書庫 騒乱の影(闇主×ラス←オリキャラ)


「もういい、ついて来るな!」
叫んで宿屋を飛び出したのは、つい数十分前のこと。現在ラエスリールは、カラシュの町の中央にある青果店の前まで来ていた。
別名『迷惑大魔王』の闇主はいま、側にいない。完全な単独行動である。
目立たぬよう帽子を深く被り、外套の前を堅く締めて、彼女は束の間の自由を満喫していた。追っ手の気配も、護り手の気配もない状況は数週間振り、いや、下手をすれば数か月ぶりかも知れない。歩いていても誰の視線も感じないという事が、これほど素晴らしいものだとは思わなかった。
店の入り口に積まれた籠をひとつ、手に取った。店内は客で混み合っており、果実の甘い香りが鼻孔をくすぐる。品揃えは豊かで、棚一面に並べられた色彩豊かな果物は、眺めているだけでも楽しくなる。 
視界に深紅が飛び込んで来たような気がして、ぎくりとした。棚の上の赤い果実が、買ってくれとでも言うように瑞々しい色彩を放っている。その果実を確かめるため、帽子のつばを少し持ち上げる。隣にいた男性がその美貌に微かに息を飲んだ事に、彼女は全く気付かなかった。
深紅の正体は林檎だった。旬は過ぎているものの、充分に熟れて美味しそうだ。それを認めてほっと息を吐く。季節柄、石榴が置いてあるはずがないのだが…今は闇主を連想させるものは見たくはない、と思った。
だいたい、あいつが悪いんだ。
僅かばかりの銀貨を掌に握り締めながら、心の中で呟く。人を窮屈な宿に押し込めておいて自由を許さず、そのくせ自分は頻繁に姿を消す。何があったのか、何を知っているのか、決して教えてはくれない。
余りにも身勝手な青年に対して堪忍袋の尾が切れ、冒頭の台詞が出たからといって、誰が彼女を責められよう。
耳を澄ます。闇主が追ってくる気配は感じられなかった。その事に安堵する一方で、不安にもなる。いい加減長いつき合いだから、こんなことくらいで見捨てられたりはしない、と頭では判っているが、やはり側にいないと一抹の心細さを感じる。
ラエスリールは左手に籠を持ち、右腕を伸ばして棚に置かれた林檎を取ろうとした。ところがわずかに身長が足りない。足場を探そうか、店員を呼ぼうかと考えていると、背後から男性の腕が伸びてきた。
程よく筋肉のついた、しなやかな腕である。その先にある手が目的の果実を掴み、ラエスリールの所まで戻ってくる。林檎は彼女の手の中にすとんと落とされた。
「これっすか?」
「あ、ああ。ありが…」
礼を言おうとして振り向いた彼女は、次の瞬間驚きに固まった。そこには、明らかに妖貴と判る、美貌の青年が立っていたのだ。
見上げていると首が痛くなるほど、背が高い。胸板は厚く、いかにも頑丈そうな体つきをしている。その反面、顔の造作はどこまでも繊細で美しかった。
活動的な性質なのか、朱色の服は裾の短い、動きやすいものだ。妖貴の象徴である豊かな黒髪は乱暴に切り落とされたような形で、不揃いな毛先が針のように逆立っている。
「他に、何かご所望のものはあるんすか。言って下されば、取ってきますし」
形の良い唇にふさわしい魅惑的な声が、店内の隅々にまで響き渡った。見れば、客のほとんどが買い物の手を止めて、青年の姿にぼうっと見とれている。
ただし、例外もいた。
「いっ………いやああああっ!」
一人の女性は買物籠を放り出し、逃げ出した。また別の少女は母親の服にしがみついて大声で泣き出した。床にうずくまり、胸を押さえて苦しみもがく老婆もいた。青年の妖気にやられているのだと気付き、ラエスリールは全身から血の気が引くのを感じた。咄嗟に、彼の手首を掴んで引っ張る。
「来い!」
青年はきょとんとして、それでも彼女に促されるまま店を出た。どうやら追っ手ではなさそうだが……しかしそれにしても、どうして自分はこう、いつもいつも、歩いているだけで魔性に出くわしてしまうのだろうか?
