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「イチさん、やめな」
不意に、穏やかだが脳を貫く矢のような声が耳に入った。
途端にイチが動きを止めた。
「あ、おかえりジン。お邪魔してます」
ホッと息を吐いたイルマが、イチから身体を放す。解放されても、イチはもう暴れなかった。
ドアの前に、圧倒的な存在感で立つ男。俺とイルマの中間的な身長に、艶のある黒髪。長めの前髪の隙間から、エメラルドの原石のような緑の双眼。磨かれた輝きを放つことはないが、その深さと可能性に呑み込まれてしまいそうな。
「よぅ、おかえりヘッド。レースには勝ったのか?」
聞かなくてもわかるがな。
「ただいま。負けた。イチさんには、勝てない」
ヘッドは、頭部をほとんど動かさず、滑るように歩いた。
そして当たり前のようにイルマの隣に腰を下ろす。その動きは、さながら蛇のようだった。
「ただいま、イルマ」
ヘッドは僅かに微笑んでイルマに挨拶した。実際に表情に変化があったわけではない。青白い肌と恐ろしいほど整った顔は常にそうであるように無表情だ。
しかし、ヘッドは確かに笑った。
付き合いの長い俺でも、最近ようやくわかるようになった変化だった。
「うん。おかえり」
それに対し、イルマは眩しくて目を痛めるほどの笑顔で返す。
イルマはよく笑うが、ここまでの破顔は滅多に見ない。それをヘッドに向けるのは、彼がイルマの小学生時代からのツレだからか、それとも……。
「ヘッド、ハルを叱ってくれよ。こいつ俺らがいない間にイルマの身体をいじくり回してたんだぜ?」
ちっ、余計なことをいうんじゃねぇよイチ。
「ふーん?」
ヘッドがゆっくりとこちらを見た。その瞬間、俺の身体は金縛りのように動かなくなり、声は喉に張り付き、頬の筋肉は軽く痙攣を起こした。
見ただけで、である。
底抜けの威力を放つプレッシャー。しかもこれは『俺のみ』に向けられたものである。その証拠に、ヘッドのすぐそばに立つイチは平然としている。もしかしたら、ヘッドがプレッシャーを放っていること事態気づいていないのかもしれない。
こんな人間とは思えない威圧感を持つ奴が、俺より2つも年下なんて。末恐ろしいにも程がある。
「ねぇジン。レース負けたんだろ? イチさんとなんか賭けしてた?」
ニヤリとしたイルマの言葉で、俺は解放された。ヘッドの意識がイルマに向いたからだ。
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