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25 蠱惑のチョコレート

とても大きいことを除けば何の変哲もない犬だった。
犬はフィールのすぐ隣で、鳴きもせずに舌を出してじっとフィールを見ていた。

底知れない深い輝きを持つ犬の瞳に、フィールは吸い寄せられそうになった。
犬はフィールの視線を受けると更にその身を寄せた。
自分よりも一回りも二回りも大きな犬に、フィールはそっと手を伸ばした。やけに毛並みがいいが、誰かのペットならすぐに噂になりそうなほど目立つ犬だ。野良だろうか。禁じられた森から来たのかもしれないが、纏う雰囲気から危険性があるとは思い難かった。

「もじゃもじゃだ」

顎を撫でると犬は気持ちよさそうに目を細めた。フィールも柔らかな毛に触れてとても心地良かった。
フィールは今度は犬に抱きついた。犬は一瞬びくりと身を揺らしたが暴れはしなかった。
お日様のような匂いに、フィールの瞼は次第に重くなっていった――。

次にフィールが目を開くと、犬の艶のある毛が目の前にあった。体を預けて横になっていようだ。
寝そべっていた犬はフィールが起きたのに気付くと、優しく頭をすり寄せた。

「すまない、少し眠ってしまったようだ」

太陽はあまり動いていなかった。フィールは立ち上がるとローブについていた草や枯れ葉を払った。

「また会おう、犬」

フィールは本を持つと犬の頭を撫で、ホグワーツ城へと歩き出した。
なんだか体が軽くて、今夜はよく眠れそうな気がしていた。



次の日の放課後、フィールは談話室で制服のポケットにありったけのチョコバーを詰め込んでいた。

「あらフィール」

リリーはフィールのはち切れそうなポケットを見て眉を顰めた。

「そんなに沢山のチョコバーをどうするの?チョコバーが大好きなのは知っているけど、食べ過ぎはダメよ」
「私一人で食べるのではない、リリー・エバンズ」
「そう?それならいいけど……」

フィールは足早に談話室を出て行った。
リリーは机に宿題を広げた。しかしなかなかペンが動かなかった。
しばらくしてリーマスがやって来た。

「あら、リーマス。フィールと一緒じゃないの?」
「フィールならさっきすれ違ったけど、どうかしたのかい?」
「チョコバーを沢山持っていたから、てっきりあなたと食べるのかと思ったの」

リリーが言うと、リーマスはポケットからチョコバーを数本出して見せた。

「チョコバーならもらったよ。フィールはまた校庭に行ったみたいだ」

あんなに沢山どうするんだろうねとリーマスは笑う。リーマスはリリーと違って、フィールが元気になるのなら多少食べ過ぎてもいいのではないかと思っていた。同じ甘いもの好きとして、贔屓してしまうというのもあったが。

「そう……フィールったら、誰と食べるのかしら?」

リリーは不思議そうに首を傾げた。
リーマスはテーブルの真ん中で悪戯グッズを広げているジェームズとピーターを見た。一人足りない。

「シリウスは?」
「どこかに行っちゃった」

ピーターが眉を下げて言った。心配そうなピーターとは反対に、ジェームズはあっけらかんとしている。

「ま、いつまでもぼーっとしてるよりはマシさ」
「それもそうだね」

リーマスは頷くと悪戯グッズを漁る輪に入った。
ジェームズは何食わぬ顔で、手にしていた羊皮紙を懐に戻した。



フィールは昨日と同じ場所まで来ると、三角座りになった。今日は本を持ってきていない。しかし芝生を眺める必要もない。
また会おうと一方的に言っただけだったが、フィールはなんとなく今日も大犬に会えるような気がしていた。
待つこと数分。草木の揺れる音がしたのでそちらを向くと、思った通り昨日の大きな犬が来ていた。

「犬」

フィールが呼ぶと犬は尻尾を振りながら近付いた。昨日のようにフィールが顎を撫でると、犬は目を細めて傍に座った。
それを見てフィールはポケットを漁った。

「犬、お前は体格の割に痩せている」

昨日抱きついた時に思ったのだ。

「食べるといい」

そう言ってフィールは大量のチョコバーを芝生に広げた。一つ包みを破り犬の前に置く。
ぶんぶんと振られていた犬の尻尾がピタリと止まった。フィールが自分の分を食べ始めても犬は固まったままだ。
フィールが二本目のチョコバーに手を出しても、犬はじっとしていた。

「……チョコバーは嫌いか」

フィールの視線に犬はハッとすると、慌ててチョコバーに食らい付いた。瞬く間にチョコバーがなくなる。

「いい食べっぷりだ」

フィールは犬の頭を撫でると、チョコバーの包みを破いてまた犬の前に置いた。
犬はガツガツとチョコバーを食べた。
フィールは犬が食べ終える前にまた包みを破き始めた。
結局、大犬はフィールが持ってきたチョコバーを殆ど一匹で食べることとなった。



