26 誰かの涙
雨が降り出していた。
空から落ちる水の量は些細なもので、木陰にいる限り濡れはしない。けれどそれも今のうちで、直に大雨になってここも凌げなくなるだろうとシリウスは淀む雲を見て思った。
しかし大雨を予期しても、とてもではないが状況は城に戻ることを許してはくれなかった。
フィールの髪の燻りが彼女のストレスの証であることは、アクザフルとの事件とダンブルドアの話で明白だった。それが今、最高潮に達している。
シリウスは混乱した。確かにフィールは「楽しい」と、「嬉しい」と言ったのだ。それは彼女の心が豊かになり、安定してきたからではないのか?
「……考えていたことって、何だ?」
なんとか原因を突き止めて落ち着かせなければいけない。使命感を抱き、シリウスはフィールを刺激しないよう言葉を探した。
「記憶についてだ」
フィールの口調は普段通りだった。髪の燻りがなければ、シリウスは異常を察知できなかっただろう。
「忘れたい思い出、忘れてもいいだろう思い出、忘れてはいけない思い出……人は記憶に縛られる生き物だと、実感した」
「……この前の事故でか?」
「ああ、そうだ。私は過去に縛られている。だからいつまでも同じ場所に留まって進み出せない。愚か者だ」
「そんなこと――!」
フィールは顎に手をあて考える素振りを見せた。
「そうだな……私は楽しさ、嬉しさを思い出した。しかし同時に、幸福の不幸さも思い出した」
フィールの口調が苦々しいものに変わる。
「今までなかったものなのに、なくても平気だったのに、なくなると以前よりも不幸になる……それならば、そんなもの初めから求めなければよかった。少なくとも私にはいらないものだった。こんな記憶は、いらない」
煤になった髪が風に舞う。出会った時よりも艶が出ていた髪が無残なものだった。
「犬の姿では会いに来ても、人の姿では顔を合わせようとすらしなかったのは私への罪悪感からだろう。お前も記憶に縛られているのだ、シリウス・ブラック。お前は苦しくて、その苦しみを忘れたがっていた」
シリウスはフィールの瞳に酷く焦る自分が映っているを見た。
フィールの丸い瞳が、笑むように歪められる。
「心配することはない。私が消そう。シリウス・ブラックには世話になった……そうだな、念を入れて呪文も唱えた方がいい。その方が確かな効果があるだろう」
「消す、って」
笑っているのに笑っていない。シリウスの感じる不安と悪寒は増す一方だ。
「私への忠告だが、他にも消したい記憶があれば応じよう」
「僕のことじゃない……!フィールも何か消すんだろう!何を消すつもりなんだ!」
「全てだ」
雨が強まる。大きな水の粒に打たれても二人は動かない。
冬の冷たい雨の中でも、フィールの燻りは消えるどころか今にも燃え上がりそうですらあった。
「忘れたい……何も、かも……」
ザァザァと辺りを容赦なく打つ雨音に混じり聞こえた声に、シリウスはようやく悟る。
フィールは嬉しいと言った。楽しいとも言った。それは心が安定したのではなく、彼女の浅く少ない感情が絞られ尽きるサインだったのだ。
『フィールは無敵なんかじゃない』
リーマスの言葉が蘇る。そうだ、彼女は無敵じゃない。いくら優れた魔法使いでも、いくらすばしっこくて喧嘩が強くても、血を流せば倒れるし、人の涙に心を揺さぶられることもある。一人を寂しく感じれば、ぬくもりを求めることだってある。
「……忘れてどうなる。辛さから逃げるために、思い出を捨てるのか?俺達と過ごした時間を、本当に消したいのか……?」
違うと分かっていた。フィールはやろうと思ったらやる、そんな人間だ。本当に全て消してしまいたいのなら、とっくに実行している。こうやって自分に話しているのは、止めてほしいからだ。
「でも……本当に馬鹿なのは僕の方だ……フィールを一人にして、逃げていた……大馬鹿だ」
恋しく思われたい。その望み通りに、フィールは自分を恋しく思っていた――自分が腑抜けてしまっている間も、ずっと自分を待っていた。自惚れだとは思わない。強く握った手が微かに握り返され、シリウスは新たな決意を固めた。
「忘却術なんてかけたって無駄だ。お前がどんなにすごい魔女だろうが関係ない。何をしたって、どうしたって、忘れてやるもんか!」
フィールは目を見開いた。青い瞳を揺らして、シリウスを見つめた。
握り返される力が強くなり、シリウスも応えるように力を込めた。
「私はどうしたらいい?」
吐き出された声は震えていた。迷いに溢れ、懇願するかのような響きは切なくシリウスの鼓膜を打った。
シリウスは泣きそうになった。なって、けれど堪えて、答えた。
「僕を頼ればいい」
土砂降りの空に負けないよう、シリウスは声を張り上げた。
「何があったって僕はフィールの側にいる!だから、僕を頼ってくれ!」
彼女が再び喪失に遭わぬように。
思いがけず不幸になろうとも、進めばその先にまた幸福がある。挫けずに歩んでいけば、何物にも代えがたいものを手に入れられる。寂しさに挫けそうになっただけで、フィールも分かっているはずだ。友情と愛情を与えられ、また自分で与えても来たのだから。
雨の音をかき消すほどの大声は、やがて空に大地にとゆるやかに溶けた。
「あ、わ、悪いでかい声出して……え――」
つう、とフィールの頬を何かが伝っていた。
雨水と違うそれにフィールも気付くと、辿々しくその跡を指先でなぞった。
「知っている」
他人事のような言い方だった。
