dissolve | ナノ
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02 思うことなかれ

あの「朝の暴食嘔吐事件」以来、フィールはゲロ女、もしくはゲロ子と呼ばれていた。
元々気にする性格でもないフィールは、至って普通に過ごしていた。
事件以来暴食はするにしても吐く寸前で抑えている。変化があったとすれば、隣にリリー・エバンズがいるようになったこと。どうやらフィールを放っておけないらしく、何かと世話を焼くのだった。今朝も食べこぼしを指摘し、頬に付いたソースを拭ってやっていた。
激しい羨望の視線の元には、いつもジェームズ・ポッターがいたが、特に親しくもないのでフィールは毎回無視していた。時折なぜかスリザリンのテーブルからも似た視線を受けたが、元も分からず興味もないので同じく無視した。

「さあ、次の授業は呪文学よ」

移動時間にリリーが告げる。

「そうか」

おやつの蛙チョコを食べながら、フィールが頷く。
二人に近寄る者はいなかった。フィールの事件が尾を引き、また吐くのではと心配する者が殆どだった。
時折ひそひそと陰口を言う者がいるが、リリーの一睨みですぐおさまった。リリーは、とりわけあだ名に腹を立てていたのだ。

「ゲロ女だのゲリーだの、酷いと思わないのかしら!」
「ゲリーと言われたことはない」

リリーは顔を赤くした。

「ごめんなさい。――それにしてもね、あなたはもっと怒るべきよ。何にも思わないの?」
「そうだな、特に支障もないし気にしていない。ただ、ネーミングセンスが如何様なものかとは思う」

リリーの期待に満ちた顔が、途端に沈んだ。
別のあだ名を呟くフィールは、開き直りでも気がおかしくなったわけでもなく、本当に何ともないと言った表情だ。仮に気がおかしくなったとしても、それは今に始まったことではないと、リリーは短い付き合いだが理解し始めていた。

「……うん。そう考えると、ゲリーはセンスが良いぞ、リリー・エバンズ」
「もうあだ名のことはいいわ……」

疲れた風に答えると、フィールはそうかと頷き、あだ名の話をぴたりと止めた。
教室に入ろうとドアに近付いた時、リリーの表情がむっと変わった。

「やあ、エバンズ。良い朝だね」
「たった今最悪になったわ、ポッター」

ジェームズ、シリウス、リーマス、ピーターの四人だった。
リリーに会えた嬉しさからか、ジェームズはとびきりの笑顔だった。
シリウスはその傍らで、じっとフィールを見ていた。あの一件以来、廊下で擦れ違ったり大広間で見るたび、何かと彼女を見てしまうようになったのだ。気になって――誤解の無いように言えば、まるで珍しい動物の動向を探っているような気分で観察していた。

「君は噂のゲリーじゃないか」

ジェームズは明らかな侮蔑の念を込めて言った。恐ろしいかな、積もりに積もった妬みの発散は男女関係なく発揮されるらしい。

「私の友達をそんな風に呼ばないで!人の話を盗み聞きなんて良い趣味ね!」

リリーが激昂した。

「あなたって本当に最低――セブルスの次はフィールをいじめる気?」
「そんな気はないさ。女の子相手に、そんなことはしない。もっとも、カリオウスが女の子ならね」

ジェームズがニヤリと笑った。
公衆の面前で嘔吐し、恥じらいの欠片も持たないので――それよりは妬みの方が大きいが――言ったのだ。
どうだとばかりにジェームズがフィールを見ると、フィールはチョコバーをもりもりと食べていた。

「そろそろチャイムが鳴るぞ、リリー・エバンズ」

全く何もなかったようにフィールは言った。
リリーは安心したような腹立たしいようなやりきれない思いで……溜め息を吐くと、頷いた。

「そうね。入りましょう」

先に入ったフィールの後に続き、リリーは教室に入ると、ジェームズの鼻先でぴしゃりとドアを閉めた。

「……」
「君の負けだな」

顔を赤くしたジェームズに、やれやれとリーマスが言った。
ジェームズは鞄を乱暴に肩に掛けると、黙って廊下をずんずんと歩いていった。相当気分を害したらしい。

「フィール・カリオウス、ただの変な子じゃあないみたいだね」

遠くなっていく後ろ姿を見ながら、リーマスが言った。今は放っておくのが一番良いのだ。

「じゃあ僕達は真面目に勉強するかい?」
「そうだな。優等生としてサボるのはいただけないな」

シリウスも仕方なく頷いた。
授業は、どこか暗く、気まずい雰囲気だった。喧嘩がしっかり聞こえていたようで、フィールにリリー、シリウス達に時折視線が向けられた。
フィールは我関せずとノートに落書きをしていた。薬草学と魔法薬学のノートと合わせた壮大なパラパラ漫画作りに勤しんでいたのである。

「リリー・エバンズ」

やおらフィールがリリーの腕を突っついた。
まだ腹を立てていたリリーだが、呼ばれては向くしかない。
フィールはノートの右下を指差した。
パラパラ、とフィールがめくる。すると、右下に書かれていた女の子――怒った表情の――が、チョコバーを食べて笑顔になっていった。

「左下の大長編は未完結だからまだ見せられないが、試作が出来たからな」

大長編が何かは分からないが、リリーは心にあたたかいものが生まれるのを感じた。

「チョコバーは美味しい。ただし先生に見つかると厄介なので後で食べると良い。こっそり隠れて食べるなら今すぐでも良い」

すっと差し出されたチョコバーに、リリーは微笑んだ。

「あなたって本当……おかしな人ね。ありがとう、後でいただくわ」

チョコバーを受け取ったリリーは、それをまだ食べずとも、怒りはすっかり冷め、満面の笑顔になっていた。パラパラ漫画の女の子のように。
一連の様子を、シリウス達が見ていないわけがなかった。



