書庫 雛鳥の翼(闇→ラス→セスラン→サティン)


『消えゆく果実』とつながってます



───群れの中で一羽だけ、毛色の違う小鳥がいた。

埃を被った書物の並ぶ棚の前で、セスランは書物に没頭していた。一人でじっくりと思索に耽りたい時、彼は大抵、ここに来る。
その昔、浮城に読書の好きな少年がいた。彼はセスランによく懐き、故郷から持ち出してきたのだという一冊の本を貸してくれた。
一見、何の変哲もない童話だった。子供が読むものだと笑っていた彼は、頁を開いた瞬間に物語に魅せられた。
浮城に長く籍を置いている彼は、それだけ多くの者に出会い、また多くの同僚の死を目の当たりにしてきた。それでも、こんな年端も行かぬ子供からも得るものはあるのだと、新鮮な感動を覚えた。
結局、少年は捕縛師の資格を取ることは出来ず、浮城を飛び出した。それきり、もう何年もの間行方知れずだ。セスランの手元に、一冊の本だけを残して。
読書家で、半分は魔性の血を引き、内気ではあったが向学心を持っていた少年。彼が逃げ出したと聞いた時は、正直に言って落胆した。見込み違いだった、とさえ思った。乗り越えられる強さを持っているはずだと、勝手に過大評価をしていた。
半妖だからといって、誰もに特別な能力が与えられるとは限らない。父母から良いところだけを受け継いだセスランは、力は発揮できて当然のものと思い込み、その傲慢さで知らぬうちに少年の心を傷つけ、闇に追いやってしまった。
あの少年は自分を恨んでいる……否、憎んでいる。返せなかった本を読み返すたびに、セスランはそれを思い知らされる。
辛い過ちは、繰り返すべきではない。彼はもう、二度と後悔はしたくなかった。だから、同じように傷つきもがいている子供がいたら、今度こそ真正面から手を差し伸べようと───。

「セスラン!」
書庫の扉が開け放たれ、彼の闇は壊される。光の差してくる方角にいたのは、砂色の髪を一つに束ねた、闊達な印象の女性だ。
逆光で見えにくくなっている女性の姿に、セスランは額の上に手をかざし、目を細めた。一瞬、母が迎えに来たのかと思ったのだ。
「見つけた。こんなところにいらっしゃったんですか」
「サティン……」
どうされました、と尋ねるより先に、彼女は薄暗い書庫の中に足を踏み入れようとした。
山と積まれた辞典の角に、華奢な足がぶつかりそうになる。セスランは腕を掴んでそれを阻止した。
「危ないですから。私が出ましょう」
にっこりと極上の笑みを浮かべるブロンズの青年に、しかしサティンは顔色ひとつ変えず「ええ」と答えた。
かれこれ二時間半ほどは一人でいただろうか。肩や膝に積もった埃が、きらきらと輝いて床に零れた。ついでだから、掃除をしてから退室しようと思ったのだが、サティンが来ては後回しにするしかない。
「相変わらず、紳士ですこと。そう誰にでも優しいと、世の女性が誤解するんじゃないかしら」
「誰にでも、というわけではありませんがね」
何の気なしに口にした言葉に、砂色の髪の女性は思いきり嫌そうな顔をする。
「セスラン……冗談でもそういう発言はやめてくださらない?ただでさえカガーシャにからかわれて、うんざりしているんですから。一度あなたの口からはっきり言って下さいな、わたしたちはそんな関係じゃありませんって」
セスランは聞こえない振りをした。あながち冗談でもなかったのだが、今の彼女にそれを伝えるのは酷というものだろう。一人で抱え込む想いは、少ないに越した事はない。

