次の日、アンナは昼に浴場へ向かった。
基本、夜の仕事なので、そうなるのが普通なのだ。

「…あー…良いお湯…」

ポツリと漏らすとススス...と同僚なる女子が近寄ってきた。

「ねぇねぇ、あんた、最近、どうよ」
「何がよ」
「良い感じじゃない? 麻倉の…葉さんだっけ??」

私は顔はお兄さんの方が好みだけど〜と、キャッキャと喋っている。

「良い感じもなにも、ただの女郎とその客よ」
「じゃなくて〜、ど〜も男と女になってたらしいじゃないの!」

このこの〜、と指で頬をぐりぐりと押された。
はっきり言って迷惑この上ない。
しかも痛い。
ペシ、とアンナは彼女の手を払いのけた。

「……男と女…ね」
「…あーぁ〜…いいなぁ、雪菜のヤツ…」

私、こんなとこで死にたくないよ、と彼女は鼻まで湯に浸かってそのように呟いた。
最も、ブクブクと上がった気泡とその音波のみしか聞こえていないので、はっきりはしていないが。


「…だから、自分で金溜めるのよ」
「…でもさー、あんたもソレ、もう止めた方が良いよ。この前大騒ぎになってたじゃない」

あー、でもあの時の葉さんカッコ良かった〜と頬をほんのりと赤らめる同僚をフン、と睨んだ。
アイツがカッコイイなんて 知ってるの自分だけじゃない


 ――…カッコイイ?


今まで客にそんな感情、持ったことあるか。
アンナは自問した。


風呂から上がり、悶々とした気持ちでボ〜としていた。
ふいに起き上がると、ゴソゴソと貰った櫛を取り出した。

頭が、ボーっとなった。
葉のことを考えると何かがおかしくなっていると分かっていた。
だけど、どこかで否定してしまう。

 あいつはただのカモ
 あいつにとってアタシは玩具
 あいつには…アタシは……

こう思うと、いつだったか葉にその兄が説き伏せようとしていた台詞を思い出す。
『アンナなんかに捕まるから…』



考えたくも無い。
キモチ悪い。


ムカムカと胸焼けがする。



その場に座り込むと、上から同僚の声がした。

「ちょっとー、大丈夫?あんた」
「もちろんよ…」
「あそ。でも顔、ヤバイよ?」

青い。
気持悪い。

「そう言えば、あんたさっき飯もあんま食べてなかったわね」
「…そうだったかしら?」
「えぇ」
「まぁ、どうせお客のところで食べさせてもらえるし…」

言いかけた途中で口を押さえた。

 ハ、キソウ

彼女は同僚を置き去りにして、汚物入れと化している大きな壺(※要はゴミ箱)に走って向かった。
淵を掴んで、思い切りした。
だけどスッキリしない。

 なんで…

ドクン、と身体の中心が脈打った気がした。
心臓が、鳴ったわけじゃない。
確かに、こんなに早く脈打つ事はなかったから痛く感じているのは否定しない。

でも、そんなんじゃない。

アンナはへたり込んで、腹部を押さえた。

 まさか

「……今までと違うじゃない…」

 まさか いや、でもきっとコレは

「……孕んでる」

腹の中にいる小さな命のおそらく親の顔が浮かんだ。
その辺はある種の『オンナの勘』だ。

彼は立派な家柄で 客で そして…
打って変わって、アタシは女郎で 金の亡者で 出世するには今だ!と考えていない訳でもない しかしその上…

 アンナ

と葉の呼ぶ幻聴がした。

最後に会ってから二ヶ月は過ぎようとしていた。


アンナは庭先に咲いている花を見詰めていた。
明るい色に分類されるはずなのに、何故か寂しい橙色をしたホオズキが植わっていた。

何時だったか聞いた事がある。
もしも孕んでしまったら、ホオズキの根を食べなさい、と。

それは確か、まだ禿だったころ、当時従事していた花魁に言われたことだ。
その時は「どうして『貴方の子です』とでも言って引き取って貰わないのか」と返していた。
花魁は、その位には似つかないような優しい人だった。
彼女は幼いアンナの頭を撫でて、今にも消えそうな、優しい、悲しい笑みを零した。

