「なぁ」
「はい、なんでしょう?」
「敬語、やめない?」
キャンバスを挟んで、向かい合う彼女は、キョトンとした表情で器用に手を動かしている。
「恋人だろ?」
「そ、そうだけど…、絵のモデルになってもらってる時は、頼み事をしてるわけだし」
「ふうん」
いつ見ても、彼女の絵は繊細だ。自分が神代家の当主になったら是非この絵を居間に飾りたいものだ。頼んでみようかな。
「てかさ、今日部活終わったらどっか行かない?」
「え?」
「デートだよ、デ・ェ・ト」
「早く帰らないと、心配なさるんじゃないんですか?」
「誰が」
「おうちの方とか、その…」口ごもったせいで、最後の方が聞こえなかったが、大方亜矢子のことを言っているんだろう、バレバレだ。
「婚約者って言っても、代わりなんて」
いくらでもいる、と言いかけたところで、彼女がとても悲しそうな表情だということに気づき、慌てて椅子から飛び上がった。
「い、いや、君がそんな顔する問題じゃないだろ?」
「だって、神代くんは神代くんじゃない」
オマエなんかに、ボクの苦労が分かってたまるか、オマエの何倍もボクの方が悩んでいるんだ。



分かったような口は一番嫌いだよ。




「ゴメン、ゴメン」
今にも泣き出しそうな顔した彼女を抱きしめ、頭を撫でた。嗚咽が聞こえる。マジで泣かせてしまった様子だ。
「お詫びに、なんか奢るからさ?ね?何がいい?」
「じゃあ、駅前の喫茶店のケーキ」
ぼそり彼女はうつ向きながら呟いた。なんともちっぽけな要求だ。
「じゃあ、荷物まとめて。暗くなってからじゃ危ないから」
「そうだね」



「そういえば、君は早く帰らなくて大丈夫なの」
「大丈夫」
彼女が笑いながら下駄箱から学生靴を取り出すと、ふわりと真っ白な封筒が宙に舞った。
「なあに?ラブレター?」しゃがみこんだ彼女をニヤニヤと笑いながら見下ろすと、「そうみたい、最近はなかったんだけど」と微笑んだ。
やはり、男子生徒の憧れなのだろう。純白のレターセットなんぞ使いやがって、どうせ下心しかつまってないんだろ。
「気にしなくていいよ」
「気になるだろ?君はボクのものなんだから」
「…なんでそんなこと、恥ずかしげもなく言えるかな」
「そういう性分なんだ、ホラ、早く」
急かすように彼女の手を握る。とても柔らかくて、温かい手だった。
「神代くんの手、冷たいね」
「冬だからな」

言われてみれば、もう冬だ。
その始まりを告げられれば、同時に高校三年生も、もうすぐ終わるのだ。
先日、進路指導の教師に大学へは行かないのか、と聞かれたことがふと頭を過る。



自由の終わりは、近い。



喫茶店の窓際の席からは、駅前だというのに、誰もいない風景をひっそりと切り取っている。
彼女はにこにことテーブルに備え付けられたメニュー表を眺めながら、何にするかと悩んでいた。
「神代くんはなににするの?」
「ボクはコーヒーだけでいいや」
そ、とだけ返事が返ってきた。
やっと手放されたメニュー表を見ると、ケーキと紅茶のセットだけで六百円近くするというとんでもないものだ。黙ってメニュー表をテーブルの上に置く。
「ねぇ、神代くん」
「なに」
「神代くんは、大学に進学するの?」
「いや、家のこともあるから、大学は無理だな」
「そっか、大変なんだね」
「君は」
「私はね、まだ決まってないの」
「美術系の大学とか、いいんじゃない?」
「良く言われるけど、そういう道に進む気はないかな」
「もったいない。そんなこと言うと、今晩、君の枕元にモッタイナイお化けが出るかもね」
「何が化けて出たとしても、私にはもっと別の、やりたいことがあるの」
渾身のジョークを簡単に流された、丁度頼んだものがテーブルに届いたが、店員の口角がやけにひきつっている。見事に死んでやりたくなった。
「神代くん、ここのケーキ、持って帰れるみたい」
「へえ」
「買っていってあげたら?」
「君がアイツの心配なんてしなくていいのに」
「でも、私の我が儘で一緒に居る時間を裂いてる訳だから、お詫びくらいは…、なんて」
「でも、よくよく考えたら、嫌味みたいだよね、やっぱりやめておく」また笑った。
「…なんていうか、寝取るとか、略奪愛とか、そういうのには発展しないの?」
「だって、先に神代くんを好きになったのはその子じゃない。あとから出てきた私に、そんな権利はないと思うの、それに、私は今、一緒にいられるだけですっごく嬉しいよ」
どんなことを聞いても、自己があるのかどうだかわからない、模範解答みたいなことを言う。




ああ、コイツ、シアワセになれるのかな。