書庫 黒と砂と銅(サティン&鎖縛←セスラン&衣於留)


※鬱金6巻頃のお話





いつものように『お断り物件』を片付けた後、サティン達と合流したのは昼過ぎのことだった。
護り手の力を借りれば、転移門を使わずとも、移動にさほど時間はかからない。監視の目を掻い潜っての、久々の休息だった。
程なくして、黒髪の青年を伴って現れた彼女は、セスランが指し示す先を見て瞳を輝かせた。
「こんなところに、湧き水……うわあ」
柔らかな土は、近づいてくる彼女の足跡を残して僅かに沈む。緑に覆われた地表は脆く崩れやすく、それゆえあまり人の立ち入らぬ場所だった。
転ぶ前に、と紳士的に差し伸べた手を、サティンはやんわりと拒否した。目の前にいるセスランを通り越して、その背後を流れる流水しか見えていないのが、瞳の輝きでわかる。
「がっつくと、転ぶぞ」
仏頂面をする護り手の青年の言葉など、耳に入っていないようだった。先日降った雨のせいでぬかるむ台地に足を取られながらも、彼女は一刻も早く水にありつくために満面の笑顔でいる。
普段と変わらぬ様子のサティンに安堵しつつも、セスランはどう切り出すべきか迷っていた。
食道楽ならぬ水道楽の彼女のために、この場所を探したのは、機嫌の良い時を見計らって重要な話を持ちかけるためだった。
「ん、んー」
滾々と湧き出る流水をサティンは手のひらで掬い、こくこくと音を立てて喉の奥に流し込む。
「うん、美味しい。やっぱり浮城のお水とは全然違う」
浮城を擁する白砂原には年に一度の雨期がある。が、貯水槽の管理が行き届いていないため、住人が普段口にする飲料水は酷く不味い。念入りに煮沸しても、どうしても独特の臭みが残る。
実家が薬草栽培を営んでいるせいか、生まれつき味覚と嗅覚の発達したこの美女には、特にそれが気になるらしい。料理当番の際に、ここの水では自慢の腕が揮えないと、よく同僚に愚痴っているのをセスランは聞いていた。
「気に入りましたか?」
さりげなさを装い、隣に座る。背中に受ける護り手の青年の視線が妙に気になった。
両手で作った器から唇を離し、サティンはにっこりと微笑んだ。
「当然よ。すぐ来てくれって言うから、また何か厄介事でも持ち込まれるかと思ってたけど……こういうことなら、いつでも大歓迎だわ」
彼女の目の下には隈があり、疲労の影は濃い。尤も、敢えてそのように残している可能性もある──煩わしい追及を逃れるために。サティンの性格ならそのくらいはしそうだ。
そこまで考えて、セスランは苦笑する。昔の自分なら考えられないことだった……ここまで一人の女性を案じ、その一挙手一投足に振り回されることなど。
自らも、水を片手で掬って口に含む。彼女が飲み零した水も、含まれているかも知れなかった。
「だいぶ、お疲れのようですね。ここいらで、少し休んだらいかがですか?浮城に戻っても上層部の監視の目がありますし、気が休まる暇もないでしょう」
さりげない提案に、彼女は首を傾げつつも、既に二杯目の水を口に含んでいた。白い喉が上下し、甘露を飲み干した後、ふう、と息をついてセスランを見る。
「休むって、どこで?ここに天幕でも張って一泊するつもりなのかしら?」
悪戯っぽい口調で囁き、「そういう下心があるならお断りしますけど」とまた笑う。
「心配しなくても、野営に適する場所ではありませんよ。そうではなくて、ですね……私が申し上げているのは」
冗談ではぐらかされそうになったため、急いで言葉を重ねる。
「そろそろ、潮時ではないか、と」
サティンの眉間に、今度ははっきりと皺が寄った。
「……何を言っているのかわからないわね」
わからないと言いながらも、その表情は明らかに彼の言わんとすることを理解していた。
全てを口にしなくても、相手のことがある程度理解できるほどには、二人の付き合いは長い。その関係を自ら終わりにするような発言を、セスランとて本来なら口にしたくはなかった。
サティンは知らないのだ。彼女がいつの間にか、かつての仲間たちから距離を置いて、一人で行動することが多くなったのを見るにつけ、セスランがどれほど胸を痛めているか、など。
リーヴシェランには国と言う後ろ盾がある。しかし、彼女は捕縛能力しか持たぬ一般の女性だ。いつまでも浮城を裏切るような真似をさせていいものだろうか──近頃、強くそう思うようになった。
『あのお嬢さんは素敵ね』
押しかけ護り手状態の女性の言葉に、セスランはいつもの笑みで返した、はずだった。
『……そうですか?妖貴であるあなたにそう評価されるとは、サティンも光栄でしょう』
返って来たのは、くすくすという忍び笑いだった。
『あら。私は、あのお嬢さん、と言っただけよ?別に特定の誰かの名前なんて出していないのに』
相手に嵌められたことをセスランは悟った。確かに、仕事の疲労もあって若干頭はぼんやりしていたが、この程度の引っかけに躓くとは……年齢だろうか?