外套の裾が風にはためく。帽子が舞って飛ばされてしまった。しかし構ってはいられない。どうにか、人通りの少ない裏道に彼を引っ張り込む。
とにかくその目立つ容姿だけでも隠さなければと考えを巡らせた結果、着ていた外套を脱いで青年の頭に被せることを思いついた。
背伸びしなければ不可能な行為だったが、意外にも青年は協力的で、何も言わずとも自分から膝を屈めてくれた。おかげでその秀麗な顔は辛うじて隠れたものの、首から下の、見事に引き締まった腰や長い両足までは隠せなかった。
息を荒くして周囲の様子を伺っている彼女の気も知らず、青年は不思議そうに問い掛けてくる。
「どうしました、金の姫君。顔色悪いっすね」
姫君と呼ばれた事に、ラエスリールの肩がびくんと震える。
「お前は………誰だ?」
慎重に問い掛ける。相手に害意があれば、即座に闇主を呼ぶつもりでいた。こんな街中で、紅蓮姫を抜くわけには行かないのだから。
だが美しい青年は、彼女の緊張をほぐすように、朗らかな口調で言い切ったのである。
「ああ、自己紹介が遅れました。俺、我が君からあなたを守護するよう、仰せつかった者でして」
ラエスリールは唖然とした。
魔性の主従関係については未だ謎が多いが、少なくともこれまでの経験から学んだ事が幾つかある。白焔の妖主の配下の焔矢は、主に似て気性の激しい女だった。紫紺の妖主に仕えていたという佳瑠は、人形作りという悪趣味が主と共通していた。父の配下はやはりと言うべきか、口調や物腰の柔らかい青年が多かった。
即ち、主持ちの妖貴というのは、容姿も性格もそして技の属性も、主君に似通った者が多いのである。
では、この調子のいい青年の主は…………。
不意に浮かんだ考えを否定するように、彼女は恐る恐る問い掛けた。
「我が君、とは……?」
 考え過ぎであって欲しい、という彼女の願いは、青年の次の台詞で見事に打ち砕かれた。
「うす!俺は柘榴の君の配下で、李燃といいます。よろしくお願いしまっす!」
元気な挨拶と同時に握手を求められ、ラエスリールは正直眩暈を覚えた。地面に崩れ落ちそうになる体を、よろめく二本の足で必死で支える。
やはり、闇主の仕業だったのか。それほどまでに、こちらの行動が信用出来ないのだろうか。一人にしたくないのなら、勝手に姿を消したりせずに、いつも側にいてくれればいいのだ。よりにもよって、こんなに目立つ相手をお目付け役に置いていくとは……完全に嫌がらせとしか思えない。
李燃と名乗った青年はごつい両手でラエスリールの手を掴み、ぶんぶんと勢い良く上下に振る。
「いっやー、お目にかかれて感激っす。何せ、あの冷徹な我が君の心を初めて捕らえた人すからね。本来なら括り殺して八つ裂きにして滴る血と肉汁を妖鬼に食わせてやるぜって感じなんですけど、実際目にしたらもうそんな考えは虚空の彼方まで吹き飛びましたよ。おまけに金の君のご息女ってことなら出自も申し分ないですし、あなたなら余裕で許します、ええ。問題無しっす。式には是非呼んで下さい、僣越ながらこの俺が祝辞を読ませて頂きます!」
よく喋る魔性である。主人に言い含められているとは言え、これほどまでに友好的な妖貴は初めてだった。握られた手の温もりに、ラエスリールはどう答えるべきか迷った。
「あのな………李燃」
「はい?」
黒く輝く、無邪気な瞳。邪気がないからこそ質が悪い。
「わたしは、大丈夫だ。気持ちは嬉しいが、その……一人にして欲しいんだ」
李燃は目を丸くした。
「とんでもない。あなたから目を離したら、俺、我が君に殺されるんすよ。そこんとこ、考慮に入れて頂かないと」
