書庫 赤と黒(闇主×ラエスリール&茅菜)


『黄金柘榴』と少しつながってます





「撒けた?」
朗らかな幼女の声に、ラエスリールは顔を上げた。
まず、目に付いたのは深い闇を思わせる漆黒の髪。同じ色の瞳が、悪戯っぽい笑みを漂わせてこちらを見下ろしてくる。
「ん……ああ」
一瞬、この包帯の話かとも思ったが、違う。
耳を澄ますと、木々のざわめきだけが聞こえる。先ほどまで濃厚に漂っていた、殺意に満ちた魔性の気配は、今はない。
「追っ手はもう来ないようだ。ありがとう、茅菜」
言いながらも、ラエスリールはどこか不安なものを感じていた。
彼女の──いや、彼と言うべきか──この稚い姿のせいだ。
父の配下に追われるようになって半年……二人きりの逃亡生活にももう慣れた。男姿だと例の心臓発作を隠し切れない彼女のために、『茅菜』の姿をとってくれたのは有難いのだが、これはこれで心細くなる。
力は変わらないし、中身が同じなのはわかっている。何も外見だけで、闇主を護り手に選んだわけではない。
それでも、闇主の体が自分の傍に寄り添うのを感じると、大樹の陰にいるように安心したものだ。
「ラス?」
首が痛くなるほど見上げ続けるラエスリールに、茅菜は不思議そうな顔をした。
彼女が座る木の根元まで、音もなく降りてくる。癖のない、長い黒髪が羽のように広がり、さらさらと背にこぼれ落ちる。
紛うことなき、美幼女だった。宿る魂は同じなのに、その声も仕草も態度も、ラエスリールが警戒する男とはまるで違う。
「どうしたの、どこか痛むの?傷は全部癒したはずだけど……」
指を伸ばす姿は、姉を心配する子供のようにしか見えず、闇主の姿であれば拒否したであろう頬の愛撫も、不思議とあっさり受け入れられる。
魔性特有の冷たい指先を頬に感じながら、どうして、と彼女は思う。
どうして、彼が彼の姿でないだけで、こんなにも不安になるのだろう。
彼の『男性』を拒否したのは自分なのに。今更、元の姿に戻ってほしい、などとは……あまりにも現金ではないか。
「茅菜、ひとつ聞いていいか?」
後ろめたさから逃れるために、ラエスリールは話題を変えた。
「なあに」
「なぜ、こんなにきつく包帯を巻かなければいけないんだ?傷は治ったのだろう?」
首の下に視線を向けながら、彼女は問う。肩から胸にかけて、ざっくりと斬りつけられた傷は、今はもう跡ひとつない。
浮城には仕事の際、邪魔になる胸を押さえつけるために晒しを何重にも巻く女性もいたが、残念ながら、この口の悪い男に「もう少し肉をつけた方が」と揶揄されるラエスリールに、その必要はなかった。
「そりゃあ、敵の目を欺くためよ。常に深手を負っていれば、相手も油断するでしょ?」
そんなこともわからないのか、というように、茅菜は呆れた顔をした。
「ラスに『自分に対する』治癒能力が皆無だってことは、あいつらにも伝わってるでしょうから、そこを逆手に取ってやるのよ」
常勝無敗を誇るラエスリールも、防御に関しては不器用だった。
『我が君の仇!』
相手の悲しみに気圧されてふと追撃の手を緩めた刹那、鋭利な刃物に変じた腕で、服ごと切り裂かれた。
どうにか逃げおおせた後、闇主は速やかに──嬉々として、という表現が正しい──例の治療を試みようとしてくれたが、途端にラエスリールの心臓はばくばくと脈打ち始め、近づいてくる彼の端正な顔を反射的に押しのけてしまった。
場所が場所なので、治療をためらったラエスリールは、女性として間違ってはいなかったと思う……多分。これでも人並みに羞恥心というものがある。
しかし、そういったこととは無縁の護り手の青年が、臍を曲げてしまったのもこれまた当然のことと言えた。
「それに、あたしが追っ手なら、ラスの傍に護り手がいない時を狙って攻撃するわ。この姿のことはまだ、ごく一部の連中しか知らないし、ただの妖貴と思ってくれれば好都合ってわけ」
ラエスリールが深手を負い、傍に柘榴の妖主がいない──代わりに、生まれたてとおぼしき妖貴の娘。狙い討つなら今だと敵が思い込んだ、そこに油断が生まれる。
「どうせ、いくら倒してもきりがないんだし……下手にあちこち移動するより、ラスが一人になるのを狙って姿を現したところを、一気に叩いた方が効率がいいわ」
言い切った横顔は、かつて幼いラエスリールが恐れた、冷酷な妖主の表情をしていた。
見つめ続けていると、茅菜は剣呑な光を宿す目をこちらへ向ける。
「なに?」
殺気立っている、とも言えるその顔に、ラエスリールの胸はちくりと痛む。
「いや……何も考えていないようで、実はあれこれ考えてくれているのだな、と……」
半分は、純粋な感謝の言葉。もう半分は、張り詰めた空気を和らげる意図もあった。
闇主が、自分のためを思って行動してくれているのはわかっている。しかし、彼の苛立ちは、本来ならラエスリールに向けられるべきものだ。追われる立場になったとは言え、罪なき相手を無意味に苦しませるのは、彼女の趣味ではない。
「今頃気づいたの?ラスってば、ほんと薄情」
こちらの本心を知ってか知らずか、茅菜は大仰に肩を竦める。
「はっきり言葉にしないとわからない?この姿を保つのだって、敵に気取られないように逃げるのだって、ラスは簡単に『頼む』って言うけど、実はとっても大変なのよ」
その大変なことを買って出るのは、ひとえにラエスリールへの愛情ゆえだと、彼は言う。
言いたいことはわかる。だから感謝もしているが、いまいちそれが信じられないのは、彼が時折見せる暗い表情のせいだ。
魔性は、多かれ少なかれ、その心に闇を抱えて生きている。とりわけ、妖主である彼のそれは深く、重く、そばにいると決めたラエスリールさえも、手を伸ばすことが躊躇われるほどだった。
「迷惑をかけているのは、わかっている。だが……関係ない者に八つ当たるのは違うだろう」
彼らにしてみればラエスリールは、大切な主を損ねた憎い相手だ。戦うための正当な理由がある。
勝てぬと承知で、命懸けでぶつかってくる命を、徒に傷つけ、弄ぶような真似はしたくはない。そのような闇主を見たくはないのだ。
瞳に、意志を込める。それで気持ちは伝わったはずだった。
「……ふふ」
茅菜は目を細める。
どう見ても好意的なそれ、ではなかった。幼い娘には不似合いな、皮肉げな笑みが口元に浮かんでいる。
「ラスは本当に、やさしいのね」
どこかで聞いた記憶のある、刺のある響きの声──けれど、思い出せない。
彼が明らかに苛立っているのを知りながら、ラエスリールにはそれを解決する術を見出せない。



