られても、半妖だという事がわかって追い出されても───いっさい、何もしなかった」
ラエスリールは信じられぬ思いで、その言葉を聞いていた。
自分を妖鬼から救ってくれた、ブロンズの髪の青年の優しい笑顔と、目の前にいる青年の、真に迫った言葉……それとを、比較して。
彼女は当たり前の結論に逃げる。
「そんなはずはない。苦しむ子供を見て放っておくなど……セスラン様は、そんな人ではない」
そうだ。
ラエスリールが浮城にいられるのが、何よりの証拠ではないか。
「あなたは、セスランの全てを知っているわけじゃないでしょう。使えそうな相手にはとことん甘い顔をするが、使えないとわかった相手にはどこまでも冷たい。あいつはそういう奴ですよ」
この場にいない相手へ向けて怨嗟の言葉を吐き出す青年は、本当は誰よりも、彼を慕っていたのではないか、と思った。
強すぎる憎悪は、執着の裏返しでもある。
「おれと『同類』なのに、仲間意識を持っていたのはおれだけだった。いい先輩だと思っていたのに、別れの言葉すらもらえなかった」
「同類……?」
まさか、セスランは───。
あの青年が人とは違う気配を持っていることは、出会った頃から気づいていた。生い立ちなどを聞きにくい、独特の雰囲気が彼にはあって、それで今まで、その可能性に思い至らなかったのだが。
(セスラン様が、私と同じ……?)
「その女もあなたのお仲間よ、ディオウル」
葉蛾実が悔しげに告げる。
「破妖剣士のくせに、半妖なんですって。セスランと二人で、あなたを馬鹿にして。許せないわよね」
ディオウルの目が、一瞬だけ葉蛾実を見つめ、再びラエスリールへと戻った。しばらく置いて、納得がいったというように呟く。
「そうか……妖貴を倒せたのも、そのせいか」
痩せた頬が、少しだけ歪む。
そっと葉蛾実を抱き上げるその腕は細く、頼りなかった。その陰鬱な仕種は、彼が本来持っているものなのか、浮城が彼をそうしてしまったのか。
「浮城の皆さんは、あなたの正体をまだご存知ないのですね。この事がわかれば、あなたも迫害されるでしょうから。昔の俺のように」
ラエスリールは、答える事が出来ない。
彼の瞳の奥に、深い孤独と絶望を感じてしまったから───この少女の愛情に縋らなければ、生きていけないほどに追い詰められていた、その心を知ってしまったから。
自分も一歩間違えれば、彼と同じ道を歩んでいたかも知れないのだ。
「このまま、見逃してはくれませんか。ラエスリール様」
今度の『ラエスリール様』には、いささか皮肉な響きが含まれていた。
この世で唯一、自分を愛してくれる少女を、大事に腕に抱きながら、ディオウルは言葉を続ける。
「どうしても俺たちを浮城に連れて行き、一方的に裁くと言うのなら……俺は、連中の前であなたの正体を告げます。それでもよろしければ───」
「見苦しい真似はよすんだな、坊や」
傲慢としか言えぬ声が、その場に割り込んだ。
「おれが守護する限り、ラスにそんな脅しは通用しないよん」
言いながら現れた深紅の青年と、その背後にいる人物を見て、ラエスリールは絶句した。
「セ………」
「ご苦労様でしたね、ラス」
軽く片手を上げて、セスランは答える。相変わらずほんわかした笑顔だ。
「仕事に行かれていたのでは……」
一気に脱力するのを感じながら、ラエスリールは尋ねた。
この登場の仕方からして、今までの会話を恐らく聞いていたに違いないが、全く動じていない様子なのは、さすがだった。
「連れが優秀だったので、早く片付いたんですよ。彼も来たがっていましたが、あなたの事が末端に伝わってしまったら、まずいでしょう?」
「そういうこと。闇主さんも協力したんだよー」
「やはり、お前もグルだったのだな」
「人聞きが悪いなあ、ラスったら。おれはいつだってラスのことが一番大切だよ。ちゃんと結界は張ってあげたでしょ?」
「そういう問題じゃない!戦闘前に、無断で姿を消すなと言っているんだ」
「え、なになに?一分一秒でも離れていたくないって?いやー、照れちゃうなあ、おれのことそんなに想ってくれてたなんて」
「お前の耳は飾りか!?どこをどうしたら、そんな発想が───」
「はいはい、仲が良いのは結構ですが、じゃれ合いは後回しにして下さいね」
放っておけば延々と続くに違いない漫才を遮り、セスランは立ち尽くしている青年に近づいた。
ディオウルの顔はかたく強張っていた。
本人を目の前にすると、さすがにラエスリールに対した時ほどの威勢は出ないらしい。
「久しぶりです、ディオウル」
名前を呼ばれ、青年の肩がぴくりと動く。負傷した少女を庇うように抱きしめ、きつく相手を睨みつけた。
「い、今更、何の用だ!」
威嚇する犬のように吠え立てる青年に、セスランは穏やかに微笑む。
「もちろん、お借りしていた本を返すためにです。それと……あなたが浮城を出る際に連れ去ったその子も、そろそろ返して頂きたいと思いまして」
ラエスリールは驚いてディオウルを見つめた。いや、正確にはその腕の中にいる、葉蛾実を。
「本と違って、護り手には返却期限はありませんが……いかんせん、浮城も人手が足りませんからね。例え同族の命を食らうような外道であっても、優秀な者にはぜひ戻って来て欲しいのです。魅縛師が責任を持って躾け直しますので」
ラエスリールは眩暈を起こしそうになりながら、その言葉を聞いていた。
自分の中のセスランの印象が、徐々に音を立てて崩れていく。
ディオウルは唇を歪めた。
「戻ってきて欲しいのは、葉蛾実だけってわけか。やはり、おれはいらないんだな」
「ええ」
セスランは事も無げに頷く。
「それと一つ言っておきますが、あなたが浮城を追われたのは、半妖だったせいではありません。単に、あなたに才能がなかっただけです」
容赦ない一撃であった。
青ざめ、唇を震わせているディオウルに、ラエスリールは同情を禁じ得なかった。ディオウルの告げた事は、あながち間違いではないのかも知れない……。
「変わっていないな、あんたは………外見も、中身も」
諦めたような響きが、その声にはあった。
「私も半妖ですが、適当にうまくやっていますよ。城長もこれをご存知ですしね」
セスランはちらりとラエスリールに目をやった。「そして今、彼女も」
ラエスリールは目を逸らした。複雑な気持ちだった。
「私は何度もあなたに会おうとしたのですよ、ディオウル。ですが当のあなたは門前払いをくらわすどころか、私がこっそり差し向けた浮城の護り手を、ことごとく撃退してくれましたね」
お願いですから……と、ラエスリールは思った。
お願いですから、これ以上私の敬意を壊さないで下さい、と。
「ね、わかったでしょ?セスランはこーいう、根性のひん曲がった奴なんだよ」
耳元で闇主がぼそぼそと囁く。
お前にだけは言われたくない、と彼女は思った…………。