困ったような顔が、何やらおかしかった。悪い奴ではなさそうだが、それとこれとは話が別だ。先程のような騒ぎがまた起こったらと思うと、胃が痛くなってくる。
「絶対にそんな事はさせないと約束する。だから帰ってくれ」
ラエスリールは極力小さな声で言った。先程から通行人の視線が気になって仕方ない。
李燃の美貌は外套で覆い隠されているから、その視線の殆どは薄着となったラエスリールへと向けられているのだが、勿論彼女に自覚などあろうはずもない。この青年さえ追い払えば平穏が戻ってくるはずだ、などと見当違いな事を考えていたのである。
「よう、お姉ちゃん。これあんたのだろ?」
突然割って入った第三者の声に、ラエスリールは驚いて振り返った。見れば、いかにも軽薄そうな男たちが三人ほど、にやにや笑いながらこちらに歩み寄ってくる。
男の一人が手に持っているのは、先程失くしてしまった帽子である。ラエスリールは頭に手をやりそれに気付くと、慌ててお辞儀をした。
「有り難い……拾って下さったのですね。助かりました」
半分諦めかけていただけに、嬉しかった。世の中には親切な人もいるものだ。受け取ろうと手を差し出すが、男達は何故か帽子を引っ込めてしまう。
「おいおい、まさか何の礼もしないで受け取ろうってんじゃないだろうな」
咎めるような口調で言われ、ラエスリールは困惑した。
「申し訳ないが、わたしは持ち合わせが殆どないので、満足な礼は出来そうにないのだが…」
生真面目に答える彼女に、男が吹き出した。他の連中も一斉に腹を抱えて笑いだす。今の発言のどこがおかしかったのか、彼女には全く判らなかった。
「何馬鹿な事言ってんだ、金が無くたって、その立派な体があるじゃねえか、なあ?」
下卑た笑い声がラエスリールたちを取り囲む。背後と真横にもそれぞれ別の男がいて、いつしか退路は塞がれてしまっていた。せっかちな男が、彼女の腕を掴んで引き寄せた。酒臭い息が頬にかかる。
「ここじゃ何だからさ、別の所でたっぷりとお礼を受け取ってやるよ。美人の姉ちゃん」
「…美人?」
この男の視力は確かなのだろうか。
眉を潜めてそんな事を思っていたラエスリールは、他の男が李燃に近付くのを見た。
「ま、そういうわけだから兄ちゃん、あんたの恋人はちょっと借りていくぜ」
著しく誤解を孕んだ言葉とともに、男は李燃の外套に手を掛ける。何をしようとしているのか察して、ラエスリールは顔色を変えた。
「ついでにこの上着もな」
「待っ……」
止めようとしたが、間に合わなかった。
はぎ取られた外套の下から現れたのは、人では有り得ない漆黒の髪と瞳を持つ、美貌の青年。その色彩を見た瞬間、男は「ぎゃあ」と声を上げて、その場に尻餅をついた。
その場に居合わせた誰もが、口を半開きにして彼を見つめていた。皆、魔性の青年の姿に釘付けになっている。
安心出来る美貌では無かった。目にしたら最後、魂までも奪われそうな恐ろしさが秘められていた。青ざめ、唇を震わせ、それでも顔を逸らす事は出来ない。
人々の恐怖と動揺の中、李燃は悠然と立っていた。震えている男達を楽しげに見下ろす、その口元には子供のような笑みが浮かんでいる。先程ラエスリールに対して向けていた笑顔とは異なる、残酷な魔性の微笑みであった。
「姫君」
彼は妙に嬉しそうな顔で、ぼきぼきと指の関節を鳴らし始めた。それから振り返って言った。
「こいつら、全員やっちゃっていいんすよね?」
あまりにも軽い口調だったため、ラエスリールは一瞬何を言われたのか判らなかった。
何をやるというのか。やる。殺る……?