次の日もフィールは犬にチョコバーを食べさせた。
その次の日もフィールはチョコバーを持っていった。
チョコバーの山の前で犬はフィールを見つめた。しかしじっと見つめ返され、フィールが包みを破るのを座って待った。
日が傾く頃にはチョコバーも残りわずかとなっていた。
フィールは無心になって食べる犬を嬉しそうに見ていた。

「こんにちは」

突然、一人と一匹だけの空間に、フィールのものでない――当然、犬のものでもない――誰かの声が割り込んだ。
フィールが振り向くと、緑色のネクタイをした男子生徒がいた。見覚えがある。リリーを待っている時に会った生徒だ。
フィールは以前抱いた既視感を探ろうとその男子生徒を見つめた。

「中から見えたもので……寒くないですか?」

黙ってじろじろ見るという不躾な態度にも関わらず、男子生徒は穏やかな笑みを浮かべている。

「ああ、そうでしたね。自己紹介をしないと――」

男子生徒は思い出したように名乗ろうとしたが、それは犬の咆哮によって遮られた。チョコバーの食べかすを辺りに散らしながら、これでもかという程に大犬が吠えたのだ。

「犬……?」

この四日間、撫でようが抱きつこうが鳴き声一つ漏らさなかった大人しい犬の急激な変化に、フィールは少しばかり驚いた。

「なんだか嫌われているみたいですね」

犬は一向に鳴き止まない。どころか、どんどんと敵意を剥き出しにしている。

「噛まれてしまう前に退散した方が良さそうですね……残念ですが、挨拶はまた今度にさせていただきます」

男子生徒は一礼すると、悠然とした振る舞いのまま立ち去った。
犬は男子生徒が見えなくなるまで吠え続けていた。
やっと鳴き止んだ頃には、犬は興奮で息を切らしていた。

「犬」

フィールが呼ぶと犬は尻尾を振ってフィールに擦り寄った。やはり大人しい。釈然としないが、フィールは最後のチョコバーの包みを破くことにした。
犬は尻尾を振るのを止めた。

五日目になってフィールは犬の食欲が衰えていることに気付いた。食べるには食べるが、初日ほど勢いがない。そこでフィールは考えた。

六日目、どこか元気のない犬がやって来た。毛並みも少し落ちたようだ。
やはりそうかとフィールは確信し、いつものようにポケットの中身をぶち撒けた。

「さすがに飽きると思ってな」

俯いていた犬が頭を上げた。
芝生にはいつものチョコバーではなく――ストロベリーとバナナのチョコバーがあった。
犬は疲れたように地面に伏せった。

犬がやっとチョコバーを食べ終えると、フィールは立ち上がった。

「図書室に用があるんだ。また会おう、犬」

犬はフィールが去ると、くたびれたように寝転がった。


シリウスは限界を感じていた。重い体を引きずって談話室に入ると、リーマス達と悪戯を練っていたジェームズがすぐさま駆け寄って来た。

「シリウス、君にもそろそろ手伝ってほしいんだけど」
「……何をだ?」
「今年のクリスマスはちょっと趣向を変えたくてね。ほら、僕はリリーとの約束があるからさ――そうだ聞いておくれよ!リリー、毎年クリスマスは家に帰ってるんだけど、今年は残るんだって!僕と過ごしたいからだよ!ああ、リリーったら本当に可愛い僕の天使――まあだから、今年はあんまり暴れられないんだけど――シリウス、聞いてるかい?」
「ああ……」

シリウスは聞いていなかった。ただでさえ気分が悪いのに、ジェームズののろけを聞いていてはますます気分が悪くなりそうだった。
ジェームズはリリーのことでとても機嫌がいいのか、シリウスの気怠げな返事にもニコニコとしていた。