その後も、逃げる。
ただ、ひたすら。
「どうしたの?追いつかれちゃうわよ」
耳元で、歌うように囁く幼女の声に、ラエスリールは怒声で返した。
「わかっている!」
背に触れそうな距離まで迫った爪を、ぎりぎりのところでかわし、振り向きざまに紅蓮姫で斬りつける!
手応えはあった。だが、数日のうちに蓄積された疲労が、ラエスリールの腕力を鈍らせる。刃が思うように進まず、ずるりと体から抜け落ちる。解き放たれた妖鬼は、体液を撒き散らしながら転倒する。
貫くはずだった心臓を取り逃がし、紅蓮姫が悔しそうに歯ぎしりする気配が伝わってくる。
──逃げられた!どうして!
下手くそ、と言わんばかりの嘆きように、ラエスリールは小さく舌打ちする。
「今は我慢しろ!時間がないんだ」
一撃で仕留められなければ終わりだ。止めを刺すのは諦めて、別の場所に転移するしかない。相手はまだ息があるうちに仲間を呼ぶ。一体を倒すのに手間取っていれば、あっという間に囲まれてしまう。
「はい、時間切れ。ずらかりましょ」
「……すまない。頼む」
茅菜の刺のある言葉を感じ、ラエスリールは大人しく同意した。
すぐに、体が闇に包まれる──ここではない別の場所へと、紅蓮姫ごと移動させられる。
もう何度、同じことを繰り返しただろう。そのたびに闇主は、ちくちくと厭味を言ってくれた。茅菜の姿になってもそれは変わらなかった。
思い切りが足りないだの、少しは学習しろだの……闇主の姿ならば、その言い草は何だ、と突っかかることも出来ただろうが、幼女相手にあまり怒鳴り散らすのは大人げない気がして、どうも調子が狂う。これも彼の狙いなのかも知れない。
「茅菜、その……」
上級とは言え、相手は妖鬼。普段ならば、余裕で倒せる相手だった。やはり疲労と……それから、護り手との諍いが尾を引いているのだろう。
紅蓮姫にも、多分呆れられている。言い訳でも何か口にしなければ、ますます彼らとの距離が開いてしまうような気がした。
腹部に抱きついている茅菜の長い黒髪が、風にはためき、口元に纏わりついた。ラエスリールの言葉を、口にさせまいとしているかのように。
「しっ。黙って」
周囲の空気は一変していた。
先ほどまで人気のない森を全力疾走していた彼女らは、今は明らかに結界内とわかる、薄暗い空間の中にいた。
ひんやりとした冷気が肌を撫でていく。
茅菜によるものではないことは、その固い表情から読みとれる。つまり──誘い出されたのだ。
霧のような靄が晴れると、そこには妖貴の例に洩れぬ、美しい漆黒の青年が立っていた。怒りに燃える瞳で、ラエスリールと茅菜を交互に見つめている。
戦いは、避けられないようだった。
──ご馳走!ご馳走!
この場で喜んでいるのは、恐らくお預けを喰らっていた紅蓮姫一人だけだろう。今しがた取り逃がしたのは妖貴が召喚した妖鬼だったが、目の前にいるのは紛れもない上級魔性だ。
「ふうん……」
茅菜はラエスリールの体から離れ、爪先からふわりと地面に降り立つ。
「移動先を、予め読んでいたわけ?やるじゃない」
幼女が着地したのはラエスリールの背後であり、前ではない。
紅蓮姫の動きを警戒しているのなら当然なのだが、あまりにも自然に主の後ろに回ったのを訝しく思ったのだろう。いかにも気難しげな漆黒の青年は、眉を顰める。
「同胞……か。おおかた、姫君の朱金の光に引き寄せられたのだろうが……」
目の前にいる幼女を、まだ経験の浅い妖貴と信じて疑わぬ口ぶりだった。
『闇主』が姿を消した途端に敵が現れる辺り、茅菜の作戦は半ば成功したと言える。近くにいるのはこの妖貴だけのようだから、さすがに、まとめて一掃、とまではいかないようだが。