「それで?私に何か、用事があったのではありませんか?」   
本当は、尋ねるまでもない。

捕縛師として多忙なこの女性が、人に言伝する事もなく自らセスランを探しに来るなど、理由は一つしかない。
「ラスの事に決まってるでしょう?」
果たして、サティンは双眸を不安に翳らせながら、妹のように思っている少女の名を口にした。
ラス───ラエスリールは元々、感情があまり表に出ない少女である。具合が悪くとも極限まで黙っていて突然倒れたりするものだから、周囲としては放っておけないというか、危なっかしいというか……世話好きなサティンが振り回されるのも無理はない。
「判ってるくせに、人が悪いんだから……様子がおかしくなったのは、そう、あなたと一緒に浮城に戻ってきてからだわ。何かご存じない?」
セレマの街にて、祖母であるスフライーンに「とても楽しいもてなし」を受けた事は記憶に新しい。
あの後、セスランたちは無事に浮城に帰還し、休暇を使い果たしていたラエスリールは、暫くは雑用に追われ忙しい日々を送っているはずだった。
はずだった、というのは、彼はあれ以来ラエスリールとは顔を合わせていないからだ。
「様子がおかしい、とは……?」
絶大な魔力を持つ護り手の青年が、ラエスリールの不調に気づかないはずがない。そう思ったから、セスランはお役御免とばかりに彼女から一歩引いたのだ。
本当は、こんな日が来る事をずっと待ち望んでいた。初めて会った時から、親鳥の翼に隠れる雛のように縋り付いて来る彼女を、娘のように愛しくは思うけれど、恋人のようには決して愛せない。
だから、数年ぶりに青年と再会した時には、肩の荷が下りたような気がした。あれと一緒になる事でラエスリールが幸せになれるものなのか、甚だ疑問ではあったが、少なくともこれを機に少女が巣立ってくれるものと安心していたのだ。
その事実を、サティンはまるで責めるように口にした。
「気づかなかったんですか?最近、稽古に顔を出さないんです。以前はあれほど不満がっていた狩りの当番も、他の人と交代してまで買って出る始末で……紅蓮姫に選ばれてしまったこと、本人はとうに納得したと思っていたのに」
初仕事が成功を収めて以来、穀潰し、と自らを貶めるような言葉を紡ぐことはなくなったラエスリールだが、内面の葛藤は未だ続いている。
何しろ、妖貴を倒した人間は浮城始まって以来なのだ。噂を耳聡く聞きつけた各国からの依頼が後を絶たず、無論その中には例によって脅しをかけてくる国もあり、マンスラムも応対に四苦八苦している。
紅蓮姫も、ラエスリールの身体も、一振り及び一つしかない。通常の人間であれば、周囲が気遣ってやらねば磨耗するのは時間の問題だろう。そう……普通の人間であれば。
セスランは目を伏せた。

己が身に流れる半分の血が、告げている。魔に属する、世に稀なる朱金の輝きを護れ、と。
しかしもう半分の人の血は、これ以上の深入りは危険だと告げている。か細い人間の身で、彼女のために一体何が出来るというのか?
「ラスに直接尋ねたりはなさらないんですか?」
女性同士の方が、話しやすい事もあるでしょうに。
そう告げると、サティンの語気が荒くなった。
「したわよ!したけどっ……いくらわたしでも、本人が話したがらない領域にまで、踏み込んでいく図々しさはないわ」
言いながらも、サティンは自らの至らなさを噛み締めるように、唇を噛んだ。あの娘にとって、一番の理解者は自分───そのように自負しているに違いない女性の憤慨っぷりに、セスランは眼を眇める。

この女性は、セスランの言うところの『雛』に夢中なのだ。己の身も顧みずに少女を思っているその心意気に、口を差し挟むのは無粋というもの。
「せっかく強そうな護り手がついてくれたっていうのに……これじゃ意味がないわ。少しは成長したと思ったのにね……」
ふう、と溜め息をつく。ガンディアでの初仕事以降、ラエスリールにくっついているあの深紅の護り手の正体に、サティンは気づいていない。
尤も彼女の事だから、あの男の正体を知ったとしても何ら動じることなく接するであろうことが、想像できてしまうから恐ろしい。
「悔しいけど、わたしじゃ駄目なんです。あの子はセスランを慕ってるんだから」


『さすがに血筋だよな』
護り手が声を上げて笑い出した時、ラエスリールの顔は、ただ呆然としていた。
その時は、特に何も思わなかった。隠すほどの事でもないし、あの性悪な祖母と血が繋がっていることを、驚くのも無理はない。
そして浮城に着いた時、彼女の護り手は既に姿を消しており、城長に報告に行くセスランの後ろを、彼女はとぼとぼと着いてきた。
『ラス、どうしました?』
声をかけながら振り返ると、子供の頃と変わらぬ光景が、そこにあった。恐怖に身を竦ませ、目の前の翼に、ただ縋ろうとしている雛───。
己を卑下する者特有の、沈んだ表情で、ラエスリールは言ったのだ。
『血は……抗えぬものなのでしょうか』


