書庫 消えゆく果実1(漆黒の魔性後)


『雛鳥の翼』とつながってます




かすかに怯えた様子を見せる男の頬を、少女は優しく撫でた。
大丈夫よ、と囁く声は、ひどく幼い。幼くあり続ける事を、少女自身が望んだのだ。
全ては、この人を護るため……。
かつては敵対する存在であり、共に過ごすうちに、護るべき存在であり、愛しい存在へと変わっていった……大切な、人。
誰にも私たちの邪魔はさせない。誰も、私たちを引き裂く事は出来ない。
願いを込めて、男の身体を抱き寄せる。
少女の囁きは力となって、二人だけの楽園を包み込む。


白砂原に荒れた風が吹く。
いかなる強風も、天空に浮かぶ浮遊城砦を揺るがすことはできない。
世界を創造したガンダル神の大いなる慈悲と、魔性の身でありながら人間側に与した護り手たちの強固な結界が、それを可能にしているのだ。
外界を繋ぐ唯一の手段は、転移門と呼ばれる五つの入り口で、それさえも住人や護り手の承諾なしには、内部を窺い知ることさえ出来ない。
主要都市の国境へとつながる転移門の一つが、音もなく開いた。
顔に吹き付ける熱風に、ラエスリールは顔をしかめた。目の中に侵入しようとしてくる砂を、指で払う。
「ラス、大丈夫?」
知り合ってまだ日も浅い魔性の男が、気遣わしげに問いかけてくる。
「だからー、わざわざ歩いて行くことないって言ったじゃない。闇主さんに身体を預けてくれれば、目的地までひとっ飛びだよ?」
下心丸見えの申し出である。
だんまりを決め込むことも出来たが、それをすると余計に口数が増える男だという事を、彼女はよく知っていた。
「大丈夫、だ」
ごしごしと目頭をこすると、砂は涙とともに流れていった。
肩にかけた重い荷物を背負い直し、ラエスリールはやや眩しげに──もちろん日差しのせいである──男を見上げた。
「それより、闇主。なぜお前までもがついてくるんだ?今回は仕事ではなく、二つ先の街まで届け物をするだけなんだぞ」
深紅の髪と瞳を持つ男は、大袈裟にため息をついた。
「冷たい事言わないでよ、ラス。せっかくセスランの野郎が気を利かせて、おれたちを二人きりにしてくれたのに」
「寝ぼけた事を言うな。私は子供ではない。一人で使いくらい行ける」
「でもラスだって、浮城で苛められるよりは、おれと一緒にいた方がいいでしょう?」
さらりと言われてしまい、ラエスリールは言葉に詰まった。
亜珠を倒して以来、ラエスリールは以前にも増して浮城に居づらくなった。
初仕事で妖貴を退治した功績は大いに称えられたものの、城内における彼女の扱いは相変わらずだった。それまでは皮肉の嵐だったのが、嫉妬の嵐に変わっただけのことである。
破妖刀に助けられただけじゃないの、とか、私が選ばれていれば良かったのに、とか、あんな得体の知れない護り手を連れてきてどうするつもりだ、等々。
悪意に満ちた囁きを耳にするたび、まただ、と思う。たまに反論したくなることもあるのだが──いかんせん、ラエスリールは思ったことの半分も相手に伝えられない性格であった。誤解を解く間もなく、相手は痺れを切らして立ち去ってしまうのだった。
「ラス。今から時間は空いていますか?」
恩人であり、尊敬する捕縛師でもあるセスランに声をかけられたのは、つい先刻のことだ。
場所は食堂、いつも一緒に食事をするサティンが仕事で不在のため、ラエスリールは一人で昼食を取っていたところだった。
ちなみにこの時闇主も傍にいて、しきりに話しかけてきたのだが、彼女は徹底的に無視していた。
「はい、今日は午後から夕方まで予定はありませんが……何か?」
口に含んでいたパンを飲み込みながら、慌てて振り向いたラエスリールに、闇主は不満そうな顔をした。彼女がセスランに対してだけは心を開いているのが、どうも気に入らないようである。
