21| 恩寵を君に
太陽も傾きオレンジ色に輝く夕日が窓に差し込む頃、ベッドサイドに設備されたデジタル時計は午後六時半を表示していた。 最上階の最も夕日が綺麗に見えると言われホテルでも一押しされいるこの部屋を椿は自室として使っている。 そして今、この部屋から見える美しい夕日に照らせれているのは、桜哉と椿の他に人の姿はない。 しかし、当の桜哉はそんな夕日には目もくれず眉間に皺を寄せ渋い表情を浮かべていた。
「……いいんですか?椿さん」
聞くべきか、このまま黙っておくべきかと桜哉は少しためらったようにそう尋ねた。椿は包みを開封したばかりの抹茶最中アイスを食べようと口を開いたまま桜哉の方を振り返りながら椿は答える。
「何が?」
「何がって……そりゃ#変換してください#さんのことですよ。ここ数日あのピアニストの奴と遊んでばっかじゃないですか。」
桜哉が気にかけているというのは、#変換してください#の行動だった。 リヒト・ジキルランド・轟と、街中で再会してからと言うものの、いつの間にか連絡先まで聞いていたようであれから2人は頻繁に会っているようだった。会う時間というのも夕刻から夜にかけてが多いが、基本的にあのピアニストの休憩時間などに時間を合わせているようで会う時間というのもだいたい不規則であった。 しかし、#変換してください#が出かけるだけならまだしも、その会っている人物が自分達にとっては重要なのだ。
「まあそうだけど。でも、ちゃんと門限の時間通りには帰ってくるじゃない。」
「そんな小学生じゃあるまいし……。それに、相手が相手じゃないですか。」
「まあ、別に問題ないよ。今更#変換してください#が彼と何をしてたって計画に支障が出るわけでもないしねえ。」
そう言うと椿は自室の柔らかいソファへともたれ掛かり、ぱくっと最中を口に含み、美味しそうに食べ始めた。 いよいよ、ジキルランド轟の講演まであと5日と迫ったこの時にどうしてこの人はここまでのんびりと構えていられるのだろうか。焦っている自分の方がおかしいのではないかという錯覚にも陥いり、更に桜哉を苛立たせた。
しかし、桜哉が問題視しているのはそれだけではない。 桜哉はまたも恐る恐るその疑問を椿に問いかけてみた。
「あと……。なんで#変換してください#に護衛をつけなくていいなんて急に言い出したんですか?」
残り半分となった最中を片手に、椿は一度食べる手を止め桜哉の方へと顔を向けるとそれに答えた。
「ああ、それはね。あの強欲の主人といる間は護衛なんていらないからだよ。」
「いらない?」
「そ。だって、強欲の主人に手を出そうなんて奴は僕ら以外にはいないだろうし、もし襲撃されたとしてもいざとなったら強欲の兄さんだっているんだ。早々に負けたりなんかしないよ。」
確かに、強欲の主人を襲撃しようと狙っている吸血鬼など憂鬱の下位以外を除けば候補になるものなど浮かばない。 もし、リヒトのピアニストとして誘拐しようとする人間がいたとしても通常の人間より強化されているあの主人としての身体と闘うのは難しい。確かに、理にかなっている。それは桜哉も頭では分かっていた。
「それにさ、無理にこの前みたいに下位を#変換してください#に連けて行ってごらんよ。こっちの面子が割るだけだ。それこそ今回は潜入する作戦なんだから顔を事前に知られな方が得策でしょ?無駄に人員を割くべきところじゃないよ。」
「まあ、そうですけど……」
「ああ、でも。今まで通りホテルの下までは迎えにいってあげてね。#変換してください#もまだ一人じゃ不安みたいだし。あと、護衛がなくていいなんていうのもあの電波天使と一緒の時だけの話だから。」
「それは分かってますよ。週に2回のペースで教会に付き合わされてますから。」
「あっはははは!#変換してください#も好きだよねえ。……あんな事しても無駄なのに。」
独り言のようにボソっと最後に呟いたその言葉を桜哉は聞き逃さなかった。 以前#変換してください#も教会で不可解な事を言っていた。その事と何か関係があるのだろうか。
椿は残っていた最中を一気に口に入れるともぐもぐとその味わいを噛み締め喉をならした。 そしてそのままソファから立ち上がると桜哉の横を通り抜け出口へと向かおうと足を進める。 そのさなか、一瞬足を止め桜哉の方を振り返ると「じゃあ、後はよろしく」と一声言い残すとそのまま部屋をあとにした。
部屋に一人残された桜哉はそのまま立ち尽くし、椿から開放された反動か大きな溜息をついた。 そして、ポケットに仕舞いこんでいたスマホを取り出すと液晶画面を点灯する。 するとそこには#変換してください#からのメッセージが表示された。
“七時半までには帰ります”
毎回あのピアニストと出かける時にはこうして帰宅時間を知らせて来る。毎度毎度律儀な事だが これは椿さんとの約束でこうしてしっかり帰宅する時刻を連絡をすれば出掛けてもいいと言われたそうなのだ。 あれだけ今まで#変換してください#に関して神経質になり振り回されてきた桜哉からしてみれば拍子抜けだった。
自分の負担が減るのはいいが、これからの計画に支障がないのかが桜哉にとっての気がかりだった。
あまり変なことはするなよ……、と#変換してください#に心の中で念じると桜哉も静かに部屋を後にした。
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