16| 恩寵を君に
#変換してください#の話ではまだ開封していなかったと言っていたスマートフォンに椿の#変換してください#が登録されている。 この不可解な疑問で桜哉の脳内は満たされた。
「このスマートフォン、……椿さんが開けてるところ見ました?」
「いいえ?この紙袋ごと渡されたのよ。それがどうしたの?」
「いや……。」
#変換してください#からの返答に、言葉に詰まる桜哉。 自分が#変換してください#の部屋を訪れるまでの間に登録していたのなら辻褄があっていたのだが、どうやらその線でもないらしい。
となると、椿は事前に渡す前から自分の携帯の番号を登録した状態でこれを渡してきたことになる。 しかし、それも契約時には名義人として椿さんが登録したのだろうからその時に事前に登録しておいたのかもしれない。 そう考えるのが妥当だろう。
だとするとこのスマホの設定も椿さんが……? そうだとするときっと触らない方がいいんだろな……と手を止めたところで#変換してください#に声をかけられた。
「桜哉?さっきから難しい顔をして、どうしたの?まさか、もう故障したとか……?!」
「いや、何でもないですよ。ただ、椿さんの番号だけもう登録されてるみたいで。」
「椿の?……登録されているとどうなるの?」
「え……。」
そこからか、と桜哉が呆れたその時、スマートフォンが突然震えた。 バイブ機能が振動するその画面に表示されているのは、たった今噂していた相手。椿からの着信だった。
なんてタイミングだ…と恐れながらも、#変換してください#に「椿さんから電話です」とスマートフォンを渡す。 #変換してください#にはちょうどいい練習にもなるだろう。 落ち着かない様子でそれを受け取り、指示された通りの手順で電話に出ると少し裏返った声で#変換してください#が電話にでる。
「も、もしもし」
『はは、何その声!緊張してるの?』
「そうね、だって初めてだもの。」
『……じゃあ僕が#変換してください#とそのスマホで話す初めての相手ってこと?』
「……?そうなるわね?」
『ふーん。』
電話越しに椿の満足そうな声が聴こえる。何がそんなに嬉しいのだろうか。 それについて聞いてみようかとも思ったが、それより先に椿が返答する方が先だった。
『じゃあ#変換してください#。また帰った時に詳しく聞かせてよ。』
「ええ、そうね。」
『……あと、桜哉に代わってくれる?』
「桜哉に?分かったわ。」
突然でた桜哉の名前に少し驚きながらも、#変換してください#はスマートフォンから耳を離し、桜哉にそれを渡す。
電話口から漏れていた会話を聞いていた桜哉は嫌そうな顔でそれを受け取ると、耳に当てる。
「はい、俺ですけど……。」
『ああ、桜哉?どう?#変換してください#の調子は』
「まだ教え始めたばかりなんで、何とも言えないですけど。」
『そう。ところで、桜哉のことだからきっと設定とかも見たんじゃないの?』
「ま、まあ…」
『あれね、桜哉はいじらなくていいから。』
「……はあ。」
なんとなく電話を代わるように言われた時に思っていたが、やはりそう言うことか。 #変換してください#には気の毒だが、しょうがないだろう。
『じゃあ後はよろしくね、桜哉』
そう言い残すと桜哉の返答を待たずにプツっと電話は切れた。椿の場合電話はいつも一方的な為もうそれも慣れてしまった。 小さくため息をつくと、心配そうに#変換してください#が話しかけてきた。
「椿にまた何か言われた?」
「いえ、別に。アンタの事よろしくって言われただけですよ。」
「そう?ならいいけれど。」
「……あ、えっと話戻りますけど。事前に番号を登録してあると今みたいに電話することも出来るってことです。」
「なるほど……」
#変換してください#は眉間に皺を寄せ、スマートフォンの画面を見つめた。 登録されていた椿の番号に再び電話をかけそうになる手を桜哉が寸止めし、「そこ押すと…」と補足を続けた。
