書庫 消えゆく果実2


四肢に走る痛みに、ラエスリールは顔をしかめた。
まず確認したのは、手足の無事だった。大丈夫だ、傷だらけではあるが、ちゃんとついている。
次に、紅蓮姫。こちらも飛ばされず無事だった。手の甲の裂傷は酷いものだったが、無意識のうちに鞘ごと握り締めていたらしい。
どれほどの長い間、気を失っていたのかはわからない。うっすらと開けてきた視界に、茜色の空が映った。街に入ったのが昼過ぎだから、相当長い間寝転がっていた事になる。
「このぶんではまた、門限に遅れてしまうな……」
誰にともなく呟くと、ラエスリールはため息をついた。
夕食にありつくのは諦めた。それよりまず、使いを済ませることが先決である。
琥珀の瞳に映るのは、見覚えのある風景。つい数時間ほど前まで、闇主と並んで歩いていた場所。何の変哲もない、街の入り口だ。
暮れが迫ってきたせいか、人通りは少なかった。倒れる際、かすかに街の人の悲鳴を聞いたのだが……この辺りで行き倒れる旅人など珍しくないから、結局は放っておかれたらしい。そして、それはラエスリールにとって幸いだった。なまじ、どこかに運び込まれていたとしたら、きっとその家の人に迷惑をかけてしまう。魔性がらみの騒ぎに、一般人を巻き込むわけにはいかない。
見えない力に足元をすくわれ、傷つけられた以降の記憶はなかった。その『力』の主に、ここまで飛ばされたと考えるのが妥当だろう。
それにしても、闇主はどこへ消えたのか。まさか彼までが、あの『力』にやられたとは思えない。
ぺろり。
「……っ!?」
生温かな感触に、ラエスリールは思わず腰を浮かせた。
視線を下へと遣ると、足元に人外の生き物が蹲っているのが見えた。
背丈は、人間の幼児ほどしかない。全身は茶色の体毛に覆われ、頭の横ではなく上に、尖った耳が二つついている。目は大きく、口には尖った牙が覗いている。
奇形だが醜悪とまではいかない、ぎりぎりの容姿を保っていた。猫が二本足で歩くとしたら、恐らくこんな姿になるのだろう。
小鬼であることは、一目でわかった。
ぺろり。ぺろり。
猫型の小鬼は、無心にラエスリールの足の傷口を舐めていた。
まるで心配しているようなその仕種に、ラエスリールは困惑した。
「お前………」
声に反応した相手は、ゆっくりと顔を上げた。しばらく、不思議なものでも見るようにラエスリールを見つめていたが、やがて再び、傷口に顔を埋めた。
何も言わなかったところを見ると、恐らく言葉が通じないのだろう。鞘に納めてあるとは言え、すぐそばにある破妖刀の気配にさえ気づかない、かなり知能の低い小鬼だ。
ラエスリールは、身動きが取れなかった。その生き物を、振り払う事は出来なかった。危害を加える目的で近づいたのなら、気を失っている間に片がついていたはず。
それに……と、思う。
舐められる感触は決して心地の良いものではなかったが、傷は確実に癒えていく。それを止める理由は、ラエスリールにはない。
「なぜ?」
戸惑いは消えない。
魔性に好意を寄せられるのは、記憶にある限り初めての経験だった。闇主の『好意』は………常軌を逸しているし、彼女自身、魔性とは敵対すべき存在だと認識している。
敵であるはずの魔性が、一体何のために、誰のために、こんな事をするのだろうか。
見れば、ラエスリールの周囲に、数体の小鬼が集まっていた。人ならざる彼らは、大地に影を落とす事はない。その輪郭は夕闇に溶け込むように儚げで、闇主の強烈な深紅とは比較にならないほど、淡い色彩を放っていた。
座り込んでいるラエスリールの傍らを、街の人々が何事もなく通り過ぎていく。彼らには、小鬼たちの姿が見えないし、触れる事も出来ないのだ。
「なぜ……」
もう一度、繰り返す。
この者たちは、先ほどラエスリールの背後から近づいてきた『気配』の正体に他ならない。
それなのに、彼女を遠巻きに見つめているだけで、決して攻撃を仕掛けて来ようとはしない。少なくとも、敵意の視線は感じなかった。
では、闇主の言ったことは真実だったのか。
街に入ったときに感じた、あの突き刺すような悪意は、ラエスリールに向けられたものではない、というのか……?