そして、気付く。
「やめろ、李燃っ!」
叫んだ時には既に、周囲は炎に包まれていた。


燃料は、木々でも、草でも、家屋でもない。大地そのものが唸りをあげ、熱を発し、はげしく燃えている。
すべてを焼き尽くすまで、消える気配もない炎だった。人がもし太陽の上に立つことが出来るとしたら、目の前には恐らく、似たような光景が広がっているのだろう。
灼熱の業火がちりちりと肌を焦がす。炎はまぎれも無く本物であるが、佇むラエスリールの体には、傷ひとつついていなかった。その意味で、李燃は冷静だったといえる。
守るべきものと、そうでないもの。人と魔性の違いは、その区別が出来ているか否か、かも知れない。
彼にとっては、守るべき者がラエスリールで、そうでない者は今、熱い鉄板の上で跳ねる魚のように、焼かれ、苦しんでいる男たちなのだ。
彼らにも大切な人がいて、家族がいて、帰る場所があるはずだ。そのことを理解できないのが、彼女と李燃の、徹底的な差だった。
深紅の布が風に踊り、その隙間から生温かい風が入ってくる。炎の壁が行く手を阻み、相手にも近づけない。熱風に押され、靴底がずれる。喉が圧迫される。
遠巻きに見ていた人々は、悲鳴を上げて逃げ出した。それさえも楽しむように、青年は焼かれる男の体を蹴り転がした。
「くくく…あはははっ」
上体を反らし、高らかに笑う彼は、魔性の本能をむき出しにしていた。
ラエスリールに向けた人懐っこい笑顔はそのままに、この街で、無邪気な殺戮を始めようとしている。
炎の舌が大地を這って行く。止めなければ、いくつもの命が奪われる。
この身はとうに浮城の破妖剣士ではなくなっているけれど、目の前で人が殺されるのを、黙って見過ごすわけには行かない。
李燃は、火達磨になりながら逃げようとする男たちの背中に、新たな火をぶつける。ラエスリールは必死で炎を掻き分けた。声のする方向へ、彼の姿が見える方向へ。
目の前で朱色の袖が揺れている。駆け寄り、その袖を掴み、振り向かせた。
「やめろと言っている!」
漆黒の、それは美しい瞳と、目が合った。
彼は、ラエスリールに炎が触れないように、右腕を高く上げていた。
「どうして、すか。生ごみは焼却しないと臭いでしょう」
そう言って、にっこり笑う。
「危ないすから下がっていてください、姫君」
急速に心が冷えてゆく。
それは小さな破片となって、ラエスリールの胸のいちばん底の、暗い部分に触れた。
───彼を責めて何になる?
矛盾だらけの己の思想に、もう一人の自分が、静かに問いかける。
───彼は、お前を護るために力を放った。彼を責めて何になる?
その声は、かつて封印された朱烙であり、あるいは複製された烙絲であり、半身たる緋稜姫でもあった。
この身は魔に属するものであっても、精神だけはあくまでも人間であろうとする彼女を、ことごとく否定してくれた者たちの声が、胸を突き刺す。
───お前とて、判っているだろうに。今まで幾つの命を奪ってきた?
───素直に認めればいい。本当は楽しくて楽しくて仕方がないのだろう、破壊が。殺戮が。
「違う!」
ラエスリールは首を横に振った。
仕方のないことだった、戦うより他に道はなかったのだ、と。
だが、それは言い訳に過ぎないことも、判っていた。中には、死ななくとも良い人たちもいたのだ。
そして、義母。大切な友人たち。ごくごく普通の、平凡な人生を送っていた彼らは、自分と関わったばかりに、不幸に突き落とされてしまった。母が死んでから、常に思っていたことが、再び、じわりと彼女を苛む。
───やはり、自分は災いを呼び込まずにはいられないのか。
苦い思いが、胃液のように喉を焼く。
魔性の暴走を、止めることが出来なかった。関係のない人たちを、また巻き込んでしまった。
───もう少し、行動に気をつけていれば。
闇主と口論などしなければよかったのだろうか。この街に来なければ良かったのだろうか。
いや、そもそも、あの時目を開けなければ──。
床に転がっていた父の骸。
見るな、と言った闇主。見てしまった自分。逃亡、追っ手、軌跡、心臓の鼓動。
そして今また、新たな決断を迫られている。
「李燃…っ!」