ブロンズ色の髪を持つ青年は、ラエスリールを見て穏やかに微笑んだ。
「この包みを、とある方に届けていただきたいのです」
そう言って彼が差し出した四角い包みは、両腕で抱えても、ずっしりと重かった。
入手が困難だった本を、遠方にいる知人がたまたま所有しており、セスランのために特別に貸し出してくれたらしい。
「貴重な本なので、読み終わったらすぐに返しに行こうと思っていたのですが…急な依頼が入って、今から出かけなければならなくなりました」
セスランは、ちらりと背後を伺った。そこには、彼と一緒に出かけると思われる捕縛師が、落ち着かない表情で待っている。
彼は再びラエスリールに視線を戻した。
「知人の家とは、方角が違うんですよ。当分浮城には戻れないので、申し訳ありませんが、お願いできますか?」
「了解しました」
重い包みを小脇に抱え、ラエスリールは頷いた。断る理由などあるはずがなかった。
その場を離れる瞬間、セスランが軽く片目をつぶったのも。
背後にいた闇主がそれを受けてにやりと微笑んだのも、ラエスリールは気づかなかったのである……。
「あんな連中なんて、相手にしなくていいよ。単なる僻みなんだから」
人の気にしている事を、闇主は軽く言ってくれる。セスランから受け取った、目的地までの地図をぎゅっと握りしめ、ラエスリールは強がりを吐いた。
「私は別に気にしてなどいない。第一、紅蓮姫に選ばれたのは私の本意ではない。こんな刀のせいで妬まれるくらいなら、今すぐにでも破妖剣士を降りたいくらいだ」
ラエスリールは捕縛師の資格を持っている。紅蓮姫が別の使い手を選んでくれさえすれば、これ以上好奇や嫉妬の視線を向けられる事も無い。
穏便に生きたいのだ、自分は。捕縛師としてそこそこの地位を得て、義母であるマンスラムに恩返しさえ出来れば、それで。
ラエスリールの心中も知らず、魔性の男は呑気な声を投げかけてくる。
「とか何とか言いながら、ちゃーんと紅蓮姫は持ってきてるじゃない」
彼女の腰で揺れている、深紅の刀身を持つ破妖刀、『紅蓮姫』。
その美しさとは裏腹に、抜けば使い手の意思などそっちのけで暴れまわる、凶暴極まりない刀である。
この破妖刀を恐れるゆえ、ラエスリールの護り手になろうとする者はいなかった。ただ一人、この風変わりな男を除いては。
「仕事熱心だね、ラスは」
にこにこ、にこにこ。
先ほどから闇主は上機嫌である。一緒に出かけられることが、それほど嬉しいのだろうか。
別に、紅蓮姫を気に入っているわけではない。護り手と破妖刀になるべく慣れておきなさい、と義母が言うので、普段から帯刀しているだけの事である。
しかし紅蓮姫はともかくとして、この護り手には絶対に、絶対に、慣れたくはない。慣れるような日は、永遠に来て欲しくは、無い。護り手として心を許すには、闇主の性格はあまりにも難がありすぎた。
「熱心にもなるさ。どこかの誰かのおかげで、これまで仕事の一つも来なかったのだからな」
闇主と目を合わせずに言い放つ。彼が浮城の護り手に脅しをかけ、ラエスリールに近づかないようにしていたという事実を知ったからには、嫌味の一つでも言ってみたくなるというものだ。
「だって、それは仕方ないじゃない。ラスは魅力的なんだもの。現に今だってさあ………」
闇主の台詞に不穏なものを感じ、ラエスリールは足を止めた。
「何だって?」
睨みつけた彼女の目つきはかなり悪いものだったが、闇主は動じた様子もない。
「あれ、気づかなかった?さっきから、妙な奴らがおれたちの後をつけてきてるの」
ラエスリールは周囲を見回した。