「性懲りもなく……」
少女の瞳に、苛立ちが浮かぶ。それに気づいた男が、慌てたように手を伸ばした。
「行くな」
必死なその表情の、何と愛しい事だろう。少女は年齢に似つかわしくない微笑みを浮かべると、男の腕を寝台に押し戻した。
「いいえ、あなたは何も心配しないで。あんな奴ら、すぐに追い払ってあげる」
今までだって、そうしてきたでしょう?
囁くその唇は、血の気など感じさせぬ紫色。生白くすべすべとした手足には傷一つなく、人形めいて美しい。
「待っててね」
少女は身を乗り出し、男の額に口付けを落とした。窓から差し込む茜色の光が、恋人たちを照らし出す。
床には、男の影だけが長く伸びていた。


突然、足元の小鬼が唸り声を上げた。
ラエスリールを見つめていた時の穏やかな様相は、既にない。歯を食いしばり、街の方角を睨みつけている。
つられて彼女も、吹き飛ばされてきた方角に視線を遣る。そして、新手の魔性の気配が近づいてくるのを感じた。
猫型の小鬼は、天を仰いで吠え立てた。獣のような咆哮に、他の者たちも次々と吠え始める。
唖然としているラエスリールを尻目に、彼らは群れをなして、街の入り口へと駆け出していく。やがてその姿は、街の中心へ向かう人々の群れの中に紛れて、見えなくなった。
彼らは、ラエスリールを仲間と誤解していたのかも知れない。半分とは言え、彼女は魔性の血を引いているのだから。
少なくとも、目的がこちらの命でない事はわかった。しかも彼らは人を刺激しないよう、その姿を消してさえいる。街の中に依然として強い魔性の気配があり、彼らが『それ』を狙っていることは……判る。
「止めなければ……」
ようやく自由になった身体を紅蓮姫で支えながら、ラエスリールは歩き出した。
人に危害を加えるつもりはなくとも、魔性同士の争いが周囲に生み出す影響は計り知れない。
傷はまだ、完全に癒えてはいなかった。足がふらつく。再び地面とお友達になりかねなかったラエスリールの身体は、しかし次の瞬間、ふわりと抱きとめられた。
腰に、男の腕が回っていた。細すぎず逞しすぎず、均整の取れた二の腕で彼女を支え、その上で、さりげなく身体を密着させていたりする。
こんながりがりの身体など抱いて、何が楽しいのだろうか……呆れた思いで、彼女は抱きしめている相手を、見上げる。
「……お前、今までどこに行っていた」
「ん?ずっとラスの傍にいたよ?」
押しかけ護り手は、悪戯っぽい笑顔でラエスリールを覗き込んだ。
前髪の隙間から見える切れ長の瞳──恐ろしいほど整った顔立ち。この男に騙されて命を落とした娘の数は、一人や二人ではあるまい。自分は天に誓ってそんな末路は辿らないと断言できるが、肝心の男が、騙す気満々なのは困ったものだ。
「あーあ、白魚のようなお手手がこんなに傷ついちゃって。待ってなさい、闇主さんが愛の力で癒してあげるからねー」
「何が愛の力だ!」
ラエスリールは乱暴に闇主の腕を振り払った。
「私をからかうのもいい加減にしろ。姿を現さない護り手に頼るくらいなら、猫の手でも借りた方がましというものだ」
心底、本心からの言葉であったわけだが……猫以下の扱いを受けた深紅の男は、依然として動じない。
「やだなー、おれはラスのこと信じてるから、余計な手出しはしないんだよ。何てったって、ラスは初仕事で妖貴を倒したんだし。そんじょそこらの妖鬼なんかに、負けるはずがないじゃなーい」
「妖鬼?」
ぴくり、とラエスリールの眉が動いた。
「ではやはり、あの中にいるのは妖鬼なのだな?」
言いながら、ラエスリールは街の入り口を指差した。
街の人々は瘴気に苦しむこともなく、ごく普通に生活をしていた。つまり件の魔性は人前には姿を現しておらず、また人間に仇なす意思もない、という事になる。
