災難未熟緑
今日から、新しい一日が始まる。
スフォルツェンド王宮女官。世界を支える大国の一部として、これから勤めて行くのだ。
法術も出来ない、武術も出来ない、優れた英知があるわけでもない。
任されたのも庭掃除であり誰にでも出来る雑用だが、それでも自分が国の役に立てることが、心から嬉しかった。
空に上る太陽が、いつもより眩しく感じられた。
「名前です。今日からよろしくお願いします!」
少女名前は――糊の効いた制服を纏い、深く頭を下げた。
明るい挨拶に先輩女官であるチェレスタは満足気に頷くと、負けないように声を張った。
「元気があってよろしい。私はチェレスタ、あなたの指導係よ。よろしくね」
「はいっチェレスタ先輩!」
先輩呼びに心がそわりとなり、悪くないとチェレスタは手にあるマニュアルを広げた。後輩へと仕事内容を簡単に説明していく。
「いい?今フルート王女の生誕パレードの準備でどこも人手が足りないの。私達が任されているのはこことここね。人があまり通らないところではあるけど、二人だからかなり大変よ」
「はいっ」
掃除用具を手に持ち場へと移動する名前とチェレスタ。
歩きながら、適当な会話をする。
「落ち着いたら人も戻って来るから、それまで頑張りましょう」
「いつもは二人じゃないんですか?」
「他に三人いるわ」
「そうなんですか。皆さん、他のお手伝いに向かわれたのですね」
名前の一言にチェレスタはぴたりと立ち止まった。顔が強張っている。
「チェレスタ先輩?」
失言があったのだろうか。
それならばすぐに謝りたいが、思い返しても心当たりがない。
不安に揺れる名前に、チェレスタははっとすると、誤魔化すように再び歩き始めた。
「……そうよ。二人は中の仕事に、もう一人は……療養中」
「療養……」
「仕事中に少しケガをね」
みるみる青ざめていく名前に、チェレスタは苦笑を漏らした。一体どんな風景を想像しているのだろうか。案外重労働な庭掃除は、ケガを負うことも少なくはない。
けれど、違うのだ。怯えを拭うように、チェレスタは名前の肩を軽く叩いた。
「軽いものだから気にしなくていいのよ。さ、着いたわ。一仕事しましょ」
名前が抱いたのは、自分への心配ではなかった。軽いとは言っているが仕事が出来ないくらいのケガである。まだ見ぬ先輩の身を、案じていたのだ。
とはいえ、念願叶っての初仕事。
先輩が帰って来た時に立派な姿を見せる為にも、頑張らなければいけない。
「はいっ」
気合いを込めて、名前は返事をした。
本来は五人の持ち場ということもあり、チェレスタの言葉通り仕事はかなりハードなものだった。
芝生を刈って長さを揃え、雑草を引き抜き、害虫を駆除する。
青臭さが鼻を抜ける。新品の制服は、既によれよれになっていた。
ゴミ袋の口を固く結ぶチェレスタの首筋にも、汗が光っていた。
「今日は噴水はいいわ。私はこれを捨てて来るから、あなたは休んでいていいわよ」
「そんな!私が行きます!」
チェレスタは名前に掃除用具を押し付けた。
「いいから。あまり最初から飛ばすとろくな事にならないのよ。これは経験談」
「ですけど……あ、あっ!」
名前の手から押し付けられた軍手やスプレーボトルがこぼれていく。
「ほらほらしっかり持って。じゃあ、すぐ戻って来るから」
「はっはい!あ!……あちゃー」
結局名前は掃除用具を地面にばら撒いてしまった。
チェレスタはそんな様子をおかしそうに見ながら、ゴミ捨て場へと向かっていった。
用具をまとめ終えた名前は、噴水の縁に腰を下ろした。
掃除されたばかりの綺麗な縁に、満足感がこみ上げてくる。
噴き出た水と水面が陽の光に反射して、キラキラと輝いていた。
(もっともっと綺麗にしていきたいなぁ)
これからのことを考えると、心が弾んだ。
「あれ?」
水面に白い影が映る。
一つ、二つ、三つと増える小さな影に名前が顔を上げると、白い鳩が噴水へと集まっていた。
人懐こい鳩なのか、名前にも気後れせず悠々と水を飲んでいる。
「おいしい?…ごめんね、ご飯は持ってないの」
平和な場景に、自然と頬が緩む。
指を伸ばせばくちばしで軽くつつかれた。
この仕事に就いて良かった――そう思っている名前の前で、また水面に影が一つ、映った。
「……え?」
始めは鳩よりも小さかった影が、どんどん大きくなっていく。
鳩じゃなければ兎だろうか。そうでなければアヒルだろうか。
一体何が、と空を見上げた名前の視界に入ったのは、
人だった。
「!?」
ばっしゃん。
人間が、空から落ちて来て、噴水に突っ込んだ。
水飛沫が辺りに盛大に飛び散り、鳩が驚いて飛び去っていく。
飛沫を浴びた名前は見事なびしょ濡れになったが、それ以上の驚きを前に呆然としていた。
落ちてきた人はぴくりとも動かない。死んでしまったのだろうか。
水の撥ねる音と共に硬くて痛そうな音も聞こえた。
もしかして……と寒気が走るが、水は赤く染まることもなく澄んでいる。
(どうしよう)
注目し続けていると、不意に人が動いた。
「あたたた……失敗しちゃった」
そう言いながら起き上がったのは、少年だった。
(あ……こ、この人!)