それからリリーは、あまり怒らなくなった。大概フィールのことで気を揉んでいたのだが、陰口が減ったこともあり、怒る事もなくなったのだ――たまにある例外を除いて。

「フィールのことをゲリーなんて呼ぶの、あなたくらいよ!」

「そうかい?じゃあみんなが呼びやすい名前を付けようじゃないか」

数日後、廊下ではリリーとジェームズが対峙していた。ジェームズがまたちょっかいを出してきたのだ。
フィールはリリーの後ろでマフィンに齧り付いていた。
リリーはそんなマイペースさには慣れていたが、ジェームズは一向に慣れなかった。慣れるどころか、見る度に嫌悪感が増していくようだった。
今にも杖を取り出さんとするジェームズに、シリウスが止めるか否か迷っていると、マクゴナガルが現れた。

「廊下で何を騒いでいるのですか!他の生徒に迷惑です、すぐにおやめなさい!」

厳しくそう言い放つと、ようやくリリーもジェームズも落ち着いた。

「グリフィンドール三点減点。……最近のあなた達には目に余るものがあります。以後気を付けるように」

注意を残し、マクゴナガルは去ろうとし―――思い出したようにフィールへと向いた。

「そろそろでしょう、ミス・カリオウス」
「はい。覚えています」

二人以外、誰も、リリーでさえも、言葉の意味が分からなかった。
マクゴナガルは歩いて行ってしまったし、フィールはマフィンをやはり食べている。
疑念が晴らされることはなかった。



友人であるリリーよりも早くにそのわけを知ることになるなんて、シリウスは思っても見なかった。
気だるく、寮にも戻る気にもなれず、医務室に潜り込んで寝ようかと思っていた、ある日のこと。
ひっそりと医務室に入ったシリウスは――ありがたいことに、マダム・ポンフリーは誰かと奥で話していた――ベッドに寝ころぼうとし、はたとその足を止めた。
特徴的な平淡な声が聞こえたからだ。
好奇心に駆られたシリウスは、カーテンの影に隠れ、耳を澄ますと、じっと会話を聞いた。

「大分薄くなりましたね。あとどれだけかかるかは分かりませんが、進歩ですよ」
「普通はすぐ治るものだそうですね。ダンブルドア先生が肉体は精神の影響を如実に現すと仰っていたので、きっと精神がダメなのでしょう」
「あら、あなたにしては後ろ向きな言葉ですね」
「後ろ向きも何も、思ったことを言っただけです」
「……あなたなら違いありません」

マダム・ポンフリーがくすりと笑った。
リリーとの会話の時同様、シリウスには何のことを言っているか、分からなかった。だが、今はあの時とは違う。ここは医務室なのだ。
シリウスは慎重にカーテンの隙間から覗いた。幸い、窓が開いているので多少揺れても不自然でなかった。

そして――マダム・ポンフリーとフィールは座って向かい合って話しいた――会話の核を、しかと見た。

フィール・カリオウスは服を脱いでいた。肌を見せてこちらに背を向けている。
意図せずにだが女子のそんな姿を見てしまったシリウスだが、羞恥と後ろめたさがあっても、背中から目を逸らせなかった。
羞恥も後ろめたさも吹き飛ばすモノが、そこにはあったのだ。

無数の傷跡――切り傷も擦り傷も火傷も痣も、人が付けられる限りのあらゆる傷が、フィールのやけに痩せた背中に刻まれていた。
マダム・ポンフリーは薬を塗ったり湿布を貼ったりと忙しなく手を動かしていた。
フィールは静かに治療を受けている。その表情は、いつもと変わりなかった。ぼんやりしているような、どこか遠くを見ているような――いつもと変わりない、何を考えているのか分からない――顔。

シリウスは足早に、しかし静かに医務室から出た。出るとすぐに、駆け出した。
完全に困惑していた。リリーさえも知らないフィールの秘密を、知ってしまった。

(あれは、虐待だ)

シリウスは確信した。
"遊び"なんて言っていたが、一人で遊んで背中にあんな傷を負うわけがない。誰かが傷つけたのだ。

「……」

傷は治りかけで、薄くなっていた。となれば、出来たのは最近ではない。シリウスが見た限り、少なくともホグワーツに入る前に出来たものだと言えた。

「……よせ、馬鹿らしい」

シリウスはこれっぽっちも馬鹿らしいとは思っていなかったが、そう思い込む為にわざと口にした。
自分が考えたところで何になるだろうか。親しくもない、むしろ、理由はどうであれ親友の敵とも言えるフィールに、情けをかける必要がどこにある?あいつは可哀想な奴だから見逃してやれとでもジェームズに言えばいいのか?

シリウスは自嘲的にふっと鼻で笑った。
何にもならない、必要もない、言わない。言えないでなく、言わない。

フィールが悪い人間ではないことは分かっていた。リリーにチョコをあげ、彼女の笑顔を咲かせていた。
リリーが怒る時には必ずといっていいほどフィールが関わっていたが、リリーが笑う時にもフィールはそこにいた。
悪い人間に、どうして人を笑わせる力があるのか。

しかしシリウスはそれらを押し退け、頭の隅に追いやった。
混乱した彼は、何もかもどうでも良くなっていた。だから何だ、自分には関係ない――何度もそう己に言い聞かせると、ようやくすっきりとした面持ちで、談話室へと向かった。そして、医務室に行こうとした数分前の自分を、呪った。



2014.05.19
 

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