雨の音にまじって、声がしたような気がした。続いて、遠慮がちに自邸の戸を叩く音。
夕暮れもすぎ、夜と呼んでいい時間である。寝ようかと考えていた。しかし、誰だろうか、とちらりと考えて、戸を開けた。
「か…かくわーい…」
そこに立っていたのは、濡れ鼠の青年。驚いて、郭淮は慌てて彼を中に引き入れた。
「夏侯覇殿…! どうされたのです、こんな夜に」
多少疲弊したような青年は、困ったように笑って言い訳する。
「いや、郭淮と酒でも…なんて…」
へへへ、と力無く笑うのを見て郭淮はため息をついた。
嘘つきは、どうやら本当のことを言うつもりはないらしい。
夏侯覇はぱっと馬の元へ戻ると革袋を見せた。どうやら酒やつまみは持ってきたようだ。
「少し狭いですが、厩へ」
家の中から厩へ回る。わざわざ雨に打たれたくはない。
夏侯覇の馬を雨に打たせておくわけにもいかず、仕方がないから厩へ繋ぐ。喧嘩をしないでいてくれるといいが。
郭淮が愛馬の首をやさしく叩くと、賢い馬は、わかっていると目でこたえた。自邸に戻ると、夏侯覇は小さく嚔をした。
郭淮はもう一度、大きくため息をついて、びしょぬれの夏侯覇を、頭の先からつま先までながめた。ぴたぴたと水が滴る髪、ぐっしょりと水を含んだ胡服。
馬にのるためにこれを選んだのだろう、夏侯覇は動きやすい服を好む。
「全く…湯をお貸ししますから」
「へへ、悪いな」
夏侯覇はわるびれないで、へらりと笑う。
着替えは貸して差し上げますから、と漢服を差し出した。
侍女を供につけて離れへ締め出す。
「はあ…まったく」
力が抜けてしまって、椅子に座り込む。夏侯覇が突飛なことをするのはいつものことだ。
しかし、だからといって慣れるわけではない。
雨音が、容赦なく屋根を叩く。ざあざあと激しい、夏の雨だ。
裏庭に植えた柳が、可哀相に、激しい雨に揺れている。
ふっと夜空が光り、ぴしゃりと轟音がした。雷のようだ。
客人が来てしまっては寝るわけにもゆかぬ、と、郭淮は燭台に火を点した。
ひとまず部屋を明るくすると、布で髪の水気を叩きとりながら夏侯覇が戻ってきた。
「ふー。散々だったぜ」
ふるると頭をふって、夏侯覇はぼやいた。それは先の雨を指しているのか、それとも生真面目な侍女を指しているのか。
生真面目な侍女は夏侯覇にはあわなかったかもしれない、すまないことをしたなどと考えながら夏侯覇に席をすすめた。
とりあえず、と彼は席につく。
夏侯覇は酒を飲もうともせず、机に肘をついて、窓を眺めている。どうやら、雨の音を聞いているらしかった。
「ひどく、降りますね」
郭淮が静かに声をかけると、夏侯覇は、こっくり頷いた。
「うん」
夏侯覇は顔をこちらに向けてはいなかった。
しかし、彼の愛くるしい丸目が伏し目になっている事だけは、まつげを見て、わかった。
「雨はお嫌いですか」
夏侯覇はしばらく黙っていた。
ざあざあという、雨の音だけがする沈黙。夏侯覇はまた、こっくりと頷いた。
「あんまり、好きじゃない」
夏侯覇は雨を嫌っていた。殊更激しい雨の夜が嫌いだった。
夜の薄闇と雨の水煙は、視界を閉ざし、自由を奪う。
「父さんがさ、夜襲に出かけるじゃんか」
神速と名高い夏侯淵は、急襲の任に当たることが多い。
敵の斥候に嗅ぎ付けられぬように、夜、ひっそりと魏を発つ。
「暗くってさ、父さんがすぐに見えなくなってさ。好都合なんだろうけど、嫌なんだ」
郭淮は唇を噛んだ。
「父さんがさ、もう、帰ってこないような、気がしてさ」
夏侯覇は困ったようにわらって言った。ハの字に下がった眉。
「そんな恐ろしい事、おっしゃらないでください。将軍はまだご存命なのに」
郭淮は憮然として夏侯覇の頬をつまんだ。よく伸びるもちもちした肌を引き延ばす。
「痛いいたい!ごめんなさい!許して!」