名前は少年を知っていた。
水を吸って色が変わっているが、高貴な法衣。
濡れてしっとりした青い髪と、額に覗く聖なる十字架。
優しさと少し幼さの残った、柔らかな表情。
スフォルツェンド第一王子――リュート王子である。
人類の守護神と呼ばれ日々戦いに明け暮れているはずの大神官である彼が、なぜここにいるのか。
そもそもなぜ落ちて来たのか。空を見上げても、落ちて来るような場所がない。空しかないのだから。
「やあっ」
名前に気付いたリュートは、にこりと愛想の良い笑みを向けた。
「あ、その、えっと……こ、こんにちは」
しどろもどろになりながら、名前はなんとか挨拶を返せた。
「こんにちはっ。ボクはリュート。君は?」
「名前です!今日からここの掃除を任されました」
驚いていたとは言え名乗るのが遅れてしまったと、名前は深く礼をした。
リュートの髪先からはぽたぽたと水滴が落ちている。
名前ははっとして噴水の中へと入った。浴びた時には気付かなかったが、水は存外温かった。
「リュート王子!おケガはありませんか!?」
「ああ、これくらい全然大したことないよ」
元気に手を振るリュートは本当に何ともないらしい。
「良かった……でも、どうして空から?」
次いで湧いた疑問を素直にぶつけてみる。
「うん、ちょっと空を飛ぶ魔法を練習していてね。ワープ魔法もいいけど使えたら便利かなって……でも、なかなか難しいや」
「空を……そうだったんですか」
魔法のまの字も分からないが、リュートが難しいと言うからには相当難しいのだろうと名前は思った。
驚きこそはしたが、落ちたのがこの噴水で良かった。いくら彼が強いとは言え、地面に直撃していたら……想像したくない。
バサバサ、と鳥の羽ばたきが再び訪れた。
「あ……」
「アハハ、やあみんな。さっきは驚かせちゃってごめんね」
戻ってきた鳩達が、リュートの元でまたくつろぎ始めたのだ。
少年が鳩と戯れている――非常に微笑ましく、絵になる光景である。
思わず見とれていると、ふとリュートと目があった。
優しい表情に、名前は思わず頬を染めた。
「好かれているんですね」
「うん!ボクも好きだから嬉しいよ。でも、君にも結構懐いているみたいだよ?」
タイミングを合わせたかのように、白鳩の一羽が名前の肩に止まった。
「あ……本当だ。フフ、嬉しいですね」
「ね。嬉しいだろう、こういうの」
二人してびしょ濡れだと言うのに、込み上げてくるのはあたたかいおかしさだった。
静かに笑い合っていると、背後でわざとらしいくらいに地を擦る音が聞こえた。
振り返ると、チェレスタがいた。
「あっ先輩、おかえりなさい」
「……あなた」
既に靴下にまで水は染み込んでいた。重い足を動かして噴水から出て、名前は目を丸くした。チェレスタが、震えている。
ふざけて噴水を汚したと怒っているのだろうか。謝らなければ――
「あの先ぱ」
い、と言い終える前に名前は物凄い力で肩を掴まれていた。
「名前さん!ケケケッケケガは!ケガはない!?」
「? ? な、ななないいですす」
飛んで来たのは怒声でなく心配であった。
頭がもげそうなくらいに肩を揺すぶられながら答えると、チェレスタは安心したように手を離し、声を潜めた。
「……名前さん。悪いことは言わないわ。リュート王子にはあまり近付かない方がいいわよ」
「え?」
王子に近付くな――どこぞの漫画のようなセリフである。
しかし女性的な嫌味のない声色と内容、聞こえないようにと声を抑えているが本人を前にして言うなんて、正反対なシチュエーションだ。
「誤解しないでちょうだい!リュート王子がとっっっても素敵で優れたお人であることは私だって分かっているの!でもね、あなたの為なのよ!」
