27 想起
いけないものを見つけたかのようにマートルは嬉しそうに笑っていた。
フィールは手前の蛇口を閉めた。マートルはフィールの周りをぐるぐると回っている。
「ねえ、どうしてあんたがここにいるの?監督生じゃないでしょう?優等生からほど遠ーいあんたが、監督生になれるわけないもの!」
「雨ざらしになった」
「へえェ、それでそれで?」
「風邪を引かないようにと監督生のリリー・エバンズが使用許可を取ってくれた」
「驚いた。まさかカリオウスと会話が成立するなんて!」
一つ、また一つと蛇口を閉める。全て閉め終えて浴槽に入ろうとしたフィールの前で、マートルがボチャンと音を立てて湯に突っ込んだ。
「でもそう、ふーん……あっそう……」
無許可ならよかったのに、とマートルの表情が物語っていた。
フィールは3階の女子トイレで授業をさぼった時に何度かフィルチに告げ口されたことを思い出した。
「貧相な体見せ付けるのやめて、さっさと入ったら?」
心底つまらなさそうなマートルに気遣う理由もなかったのでフィールはそうすることにした。
爪先からゆっくりと身を沈め、顎まで浸かると、髪がお湯に広がりゆらゆらと揺れた。
冷え切っていた体が芯から温まっていく。深く息を吐き、浴槽の縁に頭を預けて目を閉じた。
ずっと胸に渦巻いていた重苦しい気持ちは、溶けてなくなっていた。
寂しかった。悲しかった。けれど、嬉しかった。
深い喜びが今は胸を占めている。何もかもがいらないとはもう思えそうにない。
(シリウス。シリウス・ブラック)
彼のことを思うだけで、チョコバーをどれだけ沢山食べた時よりも心が晴れやかになる。
抱いたことのない初めての感情に、戸惑いはない。
「シリウス……」
「――シリウス?シリウスってあのシリウス・ブラック?」
夢見心地で呼んだ名に返って来た声に、フィールは目を開いた。
視界に飛び込んできたのは天井の豪華なシャンデリア……ではなく、マートルだ。顔を擦りつけんばかりに迫るマートルに、フィールは距離を置くでもなくそのまま答えた。
「そうだ」
「あんたジェームズ・ポッターと揉めてたんでしょ?2階の女子トイレで聞いたもの。シリウス・ブラックとも揉めてるの?」
「恋人関係にある」
マートルは甲高い声を上げて目をひん剥いた。
「恋人!?……私が知らないだけで今日って四月一日なのかしら?」
マートルはわざとらしく当たりを見回すが、バスルーム内にカレンダーなどない。
フィールは壁の絵の人魚がいなくなっていることに気付いた。
「あのブラック家の長男と……」
とても信じられなかったが、マートルは疑わなかった。このグリフィンドールの変わり者は、冗談は言っても嘘は吐かないのだ。
「あの?」
「もしかしてブラック家も知らないの?」
フィールが首を傾げたのでマートルは嬉しそうにお湯の中を飛び回った。
「驚いた、あんたも純血でしょ?聞いたこともないの?常識ないものね。世事にも疎いし、知ってることと言えばお菓子の最新情報くらいだものね。ああ、全く仕方のない子!」
バシャンバシャンとお湯を散らすマートルに、フィールはさっさと風呂を出ることにした。
懐かしい声が聞こえた。
安らぎでできているような優しさで溢れたその声が、フィールはとても好きだった。
「随分とお腹が空いているんだね、フィール」
「ち……違うよ、私は食いしんぼなんじゃないよ!おばあちゃんが作ってくれたものはね、みーんな美味しいの!だから、だから食べちゃうんだよ!」
頭を撫でてくれた祖母に、フィールは慌ててクッキーに伸ばしていた手を引っ込めた。
両親を亡くしたフィールは母の実家に預けられた。祖父はとても厳しくフィールに酷かったが、祖母はとても優しく大切にしてくれた。
祖父が仕事でいない昼下がりのお茶会は、フィールにとって夢見以外に安らげる唯一の時間だった。
祖母は内緒だよと言い、フィールの大好きなお菓子や紅茶をいつも用意してくれた。
祖父にはバレバレだったが、祖母はどれだけ咎められてもフィールのために毎日お茶会を開いた。
フィールはお茶会も大好きだったけれど、きつく睨んでくる祖父がいる朝夕の食事も少しずつ好きになっていった。
たくさん食べると、おばあちゃんは喜んでくれる。
おじいちゃんは嫌な顔をするけど、でも、おばあちゃんが笑ってくれるからいい。
ちょっとはしゃいで食べ過ぎてしまうこともあるけど、おばあちゃんが笑ってくれるからいいんだ。
