酔っ払ったらしく、酒臭い着物に右手を突っ込んだまま出て行く男が窓から自分を覗く女を見た。
先ほどまで、金を出して遊ばせて頂いた女はその方を見て、名残惜しそうな表情をしている。
女の人口が男よりも下回っているこの吉原で、そんな表情を自分に向けてくれている。
 そうか、そこまで俺のことが…
ウンウン、と男は頷き、彼女に手を振った。

「また来るからな、土産でも持って」
「…そうして下さいね、きっと…!」



休憩室で女達の笑い声が響いた。
ある者は涙さえも浮かべている。

「ほんっと、アンタって奴はよくやるよ!!」
「何言ってんのよ、アタシはこの身を犠牲にしてまで楽しい時間を過ごさせてやってんのよ。この位はしてもらわなきゃ」

そう言う、先ほどまで“名残惜しそうな♀轤していたその表情は一変、金の亡者そのものな目をしている。
手には、そこら中で安値で売っている櫛があった。

「たまお」
「はい、アンナ様」

禿の少女を呼ぶと、その櫛を渡した。

「売ってきて頂戴」
「……はい!」

少女はオドオドしつつも慣れた足取りでその部屋を出て行った。

「おいおい、アンナ〜、あれ、ついさっき貰ってたヤツだろ?」
「そうよ」
「売るか、普通〜」

アンナ、と呼ばれた花魁は尚も姿勢を正して述べた。

「新しい物ほど高値で売れるのに?」
「ってゆーか、よくバレないよねー、何人もの男に貢がせてんだろ?」
「当ったり前でしょ。 それにね、全員に『櫛が欲しいなぁ〜』って強請るのよ。そんな上等なもの買ってくる奴がアタシ達を買ってくれるワケないじゃない、だから、ひとつだけ取ってあったらバレないのよ」

うわぁお、と誰かが感嘆を挙げた。
その時、すー、と静かに襖が開いた。

「アンナ、何時もの若旦那様だよ」

アンナの目が輝いた。

「お、愛しの旦那が来たか?」

「えぇ、可愛いカモが来たわ」

アンナはじゃぁね、と手を振って出て行った。

「何時もの部屋に通してあるからね」
「えぇ」


可愛い可愛い、アタシの獲物


静かにアンナは襖を開けた。
腕組みをしたまま窓の外を見ていた男がアンナの方を見て、頬を赤らめた。
アンナは正座のまま頭を下げた。

「いらっしゃいませ、アンナで御座います、ごひいきに有り難く存じます」

色目を含んだ目で男を見ると、彼はそのまま一歩後退した。



 ――初心な坊っちゃんですこと



「御待ちしておりました、麻倉の若旦那様」

「お、おぉ」



アンナは慣れた足取りで彼の前に座った。

「…あの、若旦那ってのは止めてくれんか?」
「でも、若旦那様なんでしょ?」
「…それはハオ…兄になるかもしれんから…」
「あら、でも、確か、その人がそう言ってらしたんですが」
「あいつ…オイラにばっか花持たそうとしてくれてるんよ」

へへ、と幸せそうに笑った。
腹が立つ。
アタシにはない平穏な幸せを持っていて。
ぶっ壊してやる。


「なら、アタシは旦那様をなんと呼べば?」
「……葉」

「葉、様?」


名前を呼ぶと、また恥ずかしそうに耳まで赤らめた。
カモにはもってこいなタイプだ。


「葉さま、今日は何をして下さるの?」



さぁ
 アタシの虜になりなさい

アタシが愛してあげる

貴方の全てを搾り取ってあげるから

――麻倉の坊っちゃんに出会ったのは、ほんの数ヶ月前だった――


「おい、ハオ!お前、遊びに行こうっつっただけだろうが!!」

男の叫び声はこの煩い廓では特にそう大きいものではなかったが、その声の種類は珍しい部類だった。
大抵の男は上機嫌にお出ましするはずだからだ。

「だから、遊びに来たんでショ?」
「こっ、ここ廓じゃねぇか!」

男はハオ≠ニやらを責め続けていたが、相手はそれに応じようとはしなかった。
むしろ、何処か楽しんでいる。

「だーって、葉クン、全然、気持ちが良いほど女っ気なさすぎるんだもん。おにーちゃん、心配で心配で…」
「いらん心配すんなっ!」
「心配だよっ!その調子じゃ、葉が男色家だと思われちゃうでしょ! まあ、ぶっちゃけ、そっちの方が嬉しいんだけど…」
「なんか言ったか?」

その声は其れまで以上に怒気を含んでいた。

「いや、なんも」
「とにかく!オイラの心配はいらんから!!」
「いや、でも跡取り息子で若旦那の葉がその調子じゃ、皆、不必要に焦るでしょ。とにかく、僕が奢ってあげるから、将来のお勉強に――」
「帰る」
「えっ、ちょ、まだコレからだってのに!」