「そういや相棒、ちょっと太ったんじゃないかい?まるでチョコバーを食べ過ぎたみたいな太り方だ」

シリウスは思わず口を塞いだ。チョコバーと聞いた途端、胃液がせり上がってくる感覚がしたのだ。

「悪いジェームズ、必ず手伝うから今日は――」
「あ、君の愛しい恋人が帰って来たようだよ」

休ませてくれ。そう言いたかったが、ジェームズによって遮られてしまった。
フィールは分厚い本を両手で抱えていた。

「フィール!面白い本は見つかったかい?」
「それなりに、適当に、見繕ってきた」

フィールの借りてきた五冊の本は題材に全く共通点がなかった。
本当に適当なんだなとシリウスが思っていると、ジェームズが小突いてきた。

「運ぶのを手伝ってあげたらどうだい、パッドフット」

突然の提案にシリウスがびっくりしていると、ジェームズはやれやれと首を振った。

「悪いねフィール。どうやらシリウスは散歩のし過ぎで疲れて――」
「部屋まで運べばいいんだな!」

シリウスは慌ててフィールから本を奪った。どうもジェームズの言動が気にかかるが構う余裕はこれっぽっちもない。今はさっさと部屋で休みたい。
しかしシリウスの足が女子寮への階段に触れた瞬間、階段は坂へと変化し――しまったと思った時にはもう遅く、シリウスは坂を転げ落ちて頭から談話室に戻された。
ジェームズが大笑いしたが、シリウスには怒る気力もなかった。
階段の仕掛けを解くにはどうするんだったか。痛む頭で考えているとフィールが顔を覗き込んできたので、シリウスは咄嗟に目を逸らしてしまった。フィールの瞳は何もかも見透かしてしまいそうで、今の気持ちを知られたくないシリウスにとっては直視できないものだった。
フィールは何か言いかけようとしていたが口を噤むと、シリウスがばらまいた本を拾った。

「あれ、フィール、いいの?」
「これくらい自分で運べる」

フィールは軽々と本を抱えて女子寮に行ってしまった。
シリウスは頭をさすりながら起き上がった。吐き気のせいでもう何も考えたくなかった。転んだ衝撃で吐かなかったのは奇跡と言えよう。

「そういえばシリウス、顔色が悪いね」
「ああ……だから今日はもう休ませてくれ」

シリウスは胃の辺りを擦りながら、のろのろと男子寮へと向かった。



フィールが犬と出会ってから一週間が経った。

フィールは今日も犬を待っていた。
しばらくして犬が現れた。犬は耳も尻尾もしょんぼりと垂らしていて、覇気がなかった。
いつもならすぐにチョコバーを食べる会を始めるのだが、フィールはそうせず犬の頭を撫でたり抱きついたりして過ごした。
一頻り遊んだ後、フィールは犬に手のひらを見せた。犬は従順にその手に前足を出した。お手の形だ。
フィールはもう何度も触った肉球を指でつつきながら言った。

「変わった趣味を持つのだな――パッドフット」

一瞬にして、まるで石像のように犬は硬直した。
フィールは構わず肉球をつつき続けていたが、その瞳は真っ直ぐに犬を射抜いていた。
犬は――はっとすると、辺りを見回し、誰もいないのを確認してから近くの茂みに飛び込んだ。
すぐさま青褪めたシリウスが茂みから現れても、フィールは驚かなかった。

「やはりシリウス・ブラックだったか」
「な、なん――何で!」
「久しぶりの会話なのに随分だな」

シリウスは何も言えなくなった。この一週間毎日顔を合わせていたが、それは犬の姿でのこと。人の姿でフィールときちんと話すのは、あの事故の日以来だった。

「ひと目見た時から、どことなく似ているとは思っていた」

シリウスはごくりとつばを飲んだ。犬に変わる時も人に戻る時も細心の注意を払っていた。誰にも見られていないはずだ。変身する瞬間を見られたのでないとしたら、一体いつバレたのか。酷く焦った。
だが、フィールは語らなかった。

「……私が気付いたことは、そんなに問題か」
「あ――いや――いずれは……言うつもりだった。その……騙すような真似をして、悪かった」
「構わない。この一週間、なかなか楽しかった。私もすまなかったな……私の基準で考えていたが、あのチョコバーの量は二人でも多すぎるらしい。必ず食べてくれるのが嬉しくて、調子に乗っていた」
「……楽しい?嬉しい?」

シリウスは瞬きをした。フィールが楽しいと言った――嬉しいと言った――大変な目に遭ったが、結果的には良かったのだ!

「ああ、酷く充実していた。いい体験だった」
「何……?」

ドキリ。シリウスは胸に不安が湧き出すのを感じた。この妙な感覚はなんだ。喜ばしいこの状況に、一体何の不幸が訪れると言うのだ。近くに怪しい影はない。もしかしたら自分が気付けていないだけで、フィールは何かの気配を察知しているのか。

「フィール――」
「考えていたことがある」

いざとなったらフィールを守れるよう。シリウスが警戒していると、フィールが出し抜けに言った。
フィールと視線がぶつかる。瞬間、シリウスは背筋に氷を入れられたかのような寒気に襲われた。妙な感覚の正体は目の前にいたのだ。

「きっと、お前もそうなのだ、シリウス・ブラック」

どうしてなのかシリウスには分からなかった――フィールの髪先が、チリチリと燻り始めていた。



2015.04.26
 

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