夏侯覇がおどけてわめくと、郭淮はわらって手を離した。
ひりひりする頬をさすって、夏侯覇もつられてわらう。気遣いがありがたかった。
その時、ぱっ、と窓が光った。
おやまた雷か、と郭淮がのんびり窓を見上げる。
夏侯覇はかちかちに停止したまま、動かない。
そうして轟音。夏侯覇の肩が、びくりと跳ねた。
郭淮は夏侯覇を見つめる。
今度は光ってすぐに、不意打ちの轟音。切り裂くような鋭い音が、ぴしゃりと鼓膜を叩く。
「ひっ」
ついに夏侯覇が小さく悲鳴をあげた。なるほど、と郭淮は一人納得する。
(雷が苦手なんですね)
自然の轟音に対する恐怖に加えて、雷を操る血をまだ持て余し負担に感じているということもあらわしているのだろう。
少しばかり臆病なこの青年にはまだ父の隣に立てる力が無い。
「なあ、郭淮」
夏侯覇がついと振り向いた。
眠いのか、わずかに細められた目からは、平時の愛くるしさが消えている。そこにあるのは、紛れも無い、年相応の男の目。
(こんな顔もできる)
どきりとした。
しかし、夏侯覇は、すぐにぱちぱちと瞬きをすると、いつもの大きな目に戻ってしまった。
子供っぽく、えへへとわらう。
こんな事頼むのも恥ずかしいんだけどさ、と前置きをしてから照れ臭そうに言った。
「一緒に寝てくれないか? どうしても、こわくってさ」
郭淮はあっけにとられて黙ってしまった。
まさかそんなことを言われるとは思ってもいなかったのだ。
雨も雷も、驚いたのかへにゃりと弱くなっている。
混乱した頭の中で、賢い郭淮はいくつかの解釈を立てていく。
(まったく普通に甘えているのかもしれない、病を移してしまうかもしれない、悪戯を仕掛けようとしているのかもしれない、それから、まさか、いや、まさか)
口をぱくぱくさせている郭淮を見て、夏侯覇は慌てて身を乗り出した。
「いやっ、やましい意味じゃなくって…いや、おれはそうでもいいけど、ってかそうだと嬉し、あ、いやなんでも、いやいやいやいや、いやいやいやいや」
やたらと饒舌になった夏侯覇に気圧される。
郭淮が硬直していると、夏侯覇は己の言葉の意味に気づいて、今度はばっと机に突っ伏した。
忙しない、と郭淮が瞬きする。
「わー!なんでもない!忘れてくれー!」
(やましいことって言っちゃったよ!俺はなんてばかなんだ!すきだって気づかれちゃったかなあ!うう!)
おそらく真っ赤になっているだろう。顔が熱い。
(忘れてくれ忘れてくれ!ああきえちゃいたい!)
机に伏して悶絶する夏侯覇を一瞥して、郭淮は立ち上がった。
嫌われたかもしれないと半泣きで郭淮を見ると、郭淮は体ごと窓を向き、こちらに背を向けている。
「雷のせいで、よく、聞こえませんでしたが」
郭淮はゆっくり上着を脱いで、座っていた椅子にかけた。
すう、と熱が冷めた。
頭がはっきりしてくる。
「わたくしはもう寝ますよ」
ふわりと寝台に腰掛ける姿の、なんと優美なことか。
口の中がからからに渇く気がした。もちろんお互いに、酒なんて一滴も舐めてはいない。
「夏侯覇殿も、お好きになさってください」
郭淮はこちらを向かない。
さらさらした髪から、ちらりと耳と首筋が覗いた。
真っ赤とはいかないが、桃色に染まっている。
夏侯覇はごくりと唾を飲み込んだ。脈あり、かも、しれない。
だってあの時、雷は一度だってならなかった。
わずかに言い訳をさせてもらえるなら、最初はやましい意味なんて、一つも無かったと言いたい。
(でも、こんなふうに返されちゃ、な)
夏侯覇はそっと寝台へ歩み寄った。片膝から、寝台へあがる。
ぎ、と寝台がきしんだ。
「しかけたのはお前だからな、郭淮」
後悔すんなよ、と囁く。
返事は、ざあっと降り出した雨が、うすぼんやりと隠す。
蝋が切れたか、火が消えた。
小夜曲:雷鳴