「いやよ!ディオウルと離れるなんて絶対にいや!!」
浮城から来た使いの手によって、葉蛾実は無理に力を封じられた。まるで小動物のように木の箱に押し込められ、元いた組織に搬送されようとしている。
「我が儘を言うものではありませんよ、葉蛾実。あなたは、取り込んだ連中の分まで生きて償う必要がある」
あくまでも穏やかに、セスランは告げた。箱詰めされた少女は、黙ってその光景を見つめている青年に、救いの手を求めた。
「ディオウル、助けて!ディオウル!!」
ラエスリールが耳を塞ぎたくなるほど、それは悲痛な声であった。二人が惹かれあっていることは、誰の目にも明らかであるのに。
やがて、ディオウルがぽつりと言った。
「君もいい加減、しつこいな」
空気が凍りつくような、冷たい声だった。
「何を勘違いしてるんだ?君の事なんか、俺は別に好きじゃない。逃げるのに都合がいいから、君を利用しただけなんだよ」
少女の声が、唐突に途切れた。
「ディ………」
バタン!と、乱暴に木箱の蓋が閉まる。その後は、もう何も聞こえなくなった。
かつて護り手であった少女は、浮城へ連れ戻され、裁きを受ける。護り手殺しの罪は重いが、仲間の命を喰って力を増幅した彼女を、むざむざ消す理由はないだろう。
恋人と引き裂かれた心の痛みは消えないだろうが……それでも。
「よく言ってくれました」
セスランが歩み寄り、ディオウルの肩を軽く叩いた。彼は、その手を思い切り振り払う。
「これで満足か、あんたたちは!」
血を吐くような叫びだった。
お互いの傷を舐めあうような関係であっても、それを恋と錯覚していたのだとしても。
その絆を引き裂くような権利が、お前たちにあるのか、と。
ディオウルの叫び声が、いつまでも、脳裏に残って離れなかった。