「人間との共存を選んだ妖鬼、ということか……?」
闇主の例もあるから、珍しいことではないが。
しかし、眷属を裏切ったまま地上に留まるのは、危険極まりない。仲間の報復から身を守る術を持たない下級魔性は、浮城に保護を求め、あるいは自らの意思で魅縛師に捕らえられ、護り手になるのが最善の方法なのである。
「当たり半分、外れ半分ってとこかなー」
闇主が軽い口調で答える。
(こいつ………)
ラエスリールの疑念は確信となった。彼が思わせぶりな台詞を吐くのには、必ず理由がある。
「何か知っているな?」
ずい、と詰め寄る。
人間ならいざ知らず、魔性に意味もなく傷つけられて黙っていられるほど、彼女はお人よしではない。
「うん、知ってるよ。で、ラスはどうしたいの?」
軽い口調ながら、その瞳は決して笑ってはいなかった。
破妖剣士になどなりたくなかった、と言っておきながら、常に破妖刀を持ち歩く彼女を。必要があれば、依頼がなくとも破妖刀を振るうつもりである彼女を。
嘲笑っているような、瞳の色だった。
「私は………」
ラエスリールは唇を噛んだ。
お前とは違う、と言いたかったが、不器用な彼女は言葉に出来ない。
出来れば争いは避けたい。『ラエスリール』としての、偽らざる本音だった。
けれど、『朱烙』の部分が、それを否定する。以前、血を分けた弟に揶揄された通り、喜々として破妖刀を振るう己の姿こそが、真実なのだと。
「私は、今、自分に出来る事をするだけだ」
腰に据えた紅蓮姫に手をやり、彼女は呟いた。
街の人々は無事なのに、ラエスリールだけが放り出された理由は、ひとつしかない。
彼女が破妖剣士であるから。
浮城の人間であるラエスリールに立ち入られては困る理由が、相手にはあるのだ。
「浮城に仇なす存在は、見逃すわけには行かない……街の中に突入していった魔性の群れも、気になるしな」
「ふうん」
闇主が意味ありげに呟く。
「じゃ、お使いは後回しってことでいいんだね。別におれはセスランの野郎なんてどうでもいいけどー」
言われてラエスリールは、はたと気づいた。
そうだ、包み。セスランに頼まれていた大事な使い物を、この男は保護してくれただろうか。
「闇主、お前、まさか……」
青い顔をして見上げると、彼はひらひらと手を振った。
「大丈夫、ちゃーんと受け取ったよん。でも、『ラスはこれから忙しくなるから』、もうちょっとおれが預かってた方がいいよね?」
「あ、ああ……」
何やら含みのある言い方だったが、彼女はそれ以上追及するのはやめた。
早く街の中に入らなければいけないし……それに。
───ラスは本当は、戦いが好きなんだよね。
そう言わんばかりの闇主の目が、正直に言って、怖かったのだ。


暗い部屋には、夥しい量の果実が転がっていた。
それは、林檎によく似た形状をしていたが、林檎ではない。
かつて眷属であったモノの、成れの果てだ。
裸足で寝転ぶ少女は、戯れにその果実の一つを口にする。それは、魔性の間で、禁忌とされるモノ。決して口にしてはいけないモノ。
少女の紫色の唇が、果実を丸々と飲み込んだ。奥歯で噛み砕き、甘露を味わい、喉の奥へ嚥下する。
唇の端からたらりと蜜が垂れるのを、指ですくって、口に含む。
寝台の上で、男は虚ろな表情を浮かべている。愛しい男の目の前で、平然と禁忌を犯しつづける少女を、責めるつもりはない。
彼女を狂わせてしまったのは、紛れもない自分自身なのだから。
この自分を理解してくれるのは少女しかいない。あの不可思議な瞳をしたブロンズの青年でさえも、男を受け入れてはくれなかった──だから。
終わりはいつも唐突に訪れる。
二人だけの生活に、終止符を打つ者の足音が聞こえてきた。


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