市街地へ入る際、闇主には人間に混じっても目立たぬような姿を取らせている。ましてや、浮城の正装を着ていないラエスリールが注目を浴びる事は、ないはずだというのに……。
首筋に、ぞくりとするものを感じた。魔性の気配が、背後から追いかけてくる……それも、一体や二体ではない。多数の、凝り固まった悪意を感じる。
反応が遅れたのはうかつだった。闇主とのやり取りに気を取られていたせいだろうか。
「闇主………」
「うん?」
ラエスリールは、意識的に紅蓮姫の鞘を掴んだ。
「ここでは、街の人々の迷惑になる。戻るぞ」
「え、どうして。せっかくここまで来たのに」
「奴らの目的は私なのだろう?わざわざ他の人間を巻き込む事はない」
彼らは気配を消して、ラエスリールだけを追ってきている。そうでなければ、今頃は背後で複数の悲鳴が上がっているはず。
だが、闇主が返した答えは、彼女の予想を大きく外れたものだった。
「違うよ。連中が狙ってるのはラスじゃない」
あっけからんとした闇主の発言は、しかし彼女の神経を逆撫でするものでしかなかった。
「何を、言っている……お前は何か知っているのか?」
問いかけに、闇主は答えず、肩を竦めただけだった。
この男はどうでもいい事はよく喋るくせに、肝心な事は何も教えてはくれない。
それでも、頼りになる事は確かであるし、他に護り手になってくれる奇特な妖鬼はいないのだからと、しぶしぶ受け入れていた。
しかし、彼がもし、浮城に仇なす存在であれば……。
「まさか、私を尾けている連中はお前の仲間か!?」
充分に、考えられる話だった。
眷属を裏切り、護り手となった闇主の命を、狙ってくる輩がいないとも限らない。あるいは、闇主こそが今、ラエスリールを裏切るつもりなのかも知れない。
「怖い顔しないでよ、ラス。せっかく綺麗な顔してるんだから、笑って笑って」
極上の美形に、そんな形ばかりの世辞を言われても、少しも嬉しくはなかった。
「話を逸らすな。返答次第では、この場でお前を斬る」
ラエスリールの問いに、闇主が答えようとした刹那────。
足首に、何かが巻きつくような感触。
何が、と思う間もなく、ラエスリールの視界は横転した。強い力で、仰向けに倒されようとしていることに気づき、彼女が真っ先に案じたのはセスランから預かった包みの事だった。
「闇主っ!」
腕に抱えていた包みを、護り手がいた方角に向かって投げる。受け取ってくれたかどうか確かめる暇もない、が───これだけは守らなければ、セスランに顔向けが出来ない。
後頭部に衝撃が襲った。受身は間に合わず、歩道に敷き詰められた石に頭を打ちつけたのだ。
ラエスリールの身体が撥ねた勢いで、腰に巻きつけた紅蓮姫が離れ、歩道を転がった。
苦悶に呻くラエスリールの耳に、囁き声が飛び込んできた。
───取っていかないで。
まだあどけない、少女の声だった。かすむ視界の隅に、紅蓮姫が映る。彼女に届くように伸ばそうとした腕に、鋭い刃物のようなものが突き立てられた。
街の人々の悲鳴は、ラエスリールのそれにかき消された。
何が起こっているのか、人々には判らないだろう。娘が道端に突然倒れ、絶叫を上げているだけなのだから。
裂かれた腕から、鮮血が迸る。自分を傷つける者の姿はまるで見えないのに、傷つけられていることは、紛れもない現実だった。
立たなければ、と頭の隅では判っていた。立って、紅蓮姫をこの手で掴まなければ。
しかし彼女の意思に反し、四肢は次第に力を失っていく。
───私の彼を、奪っていかないで。
薄れていく意識の中でラエスリールが最後に聞いたのは、泣き出しそうな少女の、消え入るようなその一言であった。




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