30| 恩寵を君に
大通りの喧騒から逃げるように、クロは閑静な住宅街の裏道を通って拠点である白ノ湯温泉の宿を目指していた。 しかし、その足取りはとても重く一歩また一歩と踏み出す度に先ほどまでの事が思い出された。
久しぶりに見る#変換してください#の姿は、記憶の中の姿と何も変わってはいなかったが いざその瞳に覗き込まれた瞬間、何も言うことが出来なかった。
今でも#変換してください#はクロの心を惹き付けてならない。
――あなたにずっと会いたかったわ
#変換してください#からそんな言葉をかけてもらえるとは思ってもみなかった。 自分も会いたかった、と素直に言えなかったのは 会いたかった気持ちの裏には、会いたくないという気持ちがあったからかもしれない。
今更どんな顔をして#変換してください#に会えばいいかも分からない。 あの時、自分はどんな顔をして#変換してください#と話していたのだろうか。
そして何より#変換してください#と話して驚いたのは椿と行動を共にしているという事だ。 クロからしてみれば、吸血鬼の間で起こっている争いに関わっている重要人物であり自らを八番目の真祖と名乗る未知の相手でもある。 そんな椿の傍にいるという#変換してください#放っておけける訳がない。 だが、クロの気持ちとは裏腹に椿から離れろという忠告を#変換してください#は頑なに拒んだ。
―――椿を一人にはしてはいけないの
#変換してください#と椿がどういった関係なのか、#変換してください#が何を考えてそう発言しているのかは分からない。 しかし、どうしてもクロはそれを自分の過去と重ねてしまう。
そんな言葉を俺にも向けて欲しかった。 俺にもそう言って欲しかった。
自分の時にはそんな言葉を 最後の最後までかけてくれたことなかったのだ。
それ程までに椿の事を大切に思っているのだろうか? 俺よりも?なぜ?
そこまで考えたところで、クロは首を振ってその考えを払った。
久しぶりに会った彼女に対してあんな言葉を吐いてしまったのは失態だった。 #変換してください#に言ってはいけない事だとは分かっていた。 ただの八つ当たりだったが、それにしてはあまりに重すぎる言葉を投げてしまったのだと今更ながらに後悔する。
暗い夜道。整備されたアスファルトの固さが靴の裏から伝わる。 街灯は淡い光を放ちクロを照らしていたが、その光から逃げるように路地へ、路地へと入り込んでいく。
あれからもう何十年、何百年もの年月が過ぎ去り その間に色々な事があり自分も、彼女も変わってしまった。 彼女の事は忘れようと、もう考えないようにしようと決めていた。
そう思っていたのとは裏腹に自分の中に今もまだ残っている未練と後悔、そして捨てたはずのものがもう一つ。
ふとした時に蘇る感情を、いつも見て見ぬ振りをしてきた。
もう終わったものだと、そう考えて忘れようとしてきたが再び彼女に再会した途端 抑えてきた感情は膨れ上がりクロの胸を押しつぶそうとしていた。
クロは路地裏のアパートを囲ったコンクリートの壁に右肩を預け、力無くもたれかかる。 そして目を閉じると小さく呟いた。
「#変換してください#、どうして今更……。」
もうやめたはずだった、彼女に恋をするのは
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