再び叫んだ瞬間、体がふわりと宙を舞った。
離れたところに尻餅をついたラエスリールは、青年の力によって弾き飛ばされた事実を知る。
風に乗って耳に届く笑い声。眩暈がした。
彼は、既に聞く耳持っていない。
人を傷つける悦びに溺れて、彼女を守るという、本来の目的を忘れ去ってしまっているのか。
───やばいことになったら、紅蓮姫を抜く前に、おれを呼べ。
護り手の声が脳裏をかすめる。
しかし、この相手は追っ手ではない。闇主の配下なのだ。
また、九具楽の時のような惨劇が繰り返されるのか。
嫌だ。彼に、かつての部下を殺させるのは、もう二度と嫌だ。
「…れんき」
今ならば。
李燃の作り出した炎が結界となり、彼女の輝きは外部へ漏れることはない。新たな追っ手を引き寄せてしまうことは、ない。
李燃の命と、彼を生かすことで奪われる命とを秤にかけて、ラエスリールは、より多い方を選び取った。
護り手は呼ばない。決着は、自分自身の力でつける。
「紅蓮姫!」
呼びかけに、破妖刀が応える。
いかなる炎よりも濃い深紅の刀身、それに宿る少女の精は、目の前の青年を見て予想通りの反応を示した。
───ひさびさの、お食事ね。
紅蓮姫の期待の声が響く。
彼女のように、魔性をものと割り切ることが出来たら、どんなにか楽だろう。溜め息をつき、構えを取る。
刀を一閃すると、炎の壁は左右に分かれ、進むべき道が開けた。
その向こうには、驚きに目を丸くしている李燃の姿があった。
「へえ、俺と戦う気でいるんすか、姫君」
ラエスリールの心中を読み取ったのか、青年は笑う。
いつの間にか彼の体からも、戦意が漲っている。その期待に満ちた表情を見てしまった以上、もはや疑いようがなかった。
李燃は彼女が紅蓮姫を抜くのを待っていたのだ。怒らせるために、敢えて自分の目の前で人を傷つけるような真似をしたのだ。
幼稚な挑発に乗った自分は、愚かだろうか。
いいや、ここで彼を止めなければ、この先また、夥しい量の血が流される。
どっちにしろ、いま、終わりにしなければならないことだった。
風が耳元ではためいた。快活な魔性の男は、これから始まる戦闘に、嬉々とした表情を隠しもしない。
「聞いてますよ、翡翠の君を倒したって噂は。でもそれは、あの方のお力添えがあったからでしょう」
それは、否定できない。否定する気もない。
「たった独りで、勝てますか。血塗られた妖貴、騒乱の影に李燃ありと言われた、この俺に」
どす黒い火球が地を這い、唸りをあげて迫ってくる。
火の玉がぶつかる寸前、紅蓮姫でそれを両断した。ごおっ、と音を立てて、炎は瞬く間に四散する。
「遅い!」
次の攻撃が来た。今度は頭上からだ。
「くっ…」
完全には避けきれない。ラエスリールは刀身を眼前に掲げ、咄嗟に顔を庇った。
彼女を焼くことが出来なかった火は、代わりに土を焼き、足元から紅い舌を伸ばしてくる。
腕で顔を覆ったまま、彼女は走った。
肌、唇、鼻、そんなものはどうでもいい。ただ、視界だけは確保したい。
───早く食べたい!
紅蓮姫が叫ぶ。
もう少しくらい待てないのだろうか、と思いつつ刀をかざし、ラエスリールははっと息を呑んだ。
李燃の心臓の位置が視えたからだ。
心臓は、額の上部にあった。頭部の動きを固定しておかなければ、その位置は狙いにくい。
確実に急所を差すには、相手の体を一定時間押さえつけておかなければならない。
それは判る…しかし。
どうしたことだろう、この輝きの鈍さは。何度も目を凝らしてみたが、間違いない。
「何、よそ見してんですか!」
怒ったような叫び声で、我に返った。すぐ間近にある李燃の大きな手が、紅蓮姫を払い落とそうと伸びてくる。
とっさに身を屈め、紅蓮姫を横に薙ぎ払った。苦し紛れの一振りが当たるはずもなく、彼は、巨体からは考えられないほどの敏捷さで高く跳躍する。
頭上を何かが通過した。背後に気配を感じたと思った瞬間、体を二つ折りにされるような激痛が襲った。
ラエスリールの体は、鞠のようにはずんで大地に叩きつけられた。砂利に擦られた頬は、大きく裂けて血が流れる。
頬だけではない、砥石にかけられたように全身が擦り切れていた。砂が喉に詰まり、激しく咳き込む。