 ――あんたにも、何時か分かる日が来たらいいね……

アンナには分からない予定だった感情が彼女の胸で渦巻いていた。
 ――あの時、花魁は同じような気持ちだったんだ…

アンナはふいに庭先に出て、その花を摘んだ。
橙の花弁の中は指で押さえるとベコと凹んだ。
まるで今から潰えるまだ見ぬ子どものように。


アンナはその花を水に掛けて、土を落とした。


花を持つ手が震えていた。
 ――葉にこれ言ったらどうなるかしら…

どこかで、希望として残っている、淡い夢だった。
身請けされるなら彼の元が良い…子どもが出来たと言えば、彼は喜んでそうしてくれるのではないか。








ちがう。
本当は、凄く怖がってる。
自らに宿る命を潰す事。
何よりも、その命は葉から授かったのかもしれないという自分勝手な希望的観測。



葉に会いたかった。
この不安をぶちまけたかった。


 ――なんで来ないのよ……


会えない時間は次々に不安へと変わっていく。
何よりも、『仕事を抜け出して来』るほどに自分に惚れ込んでいたという自信が決壊していく。
もしかすると、嘘だったのか
 ただの演技
 浮気……他に女がいるのではないか


カンガエタクモナイ


だけどそれが横行しているのがこの遊郭吉原。
何があってもおかしくない。




花魁は、何を思ってホオズキを飲み込んだのか、アンナにはあやふやにしか分からない。
ただ記憶にあるのは血生臭い現実だけだった。

彼女は結局、見受けされることもなく、帰る場所のない女郎が葬られる寺にイってしまった。
理由は何だったかだなんて覚えていない。

悲しい現実はたくさんある。
自分と同じ年の子が、身売りが嫌で自殺したりなどしょっちゅう起こっていた。
病人が最後の荒稼ぎに出される時もあった。


だから自分だけが不幸なわけじゃない。


でも
心臓を鷲掴みにされたって、ここまで痛まないと思うんだ。











しとしとと、雨が降っていた。
アンナはまた店棚当番でお行儀良く座っていた。
無論、櫛を落として釣る手口は今日も通用しない。
と言うより、最近は晴れた日でもめっきりしていない。

 ――雨ん中来る客なんて…いるわけないよなぁ…

内心そう思うがキリとしておかないと「この店の女の素晴らしさ」と言うものが伝わらない。
そして、彼女たちを目敏く見つけた男(と書いてカモと呼ぶ)が走ってこちらへ向かってくる……

アンナは目を疑った。
雨の中、傘も差さないで一心不乱とも言える速度で脇目も触れずこちらへ向かっている。

彼はガシャ、と音を発てながら、客と店棚の女を仕切る格子を掴んだ。


「…っ、あ、アンナ…」

水に濡れていたから気が付くのに少し遅れたが、それは紛れもなく葉だった。
二ヶ月半ぶりだった。

「あ、麻倉の旦那様…こんなに濡れて…」

大変だとばかりに棚を降りて、布巾で拭おうと布を探した。
大変なのは心臓の方だった。
が、それもすぐさま葉の一言で変わってしまった。

「オイラ!…お、お前を見受けしに来たんよ…っ」

ざわっ、と店棚内が騒いだ。
葉の目にはアンナしかいないので、それは構わないらしい。
アンナは嬉しいような困ったような顔で振り返る事しかできなかった。

「父ちゃ…父にも母にもハオ…兄にも反対されてな、家督はやらんって言われても…オイラ、お前と結婚したいって言って…」


 ――ダメよ


「今まで来なかったんは軽く軟禁状態に遭ってたわけなんよ…」


 ――言わないで


「オイラ、絶対、幸せにするから!!」


 ――貴方は純粋すぎるのよ


「武士なんかなれんでも、お前が居れば幸せなんよ」


 ――純粋で初心で出会ったときから何も変わってない……


「だから」
「何を勘違いしていらっしゃるんです?」


アンナの言葉に店棚の視線は全てがアンナのものになった。
葉はそれがどういう意味か汲み取れていなかった。

「え…?」
「所詮、貴方と私は客と女郎でしかありません」

懐の懐紙の中から、葉から貰った櫛を取り出した。

「私は貴方が私にしてくれたように奉仕したまでです」


しん、と静まって、雨の降る音が嫌に響いた。
アンナは自分の震えている音が聞こえているのではないかと怖く思った。


葉は悲しそうな顔は見せず、一拍置くと静かに笑った。


「………そっか……悪いな、オイラ、勝手に舞い上がってたんよ」


そう言って、葉は背を向けた。

その背中を見ることに堪えられず、アンナは立ち上がり、室へ駆け込んだ。

目から、ボロボロと涙が溢れてくる。


「……ぅ、……うえっ、……」


声を抑えよう、抑えようとするとより喉が詰まり、胸の痛みが増した。



改めて気付かされる



好き、

麻倉の若旦那様、が好きなんじゃない、


葉が、 好き




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