白砂原にも、若干の緑は存在する。
旅人にとっては果てなき砂漠でも、浮城で狩りをする者には勝手の知れた道筋というものがあり、その要領さえ掴めば砂嵐に巻き込まれることもない。
午前の分の収穫を済ませ、木陰で携帯食料のリバスを頬張っているラエスリールの頭上に、セスランの長い影が落ちた。
「隣に座ってもよろしいですか」
ぼんやりとした表情で見上げた彼女は、見下ろしてくる人物に気づいて小さく答える。
「セスランさま………」
無造作に編んだ漆黒の髪。注意深く観察していれば、僅かに動揺をしていることが判るその瞳は、琥珀色。
気味が悪いと言う者もいるが、それはあの護り手の封印の効力のせいだと、セスランは知っている。
それほどに強い力をかけなければ、制御できずに暴走していたはずの魅了眼。一歩間違えば世界を崩壊しかねない、あの惨状に立ち会った彼としては、再び彼女の力が解かれる日が来る事を考えただけで恐ろしかった。
魔性の気まぐれによって、ラエスリールの力は抑えられている。そしてその封印を施した護り手の姿は、今はここにない。まるで気配すらも感じなかった。
「あまり、サティンを心配させるものではありませんよ」
ざらついた砂の上に腰を下ろしながら、セスランはそう切り出した。大切な人の名を出され、ラエスリールの肩がびくりと撥ねる。
思われることに慣れていない彼女は、何かと世話を焼いてくれるサティンに対しても、何を以って返したらよいのか判らないでいるようだった。
サティンの言う通り、ラエスリールには徹底的に自信がない。育った環境によるものだとしても、それは破妖剣士として生きていく以上、乗り越えなければならない壁だ。
「何をそう、怯える必要があるのです?あなたには力がある。紅蓮姫に選ばれるだけのものを持っているんです。もっと堂々と……」
言葉が上滑りしていくもどかしさに、内心舌打ちしそうになる。相手が本当に望んでいる言葉は、こんなものではない。
この娘は、誰かに必要とされたいと強く願いながらも、縋りつく手を悉く振り払われてきたのだ。母親、父親、弟、そして街の人々。捨てられる日が来ることに怯えて、他人の好意に素直に甘えられなくなってしまったラエスリールを救うのは、こんな陳腐な言葉ではない。
お前だけだと──他の誰でもない、お前だけが欲しいのだと。だから余所見をせず、おれだけを見ていればいい、高みに連れて行ってやるから、と。
そう言い切り、彼女の戸惑いも遠慮もお構いなしに、有無を言わせぬ行動力で振り回す、そんな男でなければ。ラエスリールを真実の意味で解放できるのは、あの男を置いて他にはいない。
「私は、怖いのです」
呟くラエスリールの目線は、少し離れたところで止まっていた。
鳥たちが、数少ないオアシスで水浴びに興じていた。その群れの中に、彼女は食べかけのリバスを放ってやる。
セスランも何となくそちらを見た。鳥の中にも、要領の良い者と悪い者がいる。機敏な鳥が率先して餌に食いつき、動きの遅い鳥は足で顔に水をかけられた。
「私の中の、魔性の血が怖いのです。父の血に流されて、いつか大切に思っている人を裏切るのではないかと……」
マンスラムやサティンたちが信じてくれるのは、ラエスリールがあくまでも人間だから。そうでないと判った時、人はたやすく掌を返す。
セスランも何度か似たような目に遭って来た。しかし、幼い頃辛く当たってきた連中を責める気はない。人と魔性は、結局は相容れぬ同士なのだ。
「では、魔性でも構わない、と言ってくれる相手が現れたらどうします?あなたの中の魔性ごと、受け止めてくれる人が現れたら」
「いるはずがない!」
ラエスリールは声を荒らげた。無数の鳥たちの羽音が響いた。飛来する影が、セスランたちの頭上を横切っていく。
波紋を残すオアシスに、ぽつんと一羽だけが残っていた。毛色が違う。別の群れからはぐれた鳥かも知れない。
「私の血は強すぎる。引きずられて、その人のことも傷つけてしまうかも知れない。そんな運命に、巻き込むわけには行かない……!」
抱えた膝に顔を押し付けて、ラエスリールは呻いた。
彼女は記憶を封印しているが、何かの拍子に、思い出すだろうか。世界を破滅に巻き込んで、自らの命を終えようとしていたこと。柘榴の妖主が止めなければ、あのまま一つの命は終焉を迎えていた。
退屈だったから、と彼は言った。少女の、もとい人類の悲劇さえも娯楽扱いするその態度に憤りを覚えたのは事実だが、元よりこの少女の身柄は、セスランの身には余る───余り過ぎるほどに。引き受けてくれる相手が現れたのは、幸運だったと言うべきなのだろう。
「こうして生きていられるのは、浮城に来て……義母上と引き合わせて下さったからです。セスランさまがいらっしゃらなかったら、私はとうに死を選んでいました」
妖主との出会いを失念している少女は、あの場にいたのはセスランだけだと思い込んでいる。そして、無意識に父親の代わりを彼に求めた。
『いらない!こんな私なんていらない!』
少女を抱き上げ、浮城へと連れて行ったのは、柘榴の妖主が恐ろしかったからではない。
過去に、自分と同じ半妖の子供に、優しい言葉をかけてやらなかった事。その成長を見守ってやれなかった事。後悔と言う名の鎖が彼を縛っていた。彼女を、あの少年と同じ目に遭わせたくはなかった。
野に放つには余りにも危険な力を秘めた少女を、マンスラムは快く養女として受け入れた。無論、葛藤がなかったわけではないだろうし、愛情だけでなく、打算もあったはずだ。それは人が人である以上、仕方のないことだ。
ラエスリールの背負うものはますます大きくなる。魔性の最高の血と人間の最高の血、妖主の加護に加えて、今度は最強の破妖刀までがついた。華奢な身体に、過酷な運命を背負う少女に、純粋に哀れみを抱くのは、罪だろうか。
「セスラン様?……どうかされたのですか」
顔を上げ、潤んだ瞳で見つめる表情は、尊敬以外の何かで占められており、セスランは引きずられそうになる己を叱咤しながら、どうにか視線を逸らした。
愛しい……娘のように。そして、恐ろしい……魔性として。深入りは危険だと知っていても、守りたいと思わずにはいられない何かを少女は持っている。
本気で求められたら、拒む術はない。少女を傷つける事は出来なかった。救いを求めるように視線を泳がせた彼の目に、オアシスから離れて近づいてくる鳥が映る。
ほっと息をつきながら、セスランは懐に手を入れた。ラエスリールはその手の動きを見ていたが、やがて不躾である事に気づいたのか、慌てたように横を向いた。
懐から、携帯食を取り出す。少しかじってから、残りを鳥の目の前に転がした。
警戒しているのか、鳥はじっとその場から動かない。おこぼれの幾つかを風が攫っていっても、追いかけて啄ばむ様子すらなかった。
「食べないですね」
不満そうに零したのはラエスリールである。せっかくセスランさまが、と呟くその口調がひどく幼く思えて、彼は少し笑った。
自信のない彼女に本当に好きな相手が出来て、本気で嫉妬を爆発させたら、凄い事になりそうだと思った。あの男のことだから、そんな時が来たらむしろ大喜びするかも知れないが。
「餌が欲しいと見なしたのは、こちらの勝手ですから。相手にしてみれば、大きなお世話と言うこともあるでしょう」
だから腹を立てるのは筋違いです、とセスランは言った。優越ゆえの行動に、何かしらの感謝を求めるのは間違っている。
「……ラス、あなたがもし我々に負い目を感じているのだとしたら、それは間違いですよ。私もサティンも、見返りなど望んではいません」
「でも……!」
ラエスリールは何か言い募ろうとして、身を乗り出した。
その細い肩に優しく触れようとして、セスランはふと指先に抵抗を感じた。薄い膜のようなものが指を阻み、それ以上先に進ませない。
知らず、笑みがこぼれる。そこに『いる』のだという安心感と、やはり油断ならないという呆れが、彼の心を複雑に彩った。
「私ではありません」
静かにかぶりを振り、セスランは答えた。
彼女を闇から引きずり出すのも、それ以上の修羅の道に誘うのも───決して自分ではない。