「大丈夫っすか?」
心配そうな顔で、李燃が尋ねる。彼女の身を案じているのではなく、遊びを中断されてしまうことが不安なのだろう。
汚れた口元を拭い、ラエスリールは低く笑う。
「大丈夫ではないと言ったところで、やめるつもりなどなかろうに」
「ま、そりゃそうなんすけどね」
起き上がると、体にまとわりついた砂がぱらぱらと落ちていく。髪も、恐らく砂埃で真っ白になっているだろう。振り落とそうとして、ふとあることを思いついた。
「来い、李燃」
紅蓮姫を構え直した。
今の彼女は、瞳ではなく、体そのものから朱金の光を発している。
その光は、魔性の炎さえも凌駕するほどの輝きを持って、あらゆるものを眩く照らす。
「さすが…」
李燃の顔は、鬼ごっこを楽しむ子供のようだった。
「さすが、我が君の選んだお方だ!」
その足が再び大地を蹴り、巨体が迫った。唸りを上げる拳が自分めがけて襲い掛かってくるのを感じながら、彼女はぶん、と勢いよく頭を振る。
髪に絡まった砂利がほどけ、すぐ近くにあった李燃の顔を直撃した。
「んなっ…」
相手はかなり間抜けな声を上げた。とっさに目をつぶる、その一瞬の隙をラエスリールは見逃さなかった。
空いている右手で、額を鷲掴みにする。紅蓮姫を突き立てようとした途端、横腹に強烈な蹴りが入った。
内臓が、ぐにゃりと嫌な音を立てた。骨に保護されていない部分を選んで攻撃したのだ。
勢いで、体が後方に持っていかれる。ラエスリールは咄嗟に紅蓮姫を大地に突きたてた。間合いを詰めたのに、飛ばされてしまっては元も子もない。
凄まじい風圧が全身を襲う。肋骨が軋む音が耳に届く。
「ここまで、すね」
靴の底を軽やかに鳴らしながら、李燃が近づいてくる。
ラエスリールは痛みをこらえ、顔を上げた。すぐ側に、相手の額が…心臓の位置が見える。
迷いは一瞬だった。大地に刺した紅蓮姫を勢いよく引き抜く。
支えを失った反動で激しく転倒するラエスリールを、李燃は呆れ顔で見た。
「何をやって…」
彼は、その滑稽な様子に気をとられ、引き抜いた紅蓮姫がどこへ消えたのか、判断するのが遅れたのだ。
とすっ、と乾いた音が周囲に響いた。
かつて味わったことのない奇妙な感覚に、李燃は動きを止めた。
息を荒らげているラエスリールの手には、破妖刀はない。それはいつの間にか彼女の手を離れ、李燃の額に刺さっていたからだ。
深紅の刀身は、悦びに光り輝き、魔性の命を貪る。
李燃は、信じられないと言った表情で、自分の命が破妖刀に吸われていくさまを眺めていた。漆黒の瞳から、徐々に戦意が消えていき、萎れた花のように首を垂れる。
───おいしい、おいしいわ!
紅蓮姫は乳飲み子のように夢中で、その味に溺れた。
全てを吸い付くまで離れようとしない彼女を、だが、使い手は一喝した。
「やめろ!」
ラエスリールの叫びに、破妖刀はあからさまに不満な唸りを上げた。
───どうして?まだ食べ始めたばっかり。
「彼に、尋ねたいことがある。一旦引くんだ、紅蓮姫」
───つまんない…。
紅蓮姫は舌打ちしながらも、主人の意向に従った。
体液でぬめりを帯びた刀身を、魔性の額から引き抜く。李燃の身体は、その場に崩れ落ちた。
傷ついてはいても、その秀麗な顔立ちは崩れることは無かった。瞳に悔しそうな光を浮かべながら、彼はきつくラエスリールを見据える。
「なんで、止めを刺さないんすか」
弱弱しい声が、哀れを誘った。炎はいつの間にか消えている。結界を維持する力を保てなくなった所為だろう。
ラエスリールは紅蓮姫をしばらく眺め、やがて、刀の先端を自らの胸に刺した。相手が僅かに目を瞠った。構わず、そのまま内部へ沈ませる。彼女の全てを、自分の体内へ、収めてしまう。
「刺さない」
ぽつりと呟く。結界が消えた今、紅蓮姫の光輝を晒しておくことは、追っ手を引き寄せてしまう原因となる。
李燃の、化け物を視るような視線が、とても痛かった。しかしその視線はやがて、素直な驚嘆へと変わっていった。
「すごい、すね。破妖刀を魅了しただけでなく、自らの一部としてしまえるなんて」
