「なにもないね」と呟く私の目は、たしかにそこにあり、果ての見えない水を見つめていた。


「編集長、今日と明日と明後日の分の仕事をこれからすべて終わらすと言えば、明日私の休暇をくださりますでしょうか?」
編集長は見たことはないけれど、鳩が豆鉄砲を食らったような表情を浮かべていた。
「…まぁ、仕事してくれればいいんだけど、うーん…。何かあったの?」
「ちょっと用事が」
対した用ではない、が、ここは確実に休みをもらいたい、大げさに話しておこう。心の優しい上司は苦笑いでオーケーしてくれた。



「明日仕事は?」
「ない」
「なら、出かけよう」
これが玄関を開けて数秒後のやりとり、彼女は出かける気満々だ。
「おいおい、今何時だと思ってんだ、後数十分で明日になるぜ?」
「いいの、それが目的でこんな時間に帰ってきたんだから」
「…足はあんの?」
「一応普通自動車の免許は持ってる。それより、早く準備して」
もう一ヶ月程の付き合いだが、いつもクールぶってる彼女が乗り気、ということはとても珍しいことではあるが、なんでこんなテンションが高いのかはよく分からないが。「どこ行くんだよ」
「それはまあ、言わないでおく」
胡散臭さマックスだ、何より、自分は一時間前に風呂に入ってしまったので、寝間着の上、ワックスが落ちた髪だ。
「まあ、この格好でいいなら」



ラジオのノイズとパーソナリティの軽快な喋り口の中、彼女がぽつり、と「海が見たい」などと呟いた。
俺はそれに「東京湾があるじゃん」ぽつり、そう答えた。
「違うの、そうじゃなくて、人がいない海が見たいの」
「ふうん」
随分とロマンチストなものだ。しかし、なんで俺なんか誘うんだろうか、訳が分からない。
まあ、一人は心細いだろう、そのためだ。そうに違いない。
そのあとは、特に話題もなく、窓の外の暗闇に、時々街灯の光がぼんやりと混ざり込むのを眺めていた。



家を出て約三時間、何もない海にたどり着いた。
「着きましたよー、起きてー」
助手席で眠る彼を揺すり起こす。
「んだよ…」
「着いたって言ってんの」
「そうか、勝手に見てこい、俺は寝てる」
「バカ、アンタも来るのよ」
「俺はいいよ」
「深夜に体格のいい成人男性を助手席から引きずり下ろすなんて、地元住民に見られちゃたまらないでしょ、きなさい」
渋々、と言った感じでようやく車から降りた彼に背を向け、一人砂浜へと足を踏み入れる。
「おい、ちょっとまてよ」
「なに」
「暗すぎて何がなんだかわかんねえ、ちょっと手、貸せ」
「ハイ、懐中電灯」
暗闇で何がなんだかわからないが、きっと彼は不機嫌そうな顔をしているだろう。
懐中電灯の光を反射して、キラキラと砂浜が光る。
「…ホント、何もねえな」
「夜中だしね」
足音を、波の音が掻き消す。海だ、あの日、確かに私に幻想を見せたそれが、目の前に広がっている。
きっと、あの日、あの波に飲み込まれた人たちはこの海に沈んだのだろうか、それは誰も知らない、世界は私たち二人だけを除け者にして、ただただ回り続ける。
「…皆、この水に溶けて消えたんだろうね。三上さんも、柳子さんも」
暗闇で地面との境界が曖昧になったそれを眺める。
「…帰るか」
「え?」
「もう、アンタの悲しむ顔なんか、見たくないんだ。とか、言ってみたいけどよ、正直、俺は眠くてたまんないんだよ。だから」
帰ろう、と彼が言う。


「眠くないのか」と、問いかけると彼女は素っ気なく「別に」と答えてみせた。
「免許、取るかなあ」
「何よ」
「別に、きちんとした社会人への一歩を踏み出そうとしているだけ」
「へえ」
やはり、会話が続かない。
「悲しむ顔なんか、見たくないんだ」だってさ。
なんでそんな一言すら言えなかったのか、彼女を慰める言葉、他意のない言葉、それだけのはず。
悶々とした脳内で、すっかり覚めてしまった眠気が気まずさを連れてきた。沈黙は続く。
「…ありがとね」
「だまって、ついてきてくれて」
“逆に”
その単語が浮かんだ。
…自分は何を期待してるんだろう。
窓ガラスのさんに肘を乗せ、頬杖を着いた。外はまだ暗く、沈黙を象徴する黒に染まっている。
改めて彼女の顔を見る、顔こそ似ていないが、何処か声が柳子に似ている気がする。錯覚かもしれない。
何処までも、まじわることなどない対角線が、永遠に続いているような、そんな関係性だ。
当然か、と半ば諦めた様にため息をつく。すると先程まで留守にしていた眠気が舞い戻ってきた。欠伸を一つする。
望んでいたのは彼の存在なのに、なぜ隣に居るのは自分なのか。

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