「年の功ゆえの自制心ってやつか?」
からかうような声が、空中から降ってくる。
転移門へ向かって歩き出しながら、セスランは肩を竦めた。声の主の正体は判っていた。
ラエスリールの傍を離れていたのは、大方、焦らしのつもりなのだろう。彼女が求めるようになるまで、仕事以外では姿を見せない気だ。
しかし、そのうち彼の方が耐えられなくなるであろう事は、想像がついた。彼自身自覚はないだろうが、ラエスリールに惹かれているのは人間の男だけではない。
「おれの封印も、そろそろ効果が消えかかってる。流されてもおかしくないだろうに、よく耐えたもんだな」
面白がるような声の響きに、内心面白くないとは思いつつも、それを素直に表に出すほど若くはないセスランであった。
ラエスリールの魅了眼は確かに恐ろしいものがあるが、万能ではない。思う相手が別にいる人間にまで、等しく効果を発揮するとは限らない。
そう彼が告げると、闇主と呼ばれる彼女の護り手は、意外そうに目を瞠った。闇よりも深い深紅の髪と瞳、存在するだけで空気を塗り替える魔性の王は、このように妙に子供じみた顔を見せることがたまにある。
「ほほう……そういうことか。ラスほどじゃないが、ありゃ見た感じ相当手強いぞ?」
「承知の上ですよ。それより、行ってあげなくてよろしいのですか」
背後を振り返りもせずに、セスランは言う。ラエスリールはまだ狩りを続けている。日没まで、恐らくそのまま。迷いの多い己の心を持て余しながら。
「おれは、あれの父親になる気はないからな。そういうのはお前に任せた」