力に憧れる魔性の精神は、彼女にも少しだけ理解できる。だからと言って、他者を傷つけていい理由にはならないが。
無言の非難に気づいたのか、彼は肩を竦める。
「あのですね、姫君。人間は、あなたが思っているほど弱くはないすよ。俺たちがいくら踏みつけたって、何度も何度もしぶとく立ち上がるんです」
「お前が、そう思っているだけだ。人は脆く、傷つきやすい。そして、命はたった一つきりなんだ」
頬に何かが落ちてきた。冷たい感触にラエスリールは顔を上げた。
灰色に曇った空から、ぽつり、ぽつりと、雨が降り始めたのだ。
人々の歓声が、どこからか聞こえた。優しい雨が周囲の木々に、乾いた大地に潤いを与え、全てを癒しの方向に導いていく。
二人は、少し離れたところに身を潜めた。
先ほど、李燃の攻撃を受けたごろつき風の男たちは、しばらくするとまた起き上がって、別の女を口説いていた。
子供たちは、焼けた家の修復の手伝いをしている。大人たちは協力し合って怪我人の手当てに走り回っている。
それらを眺めているラエスリールに、李燃が言った。
「ご覧なさい、姫君。人間はもう、自分たちの力だけで立ち直ろうとしてます。俺のしてることは、地震や洪水なんかの天災と、何ら変わらないものです」
「それは違う…」
「違わないすよ。ただ、被害を与えるのが、神か魔性かの違いだけでしょう。命が失われることには変わりない。人は神を恨んでも、殺すことまでは考えないのに、何故魔性だけが憎しみと、攻撃の対象になるんすか。答えてください、姫君」
雨の勢いが、一段と激しくなったような気がした。ラエスリールはその問いかけの答えを見出せずに、息を荒くしている青年から、辛そうに目を背けた。
「ひとつだけ聞かせてくれ。何故、その状態でわたしと戦った」
最初に紅蓮姫を構えたとき、李燃の命数が見えた。額に、紅い輝きが一つ、ぽつんとあっただけ。
彼女が躊躇したのは、それが理由だ。
「姫君、俺はもう寿命なんすよ」
何でも無いことのように告げる青年に、ラエスリールは息を呑んだ。
「それでは、お前」
「はい。あと2年もてばいい方すね、自分でわかります」
李燃は整った顔を寂しげに歪めて、そう言った。好戦的な性格で、昔から命数を惜しまずに、激しい闘いを繰り返してきたつけが、まわってきたのだと。
「…人の心臓を喰らって生き長らえることは、考えなかったのか?」
我ながら、馬鹿らしい質問をしていると思った。
「そうすね、姫君くらいの力に溢れた人の心臓なら、もらってもいいすけど…」
李燃は爽やかに顔を上げた。
「でも、そういうの苦手なんすよ。他人の命は壊すものであって、取り入れるもんじゃない。よそから取ったものを、自分の中に入れるなんて、気持ち悪くないすか?」
「そういう、ものか…」
肉や魚を食べて生きている彼女には、理解できない言葉だった。人は生き物を殺し、食わずには生きてゆけないが、上級魔性は違う。それなのに、彼らは楽しみのために、他者を滅ぼす。
正しいのは、意味のある殺しか、無意味なそれか。どちらにしても、奪われる側にとっては、同じことなのに。
「俺は、人の心臓は食いません。あるべきものはそのままの形で残す、それが俺の理念です」
耳元で風が唸った。次に彼にかける言葉は、一体、どれが相応しいだろう。
「随分と、派手にやってくれたもんだな」
唐突に、低い声が、その場に響いた。
馴染んだ気配に、ラエスリールは振り返る。
降りしきる雨に身を濡らすことも無く現れたのは、深紅の髪と瞳を持つ、彼女の護り手だった。
彼女が何か言うよりも先に、李燃が動いた。ぬかるんだ大地に、躊躇うことなく跪く。
「我が君……」
深く頭を垂れる配下の青年と、それを傲慢に見下ろす、主たる青年。
その様子を見ていると、闇主は、いや千禍は、本当に魔性の王なのだと、嫌でも実感せずにはいられない。過去がどうあれ、今は彼は自分の護り手なのだと言い聞かせてみても、時折、彼がひどく遠くに感じられる。
ラエスリールは、二人の語らいを邪魔したくはなかった。黙って、胸の痛みに耐えた。
李燃は、額の傷を隠しながら、頭を更に深く下げた。
「申し訳ないす。姫君を守護するお約束でしたのに、いつもの悪い癖が出まして」