その時、葉の耳に、何かモノが落ちる音がした。
その先に目を遣れば、見世物棚に座っている遊女が櫛を落としたようで、格子の間から地面へ必死になって、それを取ろうとしていた。

放っておけず、葉は帰る道から少し反れて、彼女の落とした櫛を拾い、彼女に「ん」と無愛想に渡した。
遊女はその男の顔を見て、櫛を貰うと、最高級の笑顔を彼に向けた。

「ありがとうございます」

その瞬間、葉は恋…しかも初恋に落ちたわけだが、もちろん、その遊女、即ちアンナからすれば、狙い通り、と言う訳だ。
本当のトコロ、彼女は歌も踊りも出来るが、評判になるほどではない。
従って、天神や太夫を狙える程の力量は持ち合わせていなかった。
しかし、わざわざ遊女を買ってくれるような男が現れる確率は悲しいくらいに低い。

そのまま、葉とアンナは初回を行った。

因みに、初回とは、遊郭の仕来りのひとつで、最初の客はまだ遊女を抱けないのである。
したがって、初来客は、目的の女と酒を酌み交わすのみである。

葉は早いうちから、顔は赤くなっていた。
それが酒の所為か、アンナ自らの魅力からかはご想像にお任せしよう。
葉が二度目に客として来たとき、アンナは葉が彼女の杯に更に注ごうとする手を優しく止めた。
また、彼の頬が赤くなった。
「お酒はそれくらいに…」
そう言って、アンナは隣の襖を開いた。
その間には、布団が一組、しかし、枕はふたつもある。

そして、アンナは、自称、これで堕ちない男は男じゃないだろう体勢をとった。

着物を少し着崩し、肩が見えるか見えないかまで下げ、そして、目を潤ませ、上目遣いで「優しく…して下さいね」と言う。 たったそれだけだ。 だが

そのとき…どうやら、葉には刺激が強すぎたらしく、そのままフラリ…と後ろ向きに倒れてしまった。


「だ、旦那さまっ!?」

と、隣の部屋でそっちはそっちで遊んでいた葉のお兄さんでさえ、アンナの声で掛けて来てしまい、一時は騒然となった。
が、ここは、場数が勝ちをとる。

アンナは兄をとっとと体良く追い出して、自分の禿に葉の面倒を見させ、自分は別な馴染みのお客の所へと出稼ぎに行った。

程よく、そちらの男がぐがー、と鼾をかきながら、間抜けな顔で寝ているところに、禿が来た。
「姐さん、起きそう」
「分かったわ」

そして、その部屋を立ち去ると、葉が横たわっている部屋へとそそくさと行き、葉の頭を持上げて、それを自分の膝の上に置いた。
世に言う「膝枕」である。

ゆっくりと開かれる葉の目には、心配そうにオロオロとしている、アンナの表情が写る。
そして、それは、次にとてもにこやかに笑った。

「…っ、良かった…やっと目覚めて下さった…!」

葉は真っ赤になりながら、アンナに尋ねた。

「…ずっと…看ててくれたんか?」

アンナは彼の手にそっと自分のそれを乗せた。

「…ありがとう」


そんなこんなで、アンナは見事に葉を手の平で操る準備を整えた。
しかも、彼は相当、初心な男らしく、足繁く、廓に通うようになったものの、一度も彼女を抱いたことはない。 しゃきしゃきしない言葉でゆったり話す。 毎度毎度が初回のようだ。
床入りもなくお金は手に入るのだから、アンナにとっては格好の男だ。
しかも、一度、ワザと呼ばれても、行かずに他の男の所へ行ったこともあったのだが、律儀にもずっと待っていたうえ、結局会えなくても、その分の料金はしっかりと払っていくのだ。

そんな事だから、アンナは完璧に葉を格下に見はじめていた。
そんな様子を見て、彼女の同僚は「罪な女だね」と笑う。
 ――勝手に言ってなさい
   アタシは絶対、こんな所から自分でオサラバするんだから
   自分で自分を買うんだから

この決心だけは、昔からまったく変わらない。



ふ、と空を見上げてなんだか嫌な予感がした。

「…ゲ」

雨。
つまり、傘を差してわざわざ来るようではないような人たちはどーやったって来るはずなし。
よって、儲けが少なくなる日だ。

頭をカリカリと掻いてどーしようか…と悩んだ。

いつかの葉のように外で落とそうとしても、雨中だと、もちろん効果は激減する。

気を引かせるための櫛も汚れる。

「あ、いたいた、姐さん」
「どうしたの」
「姐さんお客やで。ふたりも」

禿がそう言ってニッコリした。
アンナも何時の間にか笑っていた。
もちろん嬉しさもあるが「来たなバカめ」という気持ちの方が大きかった。

「で、誰なの?お客って」
「んーとなー、あのヘラヘラしとぉオッサンとぉ、麻倉の旦那さん!」

アンナの脳内算盤がパチパチと音を立てた。

そして、ひとつの結論を出した。


「麻倉は待たせておいて」
「はーい」


そして、禿に言われた客のいる間へ行こうとアンナは腰を浮かした。

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