novel | ナノ


29| 恩寵を君に

突然の振動に心臓が跳ね上がり、どうにか声が出そうになったのものの我慢することが出来た。
ドキドキと胸打つ鼓動を落ち着かせながら、ポケットからそれを取り出す。暗闇の中、パッと光りを放つ画面には“綿貫桜哉”の文字が表示されていた。 そこでようやく#変換してください#は、事前に帰宅すると知らせていた午後七時半を過ぎている事に気がついた。


「……もしもし」


『オレですけど、今どこですか?』


「ごめんなさい、えっと……」


スマートフォンを耳に当てたままきょろきょろと、周囲を見回す。この現在地である公園の名称を知りたかったが、明記されているものはおろか情報となりうるものもこの辺りには無さそうだ。


「大通り沿いの…公園のような広い施設にいるわ。」


『公園?なんでそんなところに?迷子にでもなりました?』


「いいえ、少し考え事をしていたら時間が経ってしまって……。ごめんなさい、今から帰るわ」


『いや、そこで待っててください。俺も今ちょうど外にいるんで迎えにいきます。』


「え?でも悪いわ……。それにホテルなんてすぐそこだと言うのに……」


わざわざ迎えに来てもらうような距離でもない。そう思ったのだが、桜哉はさっきより少し声のボリュームを下げると電話越しに言う。


『椿さん、もうホテルに帰って来てるんで……』


その一言で桜哉の言いたい事を察するのは充分だった。
最近は桜哉の護衛なしに出掛ける事もあったのだが、こうして帰宅予定時刻を無断で過ぎてしまったのだ。

万が一そのことが椿の耳にでも入ってしまったらまた桜哉が責められることになってしまう。


「……分かったわ。じゃあ、私はここで待ってるわね。えっと……少し離れたところに大きな時計があるのが見えるわ。」


『ああ、あそこか。分かりました、今から向かうんでそこから動かないでください。』






電話を切った後、辺りは再び静寂に包まれた。
また桜哉に迷惑をかけてしまった。気をつけなくてはいけないと思っていたのにまた失敗だ。上手く行かない事ばかりだと#変換してください#は肩を落とした。


静かに溜息をつくと少し背中を丸めて俯く。
下ろした長い髪が風にふかれて小さく揺れている。
瞳を閉じて深呼吸をしてみれば、心なしか気持ちが落ち着いてくるのを感じた。


瞼の裏の暗闇の中、思い浮かぶのは他でもないクロの姿だった。
これからどうすればいいのだろう。


唯一の希望であった彼の力を借りられなくなってしまうとなると、本当に自分一人で何とかしなければならない。
もとより一人で何とかしよう、と考えてはいたがもしもの時の為に椿を止められるような存在がいて欲しいのだ。先生がいなくなった今、#変換してください#が頼ることが出来るのはクロだけであった。

#変換してください#の中にどうしようもない焦りばかりが募っていく。







どれくらいそうしていたのだろうか。
ぐるぐると頭を悩ませているうちに#変換してください#は時間の感覚を失っていた。

すると、どこからともなく近付いてくる足音に気がついて瞼を開く。
少し視線を右前方に向けてみると、こちらへ向かってくる桜哉の姿が見えた。


「すいません、遅くなって。目閉じてたから寝てるのかと思いましたよ」


「ちょっと考えごとをしていたの。私の方こそごめんなさい、わざわざここまで迎えに来てもらっちゃって」


ベンチから腰をあげると桜哉と共に歩みはじめた。
ホテルまでの近道として、このまま公園の中を通って行ったほうが早いとの桜哉の判断で静かな園内を進む。

#変換してください#の数歩前を歩く桜哉の後ろ姿を眺め、少しの決心をすると口を開いた。




「ねぇ桜哉、ちょっと聞きたいのだけれど……」


「なんですか?」


「……城田真昼ってあなたのお友達?」



桜哉は静かに立ち止まると、#変換してください#の方を振り返る。



「……どうして真昼のことを?」


「今日、その真昼に会ったの。桜哉の名前を出したら彼も反応して……桜哉のことを“大切な友達”って言っていたの。」


桜哉は少し俯き、何か考えているようだったがその表情からは何を考えているのかは分からなかった。

#変換してください#はそんな桜哉に聞くのも少し抵抗があったが、一拍置くと腹をくくると問いかけた。

「ねえ、桜哉。真昼の連絡先教えてもらえないかしら。」


#変換してください#のその言葉を聞いて弾かれるように桜哉は顔を上げた。
そして警戒した様子で反論する。


「知ってどうするつもりですか」


「真昼と話がしたいの。真昼は椿のことをどう思っていて、どうしたいのかが聞きたい……。」


「……。」


「今日、クロ……。スリーピーアッシュにも会って話が出来たの。私は彼に椿を止める為に力を貸し手欲しいってお願いしてみたのだけれど、彼は首を縦には振ってくれなかった。“俺は主人の命令をきくサーヴァンプだから”って」


桜哉はまだ何も答えない。
桜哉もきっと真昼の事を大切に思っているのだろう。巻き込みたくないのだ。


しかし、だからと言って#変換してください#も引くことは出来ない。
椿と止めたい、その想いは本当なのだ。



「彼の主人である真昼の意見が聞きたいの。」



彼が主人の命令しか聞けないと言い張るのなら
その主人本人はどう考えているのかが聞きたかった。

いささか強引な方法ではあるが、もう#変換してください#にも時間がないのだ。


「だから……。」


「分かりました。でも、俺が教えたって言わないでくださいよ。」


「えっ?いいの?」



まさかそんなあっさり聞けるものではないと思っていた#変換してください#は
意表を突かれて思わず聞き返してしまった。
すると呆れながら桜哉が口を開く。


「いいのって…あんたが教えろって言ったんじゃないですか。」


「そうだけれど……」




「きっと、真昼とアンタの目指しているものの先は同じだと思うから」


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