23 切望の痛み
まるで岩が砕けたような、低く、鈍い音が響く。
近くで女生徒の悲鳴が上がり、その響きはすぐに掻き消された。
「あ――あ――」
唇が震えて、リリーはうまく喋れなかった。薄茶の長い髪と、黒のローブが風に揺れている。フィールが、自分に背を向けて立っている。
シリウスも声が出せなかった――フィールの胸に、ブラッジャーがめり込んでいた。
「フィール!」
空からジェームズが叫ぶ。
ブラッジャーがフィールから離れる。が、速度をつけて再びフィールの胸に飛び込んだ。
「が、ッ」
みしみしとめり込むブラッジャーに、フィールの口から血が散った。
ブラッジャーはまた離れて三度目の打撃を加えようとしたが――フィールは両手でそれを受け止めた。肩が外れるかというほどの衝撃に、僅かに眉がしかめられる。
「この暴れ球め!」
リーマスが杖を振るうと、ブラッジャーは勢いをなくして落ち転がった。ピーターが恐る恐るそれを蹴るも、もう動く気配はない。
気が抜けたのか、フィールはがくりと膝から崩れ落ちた。
「そんな……一体、何がどうなって……フィール……」
リリーは信じられないとフィールとブラッジャーを交互に見ていた。
「原因は後で調べるとして、とにかく医務室に!」
客席を見回しながらリーマスが叫ぶ。
シリウスは弾かれたようにフィールの身を抱き上げた。
「ぁ……」
フィールはぼんやりとした目をしながら、口を動かそうとしていた。
「喋るな!」
「シリウス、あまり動かさない方がいい」
リーマスに宥められながらも、シリウスは怒りが胸に湧くのを感じていた。
ブラッジャーは確かに高速で飛来したが、フィールならどうという障害ではないはずなのだ。
魔法を使えば、容易く跳ね除けられた。ブラッジャーを粉々に砕いたり、弾き飛ばしたり、はたまたリーマスがやったように大人しくさせたり、方法はいくらでもあったはずだ。そう、そのはずだったのだ。
彼女が何を言おうとしているのか、なんとなくだが分かってしまった。シリウスは悔しくて悔しくてたまらなかった。
「使うなとは言った!けど、こんな時は別だろう!」
フィールは魔法を使わなかった――自分が釘を差したばかりに。
シリウスの叫びに、フィールはそうか、と消え入りそうな声で返した。怪我をしていないシリウスがどうして痛そうな顔をしているのか不思議だったが、フィールはそれよりもシリウスに聞いてほしいことがあった。
「分か、たんだ、シリウス・ブラ、ク」
だから、フィールはまた声を絞り出そうとした。
「傷が、消えない、理由が、今、分か、た」
「だから喋るなって――!何?」
シリウスは怒鳴りを飲み込んでフィールの口元に耳を寄せた。痛みに呻くでもなく何かを伝えようとする姿に、どこか必死さを覚えた。
弱々しい吐息がシリウスの頬を撫でる。
「傷が、私を、苦しめているん、じゃない……わた、しが、傷を、苦しめて、いる、んだ」
フィールは笑っていた。それは酷く自嘲的な笑みだった。
「私は、痛みに、生きる喜びを、かんじ、て、いたんだ」
――我を失った母にこれ以上ないくらい傷つけられた時も、祖母の制止を振り切って杖を向けてきた祖父に虐げられた時も。フィールは「痛みこそ自分が生きている証しだ」と、自分を励ましていたのだ。
それは感情をなくしてからも記憶の底にこびり付いており、今再びフィールに囁いていた。酷い怪我を負い、痛みに苦しむことがあってもなんてことはない――それ以上の充実感を、得ているだろう?
遊びは傷を忘れる行為ではなかった。
喜びを思い出す行為でもなかった。
いつまでも痛みを感じていられるよう――いつまでも生きている実感を得られるよう――自分で自分を傷つける、ただそれだけの行為だった。
「滑稽、だな」
他にどんな言葉があるというのだろうか。投げやりに吐いて、フィールは意識を手放した。
「フィール!……くそっ!」
シリウスは舌打ちした。力の抜けた体が少し重くなったが、それでも軽くて、もどかしかった。
フィールを抱えて駆け出そうとしたその時、ジェームズが箒で客席に滑り込んできた。
「シリウス!フィールを!」
手を伸ばしながらジェームズが叫ぶ。
「早く診てもらった方がいい。僕が最速で連れて行く!」
フィールが落ちないようにリーマスが補助の魔法をかけると、ジェームズは瞬く間に競技場から飛んで行った。
「私達も行きましょう」
これならすぐに治療を受けれそうだ。不安は残るが、リリーは少し落ち着きを取り戻していた。
「……僕のせいだ」
棒立ちになったシリウスが言った。シリウスの後悔は止めどなかった。
「僕が、使うなって言ったんだ」
「使うなって……魔法のこと?フィールに魔法を使うなって言ったの?」
リリーが聞くと、シリウスはやけくそに言った。
「そうだ!フィールはいつだって魔法を使えるのに、杖なんかなくても使える、無敵の魔女なのに!僕のせいで――!」
傍にいながら、フィールが打たれるところを何もせずに見ていた。
拳を握り締めるシリウスの肩を、リーマスが掴む。
「シリウス、落ち着くんだ。君のせいじゃない。もちろん、リリーのせいでもない。それに……フィールは無敵なんかじゃない」
シリウスははっとした。胸をぎゅっと掴まれたような気がした。
リーマスはシリウスの背中を押して無理矢理歩かせた。そうしなければ、シリウスはずっと歩き出さないように思えたからだ。
「フィールが、魔法を……」
リリーはしばらく考えるように呟いていた。