任せたと言いながら、彼は明らかにセスランを試していた。目に見えぬあの膜を破って彼女に触れたら、この身にどんな禍が降りかかっていたか、知れたものではない。
転移門に触れ開門を求める彼の耳に、笑いが届いた。この世で最高の力を持つ男の、くつくつという独特の忍び笑いが。
「まあ、その自制に敬意を表して、一つだけ教えてやるよ。───例の子供、この近くに潜んでいるらしい」
何気ないその一言に、心臓が凍りついた。
話しただろうか。いや、そんな覚えはない。妖主なれば、人の過去を探るのも容易いことだと判ってはいても、いざ事実として目の前に突きつけられると、決して心臓によろしいものではなかった。
「迎えに行ってやれ。罪と思うなら、お前の手で引導を渡してやるのもいいんじゃないか?」
完全に人事として割り切っている、心底楽しそうな笑い声と共に、男の姿は再び宙に消えた。


転移が済むと、セスランは微かな頭痛を覚え、額当てに手で触れた。
彼の話が本当ならば、近隣の街をもう一度洗い直さなければならない。めぼしい国境の街は探し尽くしたと思っていたが、よくよく考えて見れば、少年が連れ去った護り手は結界術に秀でていた。
追っ手として向かった浮城の者たちが、目くらましに騙されていなかったとは言い切れない。直に出向けるほどセスランも暇ではなく、また捜索だけに時間を割いてはいられない為、必然的に何年もの時が経過してしまった。
柘榴の妖主は確かに恐ろしい、しかしラエスリールを救ったのはそれだけではない。あの少女を救う事で、自分こそが救われたいと思っていたのだ。
「長年生きているからと言って、器用に生きられるとは限らない……ですか」
あの本の最後は、そんな言葉で締めくくられていた。今の自分に最も相応しい言葉だ。
ラエスリールには、幸せになって欲しい。そのためには、セスランもまずしがらみから逃れる必要がある。
自分のこともままならないのに他人を労る、そんな彼の存在を、あの少女が望むとは思えなかったから。
「あっ、セスラン!ラスの様子はどうだった?」

不安そうに、呼び止める声がある。彼は軽く片手を上げて、砂色の髪の女性に向かって歩き出した。


──おわり──


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