美術部員でもないのに、美術室に行くことが日課になってしまった。
「あ、神代くん、いらっしゃい」
とても居心地がいい、それにいつも彼女が笑顔で迎えてくれる。
「どう?順調?」
「うん、もうすぐ終わりそうかな」
「見せてよ」
「うん!」そう返事をすると、筆を台の上に置いて、手招きをした。
彼女の絵は、いつ見ても綺麗だ。
なんでこっちの道に進もうとしないのか、よく理解ができない。
それと、やはり自分を題材にされていると、見るのがいちいち恥ずかしい。
「すごいな」
「完成したら、神代くんにあげようか?」
「いいの?」
「いいよ」
ボクが神代家当主になったあかつきには、居間に飾ろう。そう心に誓った。
「あ、あの、それで神代くん・・・」
「なに」
「ちょっと、近い…かなぁ、なんて」
「ああ、ごめん」
よく見てみると、彼女の顔が真っ赤だった。
「やっぱり、神代くんは綺麗な顔をしてるね」
「ありがとう」
整った顔立ちだ、とつい見惚れていると、頬に小さな痣が出来ていることに気づいた。
「どうしたの、その傷」
「…ちょっとね、怒られちゃったの、ほら、昨日は帰りが遅くなったでしょ?それで」
「高校三年生なのに?」
「そんな人もいるってこと」
そういっていつもの調子で笑う彼女に、釣られて笑った。
次の日から、彼女が美術室に姿を見せることがなくなった。



そんな日が一週間も続き、とうとう学校にすら顔を出さなくなった。誰に聞いても、理由は分からない。仕方なく、担任に彼女の家の住所を聞いて、直接会いに行くことにした。
マフラーをぐるぐると首に巻きつけ、ため息をつく。
会えるものだろか、きっと門前払いだろう。
担任に貰ったメモをポケットから取り出す。
「神代くん」
すこし懐かしさを感じる声に振り向くと、探していた彼女がスーパーのレジ袋を両手に持ちながら、いつもの笑顔で笑っていた。
「どうしたの、学校にもこなくなっちゃって」
「色々あったの」
そう言う彼女の服の裾から覗く細い腕には、湿布のような物が貼られていた。
「なに、これ」
「なんでもないよ」
「なんでもないわけがないだろ、なんで湿布なんて」
「ちょっと転んじゃってね」
「そんなワケがないだろ、頬の痣だって増えてるし、なにがあったの」
「なんでもないよ」
彼女は笑顔を崩さない。
「なにがおかしいんだよ。なんで何時も笑ってるんだよ、辛くないのかよ」
なんで自分が泣きそうにならなきゃいけないんだ、まったくわからない。
そのとき、全てを悟った気がした。



そうか、彼女には、自分以上に自由なんてなかったんだ。



「…ねえ」
「なあに?」
「ここから逃げようよ」
「え?」
「なにか欲しいモノがあるっていうのなら、なんだってあげる、キライなやつがいるっていうなら、全員消してあげる、だから、逃げようよ」
「なんなら、今からソイツらを一人一人、ボクが殺してやっても構わないよ、大切な恋人のためだ、だから」
「それじゃ、あの子がひとりになっちゃうよ」
「ボクのかわりなんていくらでもいるよ、だから、ずっと一緒にいよう」
「だから、言ってるじゃない、神代くんは神代くんだって」
「君が死んでも代わりがいないってことにもなるだろ!?なんで分かってくれないんだよ!」
ぐしゃっと、レジ袋の、パックの中の卵が割れる音がした。
「…神代くんだって、分かってよ、あのこだって、きっと神代くんだから一緒に居るに違いないわ」
段々、彼女の笑みが狂気にすら見えてきた。
「だって、神代くん、優しいんだもの」「そんなことない、こんなに優しくするのも、気にかけるのも、全部君だからだ。亜矢子より大切に思えるからだよ。もう散々だよ、ボクはあんなところに居たくなんてない、君だって、ここから逃げたいんじゃないのか?」
「じゃあ、その優しさを、あのこ…、亜矢子ちゃん?にあげてよ」
「私は十分だよ」
「だから、神代くんもお幸せにね」
一つの言葉が、とぎれとぎれ脳みそに流れ込み、嫌な予感だけが脳みそを飛び交う。なんて言葉をかけて、この流れを裁ち切ろう?どうすれば彼女を引き留められるのか?
どうするの、どうしたいの、どうすれば
「だからもう、」
「待って」
息を整えて、彼女の瞳を見つめる。いつもと変わらない輝きに満ちていた。
「最後に聞かせてよ。今でもボクのことは好きなの?」
「いえないよ、言ったら、きっと一生後悔する。離れられなくなる、もう一緒に居ちゃいけないんだよ」
「ボクは好きだよ、いままでも、これからも。きっとこれが初恋に違いない」
だから、終わるなら“好きになれてよかった”って、言われたい。救われたい。報われたい。依存を。権威を。逃亡を。その理由を。
終わりたくない。




「じゃあね、神代くん」



その言葉を頂戴よ




その一言で、何度でもフィルム映画みたいな夢から覚めるのだ。