「私に臆したか?ならば、姫君を置いてこの場から即刻立ち去るがいい。関わりなき者に危害は加えぬ」
己の優位を信じて疑わぬその言葉で、父の配下だ、とラエスリールは悟る。
内心はともかく、表面上は紳士的な口振り、敵に対しても泰然とした振る舞いは、娘である自分が良く知る、王蜜の妖主に通じるものがある。
青年の盛大な勘違いを、茅菜は鼻で笑った。
「臆してるのはあなたでしょう?相変わらず気配を読む力は弱いわ、未だに自分の作りだした空間の中でしか戦えないわで、全く金の妖主の配下とも思えないわね」
「お……」
一目で彼の正体と、そして弱点を看破した幼女に、青年は驚愕し、目を瞠る。
「お前、ただの妖貴ではないな!?一体……」
青ざめかかった顔は、次に茅菜が発した言葉に凍りついた。
「わからないのか?そんなだから金の野郎に見放されるんだよ、虹芽」
「──っ!」
罠に嵌めたつもりが、嵌められた。
そんな顔をしている青年が余程おかしいのか、茅菜はくすくす、と忍び笑いを洩らす。
「もういいでしょ、ラス?こいつで最後みたいだし」
「……ああ」
まだ仲間がいるのかと思ったが、護り手がそう言うのなら、そうなのだろう。
幼女がさらりと黒髪を払うと、その姿は一瞬にして深紅の青年に変じる。
傲岸不遜な表情はそのままに、圧倒的力を持つ魔性の王──柘榴の妖主へと。
虹芽と呼ばれた青年が、後ずさりした。空間が彼の心に同調しているのか、音を立てて震え始める。
「あ、あなたは……そんな、まさか!」
狼狽も露な声が、空間に響き渡る。
「なにが、まさかなんだ?おれがこの娘の護り手だってことは、お前らの耳にも入ってるだろう?」
闇主の低い声が、背後から耳朶を揺する。ラエスリールは、振り向きたい衝動を辛うじて堪えていた。
今、彼の方を向いたら、敵に後ろを見せることになる。彼は、それを知っていて敢えてラエスリールの背後に回ったのだ。
知っているくせに。この、男は。
「単なる気まぐれと……思っておりました」
唇を震わせながら、青年は答える。
「ならばこそ、容易に姫君の傍を離れ、満身創痍の姫君を目にしても、平然としていられるものだ、と……」
主に絶対の忠誠を誓う彼にしてみれば、闇主のそうした行動は理解しがたいものなのだろう。ラエスリール自身も、たまに理解に苦しむことがある。
「おれは、こいつを信頼してるからな」
軽口を叩きながら、闇主はとん、とラエスリールの背中を押した。連日の戦いで疲労していた彼女の体は、二、三歩よろけて前に出る。
「お前とは愛し方が違うんだよ」
背に触れたぬくもりと、その言葉の意味するところに、ラエスリールは真っ赤になった。
「あ、闇主!お前は何を──」
振り返った先には、求めていた深紅の青年の笑顔がある。見ただけで、強く胸が締めつけられた。
そんな、冗談めかした口調で告げられても、信じられるはずがない。出会ってからずっと、その手の言葉で翻弄されてきたのだ。
今だって、軽くではあるが突き飛ばされた。この男はラエスリールが苦しんだり、困っているのを見て、喜んでいるに違いないのだ。
「ん?どうした?」
にやにやと笑いながら、覗きこんでくるその目線は、先程よりもずっと高い位置にある。
茅菜とは違う。見つめられているだけで、動悸が激しくなり、頬の熱が収まらない。
「……何でもない」
戦意に高揚しているからだ、とラエスリールは思うことにした。
──まだなの!?早く、早く!
もうひとりの相棒の歓喜の声に、彼女は深く溜め息をつく。
「待たせたな、紅蓮姫。さっきは仕損じて悪かった」
深紅の刀身の切っ先を妖貴に向け、ラエスリールは宣言した。
「行く」
「させん!」
気圧されていた青年は、破妖刀の気配にすぐに我に返り、冷静に対処してきた。
