dissolve | ナノ
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05 小さな芽

誰もが呆気に取られていた。

フィールの拳は見事に決まった。
フィールは殴る際に跳躍したのか、たんっと廊下に足を着けた。
イディオは地面に打ちつけられ、白目を剥いてピクピクと痙攣していた。鼻は不格好に折れ曲がり、止めどなく血が流れている。顔は衝撃でくしゃくしゃだった。
生徒が騒ぎ出し、さっきとはまた違う悲鳴が上がる。イディオのファンと思われる生徒は気を失っていた。

「そんな……どうして……?」

殴った手を開いては閉じるフィールに、リリーが問う。
フィールは答えずにリリーの前に歩み寄ると、ハンカチを取り出してごしごしとリリーの顔を拭いた。

「んっ、何、どうしたのよっ、フィールってば!」

無言で顔を拭くフィールの手を取り、リリーが再度問う。
フィールは手を掴まれ……何故か首を傾げた。感情表現が乏しいフィールのその行動の真意を、リリーは何となくだが察した。

「……分かったわ、寮に戻りましょう。アクザフルも鼻血くらいでは死なないでしょうし、先生が何とかするわ」

最低の言葉をかけられたせいか、リリーがイディオを見る目は冷たかった。
そしてフィールの手を引くと、騒ぐ生徒の波を抜けて寮に向かっていった。

一体どういうことだ。

ジェームズはさっぱりついていけずに、立ち尽くしていた。リリーはフィールを庇うし、フィールもリリーを"庇ったと思われる"。不明確な言い方だが、ジェームズには確証を得られなかったので仕方がなかった。構えられて行き場をなくした杖が、しょんぼりと頭を下げた。
シリウスも混乱していた。確かに隠れ部屋で、フィールはリリーを友達ではないと言ったのだ。勝手に近付いてくるだけだと。
あの時の苛立ちは今も胸の奥で感じられる。なのに先程のフィールは、まるでリリーのためにイディオを殴ったようだった。リリーの顔を拭いたのも、きっと涙を拭うためだろう、あまり器用ではなかったが――シリウスにはそうとしか見えなかった。

イディオの鼻血は血溜まりになっていた。血溜まりの傍には、食べかけのかぼちゃパイが落ちていた。
ツカツカと厳しさが伝わってくるような靴音が、生徒達を抜けて近付いてくる。きっと騒ぎを聞きつけたマクゴナガルが来たに違いない。
それ以外に四人に分かるのは、後を追って寮に行ってももう盗み聞きが出来ないことくらいだった。



フィールとリリーは、フィールの部屋に来ていた。
以前は散らかっていた部屋も、リリーが来るようになってからは常に片付いていた。これには変な実験やら何やらに困っていた同室の女子三人が大変感激したものだ。
二人でベッドに腰掛けると、リリーはフィールをじっと見た。フィールも見つめ返すと、リリーの頬を両手で包んだ。

「フィール、あの、ちょっとっ」

今にも合わさりそうな距離にリリーが顔を赤らめる。
フィールは手を放さずに見つめ続け、ぼそりと呟いた。

「泣いていない」
「何よもう、さっきから……え?」

小さな声を、リリーは聞き漏らさなかった。フィールは頷き、声を少し大きくして続けた。

「シリウス・ブラックからリリー・エバンズが泣いていたと聞いた」
「あなた……それで?そんな……」

シリウスから聞いたというのは引っかかったが、この際どうでもよかった。リリーは酷く感動したのだ。目を潤ませると……ぐっと耐えた。ジェームズの前で耐えたのとは違う。悲しみからではなく、喜びで潤ませ、耐えたのだ。

「泣いてなんかいないわ……違うのよ、これは……あなたは優しいわね、フィール。なのに私は……」

泣き出しそうな気持ちを抑え無理矢理笑むリリーに、フィールは何も言わなかった。
ただ頬から手を放して、リリーの両手を握った。

「……あなたには分かったのね。ポッターのこと」

恥ずかしいような切ないような、リリーは複雑な表情だった。フィールは黙って頷いた。どうやらリリーには自覚があったらしい。

「私も変だと思うわ。大嫌いな筈なのに、いつも考えてしまうの。毎日言い合っている時も、どこかで嬉しく思っていた……」

リリーは話し始めた。感情が移ろう度にエメラルドの瞳が揺れる。フィールは目を逸らせなかった。

「気付いたわ……好きだって」

一層瞳が揺れた。声は、戸惑いに震えていた。

「――でも!でも、嫌いでもあるの!フィールに酷いこと言って、今日は手を出そうとしたわ!それに、フィールにだけじゃない、いろんな人をいじめているのよ、彼……!」

フィールの手を握り返す力が強くなり、リリーの苦しみが伝わってくるようだった。

「自分はどうしたいんだ、リリー・エバンズ」

リリーの瞳から目を逸らせられない。震える声を聞き漏らせられない。けれど、フィールにはどうしようもないことだ。
なので、リリーが好きなだけ気持ちを吐き出せるよう、言葉を引き出してやるのだった。

「彼の気持ちに応えたいわ……でも今は駄目。今の彼と付き合うのは、自分で自分を許せないのよ。彼の傲慢が直れば胸を張って付き合えるんだけど……でも、フィールはそんなの嫌かしら?彼、あなたに散々酷いことを――」
「私のことは関係ない。重要なのはリリー・エバンズの気持ちだ」