『衣於留』
恨めしい声を出すが、彼よりもやや経験値を積んでいる女性には通用しなかった。息子を見つめる母親のような眼差しで、セスランを見下ろす。
『余計な御世話かも知れないけど……生きているうちに、相手に伝えるべきことは伝えた方がいいわ。大事な相手ならなおさら……でないと、多分一生後悔する』
本格的に後悔し始めたのは、いつからだったろう。
ラエスリールのためによかれと思ってしたことが、彼女の人生を狂わせることになったのだとしたら──否。
それでも構わないと、あの時は思っていたのだ。
「ですから、ラスのことはこれから先、私ひとりで充分ですから……」
「ふざけないで!」
サティンの凛とした声が、森林に響き渡った。
「私をこちら側に引き込んだのはあなたでしょう?忘れたとは言わせないわよ、あの夏──」
まさにサティンの言う通りで、セスランは何も言い返せなかった。
あれは、彼らにとって生涯忘れ得ぬ夏だった。そして恐らく、ラエスリールにとっても。
当時のサティンは、仕事に慣れ始めたばかりの新人で、魔性に関する知識もさほどなく、取り込みやすそうな少女──という印象しかなかった。
世話好きで、お人好しで、人見知りしない。癖のあるセスランの誘いにも、悩みつつも承諾してくれた。
あの頃のサティンは、彼にとって、良き後輩でしかなかったのだ。ラエスリールにとって防壁となれば、あの雛鳥が変わるきっかけとなってくれれば。彼は、本当にそのことしか考えていなかった。
しかし、今は……。
「それに関しては、謝りたいと思っています」
本心を告げると、サティンはますます眦をつり上げた。
わかっている。彼女は、ラエスリールと出会ったことを、そうして起こった諸々のことを、後悔するような女性ではない。セスランもそれは同じだった。
「わからないわ。どうして突然、そんなことを言い出すの?今まで散々、こちらの都合など考えずに振り回してくれたくせに」
勝手なことを言わないで──そう告げる彼女の瞳には、怒り以外に、セスランに対する気遣いが見え隠れしていた。
どうしたのかしら。このひとらしくない。まさか、誰かに、何か吹き込まれた?だとしたら、私は何をすべきか。
そんな想いが、双眸に目まぐるしく現れては消えている。
「突然では、ありません。以前から思っていたことでした……あなたは、私たちとは違う世界の住人だ、と」
その言葉がどれほどサティンを傷つけるか、承知の上で彼は口にした。
魔性の血を引くラエスリールや自分に、これ以上関わらせるのは、彼女にとって良くないことだと──今更と言われようが彼は自覚し始めていた。
カガーシャの件が尾を引いているのかも知れない。サティンを『人間側』に置いておくためにも、人間の友人を手元に確保しておきたかったのだが、あえなく振られてしまった。
それほどに、自分たちのしていることは罪だというのか──サティンと違い、彼にはいまひとつ自覚がない。浮城の人間に対する情が、それほどに薄いのだった。自分の中に流れる、残酷な魔性の血がそうさせるのだろう。ならば自分という存在さえも、彼女のそばに置いてはおけない。
「何よそれ。いまさら、ラスをひとり占めしようってわけ?私を遠ざけて、それであの子が手に入るとでも?」
サティンの解釈は大きく的を外している。そして、それは彼にとって幸いだった。そのように勘違いしてくれているのなら、そのままで構わない、むしろその方が都合が良い。
セスランにはもとより何もなかった。父と母が残してくれた僅かな思い出以外は。
しかし、サティンは──違う。彼女は多くのものを持っており、失ってはいけないものが多すぎる。