ますます分からないがチェレスタはそれ以上説明する気がないらしく、
「いい?とにかく、心に留めておいて」
名前にハンカチを渡してから、噴水の縁に手をかけた。
「リュート王子、ご無事ですか?早く出ないと風邪を引いてしまいますよ」
「うん、大丈夫だよー」
鳩を空に放ち、リュートが立ち上がる。全身水浸しだ。確かに温かい気候とは言え風邪を引いてしまうかもしれない。
「じゃあ、ボクは行くね。君も早く着替えた方がいいよ。またねー」
濡れた法衣を引きずりながらリュートは去っていった。
「……」
「……」
チェレスタの態度はどこか一線引いていた。馴れ馴れしいのも問題だが、果たして一国の王子にあんな態度を取ってしまって良いのだろうか。
「今日はもう上がっていいわよ」
チェレスタの一言で、その日は終わってしまった。
それから一週間、名前は見舞いに行く暇もなく働き詰めであった。
糊の取れた制服は毎日泥だらけで、新品独特の匂いもすっかり取れていた。
抜いても抜いてもすぐに伸びて来る雑草を抜きながら、短く言葉を交わす。
「王女様のパレードってそんなに大きいんですか?」
「そりゃあ次期女王様の生誕祭ですもの。まだまだ準備はかかるわよ」
まだ見ぬ王女を思い浮かべる。生まれたばかりの女の子。一体、どんな方なのだろうか。
今は赤ん坊だが、大きくなれば女王であるホルンのように優しく綺麗な方になるに違いない。
「あ…チェレスタの態度四つ葉ですよ、先輩」
クローバーを抜く手を止めて呼べば、泥のついた鼻先をこすりながらチェレスタも緑を覗き込む。
大ぶりで綺麗な四つの葉のクローバーが、輝くように生えていた。
「本当、見事なものね。良いことあるわよ」
「なんだかこういうの見ると、抜くのが申し訳なくなっちゃいますね」
「芝生で揃える方針だからね……仕方ないわ」
愛らしい白い花を咲かせるクローバーも、黄色い花を咲かせて綿毛を飛ばして遊べるたんぽぽも、この庭では雑草でしかない。
だからこそこうして毎日手入れをしているのだが、小さな花々に魅せられると罪悪感を抱いてしまう。
四つ葉をポケットに仕舞いながら、どうしたものかと名前は辺りを見回した。
「……チェレスタ先輩、他の場所も芝生を植えているんですよね?」
「ええそうよ。スフォルツェンド城の庭は全て芝生」
仕事中に走り回りながら見た他の班の持ち場を思い返しながら、ふむと名前は顎に手を当てた。
辺り一面が芝で揃えられているのも美しいが、せっかくのこの広い庭を芝だけにするのは、どこか惜しい。
庭には花園スペースも設けられており花を楽しみたければそちらへ行けばいいのだが、クローバーやたんぽぽなどは育てられておらず、生えればこの庭のように駆除されてしまう。
悩む名前の視界の端に、噴水の飛沫がキラリと入った。
「そうだっ。先輩先輩、この周りだけ、クローバーとたんぽぽ、残しませんか?」
噴水の周囲は庭を走るレンガの道に合わせて、同色の石が敷き詰められている。
囲むように緑で彩れば、淡い薄緑の芝生とも合うのではないか……いささか、手入れが大変そうではあるが。
「へえ……なかなか趣があるじゃない。上に掛けあってみるわ」
チェレスタは乗り気なようで、手帳を取り出すとさらさらとメモを書き始めた。
「じゃあ今から早速行って来るから、あなたはここで――」
言いかけたチェレスタと名前の前で、ばさばさと鳥が羽ばたいた。
途端にチェレスタの動きがピタリと止まる。
名前は嬉しそうにその鳥――白い鳩に手を伸ばした。
「ごめんね、今日もご飯はないの」