――それが夢であることは、目覚める前から分かっていた。こうあればいいという思いからなる幻想ではなく、そうだったという出来事だからだ。あれは過去。実際にあった、昔の思い出。
窓の外は薄暗く、夜が明けたばかり。
昔を夢に見たのは久しいが、以前のように授業をさぼろうとは思わなくなっていた。
少し冷えるのでガウンを羽織って談話室へと降りる。早朝ということもあってまだ誰もいない。
することもないので外の景色を眺めていると、階段から控えめな足音が聞こえた。
「フィール?」
リリーだ。フィールと同じくガウンを羽織り、寒さに手を擦り合わせていた。
「どうしたのこんな朝早くに」
「目が覚めただけだ」
「そう。偶然ね、私もよ」
二人はソファに腰掛け、揃って窓の外を眺めた。昨晩の雨が嘘のように空は晴れやかだ。
リリーはふとソプラノの髪を見た。昨晩は気付かなかったが、毛先に焦げたような跡があった。
「フィール、その髪……」
「ん」
リリーに言われ、フィールは髪をなんとなしに撫でた。風呂のおかげか艶を取り戻していたが、燃えた毛先は治っていない。
医務室に行けばマダム・ポンフリーがあっという間に治してくれるだろうが、先日のこともあり気が進まなかった。
「それくらいなら私が整えてあげられるわ」
そんな気持ちを察したのか、リリーは部屋からハサミを持ってくると、フィールの髪先を丁寧に切っていった。
チョキ、チョキとリズムよく、それでいて優しい手つきに、フィールは頭がぼーっとするような心地よさに見舞われた。そういえば、小さな頃にもこうやって髪を切ってもらったことがある……懐かしくて、優しくて、泣きたくもなるような感覚だ。
「はい、終わり」
リリーは杖を振って切り落とした髪を片付けると、手鏡をフィールに渡した。
フィールの髪は元通りと言っても過言でないほど綺麗に整えられていた。リリーは随分と髪の扱いに慣れているようだ。美しい髪にも納得がいく。
「リリー・エバンズ」
「何?」
「ありがとう」
「どういたしまして」
リリーのおかげで、誰もフィールに起きたことに気付かないだろう。
リリーは昨晩言った通り何も聞いてこない。それでいていつもと変わらず接してくれる。彼女はいつも優しい。仲を深めるきっかけになった時も、フィールの言葉に傷心していた時も、優しかった。
フィールは手鏡をぎゅっと握って、自分を見つめた。
「リリー・エバンズ」
「うん?」
「私は、苦しかった」
リリーは驚きに目を見開いた。しかしすぐに柔和な笑みを浮かべて、フィールの髪を手で梳き、続きを促した。
「シリウス・ブラックが、私を避けていたからだ」
「……そうね」
「しかし、どうしてそれで苦しくなるかは分からなかった」
あの時の痛みは二度と味わいたくない。
リリーの手櫛は心地よかった。目を伏せて、フィールは続ける。
「苦しみごと、何もかもを私から消したくなった。けれど、シリウス・ブラックが止めてくれた」
そうして自覚した新しい感情がフィールに囁くのだ。フィールは迷わずそれを受け入れた。
「リリー・エバンズ。私はもっと、シリウス・ブラックのことを知りたい」
きっとこれが、リリーが熱弁していた恋なのだろう。
リリーはまるで自分のことのように喜んだ。口元を綻ばせて頑張りましょうねとフィールの手を取り、フィールも強く頷いた。
しかし、二人の意気込みは早々に出鼻を挫かれてしまう。
時間になって男子寮からジェームズ達が降りてきた……が、肝心のシリウスの姿がなかったのだ。
「おはよう、ジェームズ。シリウスは?」
「おはようリリー、今日も綺麗だよ。あー、シリウスなんだけど……」
いつもより鋭いフィールの視線にジェームズはややたじろぐ。
その後ろで、ピーターとリーマスは苦笑いを浮かべていた。
酷くだるい。体中の関節が痛くて、寝返りを打つこともままならない。声は掠れてひゅうひゅうと情けない音となって口から漏れる。全身汗だくで着替えたかったが、何もやる気が起きなかった。
今はただひたすら寝て回復を待つしかない。医務室に行くのだけはごめんだ。
朦朧とする意識の中、脳裏に浮かぶのは愛しい彼女。
(くそ、かっこ悪い……)
シリウスは、風邪を引いた。
2016.04.09
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