「言っておきますけどね、私はラスのことが本当に大好きなの。あなたに頼まれたから、じゃ決してないわ。誰が今更、手を引いたりするもんですか」
胸を叩き、凛と告げる彼女は、出会った頃より数段逞しく成長した。眩しく思えるのは、それだけ自分が年をとったということなのだろう。
「サティン、ですが……」
他にかけるべき言葉を、彼は見つけられない。
あなたの将来が心配なのです、と、そう告げたところで彼女は笑うだけだろう。知っているから、彼も笑顔に包んだ辛辣な言葉しかけられない。
「い、や、よ。この話はもう終わり。仕事に戻るわ」
不愉快を隠そうともせずに立ち上がった彼女は、それきりセスランを見向きもせずに、元来た方向へ歩き出した。
予め姿を消しておくように頼んだ衣於留はこの場におらず、彼女の護り手とセスランだけが、気まずい空気のまま残された。
俯いて水面を見つめると、自分の情けない顔が映っている。
やはり、怒らせてしまった。
無理もない。自分がもし、誰かに同じことを言われたとしても、やはり聞く耳など持たず、純粋な怒りしか返せないだろう──彼らにとってラエスリールとはそういう存在だ。
では、どんな返事が返ってくることを、自分は期待していたのだろう。
ただ、許されたかっただけなのだろうか?サティンは、ラエスリールと出会ったことを、後悔などしていないと言った。
「……馬鹿ですね、私は」
本当は、自分こそが、そう言って欲しかったのだ。そのために、彼女の心を試すような真似をした。
くしゃり、とブロンズの髪をかき上げると、セスランは大きく息をつく。
「いい年をして、何を期待していたのやら……」
「存外、夢見がちなんだな」
セスランの一人言を、魔性の男はこともなげに聞き拾った。
「おまけに、底が浅い。あの女の視界からラエスリールを隠せば、自分を見てくれるとでも思ったか?」
のろのろと顔を上げると、近くの木の幹に背を預けている、サティンの護り手の姿が変わらずそこにあった。
サティンとのやりとりに決して口を挟まず、ただ見つめていただけの青年──外見のみならず、粗暴な物言いまでもが柘榴の妖主に似ているが、抱える闇は種が異なる。心の弱さゆえに、気が遠くなるほどの長い間、苦渋を舐めさせられて来た者のそれ、だった。
「私は」
遠ざかるサティンの後ろ姿を見つめながら、セスランは心情の一部を吐露する。
「彼女には、日の当たる道を歩いて行って欲しいのです」
その道に、半妖や魔性の存在など不要だと、彼は思っていた。目の前のこの青年も例外ではない。
「……ふうん」
どうでもいい、と言うように目を眇めた鎖縛は、同じく彼女の背中を眺めた。
抱える葛藤は人と似ていても、その身も魂も、所詮は上級魔性のもの。しなやかな肢体を包む黒衣が、地に影を落とすことはない。
「あれがお前の眼にはどう映っているのか知らんが……少なくともおれには、単なる世話好きの馬鹿には見えんがな」
褒めているのか、貶しているのか──わかったように語る口ぶりに、セスランの胸中はざわついた。
この青年が柘榴の妖主の命を受けて、サティンの護り手となり、それなりに心を砕いているのは知っている。それでも、巷の主と護り手に見られるような信頼関係が築けているようには思えなかった。
「どういうことです?」
知らず、感情的な口調になる。相手はそれに気づかないようだった。
「ただの人間のくせに、あいつの抱える闇には、おれたちと似たようなものを感じる……底が深いぞ。油断していたら、おれまで呑みこまれる。合わせた瞬間に、それが伝わって来た」
恐ろしいことをさらりと語りつつも、その横顔に不快はない。口元には、微かな笑みがあった。
セスランにはわけがわからない。鎖縛の言葉の意味も、その笑みの意味するところも。