操作にも慣れてきた#変換してください#は色々な機能や、アプリを開いていて楽しんでいた。 そんな#変換してください#の様子を隣で見守っていた桜哉は思い出したかのように話しかけてきた。
「それにしても、椿さんって案外独占欲?みたいなものがあるんすね……意外。」
「独占欲?……ああ、確かに椿の買ったおやつとか勝手に食べると拗ねるわよね。」
大分昔の話だが、椿が買ってきたおはぎをそうとも知らずに先生と分けて食べてしまったら椿が怒って拗ねてしまった時の事が脳裏に浮かび相槌を打った。 あの後もしばらく椿の機嫌は直らず、確か結局#変換してください#が買い直してきたのだ。
「いや、そういうのじゃなくて……。さっき電話で話していた内容とか、既に登録していた件とか」
「……それが?」
「つまりは、#変換してください#さんにとっての一番でいなきゃ気がすまないって言うか……上手く言えないけど。」
#変換してください#が首をかしげていたので補足してくれたようだったが、それが独占欲に繋がるのかは#変換してください#にはよく分からなかった。
「そうなの?」
「俺はそう感じたけど……」
すると自信がなくなってきたのか桜哉は言葉を濁した。
そんな桜哉にそれ以上追求することも躊躇われた為、会話はそこで終わった。
“独占欲”
あまり聞きなれないその言葉が#変換してください#の頭の片隅に引っかかっていた。 そんなもの椿が私に対して持っているのだろうか……? 今までの椿との思い出を振り返ってみたが、思い当たるものはそうなかった。
それは椿というよりも、別の人物から自分へ向けられた“独占欲”というものを既に知ってしまったから、そう感じているのかもしれない。 スゥッと、自分に影が落ちるのを感じる。
脳が、思考が、強制的にそれを思い出そうとしているのだ。
“ ああ、#変換してください#。君のすべてが愛しいよ。君のすべてを僕だけのものにしたい ”
頭の中で今も鮮明に響く声音。 それは確かに甘い言葉であったが、同時に#変換してください#の心を締め付けた。
“ ―― 僕には君がいればそれで ”
愛を囁くように、時に呪いのように繰り返し繰り返し囁かれたその言葉は#変換してください#を縛り、離さない。 まるであの人の事をこうして思い出してしまう行為こそが、狙いだったのかもしれないと思わされる程に。
“ だから、僕が君の望みを叶えてあげよう…さあ、こちらへおいで。#変換してください# ”
“ おいで、#変換してください# ”
「……、…#変換してください#?」
桜哉に手を掴まれて、ハッとする。 ふらつく視線で、掴まれた左手首に目をやりそのまま上へと顔をあげる。そこで#変換してください#はようやく心配そうに顔を覗き込む桜哉の姿を捉えた。
「大丈夫か?」
「…え?」
「いや……突然、黙り込んで固まるし。呼びかけても全然反応ないから」
いつの間にかまた一人で考えふけっていたのかもしれない。 #変換してください#にとってはたまに出る発作のようなものだった。こうなると他人の声や周りの事などが全く入ってこなくなってしまう。それもこれも、あの人の事を思い出す時だけだが。
どれくらいの時間そうしていたのだろう。 時間にすれば数分の出来事なのだろうが、#変換してください#にとってはとても長い時間に感じられた。
「あ、ああ。ごめんなさい。ちょっと頭を整理してて……」
「おいおい、大丈夫なのかそれ……。それとも、今日はこの辺で止めとくか?」
「いえ、もう大丈夫よ。中断させてしまってごめんなさい。」
「……疲れたら言ってくださいよ?」
そう言って桜哉は掴んでいた手を離した。 「ええ。」と言ってまだぼやける頭の中をごまかすように笑顔を浮かべる。
前を向くと決めたはずなのにも関わらず過去に囚われ手放す事の出来ない自分に、少し嫌気が差した。
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