負い目を感じているらしいリリーに、フィールは言い切る。

「そう……そうよね、安心したわ。ありがとう」

リリーはその物言いに救われながらも、反面――違和感を覚えた。よそよそしさや冷たさとは違う、何かを。
一体何を考えているのだろう。リリーは胸中で自分を戒めた。余計なことを考えるんじゃない。忘れるな、自分のために彼女が何をしたか。彼女はただマイペースなだけだ。少し人より個性が強いだけ――きっと思い過ごしだ。

「アクザフル、すごい顔だったわね。人の顔ってあんなに変わるものかしら」

不安を振り切るように、リリーは話題を変えた。

「ああ……分からない」
「そうね、試すまで分からないわね!」

くすくす笑うリリーに、フィールがぼんやりと答える。

「何で殴ったのか分からないんだ……リリー・エバンズ」
「フィール……?」

振り切ったばかりの不安が、揺れる。
リリーが首を傾げていると、フィールがはっとした。

「かぼちゃパイを落としてきてしまった」

故意か天然かは分からないが、話を逸らされてしまった。
ただしこみ上げてきたのがおかしさだったので、リリーは素直にそれに従った。

「代わりに何かあげるわよ。ねえ、私の部屋に行きましょう?」

吹き出すと共に、不安は再び振り切られた。



仲直りと表現するのは難しいが、リリーとフィールはまた行動を共にしていた。
離れていたのが一日にも満たなかったので、仲違い(これも不適切な表現のような気がするが)していたことには誰も気付けなかっただろう。

しかし事は順調に進むばかりとは限らない。

杖は未使用だったとはいえ、イディオ・アクザフルに暴力を振るい、怪我を負わせたのだ。イディオは医務室ですぐ治療されたが、鼻が2ミリ曲がったままだとマダム・ポンフリーに抗議していた。もちろん、請け合われなかったが。
罰則として、フィールは羊皮紙5巻き分のレポートをマクゴナガルから出されていた。本当は10巻き分だったのだが、事のあらましとリリーの弁護を聞いたマクゴナガルが「10巻きも出されると私が運べません」などと有り得ない言い訳を吐き、量を減らしたのである。しかも提出期限はない。
マクゴナガルが去った後にリリーが大笑いしたのは言うまでもない。なんだかんだで事情を汲んでくれる、厳しくも優しい人なのだ。



二週間後、フィールは湖が見える木陰でレポート用に借りてきた参考書を読んでいた。リリーはフリットウィックに予習で分からなかったところを聞きに行っている。

湖で遊んでいる生徒達が時折フィールに手を振る。フィールも小さくだが振り返した。

噂は転々と変わっていくらしい。
イディオ・アクザフルを殴った話は「朝の暴食嘔吐事件」と同じく、瞬く間にホグワーツ中に広まった。そしてその事柄から、一部の生徒…主にスリザリン生を除き、フィールは「変だけど良い奴」と内面的な好感を持たれるようになった。
全く話をしたことのない者からも挨拶をされたり、手を振られたり。会話で「お前は誰だ」と言っても、皆怒らず、名乗るようになっていた。"そういう人だ"と容認されてきたのだ。
フィールは全ての挨拶を返していた。それが律儀だと、また好感を与えていた。

「……おい」

フィールは手を振るのをやめると、参考書に視線を戻した。

「おい」

ぱらりとページをめくる。図解が適切で分かりやすい本だ――

「おい!」

肩を掴まれてやっと、フィールは自分が呼ばれているのだと気がついた。
顔を上げれば、ねっとりとした黒髪と土気色の顔が特徴的な少年がいた。ネクタイの色からして、スリザリン生だろう。

「フィール・カリオウス……!」

少年は年中不機嫌といった表情だった。
フィールは参考書を閉じると、少年へと向き直った。

「いかにも私はフィール・カリオウスだ。お前は誰だ」

しかし少年は答えず、フィールの手にある参考書へ目をやった。

「それを僕に渡せ」
「それは出来ない。私がレポートを書くために必要だからだ。お前は誰だ」

少年はぐっとフィールを睨んだ。フィールは全く物怖じせず、少年を見返して再度訊ねた。

少年は些か困っていた。たまたま図書室で目当ての急ぎの本が貸し出し中だったので借り主を聞いてみればフィール・カリオウスだと言われ、渋々奪い……借りるために、探しに来たのだ。フィールがどんな人間かは噂で聞いていたし、談話室で怒り狂ったイディオ・アクザフルの話もうるさいとは思いつつも耳にした。
何より、ある理由によってどうしても目に入ってしようがなかった。リリー・エバンズに"あの言葉"を吐いたイディオを殴ったと聞いた時はよくやったとは思ったが、少年はフィールに決して好意を抱かなかった。否、抱けなかった。それは自分がスリザリンだからではない。それもまた、ある理由によるものからだ。自分の大切なものを奪われたと、少年は思っていた。

憎くもあるフィールから、一体どうやって本を奪う……借りるべきか。
少年の心を知ってか知らずか、フィールは煽るように参考書をぱらぱらとめくっていた。周囲の人間からすれば、綺麗な少女が本を優雅に眺めている思わず見惚れる姿だったが、少年には通用しない。
少年が、そっと杖へと手を伸ばした。



2014.05.19
 

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