ラエスリールの足元に霧を放つ。転倒狙いだとわかったので、跳躍してかわし、頭上から斬りかかる。
上空で隙だらけの体に、妖貴の攻撃が叩きつけられる。が、闇主の結界のおかげでその殆どはかすり傷に終わった。
紅蓮姫を横に薙ぎ払う。避け損なった妖貴の肩に裂傷が走る。
──心臓。心臓を狙わないと、ラス。
「少し黙っていろ」
命中率が悪いのは承知だ。ラエスリールの体は正確な機械ではない。気持ちや体調によって変化が生じるのだ。
「この程度ですか、姫君。とんだ見込み違いだ」
若干青ざめながらも、青年は余裕を取り戻しつつある。
『虹芽』
闇主は、以前から青年を知っていたようだった。
妖主だった頃のことを、闇主は殆ど話してはくれない。聞けば差し支えない程度に話はするが、詳しく聞くのはためらわれた。
妖貴の攻撃がラエスリールの肌を裂く。こちらも反撃するが、確実に体は貫いているのに、心臓まで辿り着く前に振り払われてしまう。
──あと少しなのに。
紅蓮姫が不満そうに唸りを上げた。彼女は悪くない、自分がうまく操れないせいだ。
王蜜の妖主の配下は、魅了眼の耐性が強く、ゆえにラエスリールのそれも効きにくい。あくまでも、他の妖貴たちと比較して、の話だが。
瞳による束縛の力で、相手の動きを縛るのは、不可能に近いのだ。
「気をつけろ。こいつの力は大したことはないが、しつこさだけは金の野郎譲りだからな」
背後に寄りそう闇主の吐息が、耳朶を擽る。
「……彼とは、知り合いか、闇主」
ようやく尋ねるきっかけが生まれたのを幸いに、ラエスリールは敵から目を逸らさぬまま尋ねる。戦闘中のせいか、普段よりは平静でいられた。
「昔、な。お前の母親との恋愛を、阻止してくれって頼まれたんだよ」
虹芽は、主が人間の女に心を傾けることを、快く思ってはいなかった。それで、柘榴の妖主に二人の仲を裂いてくれるよう懇願してきたのだ──と彼は語った。
「もちろん、おれは断ったぞ。ああ、本当だ」
「……そうか」
どこまでが真実かわからないが、ラエスリールは頷いた。
闇主がもしその奇妙な依頼を引き受けていたら、自分は今ここにいなかったかも知れない。誰からも祝福されぬ恋の結果、ラエスリールはここにいる。
「あなたが……いや、お前が……」
かすれた声が正面から投げかけられる。
相手も、酷い傷を負っていた。瞳に浮かぶ憎悪は一層強く、ともすれば瘴気に飲みこまれてしまいそうだった。
「お前が生まれなければ、我が君が道を誤ることはなかった」
以前にも、柘榴の妖主の配下から投げかけられた言葉を、青年はラエスリールにぶつけてくる。
「あの女がいなければ……!!」
彼の言い分は正しい。チェリクと王蜜の妖主が結ばれなければ、助かった命は山ほどあった──自分も、弟の乱華も、あまりにも多くの命を犠牲にし過ぎた。
「それでも」
ラエスリールは紅蓮姫を握り、正面の敵に向かって駆け出した。
相手の攻撃が、肩を抉り、膝を刺し、脇腹を抉る。汗でかすむ視界の向こうに、虹芽の心臓の位置が見える。
右胸と、頭部──しかし、ラエスリールが狙ったのは彼の体ではなかった。
熱くなった瞳が、新たな情報を伝えてくる。虹芽の力の源は、『本体』に埋め込まれた心臓だけではない。別の場所から、力が流れ込んでいるのがわかる!
「私は、生きたい……!」
この世界の真実を見極めるために。今はただ、戦いたい。
──パリン……
硝子の割れるような音が響く。
紅蓮の軌跡が空間を両断し、結界ごと青年の心臓を叩き切った音だった。
青年が、なかなか斃れてくれなかった理由は──心臓の一部を、結界に同化させていからだと知ったのは、全てが終わった後のことだった。