闇主は、黙ってその言葉を聞いていた。
「命令に背いた報いは、いま、この場でお受けいたします。どうぞご存分に処罰を…」
「何を寝ぼけたことを言ってる?おれは、お前にそんなことを頼んだ覚えはないぞ」
李燃はもちろん、ラエスリールも目を見開いて彼を見つめた。
闇主はいつものように傲慢に、しかしどこか切なげな表情で、告げたのだ。
「お前は、たまたまこの街に来て、たまたまこいつと出会って、戦いたくなった。もちろんおれからは、何も聞かされていなかった。違うか」
しばらく、李燃は呆けていた。
だが、やがてその顔に笑みが上ってくる。それが間違いなく、主の思いやりだとわかったからだろう。神妙な顔に、かすかに笑みが戻った。
「いいえ、違わないす」
「そうだろう。ったく、勘違いもほどほどにしろ」
顔をほころばせる配下の前で、柘榴の妖主は、面倒くさそうに頷く。
李燃は額に手を当てて傷を癒し、ほんの少し困ったような、寂しげな笑顔を浮かべた。
「お変わりになられましたね、我が君。以前のあなたなら、言い訳する暇も無く俺の首を刎ねていたでしょうに」
配下の感想など、彼にとってはどうでも良いらしい。仏頂面のままで、ひらひらと手を振った。
「失せろ」
それは命令。
「自分の死に場所は、自分で探せ。おれやこいつの手を煩わせるな」
「はい」
頷いて、李燃は立ち上がった。
朱色の服を翻して、ラエスリールに向かって頭を垂れる。
「ご迷惑をおかけして、すみません、姫君。いずれ、質問の答えを教えていただく機会があれば、またその時に」
李燃の気配が去った後、闇主は怪訝そうに問いかけた。
「答えってなんだ?」
「あ……いや」
美しい顔が覗き込んでくる。ラエスリールは戸惑った。
確か、自分たちは、喧嘩をしていたはずだった。しかし、彼にとってはラエスリールの癇癪など、子供のそれと同程度と言うことか。
全く動じている様子が無く、それどころか、いつの間にかさりげなーく、腰の辺りに手が回っていたり……する。
「あ、あのな……あ、闇主」
怪我もしていない、腰の窪みの辺りを撫でられて、彼女は何とも言えない身の置き所のなさを味わった。
露骨に嫌がるのも悪い気がするし、かといってこのままされるがままになっていると、胸の鼓動が高まりすぎて、心臓が破裂してしまいそうだった。
戦闘の時も、鼓動が激しくなるのだが、それとは少々違う気がする。何なのだろう、この得体の知れない緊張は。
臆する心をどうにか押さえつけ、彼女は護り手を非難した。
「どうして、あんな物騒なやつを連れてきたんだ。おかげで、街中が大変なことになったんだぞ!」
「ああ」
闇主は、全く悪びれずに、頷く。
「昔からああなんだよ、あいつは。しょうもないことばかりしでかすんで、折檻として虚空に閉じ込めておいたんだが……寿命も迫ってることだし、最後に、おれの大事な女に、一目逢ってみたいと言うもんだからな」
「そうか……」
ちくり、と胸に痛みが生じる。
李燃の寂しげな後ろ姿が、印象に残っていた。
彼の考えには異論があるが、自分の信念に殉じようとしているその姿には、哀れを抱かずにはいられなかった。
───いつか、彼に答えを返せる日が来るだろうか。
「それで、李燃はその人に逢えたのか?」
「は?」
「いや、だから……」
護り手に見つめられて、ラエスリールは口ごもった。
「その、お前が大事にしている女性とやらに……逢えたのか?」
「………」
この言葉に。
闇主が激しい頭痛と憤りを覚えたことは、言うまでもない。    
     


──おわり──



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鬱金の暁闇1のp84を読んで、「街中大騒ぎになった」闇主の配下ってどんなんだよ! と想像して書いてみました。
少なくとも九具楽みたいな地味な性格ではなさそうだなと。女の子にしようかとも思ったけど内梨や茅菜と被りそうだったので男性にしました。


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