「これは、涙だ、シリウス・ブラック」
シリウスは震える手を伸ばした。フィールの頬は冬の雨に冷え切っていたが、はらはらと落ちる涙は熱かった。
呆然としたまま、声もあげずに涙を流すフィールが痛々しく、けれど酷く愛おしく、シリウスは引き寄せられるように唇を重ねていた。
細いその身が壊れぬようにフィールの肩を掴む力は、自分でも驚くくらいに優しかった。
雨はまだ止みそうにない。
頭のてっぺんから爪先まで、すっかりずぶ濡れになっていた。
フィールと外に出る時は傘を持ち歩いた方がいいだろうか。二人で入れる大きな傘を買おうか。小さな傘の下で身を寄せ合うのも悪くはない。それとも泥遊びに興じた方がいいだろうか。こんな状況でなかったなら、ジェームズ達も呼んでそうしていたかもしれない。
今はそう思い付かないが、土砂降りの日も楽しく過ごせる方法は沢山あるだろう。
彼女が悲しい雨の日を過ごすのは、今日が最後だ。
「……城に帰ろう」
シリウスが言うと、フィールは黙って頷いた。
フィールの髪の燻りは消えていた。
『太った婦人』の呆れ顔を受け、談話室に戻った二人を迎えたのはリリーとジェームズだった。
「二人ともどうしたのよ!?ずぶ濡れじゃない!」
いの一番に飛んできたリリーは素っ頓狂な声を上げた。
「天気が悪くなったらすぐに戻って来なさい!全くもう……――フィール?」
二人揃っているのでようやく元の鞘に収まったのかと安心しかけるも、リリーはフィールの表情に素晴らしき女の勘を発揮させた。
「シリウス……あなた、フィールを泣かせたわね」
「えええっ!?」
ジェームズは驚きのあまり眼鏡を落としそうになった。
リリーはシリウスが何も言わないので業を煮やし、凄まじい剣幕で詰め寄った。
「もう我慢ならないわ!あなたってば、放ったらかしにしておいて――!」
リリーの怒りはジェームズにも止められそうにない勢いだったが、フィールの盛大なくしゃみによってあっさりと収まった。
「いけない、風邪を引くわ!少し待っていてちょうだい!」
フィールにハンカチを渡すと、リリーは足早に談話室を出て行った。
どこに行ったのだろうと三人が不思議に思っていると、リリーはすぐに戻ってきた。
「お待たせ。さ、行きましょうか」
「どこへ行くんだい、リリー」
「監督生のバスルームよ。マクゴナガル先生の許可はいただいたわ」
きびきびとフィールを連れ行くリリーを見送ってから、ジェームズは隣に立つ濡れ鼠に目をやった。
「ずぶ濡れも様になってるよ、色男」
ジェームズの口ぶりは軽かったが、どこか安心したような穏やかさを持っていた。
ああ、親友にも心配をかけていたのだ。シリウスが申し訳なく思っていると、後ろから頭にタオルをかけられた。リーマスだ。
「シリウスも行きたいなら僕も先生に頼んでみるけど、どうする?」
「いや……いい」
シリウスはタオルで髪を拭いた。どうせ今行っても入れない。
それにもう少し雨に冷やされた頭で考えたいことがあった。
「で、泣かせたってどういうことだい?」
立ち塞がるリーマスのえも言われぬ威圧感に、シリウスは頬を引き攣らせた。
バスルームの存在はフィールも知っていた。以前校内を探索していた時に偶然見つけたのだ。合言葉が分からなかったので入ったことはないが、近くを通りがかった当時の監督生に自慢されたのでよく覚えていた。
「リリー・エバンズ」
噂に聞く最高のバスルームへの期待はあまりない。フィールは先を急ぐリリーに声をかけた。
「シリウス・ブラックを責めないでほしい」
振り向いたリリーは驚きに目を見開いていた。しかしすぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「分かっているわ。さっきはついカッとなってしまったの……ごめんなさい。後でシリウスにもちゃんと謝るから安心して」
歩調はそのままに、リリーは長い廊下を歩く。
「フィール、あなたが元気になって本当によかった。何があったかなんて聞かないわ。あなたが話したくなったら、その時に聞かせてくれればいいから」
合言葉を唱えて扉を開けると、リリーはフィールの背中をそっと押した。
「今はゆっくりお湯に浸かって来なさい。体をあたためないとね」
外で待っていると言うリリーを残し、フィールはバスルームに足を踏み入れた。
広々としていてとても豪奢なバスルームだ。衣服と靴を脱ぎ捨てぺたぺたと大理石の床を歩く。金色の蛇口を何本か捻るとお湯と泡が流れ出し、室内は瞬く間にあたたかい空気に満ちた。
三角座りになってお湯が溜まるのを静かに待った。壁にかけられている絵の人魚が興味深くこちらを見ていたが無視を決めた。
そろそろ頃合いだろうか。深い浴槽なので溜め過ぎると座れなくなる。
「あら、あら、あら。見慣れない顔だと思ったらゲリーじゃない」
少女の声に突然呼ばれ、フィールはきょとんとして声の出所を探した。
「ここよ、こ・こ。相変わらずボーッとしてるわねぇ」
お湯の出ていない蛇口からにゅるりとゴーストの少女が現れる。少女はフィールをからかうように辺りを飛び回った。
「お久しぶりね。あ、この名前はもう古かったかしら?」
厚みのあるメガネをわざとらしい仕草でかけ直しながら、嘆きのマートルはにやりと笑った。
2015.05.31
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