「合わせた、とは……?」
不審もあらわに尋ねると、鎖縛は一瞬きょとんとした表情になり……それから、妙に居心地の悪そうな顔をした。
「……あいつから聞いてないのか?その」
「はい?」
彼の歯切れの悪い物言いの意味が掴めず、セスランは首を傾げる。
ラエスリール目当てにサティンを拉致したこの青年に、彼女は護り手を殺された──そして、何の因果か護り手となって彼女を守る義務を課せられた。セスランが聞いているのはそこまでだ。
魔性が美女を攫う理由を考えぬほど浮城の人間は能天気ではないが、しかし案じていたようなことが実際に起こったのだとしたら、サティンの心身に何かしらの変化が生じているはずだった。
ラエスリールと共に帰還した彼女は、深手を負ってはいたものの、以前と何ら変わらないように見えた。だから、その点に関してはセスランは胸を撫で下ろしていたのだ。
相手がたまたま、サティンの外見もしくは魂が好みではなかったのだと──本人が聞いたら額に青筋を立てそうではあるが──あくまでもラエスリールのための人質としての価値しか見出していなかったのだと、そう解釈していたのだ。
だが、そうではなかったとしたら……?
「おい」
セスランの射るような視線に気づいたのだろう。鎖縛は、心底嫌そうに顔を顰めた。
「勝手な想像を膨らますのは自由だがな、あの女には手を出しちゃいない。いや、出したというか……あの程度は数のうちに入らんだろう?」
そこまで半端な物言いをされては、彼の疑念は増すばかりだった。
「ちょっと待ちなさい、それは一体──」
護り手の青年へ身を乗り出し、さらに追求を重ねようとしたその時。
「鎖縛、何してるの!置いてくわよっ」
遠くから、サティンが大声で護り手の名前を呼ぶ。
普段なら不承不承、といった感じで応じる鎖縛が、何故か今回ばかりは威勢良く返答した。
「ああ、今行く」
取り残されたセスランの背後に、漆黒の女性が舞い降りる。
「可哀想に。振られちゃったの?」
ふわりとしたいい香りと、落ち着いた声音が宿す母性──衣於留だ。
セスランは微動だにしなかった。鎖縛の意味深な台詞が気になって、背に押しつけられる胸の感触に関心を払う余裕も若さもなかった。
砂色の髪と漆黒の影が、寄りそうようにして離れて行くのを、ただ眺めている。
「どちらかと言えば、こちらが振る予定だったのですが、ね」
思うようには行かないものです。
諦めにも似た感情が、セスランの胸中を満たしていた。だが、あっさりラエスリールから離れるような女性だったら、セスランも惹かれはしなかった。
「うんうん。いい感じね、あの二人」
彼の頭に顎を乗せながら、衣於留がからかうように告げる。本当に心から楽しそうだった。
セスランの本心を知った上で、それだ。どんなに優しそうに見えてもやはり上級魔性、傷口に塩を塗るような発言をごく自然にやってくれる。
弟のように思う魔性が、守るべき人間の主を見つけて、彼女は純粋に嬉しいのだろう。それが伝わってくるから、セスランは彼女に対して怒れない。
「坊やには悪いけど、ああしていると結構お似合いじゃない?」
「……そうですねえ」
このまま上級魔性の干渉を受け続けることが、彼女に取って幸福であるはずがない。ただ──鎖縛は、どうやらセスランが気づかぬ彼女の変化にも、気づいている。
日差しが薄いせいか、地に落ちたサティンの影はほとんど見えなかった。


──おわり──






「サティンって実は魔性の血入ってるんじゃないか?」という考察の元に書きました。
(ラス以外の人間に対する態度の差が)




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