指先に止まった白鳩は餌が目当てなのではないと主張するように、目を細めて羽を休めた。
チェレスタと言えば、変わらず止まったままである。
名前はその理由をよく知っていた。この一週間で覚えたのだ。
白鳩が現れると必ず、
「やあっ」
リュートも現れるのだと。
元気の良い声に名前は会釈した。チェレスタもそれに続くが、やはりどこかぎこちない。
リュートが現れるたびにこうなのだ。
言葉通り嫌悪しているのではないし、尊敬の色もしっかりと窺える。
けれどそんな尊敬をも上回る感情が、例えば"恐怖"があるのではないかと、名前は徐々に感じ始めていた。
深く聞くのも失礼かと留めていたが、事情を知らないまま間に挟まれるのは居心地が悪い。
意を決して、訊ねることにした。
「……あの、先輩、本当にどうされたんですか?」
また鳩と戯れ始めるリュートから視線を外さないまま、彼に聞こえてしまわぬように声を潜めて名前はチェレスタに聞いた。
いつの間にやら名前の背後にいたチェレスタはいつもの快活さはどこへやら、口籠っている。
「あ、違うのよ、これは別にあなたを盾にしているのではなくて……」
後ろめたそうにリュートからも名前からも目を逸らすチェレスタの態度は、やはりおかしいの言葉に尽きる。
「どうしてそこまでリュート王子を避けられるんですか?」
リュートは鳩に法衣を掴まれふよふよと浮いていた。楽しそうだ。
チェレスタはようやく観念したようで、名前と同じく声を潜めて静かに話し始めた。
「……療養中の子が一人いるって言ったでしょう」
「はい」
軽いケガと聞いていたのに、一週間経った今でも復帰の話のない先輩。
リュートと一体何の関係があるのか――チェレスタの次の言葉に、名前は耳を疑った。
「その子のケガは……リュート王子のせいなのよ」
「ええ!?」
「し!静かに!」
「むぐもご」
素っ頓狂な声を上げると同時に素早く口を塞がれる。
「王子はそれは勉強熱心で……気さくな方でもあって……でも少し……そう、少し。ほんっっの少し、度が過ぎたところがあって……」
そのままボソボソとチェレスタは続けた。
「あなたが来る少し前に……魔法を見せて下さったのよ」
魔法――先日のリュートとの出会いも魔法がきっかけであった。
空を飛ぶという、リュートにぴったりの魔法。他にどんな魔法を使えるのだろうか。
「こ、この世のものとも思えない……おぞましい魔法でッ……ううう……」
涙ぐむチェレスタ。
「せ、先輩?」
「必死に逃げたけどあの子は間に合わなくて……王子ったら楽しんでると勘違いされて更に魔法を……うううぅ」
名前の予想は大正解、理想は大外れであった。
恐怖に震え今にも泣き出しそうなチェレスタの背をさすり宥めるが、口にしたことで思い出が鮮明になったのかチェレスタの震えは治まるどころか増す一方であった。
誰かの印象よりも、自分が受けた印象を大切にしたい。
そうは思うが、鳥と戯れるリュートと取り乱すチェレスタの間で名前はどちらを信じれば良いのか分からなくなっていた。
ふと、気付く。
恐ろしい魔法を見せられた。
一人がケガを負った。
近付くのが怖い。
そこまでは良いとして、この状況。
「私ばりばり盾じゃないですか!」
チェレスタがビクリと体を揺らした。
「ごめんなさいごめんなさいでも体が言うことをきかなくってえ!許してお願い、先輩を守ると思って……!」
「職権乱用ですよう!」
二人が言い合っている間に、リュートは鳩に連れられてどこかに飛び去ってしまっていた。
自由な王子様である。
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