医務室に着くと、箒を抱えたジェームズがシリウス達を迎えた。
「あばらをやられたみたいだ。内臓も少し……でも、マダム・ポンフリーは心配ないって!」
当然立ち入りは禁止されていた。今頃マダム・ポンフリーはあくせくとフィールの治療にあたっているのだろう。きっと、酷くやきもきしながら。
「僕は一度戻ってチームのみんなに説明してくるよ。フィールを運んでるところ、マクゴナガルに見られたから呼び出されると思うし」
「私もすぐに行くわ。みんなで事情を話した方がよさそうだもの。ありがとう、ジェームズ」
リリーがジェームズを送ろうとした時――出し抜けにリーマスが言った。
「あれはただの事故じゃない」
空気が一瞬にして張り詰める。
「うん……あのブラッジャー、魔法がかかってたよね……なんでだろう?」
ピーターが同意した。
ブラッジャーは観客を狙わない。クィディッチの説明をしていた時に証明されたばかりだ。それが突然、ビーターに打たれたわけでもないのに客席に飛んできた。
リーマスの表情は険しい。
「見当はついてるんだけどね」
「えっ、誰!?」
驚くピーターにリーマスが答える。
「近くにいたレイブンクローの子達。杖をしまうところを見た」
リリーははっとした。
「でも、少し様子が変だった。けしかけた割りに……心底驚いてた」
リーマスが顎に手をあてながら言う。
リリーはひっそりとジェームズを見た。そして次に医務室を見た。息をするのが、苦しくなった。
「あの子達が狙ったのは……私よ」
やっとのことで告げると、ジェームズが飛び上がりそうなくらいに驚いた。
「リリー!?一体どういうことだい!?」
「隠していてごめんなさい、ジェームズ……少し前にあなたのことで呼び出されたの。私、あなたとは絶対に別れないって言ったのよ。きっとそれがまた気に入らなかったんだわ」
リリーの言葉は嬉しかったが、さすがにジェームズも喜びより怒りが勝った。
「それであんなことを……!?リリーは無事だったけど、フィールがどんな目に遭ったと思ってるんだ!」
マダム・ポンフリーに預ける際――フィールはグリフィンドールのネクタイよりも真っ赤な血を吐いていた。目を背けたくなる光景だった。
ジェームズはそれを自分の為にでもリリーの為にでもなく、フィールの為に言わなかった。言わなくて正解だった。言っていれば、リリーは酷く自分を責めただろう。フィールはそんなこと望まないはずだ。
ジェームズはとても苛立った。リリーが呼び出されたことも、またその身に危険が迫ったことも、それに気付けなかったことも、友人が傷付いたことも――ジェームズは今にも怒りで爆発しそうだった。
「待つんだジェームズ」
激昂するジェームズに、リーマスは慎重に言葉を選んだ。
「彼女達も、こうなるとは思ってなかったと思うんだ。本当に驚いた風だった……まるで、"こんなつもりじゃなかった"とでも言いたげだった」
「す、少し、驚かすつもりだっただけ、とか?」
ピーターがおどおどと言う。こんなつもりじゃなかった……悪戯や授業で失敗した時によく使う言葉なので、なんとなくだが気持ちが分かるのだ。
リーマスは頷いた。
「それにブラッジャーに魔法をかけるなんて、レイブンクローの才女達がそんな野蛮なことを思い付くかな」
「誰かが入れ知恵した……君はそう言いたいんだね、リーマス」
リーマスがまた頷く。リーマスはあくまでも冷静でいようとしていた。
「……分かったよ。無闇に悪戯を仕掛けるのはやめておこう」
ジェームズはまだ怒りが治まらないのか息が荒かったが、渋々ながらに納得したようだった。
「それじゃあ、また後で」
ジェームズは箒に乗ると、滑らかに廊下を飛んで行った。
「シリウス……大丈夫?」
ピーターが心配そうに聞いた。
シリウスはずっと黙っていたが、三人分の視線を感じて「ああ……」と力なく返した。
マダム・ポンフリーは鬼の形相で最後の薬をフィールの口にねじ込んだ。
フィールはうっすらと意識を取り戻していたが、その瞳には生気がなかった。
この子が軽口を叩こうともしないなんて。酷い痛みにもとびきり苦い薬にも反応しなかったことが、マダム・ポンフリーには気がかりだった。
薬瓶を片付け終え、重い息を吐く。
「あなたが医務室に来るのは、この前が最後かと思っていましたよ。いっそもう、医務室に住んではいかがですか?」
フィールの視線がマダム・ポンフリーに向けられる。
「喋らなくて結構。私の言葉は、ただの小言と流して下さって構いません」
喋りたくても喋れないことをマダム・ポンフリーは分かっていた。
「あなたほど医務室が好きな生徒はそういません。私がこのホグワーツの校医になってからの入院歴の一等賞はあなたです。どうせなら他のことで一番になってほしいものです」
けれども口が動く。重傷の生徒に話しかけるなど、普段の厳粛なマダム・ポンフリーにはありえない行為だった。
「あなたと顔を合わさなくて済む日が来ることはあるのでしょうかね。それが寂しくとも、私にはとってはとても待ち遠しい日なのです。お分かりですか?」
言葉とは裏腹に、マダム・ポンフリーの口調はとても穏やかだ。
「本当に、あなたは問題児です……ミス・カリオウス」
小言と思えないそれを聞きながら、フィールは医務室の天井を眺めた。
青く澄んだ瞳はまばたきを忘れたかのように、じっと天井を見つめ続けていた。
2015.02.10
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