「辛い仕事を押し付けてしまいましたね」
浮城へ向かう帰り道の途中で、セスランが呟いた。
隣に並んで歩いていたラエスリールは、小さく首を横に振る。
「いいえ……いい勉強をさせていただきました」
正直に言うと、疑問だった。セスランが、なぜこんな仕事を、ラエスリールに押し付けたのか。
もちろん、あの結界を破れるのが闇主しかいなかった、というのも大きいだろう。闇主はラエスリールの命令でなければ動かない。
しかしディオウルへの態度を見ていて、判ったことがある。セスランは同じ半妖だから、ラエスリールに優しく接してくれたわけではない。
利用価値がなくなれば、あっさり捨てられる……それは、この厳しい世界で生きていく以上、当たり前のことだった。ディオウルの姿は、未来の自分の姿かも、知れなかった。
「私を非情な人間と思っているでしょうが」
ラエスリールの気持ちを見透かしたように、セスランが告げる。
「ディオウルのことを、忘れたことなどありませんでした。彼の心は未だに、浮城というしがらみから逃れずにいたようでしたから……どこかで、完全に関わりを断つことが必要だったのです。葉蛾実のためにも」
「はい………」
ディオウルは浮城が斡旋した就職先を蹴って、長い間、行方をくらましていたらしい。それでも遠くに逃げずに、わざわざ浮城に近い場所に隠れ潜んでいたのは、やはり未練ゆえだろう。
己の殻に閉じこもったまま、一生を終えるつもりだったディオウル。禁断の果実を口にしてまで、彼の力になりたかった葉蛾実。
二人には、今度こそ幸せな人生を歩んで欲しいと、望まずにはいられない。
「あの人は……葉蛾実を失ったあの人は、大丈夫なのでしょうか。まさか、また命を絶つような真似は」
「大丈夫だよー。人間なんて、結構しぶとい生き物だしね」
闇主が強引に割り込んでくる。
「それに、セスランの野郎がちゃんと新しい勤め先を紹介してやったんだし。考えてみれば浮城ってば、殺戮組織にしては身内に甘いよねー」
ラエスリールはむすっとして答えた。
「お前には聞いていない」
しんみりとしていた雰囲気が台無しだった。
「まあまあ、闇主はあなたを気遣ってくれているんですよ。それに、良くも悪くも、あなたにここまで執着してくれる護り手は、この先現れないと思いますよ?」
人手も足りないことですし。
爽やかに告げるセスランを見ていると、何故か頭痛がしてきた。
そうなのだ、護り手の数が圧倒的に足りないことに加えて、ラエスリールは紅蓮姫の使い手。余程のことがない限り、護り手になってくれる相手など存在しない。
「おっ、たまにはいいこと言うじゃねえか。ラスー、聞いたー?ラスにはおれがいるから、安心して大船に乗った気でいていいんだよー」
「そうか、そうか。良かったな」
もうどうにでもしてくれ、とラエスリールは適当にあしらい、夜空を見上げた。
とりあえず、浮城に戻ったら───義母に、告げよう。
やっぱり、当分はこの護り手で我慢します、と。


───おわり───



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初期の闇ラスの、まだお互いをよく判ってない頃のノリを思い出して書きました。
マイスラ同志の朱乃様に捧げたものです。サイトに展示して下さった上、勿体無いほどの賛辞を頂きました。ありがとうございます。



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