ここ数日、次から次へと湧いてきた妖鬼たちは、全て虹芽が召喚していた。
彼を倒したことで、追っ手の足取りは途絶え、当分は二人の気配を隠す必要はないだろうと思われた。
「い……いいっ!自分でほどける」
とある宿屋の、寝台の上である。表向き、闇主とは夫婦ということにしてあるから、深夜に軽い呻き声が上がったとて、誰も問題にする者はいない──悲しいことに。
「やめろ、おい、闇主!」
首を振って拒否するラエスリールの体を難なく押さえつけ、闇主は彼女の胸に巻いた包帯を、するすると解き始める。
男の手中に白い帯が吸い込まれていくたびに、ラエスリールのうなじから胸にかけてのささやかな膨らみが、露出していく。
「いやー、一度やってみたかったんだよな、これ。服を脱がすのとはまた違った楽しみがあるな」
「お、お前……まさか、それが目的だったのか!?」
追っ手にラエスリールが重傷だと見せかけるため云々は、後付けの理由だったというのか。疑いの目で男を見るが、その楽しそうな表情を見ていると、あながち見当はずれでもないらしい。
「放せと言っている!おい……重い!」
馬乗りになっている青年の顎に、拳をぶつける。ラエスリールがあんまり暴れるので、彼の体にも包帯が絡まって、かなり妙なことになっていた。
「茅菜の姿ならいいのか?なんならまた戻ってやるが」
嫌がらせは止まず、包帯の端を口に咥えながら、そんな風に問いかけてくる。
考えてみれば、闇主は浮くことができるのだから、『重い』というのは言い訳にはならない。単に、密着されると胸が苦しくなるだけだ。
「……もう、それはいい」
結局、どんな姿をしていても、この男の優位は変わらない。それが悔しい。
「茅菜の姿で攻められても、それはそれで屈辱だ」
何より、自分に気を遣って子供姿でいる闇主を、これ以上見ていたくはない。
燭台の明かりに照らされる闇主の髪は、茅菜とは似ても似つかぬ深紅だ。妖貴は、人の血を吸うことで色をつけるのか──赤に、白に、紫紺に、金に。
纏う闇の色は各々違うけれど、闇主のそれは最も血に近い。どれほどの人を殺めたら、このような深紅に染まるのだろうか。
自分も、いずれ──?
「あのな」
考えに沈むラエスリールの口を、闇主はするりと包帯で塞いだ。
「お前は、おれが本気で、嫌がらせのためだけにこんなことしてるって思ってるのか?」
間近に、彼の顔が迫る。口には布の味……鼻から息を吸うと、彼の匂いが流れ込んできた。
「ひがう、のは」
違うのかとラエスリールは問うた。いくら傷を受けても笑っている彼、勝手に姿を消す彼、怒りをぶつける度に何倍にもして返してくれる彼。
そして、今こうしてラエスリールの呼吸を封じている彼の、どこに愛情があるというのか。
妖主にとっては暇潰しの娯楽でも、彼女にとって闇主は、かけがえのない相手だった。相手も同じ気持ちでないのが悲しい。
それが、現在のラエスリールの心境だったわけだが。
相手にはその反応はお気に召さなかったらしい。やおら顔を近づけると、包帯越しにラエスリールの唇を、強く吸った。
「知らないなら、これから教えてやるよ」

──おわり──


戻る

- 2 -


[*前] | [次#]
ページ:




TOPへ